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第五章 奔る諜報者 5


 ディトラウトの言う通り、迎賓館に籠っていられる長さは限られる。水や食糧が尽きればそこで終わりだ。マリアージュたちは降伏せざるを得なくなる。
 そして言うまでもなくそののちに、彼女たちは処刑されるのだろう。
 ダイはそれに先駆けて殺される。
 眼前に佇む男の手を振り払えば。
 ダイは下唇を噛みしめて俯いた。
「……貴方の提案に頷いたら……私はどうなるんですか?」
 命を助けると、ディトラウトは言う。彼の言葉は耳に甘い。しかし具体的にはどうだろう。選択の末に降りかかることをきちんと把握しておきたい。
「まずはセレネスティに、忠誠を誓っていただきます」
 ディトラウトは答えた。
「そのあと、追跡の呪具を付けていただくことになるでしょう」
「追跡の呪具?」
「……足跡を把握するための呪具です。主に罪人に対して使用します。……すぐに外せるようには取り計らいますが」
 内通を防ぐための処置だ。予想の範囲内だった。
 ディトラウトは説明を続ける。
「貴女の身柄はもちろん私が預かります。しばらくは私の屋敷に軟禁となる」
「屋敷? お屋敷を持っているんです……か?」
 愚問だったと口にしてから気が付いた。
 宰相ともなれば屋敷だけに留まらない。むしろ領地も所有しているはずだ。正式な公爵として叙されているのだから。
「城近くに一軒。この城の最奥にも王室の居室が。城外の屋敷はほとんど放置の状態ですが。……貴女は支度が整うまでこのどちらかに軟禁となる。……その後、私の妻として紹介します」
 ダイは目を剥いてディトラウトを仰ぎ見た。
 その反応を不思議に思ったのか、眉をひそめて首を捻った彼は、明後日にずれた補足も加える。
「妾ではありません。正妻です」
 開いた口が塞がらないとはこのことだ。
「……本気……なんですか?」
 ディトラウトが低く喉を鳴らす。その蒼の瞳が蜜のように溶ける様をダイは見た。
「本気でないなら、こんなに手間暇かけて、口説いたりしませんよ」
 糖菓子めいた甘い声は恐ろしく蠱惑的だ。
 ダイはディトラウトを見上げた。彼の横顔は壁に刻まれた術式が放つ淡い緑の光に染まっている。その顔色が彼の疲労をより濃いものに見せ、どこか危うげな艶を添えていた。
 実際、彼はやつれていた。顎の線が記憶にあるよりもうんと細い。
「……ちゃんと、食べているんですか……?」
 問いに微笑みを返したディトラウトは格子の狭間からダイの髪に触れた。その親指でダイの目尻を撫でる。
「……一応、倒れない程度には」
 くすぐったさに身を捩るダイにディトラウトは告白する。
「けれどできればあまり食べたくない。私はまともに味を感じることができませんので」
「……え?」
 ぽかんと呆けるダイの髪のひと房を、ゆっくりと指で梳き通しながら、彼は打ち明け続ける。
「もう何年も深く眠ったこともない。心から笑ったことなんてなかった」
「嘘」
 ヒースと身を偽っていた頃、忙しさが増すにしたがって、彼は食や睡眠を疎かにした。それでもダイが顔を出せば茶の席で彼は何かしがを口にする。二人きりであればことんと転寝することもある。そして雪がとけるように笑いもした。
 ディトラウトは苦笑する。
「貴女と過ごした日々は例外だった。……ずっと、貴女を取り戻したかった。それだけを、考えていた」
 ディアナ、と、彼が呼ぶ。
 ダイはびくりと震えた。
 ディアナが、震えた。
「来なさい。私の下へ」
 ダイは紡ぐ言葉を見つけられぬまま、男の長い睫に縁取られた蒼を見つめた。
 きれいな瞳だ。ダイは単純な感想を抱いた。場違いな思考は一種の逃避じみている。ダイはさらに男を観察した。
 光を集めてほのかに輝く金の髪。疲れを滲ませてなお滑らかな象牙色の肌。子供のように安らかに笑う、整った貌。
 あぁ、そのすべてが。
 きれいで。
 まだいとおしい。
 どうして躊躇っているの、と、ディアナがささやく。
 ただその手を取るだけでいい。
 お前にはこの牢を破る力も、マリアージュを助ける力もない。
 このままでは無駄死にするだけだ。
 何を二の足を踏むことがある。
 こんなにも、求められているというのに。
 ――……昔。
 誰かに、愛して欲しかった。
 父の代わりでもなく。背後に母を透かし見られる形ではなく。
 ディアナ・セトラを愛してくれるひとが欲しかった。
 その願いが叶う。
 彼と共に行くならば。
(本当に……?)
 本当に彼はダイを愛しているのだろうか。
 ダイは瞼を伏せた。そして想う。女王選のあの半年を。ディトラウトと出逢い、過ごした日々のことを。
 そこで目にしてきた彼の姿を。
 頭が、冷えた。
「……どうして……ですか?」
 ディトラウトが訝しげに眉をひそめる。
 ダイは格子を握り締めて詰問した。
「どうしてそんなに、回りくどい真似をするんですか? どうして、私に選択を迫るんですか?」
 ダイを本当に欲するだけなら、それこそ初めから彼の屋敷に監禁し、力に飽かせて手に入れればいい。ただ甘やかし続ければいい。初めは彼の横暴さに憤りはしても、そのうちほだされていくだろう。
 だというのに彼はダイを牢屋に閉じ込め、あえてダイの意思を確認しようとする。
 ディトラウトは沈黙している。固く引き結ばれた唇から答える意思がないことは汲み取れた。
 ダイは薄く嗤った。
 この二日間、ずっと考えていた。
 敵となった無価値な娘に愛を説くその訳を。
「わかっていますよ、ディトラウト。私からマリアージュ様を裏切った。その事実が欲しいんでしょう?」
 人との馴れ合いを苦手とする彼女が、懐に入れる者の数はそう多くはない。その一人だという自覚はある。
 第一の側近に就けた娘の裏切りは、感受性高い女王の心を抉るだろう。
 そう、全ては。
 マリアージュを傷つけるために。
 ダイを引き入れるために。
 愛しているなどという下手な芝居を、ディトラウトは打ったに過ぎないのだ。
「私を正妻に迎えるなんて言ったのも私への嫌がらせですか?」
 ディトラウトは他でもないセレネスティの実兄で、女王に次ぐ権威を持っている。彼の娘は女王に継嗣が生まれぬ場合、次代の君主となる可能性がある。国内の貴族令嬢たちにとって彼の妻の座は、喉から手が出るほど欲しいはずだ。ディトラウトとしてもそれを餌にできる機会はいくらでもある。
 現実的に考えてダイを正妻に据えるなどありえない。
「……私は貴方と共には行かない。何度問われても答えは否です」
 ダイは虹色の想い出を握り潰して、悲鳴を上げる少女をねじ伏せた。
 男の甘言に惑わされぬように主君だけを思い描く。
「私は決してマリアージュ様を裏切ったりはしません」
「……たとえ死しても?」
「たとえ……死しても」
 静寂が、訪れた。
 ディトラウトが瞑目する。
 そして次に彼が瞼を上げたとき、その顔からは一切の感情が消失していた。
「……っ!」
 唐突に伸びた手に気道を掴まれ、ダイは呼吸を詰まらせた。その力に引っ張られ、踵が浮く。
「頭が回りすぎるのも考え物ですね」
 ディトラウトが囁いた。温度を一切感じぬ、淡白な声音だった。
「いえ。愚かと言うべきでしょうか。せっかく生き延びる機会が与えられたというのに……それを自ら捨てるのだから」
 男の指が頸動脈を圧迫する。ダイは震える手でその指を引きはがそうとした。持てる力全てを用いる。だが、びくともしない。
「死ねば無意味だ」
 ディトラウトは冷やかに言った。
「誓いも覚悟も躯と共に土に還る。守りたいものも守れない。貴女はもう少し、現実を見るべきだった」
「ディ、と」
「セレネスティは貴女の首を皆の前で落としたいようですが……。昔、共に働いたよしみです。今、安らかに逝かせてあげましょう」
 からん、と、鉄扉越しに音がした。
 鞘が墜ちたのだと、何故かわかった。
 首を捕まえる方とは逆の手が、鈍く光る鋼の刃を握っている。よく研がれた刀身が格子の間に差し入れられる。
 視界が狭まって、男の表情は見えない。
「何故、来た」
 永遠に感じられるほど緩慢な時の中で、ダイはディトラウトの囁きを聞いた。
「何故来たんだ、ディアナ。大人しく……国に残っていればよかったものを」
 ひやりとした刃の感触が首筋に触れる。
 あぁ、と、すべてを諦めた、その刹那。
 男の手が、ふいに緩んだ。
 浮遊感が身体を包む。
 そして次の瞬間、ダイは床に墜落していた。
「…………っひっ!」
 ダイは床の上に転がった。身体を折って激しく咳き込む。空気を求めて悶え喘ぐ間、玉の汗が額を埋め尽くし、生理的な涙が溢れた。思わず床に爪を立てる。よく磨かれた床石が、きし、と小さく啼いた。
 ダイの喘鳴にディトラウトの呟きが混じって響く。

「誰だ……?」

 扉の影に隠れて小石を手の中で弄びながら、ダダンは通路に響く誰何の音を聞いた。石を投げて存在を主張するような相手に覚えはないのだろう。
 声の主をちらと確認する。男との距離は大人の大股でおよそ五十歩強。まともな照明がないこともあり、その表情を確認することはできない。が、警戒していることは明らかだった。
 男――ディトラウト・イェルニを庭園で見かけたダダンはその後を慎重に追いかけた。
 彼が夜陰に紛れて足を運んだ先は地下にある特別牢と思しき場所である。途中で危うい場面は幾度もあったが、何故か警備たちがいずこかへ消えて、どうにかここまで辿りつけた。
 独房の一室の前で立ち止まったディトラウトが始めた会話の内容を知ることは叶わなかった。声が聞こえなかったのだ。〈消音〉の呪具あたりを携帯していたに違いない。
 男が話していることはわからなかったが――誰かを殺そうとしていることは、わかった。
 気が付けばとっさに男の気を小石で引いていた。
(あーあ)
 これで逃げられない、とダダンは覚悟を決める。
(しょうがねぇなぁ)
 もう一度、小石を男に投げ付ける。
 続いてダダンは剣の鞘に手を掛けながら全速力で飛び出した。


 床に手を突いて身体を起こしたダイの耳に鋭い剣戟が弾けた。はっと息を詰めて扉の窓を仰ぎ見る。格子の縦縞に二人分の影が入り混じっている。それらの主の片割れを認め、ダイは驚愕に目を剥いた。
(ダ――……)
『ダダン!』
 ダイの声にディトラウトのそれが重なる。
 厚みある刃で彼に肉薄するダイの知己は笑みに口元を吊り上げた。
「ひっさしぶりって言えばいいのか? やっぱりお前だったか、ヒース」
「ダダン……」
 ダダンの刃を短剣で受け止めながらディトラウトが呻いた。
「どこから入ってきた!?」
「さぁてな」
 ダダンは肩をすくめ、ちらとダイに目を寄越す。
「おお? 丁度いい。お前だったのかよ、ダイ」
「ダ、ダダン……」
 ダイは壁を支えに立ち上がり、困惑の目をダダンに向けた。ダイもディトラウトと同じ意見だ。一体、どのようにしてここまで来たのか。
 ダダンとはマーレンで別れたきりだった。マリアージュと無事に再会してダイ捜索の依頼を受けたのだろうか。
(違う……)
 ダダンの登場は完璧に予想外のものだったとディトラウトの表情が告げている。もしダダンが正規に登城を果たしていたなら、ディトラウトはぬかりなく確認しているはずだ。
 それにダダンがいくら潜入を得手としていても、このような奥まで来ることはまず不可能である。
 ならば、どのようにして。
 疑問は後回しにしたらしい。ディトラウトがダダンの剣を撥ね退ける。逆手に短剣を構えた彼は重心を低く保ってダダンの懐に踏み込んだ。
 剣戟が再び響き渡る。
「おま、え、訓練、受けてん、なっ!?」
 ディトラウトの突きを受け止めながらダダンが叫んだ。その問いかけにディトラウトは答えない。流れるように攻撃を繰り出している。
 その動きに驚き、一方で納得した。ディトラウトはミズウィーリ家にたった一人で潜入していたのだ。有事に備えて武器の扱いを学んでいてもおかしくはない。むしろ当然のことである。
 だがダダンも世界を渡り歩いて無数の死線を潜り抜けてきただろう男だ。経験値の差か。彼はすぐに優勢を取り戻した。
 競り負けるディトラウトが徐々に後退する。その背が鉄扉に突き当たる。だが彼の肩口はダイの視界から即座に消えた。腰を落としたディトラウトが襲い来る獲物をかいくぐりダダンの腕に傷をつける。
 刃渡りからいって衣服の上を掠っただけにしかダイの目には見えなかった。ただダダンの灰色の瞳が悲嘆に揺らぎ――殺気に塗り替わる。
 どが、と鈍い音を伴って、ディトラウトは鉄扉に叩きつけられた。
 ディトラウトがよろめきながら身体を起こす。その肩越しに剣を振り上げる、ダダンの灰色の目が見えた。
 いつも粗野に振る舞いながらも、余裕の笑みを絶やさぬ彼の目は、ぞっとするほどに冷えている。
 ダイは反射的に格子の隙間から手を伸ばした。
「やめて!」
 夢中だった。ダダンが男を殺そうとすることを止めたかった。どうしても。
 剣を振り下ろすダダンが瞠目する。同時にダイを振り返ったディトラウトは掠れた声で叱咤した。
「馬鹿! 手を出すんじゃないっ……!!」
 ディトラウトが掴んだダイの手首を強引に牢の中へと押し返す。彼は渾身の力を込めたのか。ダイの身体は奥の方へと跳ね飛ばされていた。
 派手に転倒した衝撃で目が眩む。打ち付けた肩口に激痛が走る。それでもダイは体勢を立て直して外を見た。
 今にも泣きだしそうな蒼の双眸。
 その色が一瞬、ぶれた。
 ごつっ……!
 剣の柄尻を頸部に撃ち込まれて、ディトラウトの顔が苦悶にひび割れる。格子を握る手からは力が抜け、その瞼は次第に閉じられていった。
 ダイは立ち上がった。鉄扉に駆け寄り、手を差し伸べる。しかしダイの指先が触れる前に彼の手は扉の向こうへと滑り落ち、姿もまた視界から消えた。
 続けてダダンも見えなくなる。
 布の擦れ合う音が扉越しに響き始める。ダダンは何をしているのだろう。ダイは震える身を掻き抱き、時が訪れるまでじっと待った。
「あぁ……これか」
 ダダンの呟きが聞こえてほどなく、金属の触れ合う小さな音が響いた。
 錠の開く、音だ。
「ダイ、ちょっと離れろ」
 言われるまま場を退いたダイの目の前で扉が徐々に押し開かれる。
 ダダンがひょいと顔を見せ、ダイに微笑みかけてきた。
「おお、よし。怪我はしてねぇな?」
 いつも通りの、彼だ。
 毒気を抜かれて頷きかけ――ダダンの足元に目を向ける。男がまるで遺体のように横たわっている。
 無意識に駆け出したダイは、ダダンの腕の下を潜った。目を閉じたまま微動だにせぬ男の傍らに膝を突く。
「ヒース……?」
 触れた男の頬は汗ばんでひやりとしていた。額に張り付く髪を掻き上げる。やわらかい金色はダイの指に馴染んで零れた。その間、男の瞼はぴくりとも動かなかった。
 ざぁ、と音を立てて血の気が引く。ダイは男の身体に視線を走らせ大きな外傷はないかと探った。
「気絶しているだけだ」
 男を挟んだ対面に片膝を突いてダダンが言った。ダイの慌てぶりを諌めるかのように。
「じきに気が付く」
「ダダン……」
 顔を上げたダイはぎくりとした。ダダンの腕が赤黒い。その染みは大きく、肩口から肘まで広がっている。丁度ディトラウトが斬りつけた部位だ。
 ダダンはマーレンで負傷していた。
 おそらくその傷口が先の一撃を受けて開いたのだ。
「あぁ、そんなにひどくはねぇよ。服が濡れてたから派手に出血したように見えるだけだ」
 指摘の通りダダンの衣服は湿っていた。外では雨が降っているのだろうか。
「ダダンはどうしてここに……?」
「あー、お前らに合流しようと思ったら、門前払いを食らってなぁ。不穏な気配がするから様子を見に来た」
 近所まで足を延ばしてみた、というような軽さである。ダイは唖然となった。
「まぁ俺のことはいい。……ダイ」
 ダダンが笑みを消してダイの顔を覗き込む。
「お前は……ここに残るか?」
 ダイは唇を引き結び、ディトラウトを見た。
 ダイたちを裏切った男。マリアージュを失意に陥れるためにダイに彼女を裏切らせようとした男。
 ダイを愛しいと言った男。
 最後の最後で、ダイを、守ろうとした。
 ――……ほんとうのあなたは、どれなのだろう。
 ディトラウトの髪に再び指を通し――ダイは首を横に振った。
「行きます。マリアージュ様のところに戻らないと。連れて行ってもらえませんか?」
「まずは外に出るぞ。そろそろ哨戒の奴がこっちに来るころだ」
 ダダンは開いたままの扉から牢の中を一瞥した。目を留めた何かをダイに指し示す。
 毛布の上に広がる、ダイの上着だった。
「あれを着ろ。お前のその服の色は目立つ」
 上着を脱いでいる今、ダイの上は生成り色。対して上着は黒に限りなく近い。闇にまぎれる。
 ダイは急いで寝台の下に引き返した。ひっつかんだ上着に袖を通しながら駆け戻ると、ダダンはディトラウトの短剣を拾い上げ、血を拭っているところだった。
「持ってろ」
 鞘に収めた短剣を、彼はダイに放り投げる。
「行くぞ、ダイ」
「はい……」
 頷きながらも後ろ髪を引かれ、ダイは一度だけ男を振り返った。
 ディトラウトはまだ目覚めない。
 ダイは深く息を吐いて踵を返した。ダダンは既にかなり先を歩いている。手にずしりと重い短剣を抱き、そして急ぎ駆け出した。


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