BACK/TOP/NEXT

第五章 奔る諜報者 6


 頭痛に身を捩ったディトラウトは、目元に滑り落ちてきたものを鷲掴んだ。砂が詰まったかの如き瞼を押し上げてその正体を確認する。濡れた布だった。
 それごと手を胸に当て、深く息を吸って、吐く。
 時間を計りかけたところで跳ね起きた。
「状況は!?」
 ディトラウトは傍に控えていた女官に叫んだ。窓からは白い光が射している。朝日だ。時間は今の時季の夜明けからだと半刻足らず。自分が気を失ってから軽く二刻は過ぎている。
 部屋はディトラウトの執務室から続く仮眠室だった。誰かがディトラウトをここまで運んだらしい。
 女官は慌ただしく扉を開けて誰かを招いた。即座にヘルムートが入室してくる。
「起きたか」
「サガン老……」
「いつもならもう少し寝ておけと言うところなのだがな」
 ヘルムートはそう前置いて苦く笑った。
「地下牢の廊下にお前が負傷して倒れていた。化粧師は行方不明だ。捜索しているが逃げ切ったと思われる。……侵入者に心当たりは?」
「……鼠は化粧師のことを知っていました。ですが使節団の者ではありません。人数は一名。仲間がいるようには見えませんでした。応戦しましたが隙を突かれて」
「外見は? お主以外にも戦った者はおるが、あまりはっきりとした情報を得られんでな」
「二十代後半から三十代前半の男。諸島連国あたりの顔ですね。身長は私より少し高く体格もいい。髪は短く……おそらく、赤かったかと」
 薄暗くわかりにくかったが、赤に寄った色だったことは確かだ。以前の明るい色だったら地下ではもっと目立っていただろう。
 潜入するために染めたのか。彼は染めることのできる側なのだ。
 ディトラウトの説明にひとつ頷き、ヘルムートは尋問を続ける。
「そしてお主はあそこへ何をしに行った?」
 ディトラウトは男を見上げた。返答を待つヘルムートは自身の眼鏡をのんびりと衣服の端で磨いている。
「……化粧のことはようわからんが」
 眼鏡をかけなおして彼は言った。
「ただ失うには本当に惜しい腕だったのだろう。陛下もあまり追求はしまいよ。それより今は鼠がどの経路でこちらに入り込んだのかが問題だ」
「私を……疑わなかったのですか?」
「お主を?」
 ヘルムートはディトラウトの発言を一笑する。
「あまり自分を責めるな。お前は別に兵たちに持ち場を離れるよう命じたわけではない」
「……持ち場を離れた兵がいた?」
「……こちらに都合の悪いことが少々重なってしまったということだ」
 ヘルムートと入れ違いに退室していた女官が戻る。彼女の提げ持つ盆には、蜂蜜酒と麦粥、そして薬が載っていた。
「それを口の中にさっさと掻き込んで来てもらうぞ、ディータ。してもらうことが山とあるのでな」


 ダイは身支度を整えて部屋を出た。ダダンの泊まる隣室へ向かう。昼間の廊下は人気ない。他の客たちは出払っているのだろう。
 街の中心部に位置するこの宿にはダダンの友人の紹介で入った。部屋もしっかりとした造りで、使用人たちの教育も行き届いている。到着してすぐに湯浴みを済ませ、そのまま寝台に倒れ込んだ。起きたのはつい今しがたである。
「ダダン?」
「おー、入れ」
 部屋の主人から許可を貰い、ダイは扉をそっと開けた。時を同じくしてダダンが洗面所から顔を出す。髭を剃っていたらしい。顎を泡が覆っている。髪色はその前に染め直したのか、砂色に戻っていた。
「座ってろ。もうすぐファビアンたちが飯持ってくる。……お、噂をすれば」
 ダイは入口から脇に避けた。小麦の香ばしい匂いを漂わせ、麻袋を抱えた男が姿を見せる。城から地下通路を通って脱出したダイたちを水門で出迎えた男だ。彼がこの宿を手配したダダンの友人、ファビアンである。
「ダイ、気分はどう?」
「大丈夫です。ありがとうございます」
「いえいえ。……好き嫌いは何かある? 適当に見繕ってきちゃったけど」
「いえ、何もないです」
「そう。よかった。じゃぁ昼食にしよう」
 手の塞がっているファビアンの代わりに扉を閉めて円卓の上を片づける。彼が調達してきた朝食は、黒麦の麺麭、肉の塩漬け、干した果物、平焼きの麺麭で鶏肉と葉野菜を挟んだものだった。新鮮な緑色がとても目を引く。
 ダイが椀に水を注いでいると、ダダンが居間に戻ってきた。彼は椅子を引きながらファビアンに尋ねる。
「外の様子はどうだった?」
「憲兵の数が増えて、茶髪や赤毛の大柄な人を引っ張っていましたね。やっぱり探されているみたいですよ」
「お前は大丈夫だったのか?」
「体格でお役御免だったんだと思います」
 ファビアンは席に着き、肩をすくめた。
「でもまぁ物騒ですし、僕らは今日にもこの街をお暇しようと思うんですが…ダダンたちはどうするんですか? デルリゲイリアまででしたらお送りしますよ」
 ダイがデルリゲイリアの官であることや、仲間と引き離されて囚われていたことなど、簡単な事情は宿の手配を依頼した際に話してある。
「いや、ここに残る」
 即答するダダンにダイも同意した。
「私も」
「……ここに残ってどうするんです? 援軍でも来るんですか?」
「来ない」
「二人だけで女王を救い出すおつもりで!? 正気ですか!?」
「うっせぇなよ、ファービィ。叫ぶな」
「あと救い出すのはマリアージュ様だけじゃありません。迎賓館にいる、全員です」
 ダイは椅子に腰を落としながら宣言した。ファビアンは唖然としたらしい。むちゃくちゃな、と一言呻いて、麺麭に噛り付き、そのまま沈黙してしまう。
 ダイ自身とてファビアンと同意見だ。けれど見捨てるわけにはいかない。
 ダイは首筋に手を当てた。刃の冷たい感触が、まだ残っている。
「ファビアン」
「貴方が僕をきちんとした名前で呼ぶと怖いですね。なんですか? ダダン」
「城に入ることはできるか?」
「……そう来ると思っていました」
 ファビアンが深く溜息を吐く。
 麺麭に肉の塩漬けを塗る手を止めて、ダイはファビアンをまじまじ見つめた。
「ファビアンさん、王城に入れそうなんですか?」
 きちんとした紹介状を持ったダダンですら締め出されたというのに。
「入る、だけ、です」
 ファビアンは音節を区切って強調する。
「それに今となってはダダンを連れて入るとかは無理ですよ。何せ、お訪ね者ですから。……まぁ、僕だけなら、なんとか」
「……入るだけっていうのは、どういうことですか?」
 質問するダイに、彼は宣言した。
「マリアージュ女王たちを助けてほしいと、セレネスティ女王に働きかけることはできない。積極的に協力することはできない、ということ」
「なぜ?」
「僕がドッペルガムの官吏だから」
 飛び出した名前にダイは瞬く。
「ドッペルガムって……〈深淵の翠〉、ですか?」
 ファビアンは微笑んで頷いた。
 ドッペルガム。大陸中央部の森を領土とする新興国家だ。何故、そんな国の官吏とダダンが。
 そこまで考えて思い出した。ダダンは先代女王エイレーネが在位の頃にかの女王をデルリゲイリアまで案内したことがあると言っていた。そういった経緯で二人は知り合ったに違いない。
「デルリゲイリアの人たちの救出に協力するということは、ペルフィリアが彼らに危害を加えたということを知ることだ」
 ファビアンは言った。
「僕はそのことをドッペルガムの高官として知ったときには、クラン・ハイヴの市長たちに伝えなければならない」
 ドッペルガムはクラン・ハイヴと国境を共にする友好国だ。それを証明するために、ペルフィリア城内で持たれた会話、立ち会った出来事、すべてについて、報告する義務が彼にはあるのだという。
「ペルフィリアの所業はその領土拡大を嫌うクラン・ハイヴを休戦協定破棄に駆り立てる。……ところがドッペルガムの立場としては、クラン・ハイヴにペルフィリアと再戦してほしくない」
 クランがペルフィリアと本格的な戦争を初めれば無関係ではなくなる。ドッペルガム自身が参入することはなくとも、様々な問題に頭を抱えなくてはならない。
「クランに余計な火種を与えないためにも、デルリゲイリアとペルフィリアの対立に、僕は関わるわけにはいかない」
「……つまり」
 ダダンが要約する。
「城には本当に、ただ入るだけ、になるんだな」
 ファビアンは申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「もちろん僕個人としては支援したいですよ。単なる観光客としての立場なら、こうやって手助けできる。でも……」
「わかってる。もう言うな」
 ファビアンの言葉を差し止め、ダダンが食事を再開する。ダイもそれに倣って、麺麭に口を付けた。
「連絡とかは、駄目なんですか……?」
 ふと思いついてダイは尋ねた。自分が無事であることだけでも伝えられないだろうか。
「連絡って君の無事を?」
 ファビアンが首を捻る。
「その後はどうするの? 僕もさすがに何度も出入りできないよ。その後の連絡手段とか持っているなら別だけれど」
 残念ながら、何もない。
「それに城に入ることが叶ったとしても、マリアージュ女王への目通りは無理だと思う。……ペルフィリア側に断られてしまえば、終わりだ」
 ファビアンが残念そうに告げる。
 ダイは悄然となりながら干し棗を口に含んだ。疲れのせいか、味がよくわからない。
 部屋にはしばし咀嚼の音だけが響いた。
「ファービィ様」
 食事がほぼ終わりかけた頃、ファビアンの従者が姿を見せた。栗色の髪をひっつめた若い女である。入室した彼女は小脇に大きな包みを抱えて一礼した。
「お食事中失礼いたします。ダダン様へお手紙をお預かりして参りました」
「手紙? ……あぁ」
 心当たりがあったらしい。ダダンは頷いて封書を受け取った。そのまま端をびりびり破く。
「……まずいな」
 手紙に目を通して早々、彼は低く毒づいた。
「……何がですか?」
 問いかけるダイにダダンが手紙を放り投げる。
 ダイは首を捻りながら青い墨で書かれた文字を読み上げた。
「……明朝より業者搬入再開。館内清掃は今日の夜……? どういう意味ですか?」
「城に出入りする商人たちが立ち入り禁止食らっているのは話したよな、ダイ。それが明日の朝には登城を許されるようになるってことだ」
 ファビアンの顔色が変わった。手紙の内容にぴんと来たらしい。
「館内清掃はもしかして……」
 ダダンが友人の言葉尻を引き取った。
「マリアージュたちの始末。……あるいはそれに準ずることだ」
「今日の、夜?」
 ダイは呆然となりながら呻いた。日の入りまであと半日もない。
「これ、確かなことなんですか?」
「あいつに限って不確かな情報は寄越さねぇよ」
 ダダンはマリアージュたちが籠城していることを知っていた。それを調べた情報屋がこの手紙の主らしい。
 ダイは下唇を噛んだ。
 マリアージュたちを、助けたい。
 けれど、どうやって。
 冷静になれ、とダイは自らに言い聞かせた。
 このような窮地に陥ったとき、娼館の主人たる養母なら、どのように対処するだろう。
 国で自分たちの帰りを待つルディア・ガートルードなら。
 宰相であるロディマスなら。
 ――……ディトラウトなら、どうするだろう。
「ファビアンさん。……もしデルリゲイリアの女王が殺されたら、クラン・ハイヴはどう動くと思いますか?」
「……戦争を再開するね」
 ダイに応じたファビアンは、神妙な面持ちで補足した。
「クランは交戦の気運が高まっていてね。すぐに噛み付くと思う」
「じゃぁペルフィリアはクランとすぐに戦争を始めたいんでしょうか?」
「……その、逆、かな」
 ファビアンはダダンを一瞥して解説した。
「ペルフィリアにクランを侵攻する心づもりがあるのは明らかだ。でもそうしたいのは今すぐじゃない。資金調達、兵力増強、国境線の強化……そういったものの途中なんだ。この段階でクランとの戦争に突入するのはペルフィリアにとって痛手だ。泥沼化する可能性がある。セレネスティ女王はその辺りをよくわかっていると思うよ」
 よくわかった。
 何故、セレネスティがあの馬鹿げた“友好条約”を用意したのか。
 そして時間をかけてまで女王選の操作を試み、デルリゲイリアを穏便に吸収しようとしたのか。
「ダダン、マリアージュ様は多分、すぐには殺されないと思います」
 ダイは断言した。セレネスティが条約で以てデルリゲイリアに隷属を促していた点を、続けてざっと流す。
 説明を聞いたファビアンが小さく唸った。
「なるほど。デルリゲイリアが“自分から”ペルフィリアに下るなら、クランに開戦する口実を与えない」
「調印のためにマリアージュは必要か」
 ダダンが顎をしゃくって呟く。
「けど全員が無事ってわけでもねぇな。マリアージュを脅すために一人ずつ潰すとかしそうだな、あの女王様は。……ダイ、お前も殺されかけたんだろ」
「本当は今朝、マリアージュ様たちの前で殺される予定だったらしいです」
「今朝?」
 ダダンは怪訝そうに眉を上げた。ディトラウトがダイを殺そうとした現場に居合わせたからだろう。
「……あぁ、そうなのか」
 ともかく。
 主君は無事だろうとはいっても、あくまで可能性の話である。命の危険が迫っていることに変わりはない。今日の夜にも迎賓館は取り囲まれ、襲撃を――……。
 はた、と。
 ダイは思った。
 マリアージュは何故、迎賓館に籠城したのか。
(立て籠もり、なんて、マリアージュ様、一番嫌がりそう)
 彼女なら攻撃された時点で噛み付きそうだ。
 マリアージュたちとて丸腰ではない。籠城が可能だったというのなら、逃走することも出来たのではないか。
 そこまで考えて、血の気が引いた。
(私、なんだ)
 ダイは口元を覆った。
(私がひとり、捕まっていたから、動けなかったんだ……!!)
「……ファビアンさん」
 ダイは彼の腕を掴んだ。
「お願いします。やっぱり、お城に行っていただけませんか?」
「王城に?」
 唐突なダイの請願にファビアンが困惑の表情を見せる。ダイは彼の肩口を強く揺すった。
「お願いします! それで私が無事だってマリアージュ様に伝えて下さい!!」
「……あのね、ダイ」
 ダイから軽く退いて、ファビアンが告げる。
「登城の許可を取り付けるとしても、どう頑張っても半日は絶対に掛かる。今日の夜には間に合わない。入れたとしても君の陛下に会える可能性も低い」
「粘ってはいただけませんか?」
「ダイ、僕は」
「貴方の立場はわかります! さっき説明していただきました!! 私だってきっと貴方の立場なら嫌がります!!!」
 椅子を跳ね飛ばして立ち上がったダイの剣幕にファビアンが目を剥く。
 彼が反論する前に、ダイは捲し立てた。
「私だって、他の国の方を巻き込むのは嫌です! でも私はそれ以上に、私の王や仲間たちが脅されたり殺されたりして、私の国が違う国の人たちに踏みにじられるのはもっと嫌です!!」
「……まったくもって同意見だ」
 ファビアンが柔和な雰囲気を消し去って呟いた。
「僕も自分の身や僕の部下たちを、安易に危険に晒したくはないよ。城には入れても、それだけだ。マリアージュ女王と会えるか伺いを立てることはできても、交渉はしない。僕の身の振りがクランの動向を左右して、僕の国に災厄が降りかかりかねないならなおさらだよ。……何かあったとき、責任が持てる? 一介の文官に過ぎない君に」
 ぐ、とダイは言葉に詰まった。ファビアンの発言は正論である。
「……責任は……持てません」
 無力であることに屈辱を覚えながらダイは呻いた。
 そらみたことか、とファビアンが目を眇める。
「でも」
 ダイはファビアンを見据えた。
「私たちを助ければ、貴方がたにきっと利益があるはずです」
「……利益?」
「そうです」
 ダイは瞑目して情報を整理した。必死に論理を組み立てる。
(……ヒース)
 ミズウィーリ家の書斎の席に着いて、鮮やかな手並みで案件を処理する男の姿が、瞼の裏で像を結んだ。
 鉄扉を隔てて行った会話の全ては、マリアージュを傷つけるためのものだ。
 けれど傍にいて欲しいと請われて喜んだ自分は、確かにいた。
 ヒース。ヒース。ヒース。
 貴方が本当はどう思っていたのか知らない。
 でも私も、傍にいたかった。
 貴方に、傍にいて、欲しかった。
 助けて欲しかった。
 あの日々のように。
 もう彼を頼ることはできない。
 力がないなら頭を絞って、自分で道を切り開いていくしかない。
「ファビアンさん。ペルフィリアはいつかクランに再び侵攻すると、貴方はおっしゃいました。それは避けられないことですか?」
 一呼吸置いて、ファビアンは応じた。
「……君たちを脅しているぐらいだ。セレネスティが休戦を終戦にすることはまずないと思う」
「ならばなおさら、貴方がたは私たちに協力しなければなりません」
「協力しなければならない?」
「そうです。ペルフィリアはどうして大人しくしているのか。貴方のおっしゃる通り、ペルフィリアは力を付けている途中なんでしょう。けれど理由はもう一つ考えられます。ペルフィリアは、クランを後回しにしている。ペルフィリアはおそらく、デルリゲイリアとクランから挟み撃ちにされることを恐れて、簡単に落とせそうな方に集中しているんだと思います」
 推測だがあながち外れてはいないだろう。めぼしい資源のない国を優先する理由はそれしか思い至らない。
「デルリゲイリアを手に入れればさっそくクランを攻める準備に取り掛かるでしょう。逆を言えば私たちを助けることは、ペルフィリアの力を削ぎ、クランと開戦するまでの時期を確実に引き伸ばします。その好機を、貴方は逃がしている」
 ファビアンの瞳に怒りとも屈辱ともとれぬ光が揺らぐ。
 ダイはその目を真っ直ぐ見据えて訴えた。
「ご自分の安全に囚われて、国の利益をみすみす逃がしていると、私は言っているんです!」
 ――……言いたいことは、全て吐きだした。
 ダイは肩を大きく上下させた。ファビアンは黙考を続けている。しばらく待ったが返答はない。
 ダイは背筋を正し、深く深く、頭を下げた。
「お願いします。……私たちを、助けてください」
 ファビアンのものと思しき溜息が響く。
「……君の無事を伝えたら、君の女王たちは助かるの?」
 ダイは面を上げてファビアンを見た。彼の瞳は凪いでいて、質問の声も穏やかだった。
「……マリアージュ様は、本当はじっと、閉じこもっていられるような気性ではありません。本当ならきっと、逃げる機会はあったと思うんです」
「君が捕まっていたから、大人しくしているってこと?」
「そうです。だから」
「お前が無事だってわかったところで、いくらマリアでも、いまさら逃げ出すなんて無理だろ」
 ダダンが会話に水を差す。
「ダイ。お前の言う通り、多分マリアたちには逃げる機会もあったんだろう。でももう遅い」
「ダダン……」
 ダイは失望に呻いた。
 どうしてここで、希望を失わせることを、言うのだ。
「けどな、ダイ」
 漂う落胆の空気を払拭するように、ダダンが力強く口角を上げた。
「おかげで、一つ思いついた。……お前、身分証は持ってるか?」
「……身分証?」
「持っていますけど……」
 ダイは襟元に指を差し入れて、首に絡む鎖を軽く引いた。繊細な金の鎖には硬貨に似た金属板が繋がれている。それは所属と階級、そして所有者を識別する術式の刻まれた、デルリゲイリアの王城勤務者全員に配布される身分証だった。
「あぁ、城の身分証ですか」
 ファビアンが胸元に手を当てる。衣服に阻まれて見えないが、おそらく彼も同様のものを首から下げているのだろう。
「よし。……ファビアン、俺からも頼みたい。城に入れるよう、国にごり押ししてもらってはくれないか?」
「……最速で入れたとしても、明日になりますよ」
「かまわん。ドッペルガム王宮から訪問者の打診があれば、セレネスティ女王もそれなりに慌てるだろ。マリアージュを脅している暇なんぞなくなるさ。時間稼ぎができる」
 それで、とダダンは付け加えた。
「許可が取れたら……ダイを連れて、城に入ってほしい」
「彼を……ですか?」
 怪訝そうにファビアンが瞬く。
 ダダンは頷いた。
「……お前がいればダイも安全だし、ダイもマリアージュに会いやすくなる。いや、何としてでも、マリアージュと会ってくれ」
「……ダダンはその間どうするんですか?」
 ダダンは問いかけるダイに向き直った。
「俺は全員がこの王都から出られるようにする」
 ダイは思わず叫んでいた。
「……できるんですか!?」
 この危機を乗り切る解決策が見つかったというのか。
「どうにかする」
 ダダンは請け合った。
「……ダダン、一つだけいいですか?」
 話に耳を傾けていたファビアンが挙手をする。
「デルリゲイリアの人間を同伴することで、マリアージュ女王に目通りしやすくなる。そう貴方が考えていることはわかります。ですが忘れていませんか? 一度ダイは王城に入っているんです。しかも何の手続きも経ずに強引に外に連れ出している。そんな彼が無事に入れるとは思いません」
「だから言ったろ? お前がいれば安全だって。ドッペルガムの高官の前で相手もダイに強硬手段を取りはしねぇだろ。ペルフィリアもまさかお前に説明するわけにいかないだろ? ダイがデルリゲイリアの女王を脅すための捕虜でした、とはよ。前に登城したことはしらばっくれろ。それは別人だとか言って」
「そうは言ってもダイは単なる文官ですよね。その彼がたった一人、僕と一緒に城に入ることを、どうやって説明するんですか? 身分証の照会にかこつけて、待たされるに決まっています」
「ファビアン様」
 ファビアンの言葉を涼やかな声が遮る。
 ダイたちは一斉にその主に注目した。
「二点ほどよろしいでしょうか?」
 ファビアンの従者は発言の許可を請うた。
「……まず一点目、ダイ様は単なる文官、ではございません」
「……え? クレア、どういうこと?」
「ファービィ様と同じということです」
 クレアと呼ばれた彼女はダイに歩み寄り、微笑みながら包みを差し出した。彼女が小脇にずっと抱えていた、あの大きな布の包みである。
「どうぞ。手入れし終わりましたので」
 ダイは受け取った包みを広げた。中から現れたものはダイの上着だ。
 祖国の国章が縫い取られた、黒に限りなく近い赤の上着。女王近接の官たる証。
 ファビアンの顔色が驚きに変わった。
「女王の側近? この年で?」
「年齢は関係ねぇだろ」
 ダダンが指摘する。
「ダイはマリアージュとは女王になる前からの付き合いだ。身分証だけじゃない。その上着も証明する」
 ファビアンは瞠目したまま瞬き、やがて肩を落として呻いた。
「……わかりました」
 彼は力強く微笑む。
「出来るところまでしましょう。ダダンにはまぁ腐るほどの借りがありますし。うちの陛下たちも頑張ってくれるでしょう」
 腐るほどの借り。
 ダイは横目でダダンを見た。
 とても今更だがこの男はどのようにしてこんな風に無理を聞いてくれる人脈を作っているのだろう。
「ということだから、二人を呼び戻して」
 ファビアンの命に了承を示して、クレアが踵を返し出口へ向かう。
 その彼女をファビアンはふいに呼び止めた。
「そういえばクレア、言いたいことの残りもう一点はなんだったの?」
 扉を開けたクレアは部屋に向き直り、ファビアンに冷やかな目を向けた。
「ダイ様は、女性です」
「……え?」
 ファビアンがダイを見る。
「……えぇ?」
 ダダンが口元を押さえて吹き出した。
 クレアはダイに微笑みを向けて一礼する。
「それでは、また後ほど」
 扉は静かに閉じられた。


 中天を過ぎた太陽が水門を見守る聖女を照らす。
 その前に立った彼は聖印を切って、聖なるものたちに祈りを捧げる。
(主よ、聖女よ……)
 我らに、どうか祝福を。
 彼は聖女の影に差し込まれた紙片を引き抜いた。書きこまれた文字、図形を一目見て覚えたあと、燐寸を取り出して火を点ける。紙は穿たれた穴にやがてすべて呑みこまれ、投げ入れられた水路の中で泥に混じり消えていった。
 聖女に背を向ける。
 大聖堂の裏手を遊び場にする子供たちに、にこやかな顔で手を振り返しながら、彼は街の雑踏の中に紛れていった。


BACK/TOP/NEXT