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相互理解


 母の日間近の授業、黒板には「感謝の手紙」という文字。
「今日はお母さんに、感謝のお手紙を書きましょう」
 子供に片親がいない可能性を考えない教師は無神経だと思う。国語の教師は担任ではなかった。だからクラスに二人も母親のいない存在がいたとしても、責めることはできない。
 結局私はその課題を終えることができず、宿題として残された。たぶん、私の斜め前に座る少年も同じだったのだろうなと思う。授業が終わって騒ぎ始める周囲を尻目に、彼は無言で白い原稿用紙をしまいなおしている。
 私も同じように無言のまま、原稿用紙を教科書の間に挟んで、学生鞄の中にそれを放り込んだ。


「書けた?」
 中学からの帰り道、川べりの土手で寝そべっている叶を見つけた。時折考えたいことがあると、彼はそうしている。
「書けるはずがないじゃん」
 私の問いは目的語を省いたものであったにも関わらず、何について尋ねているのか明白だったらしい。叶は視線を空から動かさず、口先を尖らせて応じた。
 私は嘆息して、スカートの裾を押さえながら、彼の隣に腰を下ろす。学生鞄の中から教科書と、折りたたんだ原稿用紙を取り出した。母への手紙、という題目で、学生対象のコンクールとやらがあるようで。生徒にそれを課して、優秀なものをコンクールに出展しようという魂胆ということだ。
 作文コンクールなんて、ほかにもいくらでもあるでしょう。もうちょっと違う題目のものを選べばいいのに先生も。
 まったく悪気のない若い女教師の顔を思い出しながら、私は胸中で毒づいた。
「母親、かぁ……」
 私にある母の記憶は希薄だ。毎日毎日、男の人と寝ている母か、綺麗に化粧をして男の下へ出かけていく母か、そのどちらかの記憶しかない。遊んでもらった記憶も、共にご飯を食べた記憶すら皆無に等しい。私が話しかけると鬱陶しそうな顔をして、生返事をする。唯一私ときちんと向き合ってくれたのは、私をこの町に捨てるときに乗った電車の中だけだ。
「みちるはいいよね。母親いるしさ」
 私は横で仰向けに寝そべったままの叶を驚きの目で見た。叶は私のことを知らないわけじゃない。なのにどうして、そんなことをいうんだろう。
「母親? 私のことを捨てる女が、母親?」
 もう、母と別れて五年が経っている。その面影はおぼろげで、うまく思い出せない。そんな女を、母親というのだろうか。
 けれど叶は、何をいってるんだといわんばかりに私のほうを呆れ眼で見つめていう。
「店長がいるじゃん」
「てん、ちょう?」
 私が居候しているパン屋の店長のことだ。私の実母の知り合いだったという人で、私を押し付けられる形で引き取った。
「あの人、母親じゃないよ」
 だいたい、そもそもが女ですらない。そりゃぁ確かに、普通の女の人よりいつもマスカラ口紅ばっちりで、肌髪もつやつや、スカートとハイヒールがよく似合う人だけど。ぶりぶりのオネエ言葉つかっちゃうような人だけど。
「母親じゃん」
 叶が反論する。
「みちるを引き取って、面倒見てる。みちるが怪我すりゃ飛んでくるし、熱出せばパン屋閉めるとかって大騒ぎして心配するし、それ、母親と何が違うの?」
「……それは……」
 何が違うのか、といわれても判らない。母親の定義なんて、考えたこともない。
 答えに詰まった私は、思わず質問を彼に投げ返した。
「だったら、叶は何迷ってるのよ。私に母親がいていいねっていうけど、叶にだってきちんといるじゃない」
「ねーさんとユトちゃんのこと?」
「そう」
 叶のお母さんは彼が赤ん坊のときに事故で死んでいるけれど、その代わり彼の面倒を見た人が二人いる。お母さん代わりとなって、彼のこと、家のこと、全て面倒見た人たち。
 その人たちは大学に行ったり、結婚したりして家を離れているけれど、お盆とお正月には顔を見せるし、メールのやり取りをしてることだって私は知ってる。
「あの人たちは、家族だけど母親じゃないよ」
「晩御飯きちんと食べてるのかって、電話してきたりとか。勉強はどうとか、新しいクラスにはなれたのかとか。そういうのって、お母さんとどう違うの?」
 今度は叶が回答に詰まる番。
 苦虫を噛み潰した顔をして。
「……それでもあの人たちは、母親じゃないよ」
「私もおんなじ。店長は、母親じゃない」
 母親って、呼べない。
 あの人たちは、母親じゃないって頭のどこかでブレーキがかかる。呼びたくても、呼べない。
「ばかばかしい」
 腹筋の要領で上半身を跳ね起こしながら、叶が呻いた。
「てか、たかだか学校の宿題一つで、何こんなに悩んでるんだろ僕ら」
 めんどくさい、やめやめ、と、手をぱたぱた振りながら叶が言う。
「やめ、って……どうするの?」
「みちる、僕の宿題やって」
「はぁ!?」
 それって一体どういう意味だ。私が激昂して尋ねるよりも早く、叶は続けた。
「僕がみちるの宿題やるから」
「……私が、叶の分の手紙を書くっていうこと?」
「そう。僕、ユトちゃんやねーさん相手にお母さんの手紙書く気にはなれないけど、店長に向けての手紙だったら書けそう。みちるは?」
「……うーん。確かに、書けなくもなさそうだけど」
 ユトさんたちがどんな風に叶を気にかけてるか知ってるから、叶はこんな風に感謝すべきだ! とは常々思ってきてたし。
「判った。交換しよう」
 私は彼の考えに乗って、名前だけ書いた原稿用紙を交換した。考えたら、筆跡が違うんだから、白紙の原稿用紙を交換すればよかったと思うんだ。


 まぁ、教師は気づかなかったみたいだけど。


 叶がどんな内容の手紙を書いたのか判らないけど、私の名前で出された手紙はコンクールに出展され、一万円分花ギフト券に変わった。ちなみに私が書いたものも、叶の名前で出展されて、一万円分全国デパート共通商品券になっている。
 ひとまず一万円ギフト券は、母の日にちなんでカーネーションの花束に変わり、私は店長に、叶はユトさんたちに送りつけた。叶のところがどういう反応をもらったのかはわからないけど、私のところはそりゃもうすごかった。店長涙流して喜ぶし、花束贈ったときには当に日は過ぎてるのに、母の日フェアーなんてパン屋で打ち出すし。ぎゅうぎゅうに抱きしめられてありがとうを連呼されたとき、確かに店長が、私の親といっても間違いはないんだろうなとは思った。母親かどうかは、激しく疑問が残るけど。だってこの人、オカマさんだし。


「みちるは読んだ?」
 麻婆豆腐を小皿にとりながら叶が尋ねてくる。
「何を?」
 酢豚をお箸で突っつきながら、私は訊き返した。
 日曜日、仕事があるという私の主張を綺麗に無視してくれた叶がパン屋まで私を迎えにきた。強引に引きずり出され叶に連れて行かれた先は、デパートのグルメ街にあるおいしいって有名な中華飯店。一万円商品券山分けということで、ここでご飯を食べることに決定したらしい。ここでなら、商品券使えるから。
「僕が書いたやつ」
「読んでないけど……え? もしかして叶は私のやつ読んだの?」
「読んだ」
 あの手紙を読まれていたという羞恥心に思わず顔が熱くなる。だって、私が叶だったらっていう前提で、だけど私のものじゃないから思いっきりクサイせりふも並べ立てて書いたのに。
「どうやって読んだの?」
「先生からコピー返してもらえた。僕のもあるけど、読む?」
「読んでいいの?」
「いいよ……不公平じゃん。僕だけ読んだらさ」
 叶は持っていた斜めがけのショルダーから折りたたまれた紙を取り出した。私の名前が書かれた原稿用紙を埋めているのは、見慣れた叶の文字。
 読みながら、赤面してしまう。すっごくクサくて、率直な感謝の言葉がつらつらと並んでいたから。
「叶、こんなの書いたの?」
「みちるだって似たようなもんじゃん。恥ずかしかったよ。読んでて」
「う、うん……」
 曖昧に頷いて、照れ隠しに海老煎餅を頬張る。その香ばしい味を堪能しながら叶の文字を黙って追うにつれて、なんだか不思議な気がしてきた。
 叶が綴る言葉は、すっごく率直過ぎて恥ずかしいんだけど、でも、私がずっと店長に対して抱いてきた思い、そのままをなぞっている。
 なんで、こんなに私の考えてることわかんの。
「不思議なんだけどさ、なんでみちるって僕の考えてることがわかるわけ?」
 まるで私の考えていることを読まれていたのかと思うほどのタイミングのよさに、私は咀嚼していた煎餅を喉に詰まらせかけた。慌ててジャスミンティーを口に含んで、呼吸を整える。
「……は?」
 面をあげると、叶もコピー用紙に視線を落としてた。あそこには、たぶん私の綴った文章がある。
「みちるの手紙、なんかすっごいこっぱずかしいんだけど」
「私も叶の手紙、こっぱずかしいよ」
「話の腰折らないでってみちる。だからさ、なんていうか……こっぱずかしいんだけど、真実だなって思ったんだ。みちる、僕とユトちゃんやねーさんの関係を、よく見てるよね」
「あんたもね、叶。私と店長のこと、よく見てるよね」
「なんでこんなに僕のことわかるんだ」
「それはこっちのせりふよ」
 お箸をおいて、私はため息をつく。
「なんで叶にだけ、わかっちゃうの?」
「なんでみちるにだけ、わかるんだ? むかつくなぁ」
「本当よね、むかつく」
 なんだかおかしくて、私は笑った。叶も笑っていた。中学生が二人、大人の同伴もなくデパートの中華飯店で食事をとり、けたけた笑っている様はかなり目立ったけど。
なんで、お互いだけが判るんだろう。
 どうして、お互いだけなんだろう。
 寂しさも、誰かへの感謝も、愛情も。
 なんでだろうね。
 叶。


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