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独りの夜、二人の朝 4


「ちょ……ね、一体。ちょっと、どうしたの!? 叶!?」
 投げかけられるみちるの問いを全て無視して、ただ夜道を進む。みちるは再三、当惑の声を上げていた。が、こちらがどうあっても答えないと判ると、口を噤んで先導に従うことにしたようだった。
 答えるつもりはない。そもそも、答える言葉を持たない。衝動に突き動かされみちるの手を引く、叶自身すら。
 早足だったためか、家には往路の半分ほどの時間で戻れた。靴を脱ぐ間ももどかしく、みちるの手を引いたまま二階へ上がる。
 自室の扉を乱暴に開け放ち、その中に文字通り、みちるを放り込んだ。
 ごっ
「っつ!」
 放り投げられた拍子に足がもつれ、バランスを崩したらしい。ベッドの上に転がったみちるは、強かに後頭部を打ったようだ。鈍い音が響き、頭を抱えて彼女は蹲る。
「いったぁ……」
 叶は静かに扉を閉めて、蹲るみちるに歩み寄った。
 ベッドの上に膝を乗せる。体重を受けて、スプリングがぎしりと、軋んだ。
 その気配を気取って、みちるが面を上げる。叶を睨めつけてくるその目は、理不尽さに対する怒りに燃えていた。
「なんなのよ叶さっきから! 何をそんなにイライラしてんの!?」
「わかんない」
 叶は正直に答えた。
 判らない。
 判らないのだ。この、身を焦がす苛立ちが、一体何に起因するのか。
「原因わかんないようなイライラ、私にあたらないでよ!」
「みちるが原因な気もする」
「何ソレ!? 私何したのよ!?」
「何にもしてない」
「何もしてないのに、イライラされる筋合いないわよ!? いっとくけど!」
「うん」
 みちるにとってはひどい迷惑だろう。それはいくら自分でも判る。
 それでも止められない。この衝動。
 こちらの様子の奇妙さに尋常でないものを感じたのか、みちるの怒りが身を潜める。代わって揺れる瞳に浮かんだのは、不審さだった。
「……なん、なの?」
 身を起こし、向き直った彼女が、ベッドの上に膝立ちする叶の頬に手を伸ばす。
「どう、したの? さびしいの?」
 そっと。
 みちるの首に手を添える。
「だい、じょう……かな、え?」
 その身体を押すように、軽く力をこめる。みちるは抵抗しない。驚愕に目を見開いたまま、放心したかのように背中からゆっくりベッドに倒れていく。
 細く、白く、華奢な首。
 以前一度だけ締めたことがある。喧嘩をして、そのまま首に手をかけた。あれは確か、佐々木奈々子と友人関係を結ぶきっかけともなった喧嘩。高校に上がって間もないときのことだった。幼い頃から喧嘩するたびに幾度となく繰り返した取っ組み合いをし、勢いこんで首をしめ――初めて気が付いたのだ。
 その首のあまりの華奢さ。自分と圧倒的に、異なってしまった体力。体格。
 そして、感情。
 殺したくなる。それは彼女を憎んでいるからではない。むしろ唯一無二のものとして――この手の中に留め置くためには、どうしたらよいのだろうという、狂気じみた――……。
「かなえ……?」
 不安そうに、みちるが掠れた声で呻く。
 手を彼女の首に添えたまま、叶は寝台に仰臥する彼女を膝立ちして見下ろした。
 この苛立ちを、幼い頃のように暴力に転化すれば彼女は壊れるだろう。もうどうにもできないほどの圧倒的な力の差が横たわっている。
 溝がある。
 同じ絶望を味わったのに。同じ孤独を共有したのに。幾度となく、ぶつかった。幾度となく、泣いて――時に笑った。
 溝がある。このままでは、離れていってしまう。
 瞼を閉じる。思い出す。先ほど別の男の隣で笑っていた少女の姿。許せなかった。自分を孤独の世界に置き去りにして、彼女一人、幸せになるなど。
 彼女が不幸だと許せない。
 けれど彼女が自分を置き去りにしたまま幸せになるのは、もっと許せない。
 なぜ、許せないのかは、判らない。
 ただ……苦しい――……。
 苦しい、悲しい、切ない。
 だれにも、わたしたくない。だれにも、ふれさせたくない。だれにも。
 くるしい。かなしい。せつない。
 そして。
 水泡のように、浮かんでは消える感情の渦。そのうち一つに順ずるとも言える凶暴な衝動が身体を舐め上げた。
 首に添えていた手を、頬に添えかえる。みちるの瞳が恐怖とも困惑ともつかぬものに揺らいだ。
「かなえ」
 その肩が震えている。
「やめて、かなえ」
 脅えた声音。
 叶は、微笑んだ。あぁ、この子には優しくしたいなと、ふと――おそらく、生まれて初めてのことである――思ったのだ。彼女には脅えずにいて欲しい。自分にいつも真っ向から相対するように、伸びやかに、屈強に、笑っていてほしいのだ。
 だから微笑んだ。おそらく、人生で一番優しいと、自分で思える、微笑で。
 だというのに、身体は獲物に飛び掛る肉食獣のように、凶暴だった。
「やめ」
 否定の言葉を唇の下に押し込める。たすけて。そのような、くぐもった呻きが聞こえた気もする。息つく間に繰り返される停止の懇願。背に立てられる爪に込められた驚愕と困惑と苦痛。
 それら全てを無視して。
 殺す代わりに――……。


『殺したくなること? あるよ』
 昔、兄が穏やかに微笑んで、そう口にした。他者が聞けばあまりに物騒なその言葉は、きっと、愛の言葉に一番近いのだろう。
 相手の存在を、一見拒絶するかのようなその行動は。
 愛するという行為に等しいのかもしれない。
 相手の存在を、自分だけのものにするという意味で。
 あまりに、稚拙で哀しいけれど。



 部屋には熱が篭っていた。
 早朝の冷気が窓から伝わり、徐々に温度は緩やかなものとなる。この狭い空間に断続的に響いていた嗚咽は、今は安らかな寝息に取って代わられている。少女の小さな頭を何気なしに撫でると、硬く閉じられていた腫れた瞼が心なしか緩んだ。そのことに安堵を覚え、思わず口元が緩む。
 そして彼女を撫でていた手で、自分の顔を覆った。
 嘲笑[わら]いが、零れる。
(ばかだ)
 胸中で、叶は呻いた。
 馬鹿だ。馬鹿だよ。なんて――……。
 彼女を、罵る以上に。
 あるいは。
 彼女を、殴る以上に。
 こんな稚拙な行為、溝を深めるだけなのに。
 否。
 自分が刻んだのは決定的な亀裂。もう自分たちは元のようには戻らない。戻れない。
 こんなにも失いたくなかった。その感情を自覚した刹那から、じわじわと、指先から温度を奪っていく喪失の予感に、胸中で慟哭する。
 少女を起こさないように、声を押し殺して、胸を掻き毟る。
 涙が止め処なく零れた。
 全ては、自分の幼さに端を発する。
 自業自得だったのに。


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