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第二章 悔いる傷病者 3 


 急な厳しい寒波と雪は、あまたの問題を引き寄せる。
 氷雪に覆われた港や街道は閉鎖か。そこまで至らずとも荷や人の行き来は鈍るものだ。食糧や燃料を補充しづらくなり、餓死者や凍死者の増加は必至となる。
 そういった諸々への対処に奔走していたのだろう。雪が降り始めてからこっち、ディトラウトは現れなかった。
 今年も残すところひと月強になろうというころ、彼はダイの下にようやっと姿を見せた。
 ダイは窓辺に寄せた長椅子に身を横たえ、ぼんやりと外を眺めていた。嘔吐することはほぼなくなり、短時間ならば寝台でなくとも横になれるまで回復していた。
 傍で立ち止まったディトラウトは冷えた外気を纏っていた。雪のにおいをさせながら、観察の目をダイの上で一巡させる。
「起きていられる時間が延びたと聞きましたが、経過は良さそうですね」
「ご覧の通りです……。あなたはずいぶんとお忙しいみたいですね」
 蜜色の髪を飾る水滴が暖炉の火の光を虹色に反射している。冷気に晒された男の肌は蝋のように白い。疲れた顔をしている。とはいえ、精気に満ちあふれた彼の顔、など、記憶を探ったところで覚えはないのだが。
 ディトラウトは肩をすくめる。
「年末ですのでね。……それに、この雪だ」
 ディトラウトがダイの身体越しに外をのぞき見る。
「今年はよく降る」
「いつもは……そんなに降らない?」
「えぇ。降ったとしても、あまり積もりません。ですが今年は、ご覧の有様です」
「それはペルフィリア全域で?」
「そうですね……」
「ディトラウト」
 ダイはディトラウトの指に触れた。手袋の絹地もまたずいぶんと冷えていた。その手に縋って懇願する。
「兵を引いてください」
 ペルフィリアは軍をデルリゲイリア国境に展開している。ダイの故国に研いだ爪を向けている。
 それを収めてほしい。
「できません」
 ディトラウトはすげなく否を返した。
「情に訴えたところで無駄ですよ」
「情? 違います」
 ダイは嗤った。情でどうにかなるのなら、男と自分の関係も、もっと違ったものだったはずだ。
「この、雪ですよ。寒さの極まる今の時期に戦だなんて、悪手ではないんですか、と言っているんです」
 ダイとて戦争に明るいわけではない。
 それでも雪による補給の停滞と厳しい寒さは、兵士たちの士気を減退させようと想像できる。
 ディトラウトは薄ら嗤った。
「なるほど? 確かに、かなり回復しているようだ。口数が増えましたし、頭も回っている」
「そんなことを話しているのでは」
「えぇ。そうですね。……兵の運用などあなたに心配されるまでもない。こちらでどうとでもする。あなたは黙って結末を待っていればいい」
 知っていたでしょう、と、彼は言う。
「わたしは、あなたの国を、踏みにじる側だ」
 そもそもディトラウトがデルリゲイリアに潜入していた理由も、傀儡の女王を仕立てあげることで、国を手に入れるためだった。彼からしてみれば、手段は変われど当初の目的を達成しようとしているだけなのだろう。
 ディトラウトがふいに伸ばした手で、窓に面したダイの頬を包み込む。肌を冷やしていた外の空気が一時的に遮断される。
 互いのぬくみが混じり合ったころ、ディトラウトは息を吐いて手を離した。ダイの首と膝の裏に腕を差し入れ、巻き付けた毛布ごと身体を抱き上げる。
「わっ……!」
「そろそろ寝台に戻りなさい。熱が上がる」
 ディトラウトが壁際に控えていたラスティに目配せする。女官は心得た様子で寝台の掛布を捲り、枕の位置を整えた。
 ディトラウトはダイの身体を敷布の上にそっと下ろした。壊れものを扱うかのようだった。ひき剥がした毛布を改めて上からかけ直す。
 膝を立てたせいか。足首が毛布からまろび出る。その足首をディトラウトは手で覆った。
 掴んでいるようでいて、異なるのかもしれない。包帯越しに男の手の感触はほとんど感じられなかった。
「――つらいですか?」
 何について述べているのか、ディトラウトは明言しない。
 ダイは手を瞼に押し当てて呻いた。
「あなたが私を見出さなければ……こんなにもつらくはなかった」
 タルターザで。
 あるいは、故郷の花街で。
 この男がわたしを見出さなければ。
 そうですね、と、男は肯定する。
「私もそう思います」
 ディトラウトはダイの足を毛布で隠した。
 淡々と世話を焼く彼にダイは問いかける。
「私を、どうするつもりなんですか?」
「……状況が変わりましたからね」
 ディトラウトはため息交じりに呟いた。
「すべてはあなたが回復しきってからです。……もう少ししたら、歩く練習も始めましょう。歩行に難が残らないように」
「あなたは――……」
 ダイを生き延びさせるつもりなのだ。
 ダイの故国を攻め滅ぼしたのちでも。
 それを改めて理解する。
 言い止したダイをディトラウトは追及しなかった。
 また来ますと言い置いて、彼は部屋から歩き去った。


 日が経つにつれて降雪はますます度合いを増していく。
 デルリゲイリアでは悪天候が続いた場合、城の行事は規模の縮小か中止を迫られる。それはペルフィリアでも同様らしい。ディトラウトも身体の空く時間が増えたようで、以前より頻繁に顔を出して、長居をするようになった。
 それで彼は何をするのか。
 ダイの運動に付き合っている。
 歩行訓練はディトラウトの冗談ではなかったようである。彼が宣言した翌日には、医師が訓練予定をダイに説明していた。翌々日に現れたディトラウトがそれを強引に推し進めた。
 まずは、背中の支え無しに起き上がるところから。
 簡単で単純で基本の動作だ。
 突いた後ろ手を支えに。もしくは、ディトラウトの腕を引いて、自力で上半身を起こす。
 それだけで、息が切れた。
 健常なころは「できない」と考えもしなかった動作が困難を極めた。
 次は脚の屈伸。寝台の上で。慣れたら寝台の縁に腰掛けて。それだけで腹部の治療痕に障り、疼痛で転がることになった。
 ディトラウトが不在のときはラスティが補助を務める。体調を見極めながら、休み休み訓練を続ける。歩行にまで辿り着かない。四肢が思うように動かないことがもどかしく、かといって動かせばそれだけ息苦しくなった。
 訓練開始から起立に至るまでには数日も要した。
「そういえば……」
「……そういえば?」
 言葉を止めたダイにディトラウトが首をかしげる。彼は寝台の縁から立ち上がるダイに手を貸していた。伸べられた手に己の手を載せたまま、ダイは疑問を口にしていいものか逡巡する。
 ディトラウトが眉をひそめた。
「なんです?」
「……あなたがいないと、訓練の行程が先に進まないのは、どうしてなのかなって思っただけです」
 医師が良しとしても、ディトラウトが不在の場合、訓練は起床と脚の屈伸に終始する。不満ではない。疑問に思っただけだ。
「ラスティでは一緒に転倒しかねない」
「あぁ。そういうことですか」
 小柄なダイとラスティの体格はそう差違がない。女官では支えとして不安があるということなのだろう。
「……なら、マークさんは?」
 常駐している騎士なら補助として不足はあるまい。
 問いに深い意味はない。沈黙を埋めるために、思いつきを口にしただけだ。
 ディトラウトは呆れた目をダイに向ける。けれども一瞬のちには何かを思いついた顔で口角を上げていた。
 あくどい顔だった。
 ディトラウトが手を握りしめて、反射的に退くダイを引き留める。彼はラスティにマークを呼ぶように言った。隣室で控えていた騎士は、お呼びですか、と、顔を出した。
 胡桃色の髪を持つ実直そうな男だ。ディトラウトに招かれるまま、音もなく距離を詰めた彼は、深い碧の目で主人に指示を請う。
「彼女に手を貸してやれ」
 ディトラウトの斜め後方で、マークは了承の徴に頷いた。
 ディトラウトとマークが場所を交代する。
 筋骨確かな体躯が目の前に迫って、ダイは知らぬ間に身を引いていた。
 身体が急激に冷えていく。
「もういい」
 ディトラウトが騎士を差し止める。
「急に呼び出して悪かった。下がっていい」
「かしこまりました。……それから、隊長が迎えに来ていますが」
「急ぎか?」
「いいえ。しばらくは待つそうです」
「わかった。あと少ししたら出ると伝えろ」
 マークがディトラウトとダイに一礼して退室する。
 ダイは応じることすらできなかった。冷えた手を握り併せて震えていた。
 ディトラウトがラスティに飲み物の支度の指示を出す。彼女が素早く身を翻して退室する。
 ディトラウトはダイの前に跪いた。
 小刻みにわななくダイの手を、彼は両手でそっと取り上げる。
 ディアナ、と、彼は呼んだ。
 先ほどとは打って変わって神妙な顔だった。
「ディアナ」
 ディトラウトの手がダイの頬を滑る。その指がまなじりを撫でる。
 ダイは瞬いた。視界の白い滲みが増した。
 ディトラウトがダイの傍らに腰を下ろす。その腕がダイの身体を引き寄せる。
 頭に鼻先を埋めて彼は言った。
「すみませんでした。軽率だった」
「……あ……なた……は」
 上手く言葉が継げない。
 ダイは瞼を男の肩口に押しつけた。彼の背に腕を回してしがみつく。
 彼はダイの髪をやさしく梳いた。
「あなた、昔から、異性には身構えていたでしょう?」
「……知っていたんですね」
 露骨に避けるような真似はしていない。ダイの仕事は女に囲まれてすることが多いので、そもそも男に近づく機会すらあまりない。即座に退くことができるよう、身体を緊張させている程度だ。
 過去を顧みれば、ミズウィーリの時代から、この男とは接触が多かった。気づかれていて当然だった。
「性別を偽っていましたしね。それにその容姿で、お母上のこともある。あとで納得はしたんですが……」
「だから、マークさんでも、不用意に近づけなかった」
「いたずら心を出すものではありませんでした。……あんなことがあったんだ。考えが足らなかった」
 こわかったでしょう、と、男がささやく。
 肯定したい。
 けれども、できない。
 怖かった。
 目の前に迫った知らぬ男の体躯はもちろん。
 触れることのできる異性が、いま自分を抱く男しかいない。その事実が。
 男の下を離れては生きられないのだと、突きつけられているようで。
 ダイの髪にくちづけをひとつ落として、ディトラウトは抱いた身体を横たえた。寝台の縁に腰掛けたまま、ダイの前髪を撫で付ける。
 ラスティが戻ってくるまで、彼はずっとそうしていた。
 ダイはディトラウトから身体を背けた。
 枕に顔を埋める。
 身体を動かした直後はいつも勢い付いた血の巡りに目眩を覚える。上がった体温に喘ぎながら眠る。今日は嗚咽が加わった。胸の奥が引き攣って痛む。そのまま、眠りに落ちる。


 目覚めれば生きるために足掻かなければならない。
 生き延びたところでどうなるのか。
 ディトラウトの言う結末はまだ知らされない。
 いよいよ今年最後の月になっても、彼はダイの故国について黙秘した。
 ラスティを含めた周囲がダイの体力向上を熱心に支援する。その一方でダイ自身の心中はしんと冷えていくばかりだ。
 外の雪はひどく、陽が射してもいっときで、日中も常に闇に閉ざされている。それがあたかも今の自分を暗喩しているようで、気が狂いそうだった。
 ダイの手足を運動させんと試みるラスティの手を拒絶する。訓練に付き合うべく現れたディトラウトを罵る。主人を誹られて、さすがのマークも不快感を滲ませる。ディトラウトは決まって無言でダイを立ち上がらせた。歩けるようになれと、ダイに要求し続ける。
 彼とて暇ではあるまいに。
 実際、月が替わってから、ディトラウトの在室時間は明らかに減っていた。年始の準備が始まったに違いない。
 その日、ディトラウトは日中に姿を見せなかった。
 ダイはマークの見張りのもと、ラスティの補佐で体力向上の訓練を終えて、寝台にぐったりと横たわっていた。微熱による倦怠から、心身が指先まで重い。照明の落とされた部屋は薄暗く、暖炉の残り火が唯一の光源だった。
 とさ、と、灰の塊が残り火の上に落ちる。
 部屋が闇に没していく。
 そこに光が射した。
 蝶番の音が微かに鳴って、扉が開いた。
 足音を殺して入室する男の気配をダイは知っていた。
 彼は扉口で足を止めると、暖炉の脇で椅子に腰掛けていた女官を下がらせた。扉が静かに閉じられる。
 室内が暗くなりきってから、彼は寝台の下まで歩いてきた。手近な椅子に腰を下ろす。
 どうにも機敏さに欠けた動きだった。
 彼のらしくない所作を訝ってダイは尋ねた。
「仕事、終わったんですか?」
「あぁ……すみません。起こしましたか?」
「起きていました」
 そう、と、頷いたきり、彼は黙した。
 今日は多忙を極めていたのだろう。彼の顔は記憶にあるよりことさら白く見えた。目は窓の外へと向けられている。窓の桟に積もりゆく雪を眺めているようにも、遠くを透かし見ているようにも思えた。
 その手はダイの髪を無心に撫でている。
 彼があまりに長くそうしていて、ダイは堪えきれずに問いかけた。
「疲れているなら、寝たらどうですか?」
「そうですね……」
「ディトラウト」
 生返事はしても手は止めない男を呼ばわう。
 彼はダイを見て目を細めると、そのままのし掛かってきた。
 ダイの顔の真横にディトラウトのそれが落ちる。男の突然の行動にダイは目を剥いた。
「ちょっ、ちょっと……!」
「……ねむい」
「寝てください! 部屋に帰って!」
「面倒」
「子どもですか!」
 男は動かなかった。
 吐息を首筋に感じる。
 一日を終えた男の、強まった体臭が、ダイの肺を満たす。香木に似たかおりだと、ダイは思った。
 ダイの身体に負荷を与えないように、預ける体重は加減しているようだが、密着する身体から男の鼓動を感じた。その音は静かな部屋に鳴り響くようだった。
 昔、一度だけ、彼をこうして抱いた。
 遠雷の響く夜に。
 あのまま時が止まってくれたらよかったのだ。
 気が済んだのか、ディトラウトが緩慢に身体を上げた。すみません、と、呟いて、彼はダイから離れる。
 立ち上がったディトラウトは、ダイを不思議そうに振り返った。
「……ディアナ?」
「え? あぁ……」
 ディトラウトの視線の先を追って、ダイは彼の袖を掴む己の手を見た。
 無意識だった。
 袖から手を離すと、ダイは手を開閉した。己の手がきちんと、自分の意志に従うことを確認する。
 素っ気なくディトラウトが言う。
「用がないなら行きますが」
 少し、かちんとくる。
 自分から擦り寄っておいて何という言い草か。
 ダイは掛布と毛布を押し退けて、上半身をのろのろと起こした。胡乱な目をする男を、座ったまま見上げる。
「……いいですよ、べつに」
「は? なにが?」
「ここで寝ても」
 王城仕様の寝台はふたりで寝ても余りある。
 同衾してもよいと告げる程度には、ディトラウトの顔色はひどかった。
 男はダイの顔をしばし観察したのち、やがておもむろに手袋を脱ぎ始めた。
 帯を解き、上衣を脱ぐ。それらをまとめて、椅子の背に掛ける。
 ごとり、と、重いものが小卓に置かれた。
 短剣だった。
 護身用の剣だ。ダイも化粧鞄に収めて持っていた。元は彼のものだった剣を。
 それと同じ型の。
 短剣を取り上げる。
 萎えた腕にそれはずしりと重く、だが持てないほどではなかった。ダイの筋力向上に余念のなかったラスティに感謝した。
 革帯の金具を外すディトラウトはダイに背を向けている。
 何となくだ。
 短剣を枕の下に隠し入れた。
 身軽になったディトラウトが振り返る。支度が終わったらしい。
「奥へ行ってください」
 ダイの指示に彼は眉をひそめたものの、動くことが辛いと言えば、素直にダイの前を過ぎって奥へ行った。
 横になったディトラウトが軽く腕を広げる。ダイは男の腕に首を落とした。軽く抱き寄せられる。抱き返す。
 男が深く吐息する。
 寝息が聞こえ始めるまで、それほど掛からなかった。
 ディトラウトの心音を四半刻ほど数える。目は恐ろしく冴えていた。半刻、時間の経過を待って、ダイは起き上がった。仰向けに眠る男は動かず、その顔は子どものように安らかで、あどけなかった。
 いとしいな、と、思う。
 あまりに無防備な顔が。
 ダイは枕の下に手を入れた。短剣を膝の上に置く。鷲の紋の刻印された柄に指を這わせる。
 いつまでそうしていたかわからない。
 ディトラウトは眠っている。
 ダイは両手で握り直し、剣身を鞘から引き抜く。
 そして渾身の力で、剣を振りかぶった。


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