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第二章 惑う従者 6


 女王が黙考した時間は、ほんの僅かだった。
「ダダン」
「……なんだ?」
 気だるげに上向いた男に、マリアージュは宣言する。
「あんたとの契約、ここで打ち切るわ」
「マリアージュ様!?」
 ダイは目を剥いて主人を咎めた。アルヴィナとアッセも怪訝そうに眉をひそめている。
「どういうつもりだ?」
 意味がわからないと、ダダンも身を乗り出した。俄かに不穏さが部屋を満たす。だが皆の当惑を意に介した様子はマリアージュに見られない。
 彼女は淡々と説明した。
「今回のことで、ペルフィリア側のひとたちが王都まで付き添いそうなんでしょ? だったら案内はもういらないわ」
「王都に着いてからっつう約束だった残りはもらうぞ」
「わかってる」
 深く頷いたマリアージュが、空になった茶器をダイに寄越す。彼女は両手を右の脇息に重ね置くと、有無を言わさぬ口調でダダンに告げた。
「ダダン、あんたは別の仕事をしてもらうわ」
 ダダンは頭を掻いて嘆息した。
「……俺はあんたの専属じゃないぜ。言っとくが」
 わかってるわよ、とマリアージュは苛立たしげに呻いた。
「引き受けるの? 引き受けないの?」
「……前金二百。後金三百」
 二者択一を迫る彼女に、ダダンはしれっと条件を示す。
「それなら働く」
「おい!」
 アッセがダダンへ一歩踏み出した。
 彼が気を荒立てる理由はわかる。情報屋が提示した金額は破格だ。この道案内の賃金と合わせれば、しばらく食べるに困らないだろう。
 しかしマリアージュの返答は決然としていた。
「かまわないわ」
 ダダン自身も了承されるとは思っていなかったのだろう。呆れた目を彼女に向け、彼は深く溜息を吐く。
「……それで? 俺に何をしてほしいんだ?」
「調べてほしいのよ」
 打てば響くように、マリアージュは言った。
「マーレンの領主が殺された件と……この賊の件がどう収束したのか見届けて教えて頂戴」
 彼女は先ほどの話を意識しているらしい。
「私の敵になるか味方になるかはともかくとして、マーレンの領主を襲って、そして私たちを巻き込んでくれた相手のことを知りたいの」
「でもそれって調べるのかなり危ないんじゃないですか?」
 ダダンの怪我を一瞥し、ダイは問いかけた。あれでは何かあっても応戦できまい。
 その上、ゼノたちも真相を隠したがっている。マーレンの領主が死んだ経緯を、賊に襲われたものと発表している時点で、それは明白なことだった。ダイたちが巻き添えとなってしまい、ゼノは胸中で舌打ちしているはずだ。
 これ以上首を突っ込む真似を、彼らはダダンに許すだろうか。
「そうよ」
 マリアージュは決然と言った。
「だから払うのよ。五百を」
 その危険に見合うだけの、対価を。
「私は反対です、陛下」
アッセが静かに表明した。
「ファランクス卿からそう簡単に話が引き出せるとは思わない。この男に金を支払って、調べさせるだけ無意味です」
「俺が何も掴まず終わるとでも?」
 腹を立てたらしい。ダダンの呻きは獣の威嚇のようだった。
 アッセもまったく引く気配を見せない。
「ファランクス卿は守りを強化するはずだ。お前なんかが残って聞ける話など、たかが知れているだろう」
「二人とも、落ち着いてくださいよ」
 剣呑な二人に割って入り、ダイは溜息を吐いた。
「アッセ、ダダン」
 呼びかけに応じ、男たちが面を上げる。
「私は知りたいと思った。けれど私はここに残るわけにはいかない。だからダダンを置いていく。これはもう、決めたことよ。あとはダダンが引き受けるかどうかだけ」
「いいぜ」
 ダダンは額に手を当て、億劫そうに言った。
「請け負ってやる。ただし、調査は三日間だ」
「どうして三日間なんですか?」
 ダダンはダイに包帯に包まれた部位を指し示した。
「俺のこの傷、医者にいわせりゃ、縫った口が開かなくなるまで三日かかるらしい。俺はこれが原因で、マーレンに残るっつうことにする。宰相殿に俺がこの館に残れるよう手配してもらってくれ。相手も巻き込んだ側だ。怪我人がのんびり療養することぐらいは大目に見てくれるだろう」
「わかったわ」
「三日経ったら、俺も王都に向かう。怪我に苦しんでいた俺は、仕事の後金を受け取りそびれていたっつう理由で、そっちを訪ねる」
 段取りを説明し終えた彼は、薄い笑みに口の端を吊り上げた。
「なぁに。三日もあればいろいろわかるさ。……期待して待ってろ」


 ロディマスが戻るまで待って、ダイたちは散会した。とはいえそれぞれやり残した仕事に戻るだけだ。ロディマスは不在中の話を簡単に聞いた後、ダダンと連れだって出て行った。別室で新しい契約について相談するためだろう。アッセも夜勤をする部下たちの顔を見に向かった。明日の下準備もあるようだ。
 女官から肌の手入れを受けながら色々愚痴を漏らす主君にしばし付き合い、ダイが術式調整に残っていたアルヴィナと共に部屋を辞したときには、夜半をとうに回って舎屋は静まり返っていた。
「アルヴィー」
 声が思いのほか大きく反響し、ダイは慌てて口を噤んだ。怪訝に思ったらしい友人が、なに、と目で尋ねてくる。ダイは首を横に振った。
「いえ……大丈夫です。ここではちょっと……」
 声が響きすぎる。
 あぁ、と頷いたアルヴィナは、おもむろに指を鳴らした。首を捻るダイの視界の隅を、燐光が淡く照らして消える。魔の光だった。
「会話ならもう外に漏れないよ」
 アルヴィナはダイの懸念を正しく汲み取っていた。彼女が行使した魔術は〈消音〉。結界内の会話を外から聞き取れないようにするものだ。
「ありがとうございます」
 ダイは苦笑して謝辞を述べ、改めて質問を口にした。
「それで、訊きたかったんですが……。魔がないって、本当にあるんですか?」
 気にかかっていたのだ。過去と現在、ダイが遭遇した二組の襲撃者には内在魔力がないのだと、アルヴィナは説明した。しかし魔は生命維持に必要なものだ。存在しないなどあり得ることなのだろうか。
「あの場ではあぁ言うのが簡単だったから」
 アルヴィナは小さな笑いに肩を揺らした。
「正確にはすこぉし違うかしら。魔の量が限りなく少ないの。生きるのにぎりぎり必要なぐらいしかない。普通の人との差は、魔術素養が皆無ってことぐらいなの。だから魔術師以外の人には見分けつかないわねぇ」
「滅多に見かけない人、なんですよね?」
「こっちの大陸ではね。世界全体でいえば、そうでもないよ」
「え? じゃぁさっきはなんで?」
 ダイは驚きに立ち止った。
 珍しくないのならどうして、二組が仲間であると断定できたのか。
 アルヴィナは片目を瞑って微笑んだ。
「ダイ、忘れちゃったの? 私は魔の種類も見分けられるのよ?」
「あ……」
 ダイは彼女が自分の性別を見抜いた時のことを思い出した。
 〈魔を視る眼〉。遠い昔、王の血族を判別するにも用いられたというその術。
「あの子たちの魔は互いがとても近い血縁……兄弟、遠くても従兄弟、だわ。魔があんなに少ない子はこちらでは本当に珍しいから、覚えていたのよねぇ」
「じゃぁあの人たちは本当に」
「十中八九、お仲間よ」
 アルヴィナは冗談めかしに付け加えた。
「兄弟喧嘩をしていなければね」
「ダイ? アルヴィナ?」
 他方からの呼びかけが言葉に被さる。
 ダイはアルヴィナと揃って、声の響く方を探った。床板を叩く踵の音を纏い、アッセが歩み寄ってくる。
「まだ部屋に戻っていなかったのか?」
「アッセだってそうじゃないですか」
 ダイはアッセに向き直った。彼の目の下に見られる濃い影は、照明不足のせいではないだろう。
「私たちはもう帰るところですよ」
 アルヴィナが微笑みながら述べた。
「殿下は?」
「私も戻るところだ。行こう」
 アッセが廊下を目で示して促した。
 もともとそう広い館ではない。少し歩を早めれば、部屋まですぐだ。まずアルヴィナと別れた。彼女は他の魔術師たちと同室となっている。
 次はダイだった。
「それじゃぁアッセ……」
「ダイ」
 就寝の挨拶をアッセが差し止めた。
「……どうかしましたか?」
 アッセは非常に険しい顔をしている。
「不快かもしれないが忠告しておく」
 と、彼は前置いた。
「あぁいう得体の知れない輩を、近づけすぎるのは危険だ」
「……ダダンのことですか?」
 アッセは神妙に頷いた。何か言いたげにじっとダイを見下ろし、しかし結局は口を閉ざしてしまった。他人の耳がある可能性を案じたのだろう。
 ただ一言、これだけは、と彼は呻いた。
「陛下はあの男を信用しすぎる」
 アッセの懸念は、わからぬでもない。
 ダダンとの最初の出会いは半年ほど前のロウエンの一件。その後、アリシュエルとカイトの付添で国を離れた彼とは音信不通になった。絶対的な信頼を預けるに十分な仲だとは言い難い。
 今回の依頼は前金だけで相当な金額だ。ダダンがそれを持って逃げないとどうして言えよう。
「仕事をきちんと完遂する人であることは、間違いないと思いますよ」
 ダイはダダンを擁護した。
「アリシュ……アリガさんたちを、きちんと送り届けてくださったんですから」
 アリガ――アリシュエル・ガートルード。そしてロウエンの弟であるカイト。
 旅慣れぬ二人を抱えて大陸を渡りきる。危険伴う旅を乗り切るには、機転と交渉力が必要だ。ダイたちがこのマーレンに辿り着いた経緯からも、必要な情報を巧みに引き出す能力の高さを、ダダンから窺うことができる。
「それだけでは、信用に足るとはいえない」
 アッセは決然と言った。とても正しい主張だった。
「さっき、襲われたときの話です」
 ダイは視線を落として話題を変えた。
「駆け寄った私に、傷を負って動けなかったダダンが一番に言ったこと、なんだと思いますか?」
 話の真意をわかりかねる様子ながらも、アッセはダイの問いにきちんと答えた。
「……こちらへ、来るな?」
「『アッセたちにマリアの周りを固めさせろ』」
 ダイはアッセに微笑みかけた。
「ダダンはなによりもまずマリアージュ様のことを心配してくれたんです。自分だって、怪我をしていたのに」
 ダダンの傷は決して浅いものではない。普通ならば手当のために、もしくは応援として、人を呼べというはずだ。
「私は、ダダンのこと、信じますよ。真っ先にマリアージュ様を案じてくれた人のことを……。人を見る目には、自信、ないんですけどね」
 アッセが沈黙する。その顔には苦いものが浮かんでいた。
 マリアージュが素性知れぬダダンに――適任とはいえ、重要な仕事を任せる。ダイとてその点に危うさを感じている。
 それでもアッセのようにダダンに対し、危機感を持つことはできなかった。
 マリアージュが、信じているから。
 アッセからの話は終わりのようだった。
 改めて就寝の挨拶を口上しかけたダイはふと、まだ彼に礼を告げていないことを思い出す。
「アッセも、有難うございました」
「何が?」
「助けてくださって」
「あぁ……お礼なら陛下に言ってくれ」
 部屋から姿を消したダイの様子を見てくるよう、他ならぬマリアージュが命じたらしい。
「……アッセがご自分の護衛だって、あの人はわかっているんですかね……。いえ、おかげで助かったんですけど」
「それだけ陛下はダイのことを気にかけていらっしゃるということだろう。……羨ましいな」
 その神妙な口調に、女王の役に立てるのか、と昼に煩悶していた、彼の姿が脳裏を過ぎる。
 アッセは恐れている。
 女王に不要とされることを。
「アッセ、昼間の話ですけど」
「うん?」
「アッセは決して役立たずなんかじゃありません」
 ダイは胸の前で両手を握り合わせて力説した。
「あんな足場の悪いところで、相手を殺さずに打ち倒して……それって、すごいことだと思います」
 相手を単純に殺すよりも、生け捕りにするほうが技量を要する。相手が玄人ならばなおのことだ。
「アッセには力があります。守る力が」
 幼少の頃からの研鑽によって培われた実力が。
「その力を、マリアージュ様は信頼しています。信じてもいない人を、傍におけるほど、器用じゃないんです。あの人は」
 そして他人をすぐに信じられるほど、強くもない。
 故にあの雨の夜、自分はマリアージュを選択したのだ――……権謀術数渦巻く宮中に、彼女一人を、残したくなかった。
「だからマリアージュ様は、傍に置いた人たちをみんな大事にします。アッセのことも気にかけています」
 あの時、仮にダイとアッセの立場が逆だったとしても、マリアージュは同じことを命じただろう。
 アッセはそうかと呟き、面を伏せた。亜麻色の睫が壁に吊るされた明りに照らされ、金糸のように煌めいている。その高貴さ漂う端正な顔を見つめながら、あぁこの人も、花街で顔師をしていたままでは、気安く口を利くことなどできない存在だったのだろうなと、ふと思った。
 アッセは柔く笑った。
「ありがとう、ダイ」
「いいえ」
「ゆっくり身体を休めてくれ。お休み」
「はい。ありがとうございます。お休みなさい」
 ダイは挨拶を返して、アッセを見送った。その背が廊下の角へ姿を消したことを確認し、自室の扉を注意深く開ける。
 ダイは女官たちとの相部屋を割り当てられている。ランタンの火を落とした部屋は暗く、二段に組まれた寝台の影が、部屋の両脇にぼんやりと見て取れた。
 既に布団にくるまる女官たちの健やかな寝息が、夜の静寂を揺らしている。
 扉を閉じる。暗闇が訪れる。手さぐりで荷物を引き出し、着替えを終える。
 重ねられた毛布の中に潜り込んだ瞬間、意識はふつりと闇に呑まれた。


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