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第二章 悔いる傷病者 2 


 本当の苦しみは、目覚めてから始まった。
「う……」
 ダイは口元を手で覆って、たらいの上に顔を伏せた。喉を逆流してきたものが、手指の間からほとばしる。吐瀉物の臭いが鼻腔を刺激する。ダイは泣きたくなった。半刻も掛けて腹に収めた麺麭粥を、これですべて吐き出してしまった。
 ラスティがダイの背をさする。ひとの温もりに気が休まるもほんのつかの間。また食道が痙攣した。唾液がてのひらに落ちる。ぬるりとした感触が不快だ。拭いたいが、できない。腕を動かせないのだ。
 どこもかしこも、痛くて、だるい。身体中に力が入らない。
 ラスティが支えたダイの身体をゆっくり敷布に横たえる。ダイの手を拭い、上半身から前掛けを取り払って、たらいを台車へ片付ける。
「……ラス、ティ」
 呼吸の合間にダイは呼びかけた。女官が即座に振り返る。
「すみません……」
 彼女がダイの世話をほとんどひとりで担っている。
 ラスティは表情を緩めて頭を横に振った。
 枕に埋もれて天井を見上げ、ダイは呼吸音に耳を傾ける。浅く繰り返される息は一向に整わない。深く吸おうとすると、腹部が引き攣って咳き込む。そのせいか上手く寝付けない。ようよう浅い眠りに落ちかければ、身体の内部に猛烈な痒みを感じて覚醒する。
 内臓に炎症が起きているらしい。
 だからまともに物が食べられない。呑み込むにも時間が掛かる。ようやっと咀嚼し終えると、異物に反応した胃が跳ねて吐き気を覚える。筋力が落ちているので、支えがあってさえ身体を長く起こせないことも、食事を妨げる一端だった。
 過去を悔い、未来を憂う。
 それは贅沢な行為であると、ダイは初めて実感していた。
 肉体的な辛苦が思考を圧倒する。
 何も考えたくないし、考えられない。熱に浮腫んだ瞼は重い。空の胃が捩れて胃液以外の物まで吐き出そうとする。咳き込めば激痛が走る。だが寝返りも自由に打てない。骨折したらしい足は固定されていた。
 眠りのなかだけがいまのダイにとっての静穏だ。
 気絶するようにまどろんで、目覚めると男が立っている。
 ときには白々とした朝ぼらけのなか。あるいは、薄青の光が広がる昼下がり。気怠い紅の夕暮れどき。静謐で厳寒な闇に満ちた夜などに。
 一本立ちする木のように、男は暗い影を床に落とす。
 男は冴え冴えとした蒼の目でダイを見つめてばかりいる。
 その眼差しから、ありとあらゆる痛みから、逃れるために、ダイは繰り返し目を閉じる。
「……マリアージュ女王もいよいよ終わりか」
 その声はいやに明瞭にダイの耳へ飛び込んできた。
 ダイは瞼を上げた。昼に苦心して粥と薬を摂取してから眠れたようだ。夕刻だった。室内は朱色に染まっている。ラスティの姿はない。だれもいない。
 声量を抑えた声だけが、部屋に忍び入っている。
 かすかに開いた扉の向こうにふたり分の影が見えた。そのかたちから、騎士だとわかる。
「国境へもう一大隊動かす」
「それでサガン老が?」
「そうだ……」
 冷や水を浴びたかのように、思考が急にはっきりとした。
(何の……はなしを、していた?)
 ふたりはマリアージュが終わりだと言った。
 国境へ“もう”一大隊を動かすとも。つまりすでに兵は国境に展開済みということだ。
 思えばディトラウトは最初からデルリゲイリアを欲しがっていた。
(……侵略を、するの?)
 だから自分をこちらに置いたのか。
 デルリゲイリアに送り返すことをせずに。
 ダイは肘を突いて上半身を起こそうと試みた。隣室の騎士たちに手を伸ばす。けれども呼びかけることすら叶わず、ダイはその場に崩れ伏した。潤(ほと)びた息で枕を湿らせ、固く歯がみする。
 確かめる必要があった。
 ディトラウトが真実すべてを語るとは思えなかったけれども。


 一日は主君に内政業務を報告して締めくくられる。
 その終わりにディトラウトは執務室から人を払った。文官たちを帰らせ、扉の錠を下ろして、防音の魔術を起動させる。盗聴の心配がない段になってようやく、ディトラウトはセレネスティにデルリゲイリアの話を切り出した。
「予想通り、新年を境に女王を交代させる模様です。新女王はカースン家の女王候補、リリス・カースン」
「うん? カースンの女王候補って、そんな名前だった?」
 セレネスティが頬杖から顎を外す。ディトラウトは否定を返した。
「いいえ。私がいたころはメリアでした。リリスは妹の方の名です。私とは面識がありません」
「姉と交代したのか?」
「の、ようですね。時期は特定できませんでしたが、最近でしょう」
「急に候補になった女が女王になる? ほかがよく黙ったままでいるな。あとふたりいたはずだよね?」
「ほかの二家はカースン家の女王候補の登録が変わっていることを知らないようですよ」
「……何だって?」
「どうやら単に女王が交代するだけではすまないようです。……レジナルドがいます」
 ディトラウトが告げた名前に、セレネスティは顔色を変えた。
「レジナルド・チェンバレンだって?」
 中部の領地マーレンを任されていた家がチェンバレンだ。由緒ある古き家柄で、反セレネスティ派の急先鋒でもあった。セレネスティの周囲を嗅ぎ回って、隣国にいたディトラウトの元まで手を伸ばした。
 ディトラウトたちは昨年にかの家を急襲し、家長エドモント、以下、一族を根こそぎ処分した。
 それから唯一、逃れおおせた男が、エドモントの長子、レジナルドである。
 レジナルドこそがチェンバレン家を動かしていた。最も処分したかった彼を逃したことは痛手だった。ディトラウトがレジナルドを改めて発見したとき、彼は小スカナジアの聖女教会本部で身分を得て、おいそれと手を出せる無法者ではなくなっていた。
 聖女教会とセレネスティは反りが合わない。レジナルドの引き渡しを要求しても、教会側の返事は梨のつぶてだった。
「いつ移動したんだ?」
「今年の社交季には方々で姿を見せていたと」
「……小スカナジアで顔を見た気がしていたけど?」
「大陸会議の期間中は、あちらに戻っていたようです」
 本会議の傍聴権を持つ団体の中に、レジナルドの名が連なっていた。姓は親戚筋のものを用いているようだ。
「今はまたデルリゲイリアにいます」
「女王交代の糸を引いていたのはあいつか。うっとうしいね……」
 教会がデルリゲイリアの女王交代を影から推進した理由がこれでわかった。
 レジナルドはデルリゲイリアをかつての魔の公国の地位に据えるつもりだ。
 聖女の血と祝福を有する唯一絶対の覇者。
 西の獣の手綱を執る国に、デルリゲイリアを仕立て上げる。
 ――何も、取り戻せはしないのに。
 この世から神の恩寵はすでに去っているのだ。それを実感する番が来ているだけだということを、大勢が理解しない。あのレジナルドはその筆頭だ。
「妨害しますか?」
「マリアージュをまた女王にするつもりか?」
 セレネスティは皮肉げに嗤った。
 奇しくもマリアージュはセレネスティの治政を邪魔しない女王となりつつあった。ディトラウトの薫陶を受けたからか。合理性を重んじた考え方をする。柔軟性もある。なにせ、娼婦の顔師に国章を与えて傍に置き続けたのだ。
 ディトラウトの彼女への評価が、セレネスティを苛立たせている。それをディトラウトは承知している。
 決して自分たちには膝を折らなかったというのに、簡単に玉座を教会の手の者などに渡してくれるな。
 どうせなら最後まで無害であればよかったものを。
 セレネスティはそう思っているのだ。
 セレネスティが声を低めて追及する。
「どう、妨害するつもりだ? 宰相」
「……暗殺でもしますか?」
「レジナルドを? 女王候補を?」
「両方を」
 セレネスティが深く息を吐いた。
「それは簡単にはできないよね。手駒は伏せておいて。……次の女王がどんな女か探らせろ。ことの次第では、提案も視野に入れる」
「御意に」
「それから……」
 そのとき、空気が変わった。
 セレネスティの肌が土気色に変じる。
 口をとっさに覆った主君は、肩ごと大きく咳き込んだ。
「こふっ……」
「セレネスティ」
 ディトラウトが駆け寄るより早く、傍に控えていた梟が主君を支える。ディトラウトは水差しから水を汲んだ。椀を差し出してもセレネスティはそれをとらない。かなり長く空咳を続けた。
 血の気の失せた面を天井に向けて、セレネスティが言う。
「レイナ・ルグロワの提案に乗る。クラン・ハイヴとの件を進めよう。デルリゲイリアがあぁだしね」
「はい」
 ディトラウトは首肯した。主君の決めたことに否はなかった。レイナとの同盟は少なくともセレネスティに時間を与えるし、レジナルドに対抗するための布石ともなる。
「最後に――兄上」
 わざわざ呼称を変える。
 そこにディトラウトはセレネスティの迷いを見た。
 女王はしばらく何も言わなかった。
 長い長い逡巡を経て、セレネスティが問う。
「……あのおんなを」
 ディアナ・セトラを。
「どうするつもりだ?」
 セレネスティの問いにディトラウトは一礼のみを返した。
(それは――わたしの方が、知りたい)
 はきと答えなかった理由は、ディトラウト自身もまた、決めかねているからだ。連れ帰ったことに後悔はない。かといってあの娘とこうありたいという未来もなかった。
 衝動に突き動かされて、彼女を手放せなかった。
 それだけだ。
 その衝動は、いまも続いている。
 ディトラウトは外で待たせていた近衛と合流し、女王の執務室を離れた。ペルフィリア王城は正門に面した執務棟の裏手に住居区画がある。いくつかの離れや塔が渡り廊下で連結されている。そのうちひとつがディトラウトのものだ。ディアナは城外の屋敷ではなく、その塔の一室で療養させている。
 ディアナの容態は良くなかった。
 身体の熱と痛みを訴え続けている。口に入れたものは吐き、寝付きはよくなく眠れても浅い。複数の薬を服用するし、身体の治癒に内在魔力が活発化して安定しないからだ。薬への慣れを防ぐため、睡眠薬の投与は控えさせていると聞く。
 昏睡したままだったころより、うんと苦しげに顔をゆがめて、寝台に四肢を投げ出す彼女は、ディトラウトによく懇願した。
『――……ころして』
 血の泉に沈んだ父や母や妹たち。
 ディアナの虚ろな眼差しは、いまも生々しい記憶を、ディトラウトの脳裏によみがえらせる。
 先に就寝の支度を済ませてから、ディトラウトは私室へと赴いた。
 ディアナは食事どきでもないのに、珍しく身体を起こしていた。
 彼女が気怠げにディトラウトを向く。
「ディトラウト……」
 ディトラウトは近衛を隣室へと退けた。寝台の傍らに椅子を引き寄せて腰掛ける。
 ディアナの身体は綿詰めで支えられている。自力ではないとはいえ、背を床から上げているだけでも進歩だ。
 一進一退、という言葉を、ディトラウトは思い出した。
 ディアナの目に厭わしさはなかった。雰囲気から歓迎されている風にもとれて、ディトラウトは戸惑いながら問いかける。
「……気分はどうですか?」
「風に当ててもらったら……少し、楽になりました」
「風? あぁ、確かに、この部屋はもう少し換気をしたほうがいいかもしれませんね」
 転落防止と室温の維持に、窓は常に閉め切っている。独特の臭気がどうしても籠もりやすい。
 ディトラウトはディアナの頬に触れた。熱はある様子だが高くはない。呼吸は浅くて早いが、朝と比較すればずいぶんと落ち着いている。
 娘にディトラウトを拒む意は見られない。彼女は目を閉じてディトラウトの手に頬を委ねている。
 そのぬくみに、口元が緩んだ。
「お仕事は、終わりですか?」
「えぇ」
 ディアナが穏やかな声で問い、ディトラウトは肯定を返した。
 横になったところでさして眠れるわけではない。だが身体を休めるようにはしていた。
 悠長に倒れてはいられないからだ。タルターザの処理に区切りは付けたが、民衆の蜂起を先導した傭兵たちの進入経路を急いで特定せねばならないし、その件の余波を受けてクラン・ハイヴとは相も変わらず緊張状態にある。デルリゲイリアも緊迫していて目が離せない。
 セレネスティの、身体のこともある。
 最後に、ディアナ。
 彼女の生死はディトラウトが握っている。
 だから。
「ディトラウト」
 ディアナが月色の目にディトラウトを映す。
 久しく見なかった、彼女の射るような眼差しに、ディトラウトは反射的に手を引いた。
「……マリアージュさまのところに、返して」
「だめだ」
「どうして?」
 セレネスティとの会話が頭を過ぎって返答が遅れた。
 ディアナが顔をゆがめる。
「デルリゲイリアに、兵を送るんですか?」
「……なぜ、それを?」
 正確には国境に兵を展開している。
 デルリゲイリア王都とペルフィリア国境は近い。隣国で起きた混乱はペルフィリアにまで即座に波及するだろう。それを防ぐためである。
 だがそういった内情も含めてディアナには知らせていない。ラスティは子細を知らないし、そもそも口をきけない。警備に就けているマークも箝口令を破る男ではない。
 ディトラウトは語調を強めた。
「ディアナ、だれから聞いた?」
「……わかりません」
 隣室の会話を漏れ聞いた。
 ディアナの回答に頭痛を覚える。身内に迂闊な人間がいたようだ。
「……侵略するの?」
「場合によっては」
「ディトラウト……」
「マリアージュの下へ返せと、あなたは言うが」
 ディトラウトはディアナの手首を取り上げた。細った生白い腕が顕わになる。
 腕だけではない。首も肩も痩せて痛々しい。逆に骨折した足の腫れは引き切っていない。寝台から離れられるまで回復したあとは歩行訓練を要するはずだ。
「このような状態で、国許へ帰れるとでも?」
「癒えれば返すと?」
「戻ったところでマリアージュが生きているとは思えませんがね」
 マリアージュは王城で禁固の憂き目に遭っているようだ。ミズウィーリ家の使用人たちは館に軟禁。ほかの貴族たちの動きから見ても、そう長く生かされるとは思えない。
 ディトラウトは娘の腕を敷布の上に置いた。
「余計なことを考える体力があるなら眠りなさい」
 落ち着いているのなら、すぐに寝付けるだろう。
 ディトラウトは席を立った。


 その日は、回復の兆しの日だったのだろう。
 以来、ディアナの苦しみ悶える時間は少しずつ減った。睡眠の質も一律に整い始めた。起き上がれる時間は徐々に延びて、休憩を挟まずに食事しきったと報告を受ける日もある。
 だがそのまま快癒するというわけでもなかった。
 朝食を嘔吐したことに始まって、熱がなかなか引かずに伏せる日もある。そんな日にディトラウトが立ち寄ると、ディアナは標本のように寝台に縫い止められ、整わない息に溺れていた。
 傍目から見ればよくなっている。けれど傷病者自身がそう思えるかは別だ。
 早朝や夜半。彼女の傍らに立つ。涙の膜の張った目が縋るように自分を見る。寝台に力なく落ちた手に指を伸ばすと、爪を立てられた。手袋の布が、きしりと鳴る。辛いのだろう、と、思う。死の縁から生還して健常となるまでの苦しみは、ディトラウト自身にも覚えがある。
 生きてからも、地獄であると知っていれば、なおのこと。己の犯した数々の失態が心身を苛み、気力が根こそぎ削がれていくのだ。そういった諸々を味あわせ生き延びさせて、その果てに。
 いま一度、セレネスティの問いを、反芻する。
『――どうするつもりだ?』
(……ヒース)
 殺した男の名を呼ぶ。
(お前なら、どうするだろう)
 夜色なはずの窓をほの明るく感じ、ディトラウトは緩慢に面を上げた。
 雪がちらついていた。


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