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第三章 試される虜囚 2


「いなかったわね」
 清め終わった手を拭っていたダイは、マリアージュの呟きに面を上げた。並べた化粧筆に触れてながら、そうですね、と首肯する。問い返さずとも、意味はわかった。
 中庭の東屋でダイたちを出迎えたセレネスティの隣に、宰相たる彼女の兄の姿は見当たらなかった。付き添っていた男は二人。うち一人はヘルムートといい、騎士たちの総団長を務めるという。好々爺然としているものの、老練な印象を抱かせる男である。黒服に身を包んだ青年の方は紹介されるまでには至らなかった。しかしデルリゲイリアでも見た覚えがある。白い肌と緑灰色の目が印象的な、綺麗な面差しの青年だ。おそらくセレネスティの側近なのだろう。
 あの場に不在だったペルフィリアの高官たちとは、これから行われる晩餐会で顔を合わせる予定である。
 ダイは気持ちを切り替えて円卓に並べた道具類を確認していった。色粉、練粉、色板、白粉。筆は無論だが、海綿や髪留め、手ぬぐい。そういった一切を。そしてマリアージュに視線を走らせる。手入れの終わった彼女の肌は、陶器もかくやというほどに滑らかだ。光の暈がかかるほどに艶めかしい。
 ただ、その顔は僅かに強張っていた。
「ユマ、すみません冷えたお水を用意してもらっていいですか?」
 支度部屋の隅で午餐服を片づけていた友人は訝しげに瞬いたものの、二人きりにしてほしいというこちらの意図を素早く汲み取った。常備してある水差しを取り上げて退室する。
 二人きりになるまで待って、ダイはマリアージュの前に跪いた。出会ったばかりの頃とは異なる、あどけなさの抜け始めた主人の顔を見上げる。
「……何よ?」
 マリアージュが、不機嫌そうに口先を尖らせた。
「緊張していらっしゃいます?」
「……当たり前でしょ」
 マリアージュは晩餐の衣装に身を包んだ身体を窮屈そうに強請った。
「結局、何も相手のことを知らないまま晩餐会に突入よ。交渉で大事なことは相手のことを前もってできる限り知っておくことだって、ルディア夫人にも言われているのに。マーレンの会食でもたいした話、聞けなかったし」
「あの場でちゃんと探りを入れようとしている時点でご立派ですよ」
 何せ文官の誰もが食事と酒とひとときの友好に酔いしれるだけに留まっていた。ダイ自身、ダダンに指摘されなければ、ただの食事会としか見做していなかっただろう。
 マリアージュが意地悪く口元を歪める。
「そうね。あんたは無断で席外して殺されかけていたものね」
 それを指摘されると、ぐうの音も出ない。
「まったく、なんでいつもそんなに勝手にふらふらいなくなるのよ。馬鹿なの?」
「……そう思ってくださっていいですよ……」
 常習しているつもりはないが、頻度が多いことは確かなので、もう馬鹿でいい。
「その愚か者の私に教えてください。今回ペルフィリアを訪れた、公式の目的ってなんでした?」
「……あのね、なんでそんなこと忘れるのよ」
 マリアージュは呆れ顔になり、これ見よがしな嘆息を零した。
「お頭(つむ)は大丈夫なわけ? 友好関係を確認することが目的でしょ」
「あ、条約結ぶために交渉するとかじゃないんですか。じゃぁちょっとは気を抜いても大丈夫ですね」
「あのね、あんたそれ散々馬車の中で確認し……」
 言葉半ばで沈黙した主人に、ダイはにっこり笑いかける。
「今日の晩餐会は交渉が目的でないなら、にこやかに見えるような化粧を施しましょう。華やかに、愛らしく」
 マリアージュの美点をそのまま生かした化粧を。
 全体的に丸みを帯びた肉感的ですらある輪郭の顔は、淡い彩色を載せるととても可愛らしく仕上がる。そのあどけなさを彼女は厭っていたが大人び始めた今ならば、気品を損なわず顔を作ることができるだろう。
 主人の無言を了承ととって、ダイは化粧を始めた。
 芥子の種から作られた下地を入念に伸ばし、緊張から頬に刷く朱を上手く隠す、黄色の練粉を少しだけ頬の高い部位に。肌に軽さを持たせるために肌色は水気ある練粉を用いる。それを薄く薄く、口角、目尻、細部にわたって丁寧に伸ばし、マリアージュの肌に馴染ませた。
 そばかすを補正しようかと迷ったが結局はやめた。
 手入れの甲斐あってかなり薄くなっているそばかすは、とりたてて目立つほどでもない。どの程度の化粧がこの国で好まれているのかわからない。セレネスティを見る限り、薄化粧が好まれる可能性が高かった。
 きめの細かい海綿を押し当て、余計な油分を吸い取りながら、練粉を肌に密着させる。白粉を大振りの筆でゆっくり載せると、絹地のような肌が出来上がった。
 細筆を用い、目の際といった細かな部分にも白粉を加えていく。
「マーレンでも思ったのよね」
 ダイが肌の仕上がりのほどを確認していると、マリアージュが落とすようにして話を切り出した。
「相手の意思や情報を探り出すのって難しいわよね。話ってどうやって盛り上げるのかしら?」
 出発前、ルディア・ガートルードがマリアージュに助言した。
 デルリゲイリアにおいてなら、マリアージュは相手に話せと一言命令するだけでよい。しかしペルフィリアでは状況が異なり、マリアージュ自らが相手の話を盛り立てていく必要がある。何かしがの情報を引き出したいというのであればなおさら、と。
「練習の通りやったところで逆に会話がぎくしゃくしているような気がしたわ」
 そうですねぇ、と生返事をしながら、ダイは貨幣を模した銅製の器を取り上げた。その中には唇に注す蜜蝋が塗りつけられている。蓋を空け、紅筆を差し入れる。
「蜜を塗ります。唇を……。練習通りって、何をされたんですか?」
 主人は蜜蝋を注し終えた唇を舌でなぞりながら応じた。
「相手の言うことを繰り返す」
「そればっかりじゃ会話にならないですよ……そりゃぁ確かに練習はしましたけど」
 こちらが得た情報を反復すると、聴いてくれているのだと理解して、相手はより滑らかに口を動かす。
 会話術の、初歩中の初歩だ。
「っていうかそういうのは理解されているものだと思っていました。だからルディア様もほとんど説明されなかったし、練習もさらっと流したのに。いいですか? いくら物を知らないことを自覚されているからって、頭でっかちにならないでくださいよ」
「物を知らないは余計よ」
「失礼いたしました。……要は相手が会話を楽しいと思ってくれればいいんです」
 ダイの生まれ育った花街の芸妓たちは、まさしくその術に突出した人々だ。彼女たちは言っていた。楽しい雰囲気を作れば、それだけで相手は話してくれると。
「簡単に言ってくれるわね。他人事のように」
 ダイは色板から離した目をマリアージュに向けた。
「お言葉ですが、マリアージュ様。女王選の一年間。午餐に茶会に晩餐会。何回出席されたと思っていらっしゃるんですか? 腹の探り合いなら、もううんざりするほどやってきているじゃないですか。きちんと習得されているものもたくさんあるんですよ」
 色板を円卓の上に戻し、主人に向き直る。
「催される会に出席するたびに、マリアージュ様の周りに皆が集まって、あれこれと話に花咲かせていったのはどうしてだと思うんですか?」
 当時、マリアージュは候補者の中で一番下に名を連ねていた。彼女を取り巻いても得られる利点は少なかった。上位の候補者に美辞麗句を並べ立てたほうがよほど有意義だったのだ。
 それでも人々は引きも切らずマリアージュの元を訪れ、歓談に興じていった。
 理由はただ一つ。
「マリアージュ様と会話するのが楽しいと思っていたからこそですよ。同じことを、ここでもやればいいんです」
 実のところ、マリアージュはかなりの聞き上手だ。合間に入る鷹揚な彼女の相槌は絶妙なのである。
「できるはずです。貴女様はあの状況で女王に選ばれた。そのことに、自信を持ってください」
 ダイの言葉に耳を傾けていたマリアージュは、話が終わった後も神妙な面持ちで沈黙し続けていた。
 彼女の顔を覗き込むも、反応を示さない。ダイは小さく息を吐いて、化粧を再開した。次は、目元である。
 マリアージュに目を閉じるよう指示し、明るさを出す白の色粉を指で軽く瞼に塗す。同様に生成り色を眉頭の下に入れた。全くといっていいほど目立たぬ色だが、引きで見たときに真価を発揮する仕込み色だ。目元と鼻に立体感を出す。
 次にダイは人差し指ほどの太さの、毛足柔らかい筆を抜き取った。目の際から眼窩にむけて、丁寧に彩色していく。選んだものは珊瑚色。ほんのりと黄みを帯びた淡い紅色だ。目周りに柔らかさが加わったことを確認し、色板を置いた。代わりに玻璃製の小瓶を取り上げる。中は金粉と一対一の割合で混ぜた、粘度の高い溶液が入っている。
 それをこしのある極細の筆に取り、睫の生え際を縁取った。
 金が煌めいて、とてもうつくしい。
 眉を整え、次は頬、とダイが再び色板を引き寄せたところで、マリアージュはぽつりと呻いた。
「自信を持てっていうけれど……私が女王になったのは、私の力ではないわ」
 よほど精神が揺れているらしい。主君が自虐的に物を言うことも久方ぶりである。
 励ましの言葉を探すもうまく見つからない。
 続けてマリアージュは硬質の声音で呟いた。
「ヒースがいたからこそ、私は今、女王なのよ」
 ダイは息を呑み、主人を見た。
 真っ直ぐダイを見返す彼女の目には、薄い膜が張っている。
「違いますよ」
 ダイは主人が望むだろう回答を口にした。少なくとも、ダイはそう思っていた。
「いえ、確かに、そういう部分もあるでしょう。ですが、本当にあの男の力だけでマリアージュ様が女王になられたのなら、彼は、私たちのもとを去ったりはしなかった」
 あの男はむしろ、マリアージュが自立しないことを望んでいた。情報を制限し、教養に偏りを持たせていた。彼女に与えられた課題からもそれが覗える。詩学、音楽、歴史、儀式の典範は多々あれど、政治学、経済学、社会学――マリアージュが晴れて女王になった折に、たとえ女王となれずとも、女主人としてミズウィーリ家を統治していく助けとなりそうな勉学は全て遠ざけられていた。
 しかしマリアージュはダイが化粧師として召し上げられてからの半年間、女王候補として欠けていた知識を、体感を通して吸収したのだ。
 結果としてマリアージュは、“あの男”にとって望まぬ成長を遂げたのだろう。
「貴女を御すことができない。そう思ったからこそ、あの男は離れたんです。皆の助けはあった。けれどその助けを掴みとり、女王の座を手にしたのは、ほかでもない貴女様の力です」
 ダイは化粧道具を置き、彼女の前に跪いた。
 血の気失せるほど固く握り締められた主人の手を、ダイは彼女の膝の上からそっと取り上げた。
「我が君。我が王」
 私が選んだ、唯一の。
 ダイは自らの指先を、これ以上マリアージュの手が傷つかぬよう、彼女の指と掌の間に潜り込ませた。
「マリアージュ様。ご自身が胸を張って下さらない限り、私の化粧がくすみます。……もうちょっと、しっかりしてください」
 マリアージュは何も言わない。静かにダイを見つめている。
 ただその瞳は先ほどより幾何か焦点の合ったものである。安堵して立ち上がろうとしたダイは、不意を衝いて伸びたマリアージュの手に、額を叩かれてよろめいた。
「……っ! 何するんですか!?」
 抗議を無視したマリアージュの手は、ダイの額をぺしぺし軽やかに叩いていく。
ダイは椅子の座面にぐったりともたれ掛かった。
「えー……一体なんなんですか?」
「なんでもないわよ」
 ようやく手を収めたマリアージュは、肩に落ちた髪を煩わしげに振り払う。
「それより早く化粧終えてよ。時間なくなるわよ」
「私のせいなんですか!?」
「一体誰のせいなのよ?」
「……はいはい私のせいですよ」
 渋面になりながら膝に手を突き、ダイは身体を起こした。引き寄せた椅子に腰を落とし、頬紅と筆を手に取る。
 頬紅はまるく入れると幼く見えてしまう。柔らかな綿布に煉瓦色を少量取り、頬の高い位置から耳の方に向かって扇状に塗布していった。
 他、こまごまとした補正を終え、丁寧に粉を取り払って筆を置く。
 マリアージュが怪訝そうに首を捻った。
「ねぇ、口紅忘れてない?」
 マリアージュの指摘を受け、ダイはわざと驚きの表情を作る。
「あれ、マリアージュ様、喉は乾いていらっしゃらないんですか?」
「は? 喉?」
 なにそれ、と、女王は間抜けた声を上げる。
 ダイが答えるよりも早く、扉を叩く音が軽やかに響いた。
「失礼いたします」
 水差しを載せた盆に提げ持って、折よくユマが入室する。
 ダイとマリアージュが見守る中、女官は手際よく用意した高杯に水を注いだ。
 その玻璃の杯が外気との差に結露し、熟れた果実のように滴を零す。
 ダイはマリアージュに、にっこりと微笑みかけた。
「喉が渇いたって叫ばないんでしたら、今すぐ紅を注しますけれども?」


 髪を整えて正装たる外衣を羽織り、宰相に付き添われながら官たちを従え、部屋を出る。
 ダイは彼女自身の支度の為に残っている。開会までには合流する予定だった。
 廊下に真っ直ぐ伸びた絨毯が、なよやかにマリアージュの重心を受け止め、足音を殺す。道は静かだ。等間隔に配備されるペルフィリアの衛兵たちは微動駄にせず、沈黙を保っている。移動に伴う衣擦れの音だけが粛々と、一団を歓迎する音楽のように調べを奏でていた。
 晩餐会はデルリゲイリアからの一行が滞在を許された、迎賓館の大広間にて催される。
 案内に従って進む間、マリアージュはダイとの会話を胸中で反芻していた。
 マリアージュが女王として選ばれた結果は、自身の力あってこそだと、ダイは言う。
 この城でセレネスティに迎え入れられるまで、マリアージュもダイのように思っていた。
 あの女王選出の夜にわかったことは、ヒース・リヴォートがペルフィリアの出身である点だけだ。他国の女王の僕であるとは思ってもいなかった。
 魔の公国が滅びて以降、策を弄して一国の主になりたいと野心を抱いた者たちの数は決して少なくない。マリアージュはかの男もそんな者たちの一人だったのだろうと思っていた。ペルフィリア宰相がヒースと酷似していたという、ダダンの報告を耳に入れていてさえ。
 ――真実は、そんな生易しいものではない。
 豪奢な装飾の施された天井まで届く大扉。開け放たれたその脇には、入場者の来訪を告げる官が控えている。マリアージュの名が呼ばれ、既に会場入りしていた者たちが一斉に振り返る。緩やかな曲調の弦楽が歓迎のためにかき鳴らされ、広間の中央に佇んでいた一組の男女が、連れだってマリアージュの元へと歩み寄り、適度な距離を空けて立ち止った。
「マリアージュ様、テディウス公、旅の疲れはとれまして?」
 無邪気に問うセレネスティに、マリアージュは頷いた。
「えぇ。お部屋もとても気に入りました。素敵な迎賓館ですこと」
「官の皆も喜んでおります」
 ロディマスが親愛込めた微笑を湛えて、マリアージュに続いた。
「お心遣い、誠に感謝いたします、陛下」
「そのお言葉にほっといたしました」
 安堵した旨を仕草で示し、セレネスティは隣の男に向けて、身体を僅かに傾けた。その白い繊手で彼を示す。
 彼女とよく似た造作のその男は、穏やかな笑みを秀麗な顔に張り付けていた。
「紹介いたします」
 セレネスティは言った。
「兄、ディトラウト・イェルニです。テディウス公と同じく、宰相の地位に就いております。未熟な私を、陰日向に支えてくれる大切な家族ですわ」


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