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独りの夜、二人の朝 2


「ただい」
 叶の態度に疑問を覚えながらも、帰宅したみちるは、思わず立ちすくんだ。
「ま……」
 誰もいない店内に、思いがけず、自分の声が大きく反響したからだった。
 黙って玄関の引き戸を閉めて、工房を通り抜け、住居スペースである二階に上がる。古い木製の階段が、みちるが体重を移動させるたびにぎしぎしと音を立てた。
(……こんなに、古い階段、だったっけ?)
 扉からは立て付けの悪さを訴えられる。蝶番は歪な悲鳴を上げる。
 鞄を置く音すら、反響するかのようだった。
 うがい手洗いを済まし、学生服から着崩れた――けれど着心地のひどくよい――トレーナーとジーンズに着替えて、台所へ向かう。その間も、裸足の音が不気味に響いていた。まるで、後ろから誰かにつけられているような気分になる。
 八百屋で買ってきた食材を広げ、夕食を作るために台所に立ってみたけれども気が進まない。料理を作っても、それを賑やかに食べる相手が一人もいないのだ。それは、ひどくつまらないことだと思った。
 嘆息して、冷蔵庫を開ける。作り置きしておいた煮物が入っている。それと冷凍ご飯をそれぞれレンジにかけ、緑茶を用意して食卓に着く。
 もそもそと口を動かしながら、本当に、一人の夜は久しぶりだと思った。
(……本当に、久しぶりなんだ)
 小さい頃は常に一人だった。たった一人で母を待った。月が昇り、沈む。虫の音や車の排気音、海の潮騒だけが聞こえる小さなアパートで。
 誰も帰らない、たとえ帰ることがあったとしても、いつ帰るかもはっきりしない、アパートで。
 部屋には、冷蔵庫のモーター音と、食事の音だけが響いている。
 食事を済ませると、片付けすら面倒になった。汚れた食器を水に付け置きだけして、二段ベッドの下の段に入る。
 枕に頬をうずめながら、みちるは思った。
(こんなに全部を面倒臭がってちゃ、叶を叱れないなぁ)
 ものぐさは、彼の専売特許だ。そう思っていたけれど。
(毎日、こんな気持ちなんだね、叶)
 みちるは家族を得た。父とも母とも呼べない人々。仮初の家族。
 それでも、みちるの傍にいる家族。
 叶には血のつながった家族がいる。誰もが叶を愛してやまない。彼を甘やかす兄弟たち。
 けれど、彼の傍にいることはない。
 叶は、いつも一人で、誰もいない、広い家に帰る。
 みちるは、目を閉じて胸中で呟く。
(こんなに、一人は、さびしかったんだよね、叶……)


「今日はもうお帰りなさいな」
 仕事も終わりに近づいたころ、声をかけてきたのは客の一人だった。客、とはいっても、この店にやってくる客を取りまとめる女。一見高校生にでも見えそうなほど、幼い顔立ちをしているが、実年齢は叶の両親に近いはずだった。
 綺麗に飾り立てられた爪を叶の鼻先に突きつけて、彼女は微笑む。
「上の空。誰のことを考えているのかしらね。ここに別の女の子の気配をもってきちゃだめなのよ。お兄さんたちから聞かなかった?」
「知っています。……ですが僕は別に、女の気配を持ち込んだつもりはないですが?」
「なら、なんでそんなに上の空なのかしら。それとも自覚すらできない、ネンネちゃんなのかしらね」
 叶の鼻先から引いた指先を、たるみ一つ見られないあごに添えて、彼女は小首を傾げる。
 上からの目線に感じられる台詞も、この女の鈴を転がしたような声で紡がれると、なんともないように思えるから不思議だ。彼女がこの界隈の夜の女を束ねる所以であるのだろう。
「店長には私が言っておくから、もう帰りなさい。きっと疲れているのね。癒されにきている子たちが落ち着かないわ。貴方の気配は、女を容易く混乱に陥れるのだということ、忘れないで」
 彼女にここまで言われるということは、自分はよほど疲れているということなのだろう。
 ですが、と反論したところで、叩き出されることは目に見えている。普段と変わらぬポーカーフェイスの裏に全てを隠したつもりだったが、相手は人のまとう空気の僅かな揺れで、押し殺す感情や、時には過去までも読み取ってしまう女だ。嘆息を唾と共に嚥下し、静かに頭を下げる。
 そして、ことを見守っていた同僚に後を任せ、帰り支度に取り掛かった。


 は、と、我に返ったとき。
 時刻は深夜に近かった。
 時計の針の音に飛び起きて、頭を振る。どうやらあのまま寝入ってしまっていたらしい。かちかちと時を刻む目覚まし時計の示す時刻に嘆息したあと、のそりと起き上がった。
 風呂に入っていないのはもちろん、顔も洗っていないし、台所の片付けも済んでいない。
 けれど、何もする気がしない。
 喉の渇きを覚えて、台所へと行き、冷蔵庫を開けた。しかしその中には何一つ、飲料水らしきものは入っていなかった。常に冷やしてあるはずの緑茶も、そういえば先ほど飲み干してしまったのだと思い出す。お茶を沸かすのも面倒に思えて、コップに水を汲んだ。飲み干しても味気ない。喉の渇きは収まらなかった。
 同時に、何か甘いものも食べたいと思い始める。こうなると欲求は収まらない。またベッドに戻って眠ってしまおうかとも思ったが、目はしっかりと冴えていた。唐突に沸いた食欲が、風呂場への二の足を踏ませた。
 嘆息して、ベッドの傍らに引っ掛けてあるポシェットを手に取る。出かけるときに持ち運ぶ小さな鞄の中には、あらかじめ小遣いを幾ばくか入れた財布やリップクリームなどが入っている。財布の小銭の数を確認してそれを肩に引っ掛け、机の上に放り出していた家の鍵を手に取った。
 この時間では、商店街もなじみの喫茶店もしまっている。
 目指すは少し遠方にある、コンビニエンスストアだった。


(そんなに疲れているわけじゃ、ないんだけど)
 緩慢な足取りで帰途に着きながら、叶は胸中で独りごちた。空は澄んで、ビロードのような濃紺に月が美しく浮かんでいる。どこか冷ややかさすら感じさせる、青い月だった。
 吐く息は白く、指先は悴んで、もう冬だなと思った。紅葉も終わりだ。ほんの一週間前まで艶やかだった紅葉や銀杏の葉はくすんで水気を失い、大半が枝から離れてアスファルトの上に躯を晒していた。
 歩くたびに、かさかさと葉音がする。
(あぁでも、みちるにも、言われたなァ)
 ――どうしたの?
 みちるには。
 反射的に笑顔を作ることを、忘れる。
 反射的に取り繕うことを忘れてしまう。彼女の前に立つと、感情が引きずり出される。それは叶自身すら把握していない自分の素の感情。
 彼女がいうのなら、間違いがない。
 普通ならまず気づかないような完璧なポーカーフェイスで隠し切っているというのに、それを簡単に看破するあの「夜の女王」の読心術は、テレパシーかくやという域だ。恐ろしい。
 ――女の子の気配を持ち込んじゃぁいけないのよ。
(……女の子の、気配、だって……?)
 そんなもの、持ち込んだ覚えは本当にないのだが。
 叶は嘆息して、路肩に山を作っていた落ち葉を蹴った。
(いらいら、するなぁ)
 疲れているというよりは。
 いらいらしている。
 何故こんなに苛立っているのかはわからない。ただ、無性に苛立つのだ。
 姉が月に一度、理由も無く苛立って部屋の中で暴れることがあった。姉に限らず女性は月に一週間ほど、理由も無く苛立ったり気がふさいだりするというが、きっとこのような感じなのだろう。
 からから……。
 玄関の引き戸を開ける。閉める。いつもと同じように響く大きな音。
 何故この音が大きいのかと聞いたことがある。今は亡き生みの母親が、大勢の人間――自分が生まれた当時、自分も含め七人の人間がここで生活をしていた――が賑わっていても、誰かが帰ってきたとわかるように、うるさい引き戸を選んだときいた。誰かが帰ってくると、誰かが迎える。そのために。
(今となっちゃ、意味ないよね)
 自室に戻って、襟元を緩める。ネクタイだけをはずして、一階に下りた。
 家のそこかしこが冷えている。この小さくも一人暮らしには有り余る家が、人一人で温まるはずがない。台所に足を踏み入れ、冷蔵庫を覗く。中は、空っぽだった。
 舌打ちして、乱暴に冷蔵庫の戸を閉める。自分で補給していないのだから、無論中に何も入ってるはずがなかったのだ。
「……おなか、すいた」
 戸棚を荒らすが、カップ麺一つない。
 仕方なく、踵を返してその場を後にする。
 少し距離があるが、歩いていける範囲にコンビニエンスストアがある。そこになら、この空腹や渇きを癒すものも並んでいるだろう。
 いつもならば面倒で、もう眠ってしまっていたかもしれない。
 けれどあまりに苛立って、布団の中にもぐりこむ気に、到底なれなかったのだ。


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