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第二章 悔いる傷病者 4 


 他者を殺すことに比べて自害は難易度が跳ね上がる。無意識に身構える上に痛みが歯止めを掛けるからだ。確実に自らを殺すためには、ためらいを無意味にする圧倒的な力が必要だ――たとえば多量の油を用いた業火や、高低差を利用した落下の衝撃、他人による殺意といったものが。
 けれどもこの部屋の窓にはすべて、出入りの防止柵が設けられていた。油といった火種も女官が厳重に管理していた。
 何よりもディトラウトが、ダイの死を許さなかった。彼は自らが不在の間、女官と騎士をダイにぴたりと張り付かせている。ダイがいま自らの胸を剣で突いても、呻きを聞きつけて起き上がり、たちまち蘇生の手を回してしまうだろう。それで万が一にも生き残っては半月前の状態に逆戻りだ。
 でも、もし、この剣でディトラウトの胸を貫いたならば、その咎でダイは騎士によって斬り捨てられる。たとえ拘束されるに留まったとしても、ディトラウトを害したダイを、彼の主君で妹たるセレネスティは放置しまい。
 おわらせたい。
 ぜんぶ。
 その為には無防備に眠る男を殺さなければならない。
(傷つけるだけじゃ、だめ、だろうか?)
 この男は浅手を負っただけなら、意地でもダイを生かそうとする。それでは意味がない。腹部を本気で貫く気概が必要だろう。
 かといって急所をうまく外す真似は不可能だ。
(このひとが、死んだら)
 ペルフィリアは混乱に陥る。隣国に兵を差し向けている場合ではなくなるはずだ。マリアージュにとっての一助となるやもしれない。
(このひとが)
 いなくなればきっと、何もかもが終わる。
 ほかでもないこの男が、ダイに始まりをもたらしたのだから。
 実際の思考はほんのいっときだ。けれど無限にも等しく思えた。
 振り上げたままの短剣を握り直す。脱力に任せれば、短剣はその重さで男に深手を、ともすれば致命傷を、与えてくれる。
 なのに、手も、腕も、動かなかった。両方とうに痺れていたが、何者かに差し止められているかのように、ダイは短剣を振り上げたかたちで硬直していた。
 ディトラウトがふっと目を見開く。
 ダイは唾を嚥下した。男はいましがた覚醒した風ではなかった。その蒼の目はしかとダイを射ていた。
「あなたの考えは正しい」
 ディトラウトは言った。
「死にたいのなら、私を殺しておくべきだ。もしもあなたが自らにその剣を向けようとしていたなら、私は早くに取り上げていたでしょうからね」
「……眠って、なかったんですか?」
「生憎と眠ったふりは得意なんですよ。眠らないと寝所から出ようとしない護衛がいるのでね。……さて、手も痺れたころでしょう?」
 ディトラウトはにわかに伸び上がると、ダイの両手ごと短剣の柄を握った。強引に引き寄せた剣先を自らの喉元に向けさせる。
「殺すなら、ここです。……ここを突けば失血死する。体重を乗せて、突けばいい」
 ディトラウトの手はダイに逃げを許さなかった。
「この手に力を込めなさい。本当に死にたいのだと、あなたが行動で示すなら、私が自らあなたに終わりをあげましょう。……首を突かれても、私が気を失うまでには時間がある。弱っているあなたなら、私でも確実に殺せる」
「あ……あ」
 ディトラウトにしかと掴まれ、震えることすらできない手を、ダイは呻きながら見下ろした。
「ディアナ」
 ディトラウトが厳かに呼ぶ。
「簡単に死ねると思うな。私たちが背負ったものは、そうそう投げ捨てられるものではないのだと、あなたも知っているはずだ。国章を負うということが何を意味するのか。私たちは王に等しく他者の人生をも背負っているのだと。……それを、あなたも思い知ったはずだ」
 それを知るところまでダイは来た。
 もっと早くにこの道を下りることもできた。ダイはそうしなかったのだ。
 ペルフィリア宰相が鋭く告げる。
「真に死を望むのならば、私の命で贖(あがな)え。あなたが踏み越えた、まぼろばの地で待つ者への赦しを」
「わ、たしは……」
「……できないでしょう?」
 ディトラウトは手を緩めた。
 それでもダイは短剣を握り直す気にはなれなかった。その刃は力なくダイの膝の間に落ちた。
「本当に死にたい人間は何も考えずに自らを突く。あなたはそうしなかった。あなたは生きたがっている」
 ちがう、と、言いたかった。
 臆病なだけだ。弱かっただけだ。
 自分で死ぬことが怖くて、浅ましくも、他に助けを求めただけだ。
 ダイはディトラウトを見た。彼は寝台に横たわったままだった。いまダイが覚悟を決めるなら、共に死地へ墜ちてもかまわないとでもいうように。
「……国章を負う重さを知っているのに、あなたは、わたしに殺されてもいいって、そう思っていたんですか?」
「えぇ」
「どうして……」
 問いのかたちすらとれない呟きが零れた。
 ディトラウトは選択を違えない男だ。
 ダイではなくて、きちんと、女王を、彼の主君を選び取れる男だ。
 それなのになぜ。
 ディトラウトが瞼を微かに伏せる。
 睫に翳る蒼に苦悶らしき色を過ぎらせて彼は言った。
「わたしが、あなたをこの道に引き入れた」
 ダイを花街から見出しただけではない。ディトラウトが支えから外れたことで、余計にダイはマリアージュを見放せなくなった。
「だから、本当に、真実、あなたが、苦しみから解放されることを望むのなら……叶えてもいいと思った」
「……殺されるかもしれなかったのに?」
「そうです……」
 ダイをひたりと見据えて男は言った。
「何でもひとつ、と、言ったでしょう?」
「……なんでも、ひとつ?」
 何を言っているのか。
 ダイは問いかけた口を噤んだ。
 脳裏に懐かしい記憶がひらめく。
『これは、貸し、ひとつですからね』
『貸し?』
『そう。なんでもひとつ、私の言うこと聞いてくださいね、ヒース。そしたら、許してあげます』
『わかりました』
 貸し、ひとつですね。
 ――覚えておくと、確かに彼は言った。
 女王がデルリゲイリアで誕生した夜。雷雨のさなか、ふたりの道が分かたれる直前のことだ。
 あぁ、と、熱いものが目下にこみ上げる。
 何でもひとつ。わたしの言うこと。わたしの望むこと。それを叶えると。
 どうしてこの男はここで言うのだろう。
 そんな約束、忘れていてほしかった。
 忘れる男でいてほしかった。
 頬から伝い零れたしずくが膝の上で作った拳に落ちる。嗚咽に喉の奥が詰まる。胸が塞がれて息が継げない。
 男が身体を起こして、そんな自分を抱き寄せる。
 ディトラウトはダイの手元から抜き取った短剣を遠くへ投げた。壁にでも当たったか。がつ、と、鈍い音がする。
「ディアナ」
 ディトラウトがやわらかくダイを呼んだ。
「大丈夫です。いまは辛いだけでしょう。とても弱っているからだ。休んで、食事して、心身が回復すれば、あなたを支える者たちのことを想えるようになる。未来を思えるようになる。楽しみ。よろこび。そういったこともきちんと拾い上げられる。あなたはそれができるひとだ」
 彼は片手にダイを抱く一方で髪を梳いていた。その手つきはとてもやさしかった。その指先が男の胸に縋るダイの手を取る。よかった、と、彼は言った。
「この手は人の血で汚すべきではない。ひとを美しくするためのものだ」
「……私の手は、汚れていますよ」
 ユマの血に。
 彼女だけではない。タルターザではアルヴィナの守りがダイの命を救うべく多くを殺した。
 それだけの価値がダイにあったのか。問答しかけたダイは、違う、と思った。
 見合うだけの振る舞いをしなければならなかった。ダイが自らを危険に晒せば、他者の命も同等に、それ以上に、危機に陥るものだと早くに理解せねばならなかった。
 いまなら王城の皆がダイを遠ざけたがった理由がわかる。彼らも自身を危うい立場へ追い込む人間に仕えたくはなかっただろう。
「よごれて、いるんですよ、もう……」
 ダイの呟きに男が眉をひそめる。
 そして違うとでも言いたげに、ダイの指にくちびるで触れた。
 艶めいた色はない。繰り返される口づけに、ダイは擽ったさを覚えて、思わずちいさく笑った。
「なんだか……きれいにしてもらってるみたいですね」
 ディトラウトがはっとした表情でダイを見る。
 ダイは首をかしげた。
「……なにか?」
「あぁ、いえ。……あなたの化粧をね、初めて見たときのことを思い出して……」
「私の、化粧?」
「えぇ。……花街でね」
 客に殴られた芸妓に化粧し、目下の痣をわからなくした。男の説明に、そんなこともあったな、と、懐かしく思う。
「あなたを雇おうとしていても、私はあなたの仕事に、さして興味はなかったんですよ。でもあのとき、あなたが化粧をして、男の欲に汚され、痛めつけられた芸妓が、あとからまるで聖女のように見えた」
 そのことに、あたかも自分が清められたかのような。
 おのれの穢れのいっさいが祓われたかのような。
 汚泥から救いだされたかのような。
 深い感銘を覚えたのだと、彼は言った。
「それからだ。どうしても、あなたが欲しくなった」
 男は確かに花街で真摯にダイを誘った。
 だからあの揺りかごから巣立つ決意をしたのだ。
 この男はいつだってダイが欲するものをくれた。
 ダイの仕事に敬意を払ってくれた。
 自分をこの上なく愛する男が楔を打つ。
「生きてください、ディアナ。何があろうとも」
 ――これで、もう。
 わたしは死ねない。


 天は世の楽を極めし緑の園。地は苦難にて魔を縛する獄の如し。
 その喩えは正しい。
 娘の往く道が茨の道だと知る身の上で、それでも生きろと強いることは、自分の独善に他ならない。
 どさ、と、雪の落ちる音がする。
 眠るディアナを撫でる手を止め、ディトラウトは窓の外を眺めた。積雪の消えた窓の中で濃い闇がわだかまっている。その暗黒に呑まれて氷雪は見えない。けれども風の音は変わらず響いている。

 まだ、吹雪いているようだ。

『エイレーネめ!』
 怒号と共にヘルムートの拳が机の天板を叩く。飄々とした態度と文人的な物腰からは想像もできない豪腕の立てた音は、その場の一同を縮み上がらせた。一方で納得もさせる。やはり彼は多くの軍人を輩出してきたサガン家の長なのだと。
 会議室が静まり返る。再び風の咆哮が反響する。かたかたと震える窓の玻璃。その向こうでどれほどの無辜の民が凍え死に絶えているのか。想像に難くない。
『どんな気分だろうね……。どうかと縋った手を振り払い、血の海で溺れる民人を、平和な国で引き籠もりながら高見する女王様のお気持ちは』
 主君が甲高い声でデルリゲイリアの女王を罵る。ドッペルガムに倣って密かに隣国入りし、かの国の女王に請うた救いを唾棄する勢いで断られてからというもの、隣国への悪感情は日に日に高まっていくばかりだった。
 がん、と、重い打撃音が室内に響く。
 見ればいつの間にか主君が鉄の火かき棒を手に、暖炉上で微笑む聖女の浮き彫りを打擲していた。あまりに突然なことだった。恐れ多くもあった。聖女は主神と共に常に自分たちを見守る慈母だった。冠婚葬祭。安息日。そして日々の食卓。仕事の前。折々に捧げられる祈りの対象。それを破壊せんとする主君の行いに、だれもが畏怖して足を竦ませていた。
 がん、がん、がん。幾度も繰り返し、肖像を鉄の棒で打ち据え、削れ割れた石が足許に落ちたとき、主君がようやっと笑顔で振り向く。
『いいよ、なら、あの女たちに見せてやろう?』
 この国がどのように突き進むのかを。
 頬を暖炉の熱の色に染めた女王の笑みは壮絶なものだった。

 燃え盛る火が大きく跳ねた。

『リヴォート様!』
 悲鳴じみたレオニダスの声に忘我から立ち返る。彼は力なく横たわる男に縋ってる。その小手に包まれた手は男の血に染め抜かれて深紅だった。若い騎士は己の力不足に泣いていた。
 男を診ていた医師が悲壮な顔でゆるりと首を振る。それだけでもう、なす術は何もないのだとわからされた。
 男を取り巻く者たちの声はどれも掠れていた。少しでも男を引き留めようと必至だった。彼は必要とされていた。無くてはならない存在だった。
 それなのに彼の腹からは命が溢れ零れていく。
 ごほ、と、血を男が吐く。喘鳴の混じる声で、彼はひとつの名を呼んだ。
『ディータ……』
 それは男をこのような状態へ追いやった男の名だ。彼ただひとりの弟子。ペルフィリア宰相の任を拝命した男の呼び名だった。
 呆然と立ちすくむ自分に男の手が伸びる。人の輪が割れ、その中に引き込まれる。男の傍らに膝を突く。男の赤黒い指先が、自分の手を握りしめる。
『……自分が無事であることを、まず喜ぶんだ』
 励ますように男は言った。
『きみは、女王になくてはならないんだから。君の代わりは、いないんだ』
 あなたの代わりだっていない。
 どこにもいない。
 叫びたいのに声が出ない。喉はからからに渇いていた。
『ディータ』
 整わない呼吸の合間を縫って男が声を絞り出す。
『女王を、支えなさい。どんなに辛くても、生きて……生き抜くんだ。それで……』
 その言葉の続きはなかった。
 永遠に失われた。
 男の開ききった瞳孔を輪の中のだれかが閉じた。
 その顔が安らかだったかは覚えていない。
 立ち上がって輪から離れた。滲んだ視界のせいで足許が覚束ない。よろけて追突した壁に寄りかかって天を仰ぐ。
 声にならない悲鳴を上げた。


「ディータ!」
 自分を呼ばわう声に覚醒して、ディトラウトは目を見開いた。目の前に驚いた顔のディアナがいる。腫れた瞼を瞬かせているところをみると、彼女もいましがた目覚めたらしい。
 ふたりで二刻ほど眠っていたようだ。まもなく薄明だった。
 ディトラウトは上掛けごと上半身を跳ね起こした。ゼノが扉口で蹈鞴を踏んでいた。基本的に彼は呼ばれるまでこの部屋に入室しない。彼の行動は緊急の用件であることを示していた。
 ディアナの脚を跨ぎ、寝台から下りながら、ディトラウトは問う。
「どこだ?」
 物事の現場さえわかれば、用件の判別はある程度つく。
 ゼノは答えなかった。彼の微かに動いた視線の先は寝台の上の娘だ。
 見られた当人もまたゼノの無言の回答を理解したらしい。ディアナはディトラウトの衣服の裾を強く引いた。
「デルリゲイリアになにを……?」
「に?」
 ゼノが訝しげに呟き、ディアナが軽く瞠目する。
 ディトラウトはゼノを睨めつけながら命じた。
「ゼノ、その短剣を拾っておいてください」
「短剣……? えっ、なんでこんなとこに落ちているんだ?」
「スキピオ、ラスティは?」
「来ておりますよ」
 マークと交代で番をしていた騎士に女官を呼び入れるように指示を出す。
 ディアナの手を上衣から外し、ディトラウトは彼女に告げた。
「待ちなさい。あとで話す」
「……本当ですね?」
「あなたが自棄にならず療養に努めていればね」
 ディアナは下唇を突き出し、ディトラウトを睨みながら、待つと短く言った。
 ラスティと入れ替わりに退室する。スキピオが居室を閉め切って施錠し、《防音》の魔術を起動させる。ディトラウトは手早く身支度を調えながら、ゼノから報告の続きを聞いた。
「マリアージュが消えたらしいぞ」
「消えた?」
「監禁場所から」
「王都は騒ぎになっている?」
「そこまでとは違うようだが、時間の問題だな。隠蔽しきれていない。城下は物々しくなっているみたいだ。詳しくは陛下のところで。サガン老も昨晩戻ってきた」
「この雪のなかご苦労ですね……」
 ゼノから渡された短剣を鞘に収める。
 とりあえず出仕に足る身なりにはなり、ディトラウトはゼノと共に廊下へと出た。
 執務室に向かって急ぎ歩く。人気のない朝ぼらけの廊下は雪に音を吸われていることもあっていっそう静かだった。窓の外は明るかった。風は止んだらしく、小雪がちらつくに留まっているようだ。
 ディータ、と、ゼノが躊躇いがちに囁く。
「何です?」
「おまえ……眠れたか?」
「……えぇ」
 ディトラウトは肯定した。
 二刻も眠れることは珍しい。ゼノが踏み込んでこなければ、起床はもう少し遅かったかもしれない。
 ゼノは息を吐いて呟いた。
「そうか……」
 執務室に到着すると番をする騎士が扉を開ける。
 すでに席に着く主君が気怠げに面を上げて呻く。
「遅いぞ、宰相」
 部屋には女王とその影、そしてヘルムートの三人が、すでに揃って待っていた。


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