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第三章 試される虜囚 1


 かち、と、陶器が鳴った。
 瀟洒な陶製の白い器。中には一粒大の糖菓子が詰められている。その一つを摘まみあげて口の中に放り込み、蓋をそっと閉じた。
 執務机から離れ、窓枠に寄り掛かる。
 何となしに中庭を見下ろしていたディトラウトは、軽い叩扉の音に振り返った。
「私です」
 許可を待たずに入室した梟が、入口付近で足を止めて一礼する。その優美な所作を見つめながら、ディトラウトは首を傾げた。
「陛下の傍には誰が?」
 セレネスティの護衛が主たる梟がその傍を離れることは滅多にない。
「サガン老がいらっしゃいます。……デルリゲイリアの使節団の名簿をお持ちしました」
 足音も立てずに距離を詰めた梟が、小脇に抱えていた書類をディトラウトに差し出した。
「わざわざ?」
 機密でもない文章の運搬を、梟が担う必要性はどこにもない。しかし女王の影はディトラウトの問いに答えるつもりはないようだった。
 先だってゼノから寄越された報告によれば、隣国の使節団はゼノの部下たちに付き添われ、今日明日中には到着する見通しである。
 かの一団を構成する人員について記された二枚綴りの紙面には、ディトラウト自身が密命中に本国へと送った情報と、ゼノからもたらされた最新のものが照らし合わせてある。
 目を通していたディトラウトは、見出した意外な名前に瞬いた。
(アルヴィナ?)
 詳細の添えられていない名前は、城都西の荒野に住んでいた魔術師のものだ。
(城に上がったのか?)
「以前閣下が関わった、短期雇いの魔術師でしょうか?」
「おそらく。開城になってからの公募に応じたんだろう」
「腕の良い魔術師だと」
「気をつけろ。腕の良い、では収まらない可能性がある」
 アルヴィナの常に崩れぬ柔和な微笑は、絶対的な自信に裏打ちされたものだ。彼女の扱う魔術のいくつかは、既に世から失われたはずのものである。用済みとなったマリアージュに向けて放った刺客が一人も戻らなかったのも、あの魔術師が絡んでいるのではないかとディトラウトは目していた。
 自由を好む気まぐれな魔術師が、まさか城に雇われる身に甘んじるとは。
 考えられうる理由は、たった一つ。
(……彼女、か)
 ディアナ・セトラの名は、女官たちの中に混じって在った。
 城では本名を通しているのだろう。
 視線を感じ、ディトラウトは面を上げた。梟の淡い虹彩が、ディトラウトを捉えている。
「陛下に渡すのだろう?」
 報告書を梟に返す。女王の影は書類を引き取りながらも、目をひたりとディトラウトに向けたままだった。
「何だ?」
「化粧師の名はどれですか?」
 傍にいてさえ、聞き取ることが困難なほどに、潜められた問い。
 梟は視線を外し、書類をめくった。
 名前に添えられた身分。そこに、化粧師の文字はない。
「ご安心を」
 梟は手元の書籍と報告書を重ね、抱えなおした。
「名などわからずとも、計画には何ら支障ありませんので。……陛下にはこのまま、お渡し致します」
「梟」
「はい」
 表情というものが欠落した中性的な白い顔に、ディトラウトは問い掛けた。
「……何故、報告しなかった?」
 我らが王に。
 化粧師のことを。彼女が、女だということを。彼女を、連れ帰ろうとしたことを。
 彼女を――……。
 気取らなかったわけではなかろうに。
「……殺すに値せぬほど、とるに足らぬものなのでしょう?」
 問いの意味を取り違えることなく、梟は首を傾げる。
「瑣末なことを報告差し上げて、陛下の心を必要以上に乱すことが、よいことだとは思えませぬゆえ」
 違いますか、と尋ねる女王の影に返す言葉を探して、ディトラウトは喉の奥を詰まらせる。
「貴方は陛下の臣です。それを、お忘れなきよう」
「当たり前だ」
「……失礼いたしました」
 謝罪に深く頭を垂れた梟は、姿勢を正して部屋を辞した。
 再び沈黙に還った部屋に、一人分の影だけが延びている。
 ディトラウトは窓辺に戻り、桟の縁に指を掛けた。
 薔薇の植え込みが、薄靄に霞んでいる。その様相は、半年ほど前まで仮住まいしていた屋敷の庭園を思い起こさせる。
 捨てた日々の残滓を追いやるように、ディトラウトはゆっくりと目を伏せた。


 眩しさに閉じていた瞼を押し開くと、僅かに碧みを帯びた灰色の海が、白い砂浜を境界線として、平野の先に広がっていた。
 朝の陽光を受けてさんざめく水面。その狭間を縫うようにして、黒い影が滑っている。
 船舶と思しきそれが向かう先、海岸に張り付くようにして半円形の街が存在していた。城壁に守られ、茶の屋根と青灰色の建物が埋める都市は、この国に入国してから目にしたものの中で、最大の規模を誇っていた。
 ペルフィリアの、王都だ。


 マーレンから付き添うゼノの部下たちが手続きを代行して無事に王都へ入場すると、ダイの主人は好奇心に満ちた目を、窓の外へ向けて離さなかった。
「城壁の外から見たときも思ったけど……」
 流れる景色を追いながら、マリアージュが呟く。
「うちの国と造りがかなり違うわよね」
「ですね……。建物もかなり堅牢ですし、木材が少ないです」
 同意を示しながら、ダイもまた窓の外を注視する。デルリゲイリア王都の景観とペルフィリアのそれの差は、見れば見るほどダイの目に歴然として映った。
 貴族の住まう区画を除き、デルリゲイリアの街並みには統一感がない。細い通路が上下左右に入り組み、とりわけ裏町の工房街は、職人たちのこだわりによって、どこか雑然としている。
 一方この都に軒を連ねる家々は形似通い、通りも門から城に向かって歪みなく伸びている。まるで工芸品のような街並みは、全体像をよく検討した上で建造されたことを示していた。
 もともとこのペルフィリアの王都は、西大陸有数の河口に位置して緑に富み、魔の公国の諸侯たちから遊覧の地として愛されていたという。街構造が計画性を持って組まれていた点も、そのあたりに理由があるのだろう。
 だがその整然とした美しさに、ひっかかりを覚える。
 マリアージュもダイと同じように感じていたらしい。窓から離れ、椅子に座りなおした彼女は、腕を組んで大きく首を捻った。
「なんか、綺麗すぎない? この街、一度焼き払われたのよね?」
 左大臣派と右大臣派の対立による内乱の際に、都には火がかけられたのだと聞いている。
 焼き煉瓦を積み上げ造られた街は煤と灰と血の染みに汚れ、火薬と槌で以って打ち崩された建物も少なくないという。しかし窓から見える家々の土壁に、かつての悲劇の名残は微塵も見られなかった。
「もちろん、建て直したんだよ」
 同席するロディマスが差し込む陽光に眼を細めながら答えた。
「街の再建築は女王セレネスティが即位して真っ先に取り組んだことのひとつだ。都だけではなく、国土全域、小さな村落に至るまで、もう手の施しようがない地域を除き、全てに修繕の手を回した。職を失いうらぶれていたものたちに、その仕事を宛がったそうだ。ごらん、壁が土壁の塗りは均一ではないだろう? 職人ではなく素人が自らの家を塗ったからだそうだよ」
 ロディマスに示唆され、改めて見直した家々は、揃って青灰色の壁を持っている。土を粗塗りした壁面は一見粗雑に見えるものの、水泡を含んだ窓の玻璃と相まって、光たゆたう水底のように美しい。ともすれば寒々しくみえかねないその色合いは、屋根の赤茶を引き立て、街の印象を優雅なものに仕立てている。
「賃金は国庫のすべてを解放して捻出したらしい。しかしながらこの再建に成功することで女王セレネスティは以前の倍の税収を取り戻した。これが隣の二国を併合するための資金源になった」
 膝の上で手を組み替え、ロディマスは付け加える。
「国土の基礎を固めて、というのは言うは容易いけれど、女王は君と同じように帝王学の教育は受けていない。公表によれば、貴族階級出身ではあるものの、玉座からは縁遠いどころではない、地方領主の娘だったらしい。……それなのに、復興を成し遂げた速度が尋常じゃない。恐れ入るよ」
 マリアージュは神妙な面持ちで沈黙し、目線を再び外へゆっくりと向けた。
 色付き石で舗装された通り、そこを行き交う人々の雑踏、笑い声。
 それら全てが、内乱などとうに過去のものだと主張している。
 やがて市街地の景色は途切れ、街を北東から南西にかけて両断する、河のものに移り変わった。
 その流れを二つに分断する三角州を、木立に囲まれた尖塔の群れが埋めている。
跳ね橋を渡り、門を過ぎる。剪定された樹木の切れ目から、壮麗な建造物が姿を現し始める。
「ペルフィリア王城……」
 ダイは感嘆の吐息と共に、無意識のうちに呟いていた。
 敷地の奥に向かうにつれ、一層ずつ階を増していく、左右対称を基本とした長方形。正面に張り出して作られた二階部分は、等間隔に並ぶ太い柱によって支えられている。拝殿を思わす造形美だ。直線を基調として作られた建物の奥からは、塔が美麗な釣鐘型の屋根を天に誇示し、取り巻く四つの尖塔と渡り廊下で繋がっていた。
 速度を緩めた馬車は、緑あふれる玄関で、嘶きを合図に停車する。
「デルリゲイリア女王、マリアージュ・ミズウィーリ・デルリゲイリア陛下、ご到着!」
 高らかな号令にあおられたかのように、はためく国旗がひときわ大きく布音を立てた。
 先んじて馬車を降りたダイは、扉の脇に控えて二人を待った。まずロディマスが降車してダイに並び、マリアージュへ補佐の手を差し出す。それを支えに足場を確かめた彼女は、下車に踵の音を高く鳴らした。
 霧雨に似た水音を立てる噴水の向こう、段差緩やかな階段が、真っ直ぐに伸びている。
 その両脇で縁飾りのように揺れる、聖女の御印たる野薔薇の白い花弁。絨毯を挟んで数段おきに配された兵士たちが、直立して互い違いに向かい合う。
 さらさらという水音に時折、国旗の風を叩く音が割って入った。
 半円の梁を支える石柱廊が、階段の終わりを呑み込んでいる。
 ふと、ダイは視線を覚えて面を上げた。マリアージュが無言でじっとダイを見下ろしている。
 その眼差しに込められているものは、初めての外交に対する緊張ばかりではない。
(きっとこのひとも、わたしとおなじようにおもっている)
 あの男の裏切りに身を引き裂かれるような思いをし、すべてを夢であればと願ったのは何もダイだけではない。
 彼がローラ・ハンティンドンを刺す現場に不在だったせいで、マリアージュには未だ現実感の乏しいところがある。彼女がペルフィリア行を切望したのも、すべてを目で見、区切りをつけ、実感を得たいが故なのだろう。
 あれはゆめで、ほんとうは、あのひとは、うらぎっていなくて、どこかにつかまっていて、わたしたちのことをあんじている。
 そんな馬鹿馬鹿しい希望を、踏み砕くために、自分たちはここにいる。
 ダイが微笑んで頷くと、マリアージュも口元に笑みを湛え、繊毛織りの上を歩き始めた。
 巨大な扉を潜り、天井高く取られた通路を進む。薔薇窓の彩色された玻璃を通して光が注ぎ、本来なら白くあるべき通路を虹色に染め上げていた。
 通りを抜けた先は、広大な庭園だった。
 否、ここからが真の城内なのだとダイは思った。芝が敷かれ、植木と花々が芸術的に配された庭の向こうに、馬車から眺めた四つの尖塔が見える――あれが、本館だ。
 そこへの道中に設置された東屋に、騎士と黒衣の青年を従えた、少女の姿があった。
 整った造作の娘だ。糖蜜色の髪に、澄んだ蒼の瞳。陽光に透ける象牙色の肌は襟元からつま先まで、真珠に似た光沢をもつ白の布地で覆われている。身体の線を隠す柔らかな衣装。裾まで伸びる幾重もの襞には切り込みがあり、奥に重ねた藍色が覗いていた。
 髪を飾る数珠繋ぎの玉が揺れて、鈴のような音を響かせる。
 ――……観察すればその造作は、“あの男”とあまりにもよく似ていた。
「ようこそおいでくださりました」
 一定の距離を挟んで立ち止った一団へ、彼女は歓待の声を上げた。
「遠路遥々ご足労頂き、友好の念に胸打ち震える思いです」
 朗とした軟らかい声音には、聞き覚えがある。女王選出の日、王城の中庭で迷子のダイに道を示した少女の声だった。
 ダイは息を潜めて、一部の隙もない微笑を湛える娘を見つめた。
 彼女こそ、尊敬と畏怖を込め、傑物と称されるペルフィリアの女王。
 セレネスティ・イェルニ・ペルフィリア。
「こちらこそ、急な申し入れを寛大なお心で了承していただき、感謝いたします」
 マリアージュの声音は平静だった。深く一礼する彼女に、ダイと後ろに控える残りの者たち皆が倣う。
 面を上げた先で、セレネスティはその笑みを毒々しいまでに深めて言った。
「どうぞ我が城とお思いになって、お寛ぎください。私たちは、善き隣人を心より歓迎いたします」


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