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大嫌いだ


「まだ残ってんの?」
 私以外誰もいない静まり返った放課後の教室に足を踏み入れてきたのは、私の天敵、妹尾叶だった。
「委員の仕事が終わらないの」
 私はシャープペンを動かす手をとめぬまま、彼に答えた。彼からふぅんという気のない返事。
「叶は今帰り?」
「うん」
「今日は早いね」
「雨降ってきたから」
 部活中止。そういって彼は外を指差す。いつの間にか、窓の外では激しい雨が降っていた。
「置き傘を取りに来たんだ」
「そう」
 小さく頷いて、私は手を止める。彼の影が、私の頭上を覆ったからだった。
「みちるは傘、持ってきてんの?」
「持ってきてるけど。……どうして?」
「持ってきてないなら、傘貸そうと思った」
「あんたが濡れるでしょ。何いってんのよ」
 風邪、引くわよ、と、笑いながらいいかけた私は、次の彼の言葉ですっと気持ちが冷えた。
「……これでも、妹尾家の人間なんで」
 そういって彼は肩をすくめる。私は微笑んだ。
「ありがとう。フェミニストの妹尾一家の叶クンは、雨の日は私にも優しいんだね」
「そう。君も一応、女の子の端くれだから優しくしてあげるよ、みっちゃん」
 しばしの、沈黙。
 一度意識すると、雨の音は思うより大きく部屋に響いていた。
「じゃぁ、僕帰るから」
「うん」
 きゅ、という上履きのゴムが床を滑る音。教室に再び一人になって、みちるは嘆息し、ノートを閉じた。自分ももう帰ろう。疲れているような気がした。
 窓の外を見る。あるものは傘を広げ、あるものは鞄を傘代わりに慌てて校門へと走っている。
 しばらくして、叶の頭が現れる。彼は傘を広げて歩いていたが、前方を歩く女生徒に突然駆け寄って、傘下の半分を分け与えた。その女生徒のことは私も知っている。彼のサッカー部のマネージャーだった。
 彼は優しい。男にもそうだが、女に対しても。
 けれど私にとっては、優しくない。
 残酷なまでに。
「あんたなんか、嫌いよ」
 わがままで面倒くさがりで甘えたな彼を知っている。
 それを知っている私には、彼は気まぐれでしか優しさを与えない。しかも中途半端な優しさ。
 たとえば、一つの毛布があったとして、私に対してはその毛布を押し付け終わる。他の誰かに対しては、優しくその懐に招き入れて毛布を分け合うような。
 その優しさすら、彼にとっては義務感のようなものからくるものだと、気が緩むたびに思い知らされる。
 時折思うのだ。彼が、妹尾という人間でなければどうだったのだろう。彼の優しさは平等に私にも降り注いだのだろうか。そしてそんなことを思いつく、自分の感情も、私はとても嫌いだった。
 私は嗤った。彼が妹尾という人間でなければ、あんなにも美しく、そして残酷な人間にはならなかっただろう。おそらく私に優しくする以前に、私とは何の関わりのない人間であっただろう。
 彼に優しくしてほしいというわけではない。
 ただ、どうして彼は私に対して、こんなにも理不尽で残酷な扱いをするのかと、疑問に思っているだけだ。
 私は頬杖を付いたまま、雨の霞の向こうへと消えていく、少年を見送りながら、囁いた。
「だいきらい」
 彼の理不尽さも、それに苛立つ自分の感情も、鬱屈とした天気も、衣服をぬらしてしまう雨も。
 全て。

 大嫌いだ。


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