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独りの夜、二人の朝 1


 部屋には熱が篭っている。
 外に吹き荒れているのは木枯らし。初雪はまだだったが、骨の髄まで痺れるような凍てつく夜だった。
 だからといって、ストーブを点火していたというわけではない。部屋を暖めるための器具は一切使っていなかった。使う余裕が、なかった。
 それでも、部屋には熱が篭っている。
 そして、少女のすすり泣きが響いていた。
 枕に頭を押し付け、すすり泣く少女の震える肩を、自分は静かに見下ろしていた。
 そして問う。

 どうして、こんなことになったのだろう。

 少女は泣き止まない。自分も、その少女を飽きずに眺め続ける。やがて空は白み、朝が来た。
 部屋は暑いほどだというのに。


 ひどく寒く感じる、朝だった。


 身を震わせて寝台を降りる。窓のカーテンを勢いよく開けた。とうとう、雪が降ったのかと思ったからだ。
 けれど外は晴天といってよい天気で、窓を開けると、澄んだ空気が肺を満たす。
 いつもならこの時間、すでに階下から店の準備の音が響いているはずだが、今日は違った。今日、この家にいるのは自分ひとり。家の主人である自分の後見人は、三泊四日、泊りがけで研修にでかけている。もう一人この家に居候する女は、与えられた休暇を満喫しに、友人と旅行にでかけていた。
 窓を閉めなおして、寝台の下の引き出しを開ける。並んだ下着類を一組と制服のシャツを取り出し、勢いをつけて夜着を脱いだ。


「委員長ってさ」
 声をかけてきたのはこのクラスの男の委員長である芝崎だった。ラグビー部に所属し、大柄な体躯に強面といっていい顔立ちをしている上、性格は「熱血」などというあだ名通りだが、気性は優しい。自分などより、よほど。
「なにー?」
 にこりと笑い、小首を傾げる。いつもと同じ動作。いつもと同じ笑み。自分の身体は意識するよりも先に、滑らかに他者へ対応する。
「実は結構かわいくねぇ?」
 ただいつもと違っていたのは、話題に「委員長」がのぼったことだろうか。
「えーそうかー? お前おかしくねぇ?」
 叶に代わって芝崎に茶々を入れたのは工藤。クラスメイトの一人だった。
 叶の周囲に集まっているのはクラスメイトの男子生徒である。時間はホームルーム。議題は今度行われる読書会について。とはいえ、それについての話し合いはとっくに終わっていて、退屈さに別の話題を持ち出したくなるのは人の性だ。部活の話に始まり、ゲームの話、面白かった漫画の話、馬鹿げたクイズ番組の話、それに出演していたかわいらしい女優の話ときて、最後の話題が女の話だった。
「いやそれがさー。結構実はかわいい顔してんだよ」
 芝崎に同意を示したのは河野だった。
「工藤、お前、学祭の買出しんとき、いなかっただろ。あんときいたら、すげーびっくりしたのに。ぜんぜん別人に見えてさー」
「何、そんなに違ったの?」
「全然! 委員長もいっつもみたいな暗い髪型するんじゃなくて、あんときみたいにあげてたらいいのによー」
「……妹尾、お前も買出し、一緒にいたんだろ? こいつらのいうこと、マジ?」
「さぁどうだろうね」
 叶は微笑み、肩をすくめる。
「僕、女の子は基本全員かわいいと思ってるからさー」
『……マジむかつく』
 声を揃えて低く呻き、そして爆笑の渦を起こすクラスメイトたちに、叶も笑いを返す。
 ただその心中は、この上ないほど苛立っていた。


「へぇ。今日、店長達、いないの?」
「うん」
 放課後の教室。ホームルーム時、読書会について話し合ったことをノートに纏めながら、みちるは奈々子の問いに頷いた。
「研修と旅行でね。私一人」
「めずらしいなぁ。店長も今田さんもいないって」
「んー」
 確かに珍しい。二人揃っていなくなることなど皆無だ。店長と住み込み店員の今田は、今までなら必ずどちらか片方を家に残すようにしていた。それは、自分に対する配慮だとは思う。自分は小学生のころから、家事全般、問題なくこなせる。けれど決して店長も今田も、みちるを一人取り残すようなことはしなかった。それはみちるのトラウマを配慮してのことだとは思う。
 過保護なのだ、彼女らは。
 みちるが高校生になって以後、そこまで過保護ではなくなった。店長の前回、前々回の研修の折には、今田も休もうとしたようだったが、友人たちの予定があわなかったらしい。今田は日中遊び歩いていても、夜は必ず家にいた。二人ともいない夜は、今回が初めてのことである。
「あーもう少し早くそういうこと言えよなぁ。そしたらアタシ、みちるんところに遊びにいったのにさー」
「別に今から遊びにきてもいいよ? お店休みだし」
「今日明日は珍しく、うち、親がいるんだよ。今日も家族水入らずで、飯、食いにいくんだってよ」
「へぇ。よかったね」
「まぁなぁー。あーでも、みちるんちのお泊りも捨てがたい! 滅多にないことじゃん!? 明日土曜だしさー」
「ご家族との時間、大切にしたほうがいいよ」
「……そだな」
「よし、できた」
 纏めたものと、集めたアンケートの角を机で揃えて、みちるは立ち上がった。学生鞄と補助鞄を取り上げて、友人に微笑む。
「帰ろう奈々子」


(本当に、一人なんだなぁ)
 奈々子と別れ、商店街の一角にある八百屋のビニール袋を下げて歩く。奈々子との会話を反芻していたみちるは、本当に、久方ぶりに一人で夜を過ごすのだということに気が付いた。
 昔は、いつも一人だった。西日の当たるアパートの一室で、いつも母親の帰りを待っていた。
 帰ってくることは、ほとんどなかったけれども。
 ビニール袋をぷらぷらさせ、適当にすれ違った顔見知りに手を振りながら、帰路へ付く。宝石店の前を通りかかったところで、よく見知った顔を見つけて、みちるは反射的に声をかけていた。
「叶」
 スーツ姿の少年が、緩慢な動作で振り向く。いつもと違う、愛想笑いと代わって浮かべられた虚ろな表情にみちるは首を傾げた。
「……どうしたの?」
 スーツを隙なく着こなす彼は、とても高校生には見えない。その美貌も相俟って、雑誌からそのまま抜け出てきたモデルのように思える。彼には兄が二人いる。そのどちらもモデル真っ青な美形だが、彼はそれに輪をかけて、年上好きするような甘ったるい顔をしている。幼い頃はただ子供っぽかったその顔は、今は憂いを帯びて、大人びた哀愁も漂わせるようになった。口を開けば天使。黙っているだけでも、はっきり言って、女の毒になるような少年だ。
 けれど彼の馬鹿さと阿呆さと、さらに末っ子特有の暴君さを見せ付けられ、散々殴り合い取っ組み合い口げんか罵りあいを通年繰り返したみちるは、カンタレラのような美貌に魅せられるよりも、彼の浮かべる、疲れたような表情のほうが気になった。
「なんでもない。今日も仕事かって思うと、少しうんざりしただけ」
 そういって、彼は宝石店周辺を掃き清める。叶の仕事は宝石店のアルバイトではない。宝石店横の階段から降りた先、地下にあるホストクラブのフロント業だ。父親がオーナーを勤めるそのホストクラブで、彼の兄弟は世間勉強といったらおかしいが、一定時期は働くように決められている。
「……そう?」
 叶に浮かべられた表情は、疲労だけからくるものではないように思えた。彼の瞳に宿るのは――どちらかといえば、苛立ちに近い。
「早く帰んなよみちる」
 ぶっきらぼうに、叶が言った。
「いくら商店街が明るいからっていってもさ。日は暮れてるわけだし。女の子なんだからさぁ」
「……そうね」
「ほら、早く行った行った」
 しっしと犬か猫を追い払うように、叶が手を振る。口先を尖らせたこちらに、彼は呆れたように、けれどどこか優しさすらにじませて、微笑に目元を緩ませる。
「いいから、早く帰りなよ。僕、大丈夫だからさ」


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