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第五章 奔る諜報者 4


 月影ちらつく水にざんぶと脚を浸し、水門のふちに手を掛ける男がいる。
 ファビアンがダダンを見つけたとき、その姿は闇の中に消えようとしていた。
「ダダ――……」
 喉元を突く彼の名を、ファビアンは口内に押し留めた。人の気配がしたからだ。一人、二人。一向に現れぬ彼らの足取りはひそやかで、纏う雰囲気は殺気を帯びている。
(始末屋か)
 ダダンを見張り、かつ、いざというときには抹殺するための。
 ファビアンは嘆息して腰の剣に手を掛けた。刃渡り短い護身用のそれ一本で切り抜けねばならない。
 逃走経路を頭の中で構築し、ファビアンはくるりと振り返った。深呼吸して覚悟を決め、いざ、と腰を落とす。
 ところがふいに、殺気が掻き消えた。
 どう、と人が倒れる音、立て続けに鞘なりの音が暗闇に響く。ややおいて足音を隠すこともなく旅装姿の女が現れた。
 栗色の毛をほつれなくひっつめた若い娘である。目を眇めて身構えていたファビアンは、現れた見知った顔にほっと息を吐いた。彼女はこの旅にも同行する、ファビアンの副官だった。
「ファービィ様。探しました」
 副官が踵の音高らかにファビアンに歩み寄る。
「こんな遅くまで一人でどこをほっつき歩いていたんですか? 子供ですか貴方は」
 まったくもって手のかかる、と苦言を呈する副官に、ファビアンは苦笑いを返す。
「えーあーごめん。あとの二人は?」
「他を始末してすぐ来ます。……宿に帰りますよ」
 ファビアンの腕を掴んだ副官が、さぁ、と宿の方角へ歩き出す。ファビアンは慌てて腕を引き戻した。
「あ、あ、待って」
「腰でも抜けましたか?」
「いや、さすがにそんなに腐抜けじゃないよ……」
 ファビアンは肩を落として背後を振り返った。大聖堂の敷地を守る壁際に、聖女の小像が置かれている。その真下は水路となっていて、ダダンの消えた水門があった。
「二人を呼んでもらっていい?」
 ファビアンは副官に言った。
「少し待ちたい人がいるんだ」


 マリアージュたちが迎賓館に籠って丸一日。彼女たちに動きはなく、館の周辺も静かなものだ。ペルフィリア兵の遺体が発見されたということもない。
 梟が話を締めくくる。
「以上が報告です」
 長椅子に身を横たえていたセレネスティが身体を起こして眉間に険しく皺を刻んだ。
「まったく……こちらの手の中とはいえ、迎賓館を奪われたのは腹立たしいね。……サガン老、兵たちの様子はどう?」
 マリアージュを連行する任に就いていた兵たちは大事をとって休ませている。
「問題ありません。明日には復帰させます」
 梟と並んで控えるヘルムートが、しかし、と付け加える。
「ただあの三人にだけは禁固を言い渡しております」
「負傷していなかった三人か……」
 セレネスティが呟いた。
 兵たちのほとんどは裂傷や打撲を負っていた。ところが最後の三人のみ傷痕が一切見られず、昏睡しているだけだったのだ。衣服には斬られた痕跡が残されていたにもかかわらず。
「魔術でしょうね……治癒されたのでしょう」
 ディトラウトの呟きにセレネスティが反応した。
「兄上の言っていた魔術師の仕業?」
「そうとしか考えられません」
 アルヴィナ。
 彼女については知る限りを報告している。白砂の荒野で隠遁していた気まぐれな魔術師。短期契約でディトラウトが雇い、ミズウィーリ家に出入りするようになった化粧師の友人。
 アルヴィナが使節団の一員であることを知った時点で嫌な予感はしていたのだ。迎賓館の制圧に一役買ったのも彼女に違いない。
「治癒なんて使えるの?」
 セレネスティが疑いの声を上げる。無理もない。治癒はかなり高度な技術だ。魔の公国の内部でさえ扱える人間は滅多にいなかったという。招力石や術式を刻んだ呪具も、宝として珍重される場合が多い。
「おそらく」
「そんな腕のいい魔術師と戦ったのなら、精神操作をされている可能性がある」
 ヘルムートが苦々しく呻いた。
「兵たちの禁固は念のためです」
「他に何の術も使えるって言っていたんだっけ? 兄上」
「私が知る限りは〈捕縛〉です。範囲のほどは不明ですが」
「それも不可視で使えるって話だったよね。兄上が嘘を言っているとは思ってないよ? でも信じられなかった。……その考えを、改めたほうがよさそうだ」
 セレネスティは対面の席に腰を下ろすディトラウトに向き直った。
「宰相、その魔術師は化粧師の友人で間違いないね?」
「……はい。マリアージュに仕えているのも、ダイが――……化粧師が、友人だったからこそかと」
「明日の朝、化粧師を牢から出す」
 セレネスティが宣言する。
「化粧師にはそのとき最後の選択の機会を与えよう。返答次第では迎賓館から一番よく見える場所で彼の首を落とす。今すぐでもいいけれど、朝日の下のほうがきっとはっきり見えるだろう。……兄上は翌朝の人払い、サガン老は兵たちの手配を」
「はっ」
「御意に」
 それからしばし今後の予定を打ち合わせてのちセレネスティは散会を告げた。
 ヘルムートが腰を叩きながら早々と離脱し、ディトラウトもその後を追うべく立ち上がる。主君に一礼して、梟とすれ違う。
 一瞬、視線を感じて歩を緩めた。
 無機質な緑灰色の双眸と視線が合う。
 梟は何も言わない。
 その目は責めているようにも、嗤っているようにも見える。
 静かに礼を取る女王の影に見送られ、ディトラウトは黙って部屋から出た。


 約束の時間、指定された場所に男はいなかった。
 その代わり聖女の像の背後に地図と紙片が、小さく折り畳まれて差し込まれていた。
 茶けた薄い紙にはいくつかの指示が走り書きされていた。道が地図と異なっている場合は、書き記しておくこと。依頼の内容は口外せぬこと。たとえ城内で捕縛されても。戻ったその後も。
 成功報酬は戻ったときに支払われる。その方法は記入されていない。
 地図は地下水路に沿って城内へ続く道があることを示していた。大聖堂裏手の水門から潜ること、一刻を過ぎただろうか。かなり奥まで来る道すがらダダンは驚き続けていた。ペルフィリア王都の地下に造られた通路は、想像以上にしっかりとしたものだったのだ。
 しきりに上下し入り組んだ道程、方々に設置された仕掛け、魔術文字――それらを鑑みるに、この道は水路の修復時に用いられるような道ではない。特別な人間が城の内外を行き来するために設けられた秘密経路としか思えない。
(セレネスティは知ってやがんのか? この道)
 ダダンは立ち止まり、胸中で独りごちた。これほどまでの道を把握していないとなると女王はかなりの間抜けである。
(俺としちゃ、知らずにあってほしいがな)
 ぱしゃっ。
 足元で、水が跳ねる。
 ダダンは靴を脱ぎ、裸足で踏み潰した。ぐちゅりと耳障りな音がする。靴から染み出た水が小川を造り、通路から水路へと流れ落ちていく。
 ダダンは胸元から招力石を取り出した。〈照明〉の屑石だ。淡く発光するそれを地図にかざして現在位置を確認する。歩測と地図を照らし合わせると、王城のある三角州まで来ているはずだ。そろそろ地上へ続く階段なりなんなりがあってもいいはずである。しかし周囲を見回す限り、完璧な行き止まりだった。
 地図は道がこの先へと続いていることを示している。
(落盤で崩れたか……?)
 いや、とダダンは自問に否を返した。行く先を阻む壁は人工のものだ。ただし年代はかなり古い。
 靴を履き直したダダンは移動しながら壁面を調べていった。ここに辿り着くまでの経験から判断するに、道を開く仕掛けがどこかに隠されているはずである。
「……あった」
 その仕掛けを示す印はダダンの胸元の高さの壁石に小さく刻まれていた。
 剣に絡みつく二連の野薔薇。魔の公国――メイゼンブルではない。その前身たる、スカーレットの国章である。仕掛けのある場所に決まって刻まれている紋だった。ちなみにメイゼンブルも剣と野薔薇を用いているが、花は五輪咲きの一連である。
 ダダンは懐に地図を収め、紋の記された石を軽く叩いた。音が、軽い。材質が周囲と異なっている。念のため周りと叩き比べてみると、紋章のある石は奥が空洞であるように感じた。
「おし」
 ダダンは手を打ち鳴らして気合を入れ、問題の石を力の限りを込めて押した。休憩を挟みながら挑戦を繰り返す。押し込むだけでは駄目なのかと諦めかけた頃、ようやっと問題の石が壁面から沈んだ。
 地が小刻みに震え、ぱらぱらと砂が降る。後退っていたダダンは水音に異変を感じて背後を振り返った。
 水路から、水が引いている。
 水路を寸断していた壁が陽炎のように揺らめく。それは徐々に輪郭を崩して、ある時を境に掻き消えた。
 壁のあった場所には術式の刻まれた丸い敷石。文字は発光していない。
「空気に触れると消えるのか」
 術式の表面を水が覆っている間だけ、壁を現出させる仕組みなのだろう。
 姿を見せた新しい通路に小石を試しに投げる――罠の類が発動する気配はない。
 ダダンは背嚢を背負って奥へと進んだ。天から斜めに差し込む細い光がちらつき、暗闇に慣れてしまった目を瞬かせる。光はやがて大きな斑点を描くに至り、天井へと続く階段をダダンに示していた。
 ダダンは苔と土に覆われた階をゆっくり踏みしめながら最上段まで登った。天井に仕掛けがないかを確かめる。
 何もない。
 天板を軽く叩いてみる。巧妙に塗装してあるが、音や感触から判断して、鋼の一種のようだ。横に滑らせるための溝は見当たらない。
(力試しが多いよな、ここの仕掛け)
 これまでの仕掛けも頭脳や力で解決できるようなものばかりだった。だからこそここまで来られた。魔術が必要だったとしたら、完璧にお手上げだっただろう。
 ぶちぶちぶちと音を響かせ、何かが引きちぎられていく。天板が浮き上がるにつれて生まれた隙間から、容赦なく土がダダンへと降り注いだ。頭が土まみれになってようやく、新鮮な夜気が地下に流れ込んでくる。
 外だった。
 ダダンは思わず息を深く吸い込んでいた。
(……潮の匂いがしないな)
 ペルフィリアは湾港都市だ。王城も海に面した三角州にある。常に漂うはずの海の匂いがしないのは、魔術で遮断されているからだろう。城に結界が張られていることはよくある。
 ダダンの鼻腔をくすぐる香りはどこか甘い。
(花……薔薇か)
 ダダンは外に頭を出した。辿り着いた場所は薔薇の植え込みの中らしい。人の視界から隔たっていることに安堵し、ダダンは注意深く地下から這い出た。
 冴え冴えとした月が、周囲の様相を露わにする。
 渡り廊下で繋がれた四基の塔がすぐ間近にそそり立つ。白亜のそれらを挟んで並列する巨大な館。すべてをぐるりと取り囲む巨大な城壁。のこぎり型の隙間からは哨戒に立つ兵の姿が見え隠れする。
 間違いない。ここは、ペルフィリア王城の内部だ。
(しかもここ、かなり内部じゃねぇか?)
 正門から入った場合、四基の塔は奥に見える。外部の人間はおろか城内で働く者たちでさえ、立ち入りを制限されるという建造物だ。
 それがすぐ傍にある。
 冷や汗が、背を伝う。
 警戒しつつ周囲をぐるりと見回したダダンは、視界の端を掠めた人影に反射的に身を伏せた。
 影の主は外に設けられた列柱廊を足早に歩いている。
 植え込みの根本から盗み見たその顔は、ダダンが知る男のものによく似ていた。
 かつて、ミズウィーリ家に勤めていた男のものに。
(ディトラウト)
 ディトラウト・イェルニ――……この国の宰相がそこにいた。


 ディトラウトの訪れを最後に、食事を給仕する番兵を除けば、誰もダイの下に現れなかった。外の様子がわかるようなものは何もなく、魔だけが時間の経過をダイに知らせる。
 囚われの身となって丸々二日。
 マリアージュたちは今、どのような状況なのだろう。
 体力温存のために寝台で横になっていたダイは、睡眠はこれ以上必要ないという身体の訴えに、しぶしぶ上半身を起こした。寝台の敷布の下に隠しておいた真鍮の器を取り出す。ディトラウトが残したものだ。この中身の効果は確かなもので、手首の傷はずいぶんとよくなった。
 器の表面を指先で撫でる。そこには美しい花模様の螺鈿細工が施されている。ダイは母の遺品である化粧箱を思い出した。その漆塗りの蓋にも、東洋の意匠がある。
 父の絵を収めたあの箱のことを、ディトラウトに話していただろうか。
 きっとあるだろうとダイは思った。
 話し相手もおらずすべきこともない独房で、男と過ごした日々の記憶は水泡のように次々浮かび、弾けていく。
 ミズウィーリ家に馴染むために奮闘する自分を影から支え続けてくれていたこと。茶を供して語らった穏やかな時間。ダイが女だとわかったときの、笑えてしまうぐらいに間の抜けた表情。屋敷の屋上から二人で眺めた朝日と光をはらむきれいな横顔。
 執務室でダイを抱き寄せた腕の、骨がきしむような力強さ。そのあと長く続いた氷のように頑な拒絶。
 白と赤の花弁舞う空の下で、女王の誕生を共に見守ったときの、繋がれた手の確かさや、書斎で甘えてくる男の、こどものように安らぐ顔や。
 そういったひとつひとつが。
 呆れるほど鮮やかによみがえる。
 ともすれば目が眩み、溺れそうなほど、思い出たちは光と感情の色で溢れている。
 その輝きは螺鈿の虹色に似ている。
 美しいが、握れば脆い。
 ――…かしっ……
 遠くから、足音が響く。
 ダイは感傷から我に返って耳を澄ませた。
 足音は、一人分。
 供を連れずにここを訪れる者などひとりしかいない。
 ダイは寝台から降りて鉄扉に歩み寄った。
 “彼”の訪れを待つ。
 まもなくして現れた男は、扉の前で立ち止まり、格子窓からダイを見下ろした。
 ディトラウトがぎこちなく口角を緩める。ダイも微笑み返した。そして二人同時に表情を消し、対峙した。
「マリアージュ様たちは今、どうしていらっしゃいますか?」
 まずは主君たちの動向を確認しておきたい。出し抜けにダイは問いかけた。
 ディトラウトが静かに瞼を伏せる。
「マリアージュたちは迎賓館に籠城しています」
 予想外の状況にダイは困惑した。
「ろうじょう?」
「そう。迎賓館に付けていたこちらの兵たちを人質にとって」
 ダイは鉄扉の格子に取りついて叫んだ。
「……いつから!?」
「昨日の夕方から」
 ディトラウトが一拍置いて言い添える。
「……貴女の仲間は犠牲になっていませんよ。私の知る限り」
 たとえ傷ついたものが誰もいなかったとしてもだ。
 ペルフィリア側が使節団の者たちに武力を行使したことに変わりはない。セレネスティには友好関係を装うつもりすらなかったのだ。
「マリアージュが要求したものは貴女の解放。そして全員揃ってのデルリゲイリアへの帰国です。……兵たちの命と引き換えにね」
「……マリアージュ様がそうおっしゃったんですか……?」
 ペルフィリア兵はマリアージュたちの命を狙ったのかもしれない。
 しかし彼女は捕虜とした彼らの首を落とせと、アッセたちに命じることができるだろうか。
 アッセたちもおそらく――……人を殺したことがない。本気で人と斬り結んだことも、マーレンでの一件が初めてだろう。
「できるとは思っていませんよ」
 ふ、とディトラウトは嗤った。
「マリアージュたちが籠っていられるのも所詮は二、三日の話です。けれど状況としては腹立たしい。……報復として、貴女を迎賓館の前で処刑すると、セレネスティは宣言しました」
「いつ?」
 ダイの問いにディトラウトは瞑目して応じる。
「明朝です」
 夜が明けたら。
 殺される。
 悄然とするダイの手をディトラウトのそれが包む。はっとなって上げた視線が彼のものと克ち合った。
「もちろんそれは私の提案を呑まなかった場合の話です」
 ディトラウトは言った。彼の双眸は焦燥に濡れていた。
「最後です」
 彼は宣告する。
「返答を聞きましょう」


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