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コンプレックス・マター


 だんっ!!!!

 掴まれた肩はそのまま壁際に乱暴に叩きつけられる。骨が軋み痛んだが、それよりも彼の双眸に宿る暗い怒りのほうが気になった。
「ざけんな」
「ふざけてなんかない」
「ふざけてるじゃんか! いい加減にしろよ! お前、県下で三指に入る進学校でいつも一桁維持してるくせに、どこにも進学しないつもりかよ!?」
 こんなやり取り、以前もしたなと私はぼんやりと思う。彼の荒々しい口調を聞くのも久しぶりだった。最近は喧嘩を繰り返していても、幼かったころに比べて幾分か生ぬるくはなっていたと思う。喧嘩の回数自体も、ずいぶんと減っていた。
「いいじゃない別に。あんたになんの関係があるの?」
 抑揚を殺して私は尋ねる。彼の瞳に宿る怒りがいっそう深まる。同時に、彼は少し傷ついた顔をする。普通の人なら気づかぬような些細な感情の揺れさえ、把握することは互いに容易い。それほど長い間、私たちはぶつかり合って時間を共有してきたのだから。お互いを、厭いながら。
「確かに僕には関係ない」
 彼は言った。
「だけどさぁ、むかつくんだよね? やってみたい仕事があって、卒業すぐに就職っていうなら僕も文句はないけどさ。だって、みちるの人生だもんね? でも、そのままあのパン屋に骨うずめてくって、ふざけてるじゃんか。あの家に就職!? ふざけた選択だ!」
「一体それの何が気に入らないの?」
 いよいよ平静を保つことが難しくなって、私の声は少し険を含んでいた。怒気をはらみながら冷ややかな彼の視線に真っ向からぶつかる。
「悲劇のヒロインぶってるところが気に入らないね!」
 彼は嘲りの笑みを浮かべて私の問いに答える。
 悲劇の、ヒロイン?
「どういう意味? 悲劇のヒロインって」
「だってそうだろ!? 母親に捨てられた。親戚でもなんでもない家に世話になってる。店長たちに対する恩返しのつもりかよ! あそこで骨をうずめていくしか、未来がないっていう顔をすんなよ!」
「あんたに何が判るって言うの!?」
 肩を掴む手を振り払う力は私にはなかった。その代わり、私は彼の懐に飛び込んで、片手でその胸倉を掴みあげた。私の身長と彼のそれとには大きな差があって、私が胸倉を掴みあげたところで私の目線のあたりで手は止まってしまう。
 いつの間にか、私よりも頭一つ、大きくなってしまった彼。肩を押さえつける力も圧倒的だ。
 力の差に泣きたくなりながら、私は彼を見上げて続ける。
「いいじゃないあんたにはあんたを捨てない家があるんだから! 私にはあそこしかないの。あそこだけなの! あそこでいらないって言われたら、終わりなのよ! あそこで役立つことだけが、私の生きがいなの。いいじゃないのそれで!」
「それこそ店長達を馬鹿にしてるじゃんか!」
 彼も負けじと私に叫び返した。
「店長たちが、お前を捨てるなんてことありえないだろ! お前があの店に縛り付けられること、本当に店長たちが望んでると思ってんのかよ!?」
「……私が、いらないってこと?」
「そうじゃ、なくて……!」
「捨てることなんてありえない。そんな言葉、この世にはない。あんたは、知ってると思ってた」
「……っ」
 私の言葉に、舌打ちしながら彼が言葉に詰まる。
 捨てるなんてありえない。彼から、そんな言葉が出るとは思わなかった。
 惜しみなく愛をかけた子供を容易く捨てる女もいれば、血のつながる子供を捨てる女もいる。
 彼はそのことを知っている。
 知っていた。
 彼はその女性と和解した。だからだろうか。そんな言葉が出るのは。
 じゃぁ、彼と私は違うのだ。似てると思っていてもやはり違うのだ。決定的な溝がある。
 私はもう二度と、母と絆を修復することはないだろう。どこにいるかもわからない。連絡先も知らない。
 店長たちは、父でもない。母でもない。家族と呼んでもいいのだろうか。呼びたいのに呼べないでいる。あの小さな店を必死に手伝うことで、どうにかその絆をつなぎとめようとしている。
 小さいころ、毎日必死で、おぼつかぬ手つきで料理をして母を待った。私の料理を食べるときだけ、母の表情が緩むことを知っていたから。そうすることで母を繋ぎとめようとした。
 子供のころから、することは変わっていないなと、私は自分を嗤った。
「……確かに、人は平気で、自分のために人を切り捨てるものだと僕は知ってる」
 彼の手が、私の肩を解放する。ただ、憐憫だけが覗く痛ましげな眼差しで私を静かに見下ろしてくる。
「それでも僕は信じたいんだ。店長達は、みちるを切り捨てるような人では、決してないっていうこと。みちるが、切り捨てられたりしないっていうこと」
「……どうしてそう思うの?」
 別に私が店長達に切り捨てられようと、彼にとっては関係のない話だろう。それなのに、私が切り捨てられないことを祈るという。
 不思議だった。どうして彼がそんな風に思うのか。
 私の頬に柔らかく手が添えられる。ひやりとした手だった。高揚した感情に伴って火照った頬にはその冷たさがひどく心地よいものに感じられた。
 彼がそっと額を寄せてくる。こつり、とそれは私の額に当たって止まる。吐息が触れるほどの距離に綺麗な顔立ちがあった。
「そりゃ、別にいいよ。みちるがこの町の、商店街の、片隅の、小さなパン屋で青春も何もなくしわくっちゃのばあさんになって、単調に日々を終えるの。退屈極まりなくて、息つまりそうでも、義務感からそこから抜け出せない。他にやりたいことが見つかっても動けない。そんな、僕からしたらむちゃくちゃつまらない……不幸な人生でも。むしろざまぁみろって思うけど」
 それでも、と彼は付け加える。
「みちるが幸せになんないと、なんだか僕も幸せになれないような気がして、気が落ち着かないんだよ……」
 眉間を寄せ、胸苦しそうに彼が囁く。私はなんだかおかしくて、小さく噴出してしまった。

 そうだね。

 私は彼に囁きかける。
 私も、彼が幸せにならないと、自分も幸せになれないような気分になる。
 彼が幸せになると、置き去りにされたような気分にもなるのに。
 不幸であってほしい。けれど、幸せであってほしい。
 どうしてそのように思うのかは、わからないけれど。
 きっと彼の表情は、私と同じものが彼にも去来していることに由来するのだろう。
 将来、店長がもし私を捨てても。
 彼が救い上げてくれるような気がするのは私の甘えなのだろうか。
 クラスメイトというには近すぎる。喧嘩をする。けれど、食事は頻繁に共にする。けれど、友人というには語弊がある。そこまで私たちは行動を共にするわけではない。なのに、血のつながった双子のように、それ以上に、私たちは些細なことまで理解しあう。
 
 この関係に、私たちはなんと名前をつけるのだろう。

 互いの不幸と幸せを同時に祈らなければならない関係に。
 私は目を閉じて泣いた。嗚咽も何もない。ただ涙だけが流れて頬を伝い、彼の手をぬらした。
 彼の手は雪のように優しく冷たい。
 ただ、額だけが、ひどく熱いように思えた。


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