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絞首


 首を絞めた。
 興奮していたわけではないし、かといって相手を殺してやりたいと思うほど憎んだわけでもない。
 出逢ってから今まで喧嘩は文字通り腐るほどした。その中で相手に対する倦厭の感情など磨耗しすぎて、今となっては欠片ほども残らない。相手の心を抉り出すような暴言を吐き出す間も相手に抱いている感情は、こういったことをぶつけても相手が自分を見捨てないだろうというある種の確信、安心感、そして親しみだった。
 重ねて言うが、相手を憎んで首を絞めたわけでも嫌って首を絞めたわけでもない。ただ数えることにも飽きた取っ組み合いの喧嘩を、高校に入学して間もない春、屋上でやらかした。その際に、首を絞めた。
 長い間喧嘩を繰り返してきて、初めてのことだった。
 柔らかい肉に指が食い込む。最初はその手を外そうとまとわりついていた少女の手も、次第に力を失って地へ落ちていった。それは単純に、諦めただけだろうか。よくわからない。
 ただまるで別の誰かが行うものごとのように、酷く覚めた目で少女の首を絞める手を見下ろす。
 少女もまた、まるで他人事のように覚めた眼差しで首を絞める手を見つめていた。


「殺したくなること?あるよ」
 長兄が恋人と式を挙げたのは、自分が高校に上がる寸前のことだった。長兄は実家の隣街のマンションに新居を構えているが、時折荷物を取りに実家にやってくる。
 ひっかけて割れた爪を爪きりで切りそろえながら、長兄は物騒なことを口にしたのだ。
 そんな風に答えられるとは思っていなくて、思わず息を詰めた。
「例えば、俺が知らない男と仲よさげに歩いていたりするところを見たりとかね。仕事の付き合いだったりするから仕方ないけど。俺もいっぱい彼女の知らない女の人と仕事柄歩くんで、お互いさまだけど。それでも、彼女が昔の男に想いを馳せたりなんかすると、殺したくなる。殺して、誰の手にも届かないところにおいやりたくなる」
「行き過ぎた、独占欲」
 こちらの揶揄に、長兄は笑う。
「自覚はあるよ。でもそれを実行しないでいるっていうのが理性じゃないか」
 それでもその感情は、どこか狂っているものじゃないだろうか。


 この首を絞める手を突き動かしている感情は決して兄の抱くような歪んだ独占欲ではありえない。なぜなら自分はこの少女に恋愛感情なるものを抱いているとは思えなかったからだ。兄が義姉にまず抱いているのは愛であり、それを前提条件にして独占欲というものが成り立つ。そういった感情を自分がこの少女に覚えるなどありえない。
 結局首を絞める行為そのものは、後に昼食を共に取る奇妙な間柄になる女に止められた。自分がそんな行為に及んだのはこれが最初で最後だった。
 しかし少女が女の階段を上り始め、その噂が人の口に昇るときふと思うのだ。
 折れそうなほどに華奢で白い首を、絞めること。それを許されたのは自分だけだと。


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