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第九章 泡沫の恋人 2


 ペルフィリア王城を出てすぐに移動した隣町で、馬一頭と荷を手に入れ、服や靴はすべて換えた。ヒースは予めに抜かりなく手配していたらしい。問題らしいことは何もなかった。
 馬車で一刻もあれば到着するその町は、ひとと荷の集積場のような役割を果たしているらしく、王都で商談を済ませた商人たちの先触れが馬を借りて飛び出すことはよくあるらしい。彼らに混じって昼前には町を出た。海沿いの街道を辿って西へ向かう。
 街道は町から扇状に幾本も延びており、脇道も含めると封鎖には時間も人員もかかる。追っ手があったとしてもそう多くはないだろうから、道なりに行くほうが安全で早いという。
 馬と旅人を休ませる駅舎を幾つか通過して、ときに街道から外れ、また戻る。その繰り返しだ。
 一日目の夜は町で宿を求めた。ディアナの頭ほどと高さは低いが堅牢な外壁と門を持つ、それなりの規模だ。馬を門番の厩で預かってもらい、食堂の二階を一部屋借りたところで、手足を洗うこともそこそこに、ふたりで寝台に転がる。
 さすがに疲れ果てていて、抱き合ったまますぐに寝入ってしまった。
 二日目は早朝に起き出し、足りない物資を補給して出立した。追跡の気配もなく、旅程は怖いほど順調だった。


 鏡に映る自分の姿を眺める。
 淡い茶色の胴着。踝までふわりと広がる下も同じ色。薄紫色をした毛織りの肩掛けには濃紺の糸で刺繍が施されている。国色の布は高価なので、青系統の糸で刺繍をした小物を身につけることが庶民流らしい。
 黒髪をまとめた色鮮やかな編み紐は、馬車で相席となった行商から譲られたものだ。せっかくなので使ってみたが、慣れないせいか違和感がある。
「まぁ、こういう格好自体、初めてですけど。……ううーん……」
 唸っていても仕方がない。ディアナは農村で借り受けた小屋を出た。
 真隣は厩舎だ。暁の斜光射し込む馬房の傍には人影がある。一足先に小屋を出たヒースだ。ダイは早足で彼に歩み寄りながら声をかけた。
「お待たせしました」
「いいえ。紐、どうにかなりましたか?」
「なんとか。人のは何度も手伝ったことあるんですけど、自分で着るとちょっと感覚違いますね……。すみません。時間が掛かってしまって」
 街道筋からやや外れたこの農村には、昨晩ーー二日目の夜に到着した。追跡等の問題はなかったが、天候に背かれた。道中、唐突な雨に降られてずぶ濡れとなってしまったのだ。
 いま着ている衣服は上手く辿り着けた村で、携帯していた種もみの塊と交換したものである。よく手入れされた温かい服だ。冬は終わっても集落を出れば冷えるから、着衣や小屋を調達できてほっとした。
 ヒースは井戸で水を汲んでいるところだったらしい。水を移し終わった釣瓶を井戸の中に落としてディアナに向き直る。
 彼に視線で促されて、ディアナはその場でくるりと回転した。
 観察の目が上から下までざっとひと舐めひと往復。
 端正な顔が、ふにゃりと笑み崩れる。
「かわいいですよ」
 かあっと。
 一気に逆上せた。
「……あっの、そうじゃな、くてっ!」
「……他に何が?」
「その、着方に、おかしなところがないか、とか、そういうのじゃないですか?」
「おかしなところ? ありませんよ。かわいいです」
「二度言った……!」
 ヒースが笑って自分を引き寄せ、額に口づける。からかわれているような気がしなくもない。
 じとりと睨めつけたディアナの肩を叩いて、ヒースが飼料の入った木桶を示す。
「さて、こちらを運んでくれますか? わたしは水を持ちますので」
「いいですよ。馬のところまで運べばよいですか?」
 それとも旅に持参すべく固めるのか。
 ディアナは首をかしげた。
 任された木桶に大した重みはないし、仕事を振ってくれてうれしい。しかし馬のところへなら、ひとりでさっさと運んでいそうなところがヒースにはあるのだ。
 水の桶を手に提げたヒースが空いた手をディアナに差し出す。その上にディアナは空いた手を反射的に載せた。
 その瞬間に悟る。
(あ、手を)
 繋ごうとしたのか。
「行きましょう」
 ヒースがディアナの手を引いて歩き出す。
 距離としては僅かだ。だからこそ幸せだった。ディアナは彼の手がとても好きだった。自分を常に導き、護ってきた手だ。
「ヒース」
「うん?」
 視線だけを動かしてヒースが自分の呼びかけに応じる。
 仰ぎ見た彼の蜜色の髪は、朝焼けの光を受けて燦めいていた。蒼の双眸には息苦しいような愛おしさがあり、きっとそれはその瞳に映る自分も同じだろうと思った。
 ヒースもまた服を簡素に改めていたし、髪は手ぐしを通しただけなので、所々が跳ねていたりなどする。なのに、陳腐な言葉かもしれないが、とても格好いいと思うのだ。
 彼がどれほどぼろぼろでも、きっと心惹かれるだろう。
「どうしました?」
 ヒースの追求にディアナは首を横に振り、頬を彼の腕に擦り付けた。


「結婚?」
「そうさ。村長んとこのリアちゃんが、トム坊とやっとこさ結ばれるんで、今日は祝いなんだよ」
 竈の火を貰いに小屋の所有主の元を訪れると、そこの主人が朗らかに言った。
「祝いの前夜の旅人は、聖女さまの御使いだろう? 来てくれてありがとう。きっとあの子ら幸せになるねぇ」
 これが快く小屋を貸してもらえた理由だったようだ。
 ディアナはヒースと顔を見合わせた。彼もまた、そのようなことがあるんですね、と、でも言いたげな顔をしている。
 ペルフィリアの風習か、デルリゲイリアの農村にもあるのか。少なくとも都市部にはない風習だろう。
「村長からの託けだがね。ぜひ昼の祝いで新しい夫婦を祝福しておくれよ」
 麺麭と葡萄酒、それに牛が一頭、振る舞われるからさ。
 そう言って、小屋の主人はにこにこと笑った。断られるとは微塵も思っていない顔である。
 元々の予定は朝食を済ませてすぐに村を発つ予定だった。
 ディアナは傍らのヒースを一瞥した。旅程を決定しているのは彼である。
(お祝いかぁ)
 せめて祝辞を述べるぐらいはしたい。一宿、世話になったし、自己の都合を優先させて、人の慶事を蔑ろにしたくはない。
 ヒースが主人に頷いた。
「わかりました」
「いいんですか?」
 ディアナは思わずヒースに尋ねた。
「えぇ。昼餉なら、あと一刻かそのあたりでしょう?それに……」
 彼はディアナの耳に口を寄せて囁いた。
「追っ手はありません」
「え?」
「駅舎の様子を見ていましたが、検問も何もなかった。皆、平時の動きをしている」
「あぁ……。でも、よくわかりますね」
「だれがあれらを整備しなおしたと?」
「あっ、そうでした……」
 王城の息がかかったあらゆる施設は、内乱の折に潰された。その復旧を指導したのはいわずもがな。ペルフィリア宰相である。
「どんなときであれ、祝いの一言ぐらいは述べるべきです。時間があるのならなおさら。……そうでしょう?」
 ディアナは思わず微笑んだ。
 なんだか無性にうれしかった。
「はい! わたしも、そう思っていたんですよ」


 正直なところ、ディアナには祝福の仕方がわからない。生まれ育った場所は農村からかけ離れている。
 故郷の花街において、結婚とはつまり身請けであって、祝いは出ていく娘たちとの送別をかねていた。アスマの館の宴会部屋で、大事にしてもらうんだよ、と、励ますことが祝いだった。
「実を言えば、わたしも知らないのですが」
「えっ、ヒースも?」
「田舎とはいえ、辺境伯領に仕える従僕の家の出ですし、農村の生活はまともにしたことがありません」
 だから、少し興味があったらしい。
 礼拝堂の影に並んで立ち、祝いの席が整えられる様をふたりで眺める。
 礼拝堂前の広場を囲むように、村の人々が敷布を持ち寄って広げている。色とりどりの布をつなぎ合わせて作られた敷布が土を覆うと、ぱっと花開いたように彩ゆたかになった。大人が古びた円卓を出し、少年少女たちが籠に入った葡萄酒と麺麭を並べ、彼らの間を幼い子どもたちが笑いながら駆け抜けていく。
 ディアナはふふっと笑った。
 ヒースが眉をひそめる。
「何かおかしなことでも?」
「いいえ。……ふたりで初めてのことをするの、うれしいですね」
 ヒースは大抵のことを経験していたし、自分はいつも追随して教えられる側だ。彼も初めて、というものは、これまでなかったように思う。
 ヒースが困ったような顔をして、唐突にディアナの肩を抱き寄せる。
「わわっ。ど、どうしたんですか?」
「いいえ」
 ディアナの髪に唇を寄せて彼は言った。
「……あなたの言う通りだ、と、思っただけです」


 祝いの席の準備が整って、花嫁が広場の中央に現れた。刺繍の施された濃紺の晴れ着。亜麻色のふわふわした髪を編んで、子どもたちに手を引かれて進み出る。
 礼拝堂の前で彼女を待つ花婿もまた、身丈の微妙に会わない濃紺の晴れ着をまとい、緊張した面持ちでいる。
 ふたりが礼拝堂前の戸口に揃うと、近隣の町から呼ばれてきたという神父が、血色のよい顔ににこやかな笑顔を乗せた。
「――ふたつのヒトガタが出逢うこと。そのものがまずひとつの奇跡である」
 彼は祝い前の説法をこのように切り出した。
「主神は常に無限の可能性をヒトガタの前に広げておいでである。雪解けの日に種を撒くか撒くまいか、隣人に挨拶をするかしないか、ある朝の目覚めに水を飲むか飲むまいか、そのような何気ない選択ひとつ異なっただけで、生涯かけて出逢わないヒトガタもあるのである。それが、同じ産屋で生まれたにしろ、はるか遠き場所で目覚めたにしろ、別の宿命を得たふたつのヒトガタが出逢い、愛しあう。これこそ至上の奇跡であり、主神の祝福そのものである。また、これらのヒトガタがひとつとなり、家族という財産を共有する。その未来はかつて混沌なりし獣を鎮めた、聖女の愛によるものである。……幸い在れ。新たなる一対よ。わたしはこれより主神と聖女を代行し、開かれし未来に祝福を与え、汝らの幸福を主神と聖女に伝えん」
 胸に手を当て、神父が天に何事かを呟く。
 神妙な心地で見守っていると、現れた別の男女が花嫁花婿の手首を、布で固く結び合わせた。
 花婿の顔がこわばって見える点が妙に気になる。
「さて、準備はよいかね?」
 神父がイイ顔で花婿に尋ねる。
 ディアナはヒースに耳打ちした。
「……何が始まるんですかね?」
「さぁ……?」
 ヒースもまた首をかしげた。彼の故郷の婚儀にないやり取りらしい。
 神父が布を結んだ男の方を手招いて、場所を譲る。
 そして彼は力強く――花婿を平手うちした。
 ぱぁん、と、乾いた音が晴れた天に響き渡った。
「いっ……た……」
 ディアナは花婿の衝撃を思って思わず呻いた。自分は痛くない。痛くないのだが、なんだか痛さすら覚えてくる。
 ヒースもディアナの隣でぎょっとした顔をしている。
 対して村人たちは慣れた様子だった。あらあら痛そうねぇ、ありゃ痛かっただろうな、と、笑い合っている。
 神父が村人たちを見渡して問いかける。
「皆、覚えただろうか――この仔らが婚姻なしたことを」
「あぁ……そういうことか」
「え? 何がですか?」
「いえ、いまの……あれは、ふたりが結婚したことを、皆に覚えさせる風習のひとつですね」
「え、えぇ……?」
「婚姻の記録をきちんと取らない土地でそういうことをすると聞いたことが……。また、夫が妻を虐げないようにする戒めだとか。そんな風習、このあたりにまだあったのか」
 ここは片田舎とはいえ、中央の直轄領でもあるし、婚姻届けは義務なのだが、遠い昔の名残なのだろう。
「婚姻はなされた。今日はさらに加護厚く、主神と聖女より祝福の徒が遣わされておいでである」
 神父がディアナとヒースを手招く。花飾りをつけた子どもが駆け寄って、自分たちに野ばらの花冠を渡した。
「どうぞ、こちらをおふたりで、彼と彼女に掛けてやってください」
 決して離れまいと布で結んだ手をつないだまま、花嫁と花婿は跪いて頭を垂れている。
 彼らの頭に冠をかざしたとき、きっと自分たちは、同じ気持ちだったと思う。
(どうか)
 ――病めるときも、健やかなるときも。
「あなたたちが」
「ずっと」
 支えあい、愛し合い。
『一緒に、いられますように』


 その後の宴はとても賑やかだった。
「えっ、これを? ぶつけるんですか? ふたりに?」
 困惑するディアナに村娘が鼻を鳴らす。
「そうよ。ぶつけたことないの? ぶつけないと子どもが生まれないのよ?」
「えぇ!?」
「鶏に餌をあげるみたいにするのがこつよ!」
 老いも若きも力いっぱい花嫁花婿に穀粒を投げつけている。新しい夫婦はこらえきれないと、わあわあ、きゃあきゃあ、騒ぎながら広場を逃げ惑っていた。
 手のひらにざらざら落とされた、碗一杯分の穀粒にふたりで困惑する。
「ど、どうします?」
「とにかく、投げてしまえばよいのでは……」
「ところで御遣いのおふたりさん」
 ぽん、と、背後から伸びた手がディアナたちを引き寄せる。揃って振り返ると、壮年の男の顔が近くにあった。顔をしかめたヒースがディアナの腕から男の手を無言で払いのける。
 おどけたように後ずさり、男は諸手を挙げた。
「おぉっ。すまんすまん。……ちょっとな、聞かせてくれないか」
「……なんでしょう?」
「おふたりさん、子どもは何人いるんだ?」
「……は?」
 一瞬、問われたことを理解できず、ディアナはぱちくりと瞬いた。
 ヒースが眉間にしわを寄せて呻く。
「……いませんが」
「おお、それは悪かった――おい、お前ら! ここに穀粒の洗礼を受けていない夫婦がいるぞ!」
「えっ……待ってください、こっちの話を」
「やっちまえ――!」
「わわわわわわっ!」
 男の号令を受けて、子どもたちが穀粒を投げつけてくる。
 ディアナたちは悲鳴を上げ、最後には妙におかしくなって、笑い転げることになった。


「……あぁ、もう、麦まみれ」
「ひどい目に遭いましたね」
 広場の片隅の木陰にふたりで逃げ込み、服の隙間に入り込んだ土やら穀粒を払い落とす。身なりを整え終えると、ふたりでその場に腰を下ろした。
 広場の騒ぎはようやっと落ち着き、花嫁花婿を中心にした酒宴が始まっていた。
 誰かが演奏しているらしい。軽快な弦楽の音、手拍子が打たれ、笑い声がどっと弾ける。
 その様子をヒースの肩口に頭を預けて眺める。
 ディアナの頭に頬を寄せてヒースが呟いた。
「ほっとします」
「……平和で?」
「……そうですね」
 滅びた国があり、家も財も人も失った、漂泊の民が大勢いて。
 一方でここに穏やかな日常を謳歌する人たちもいる。
 それはきっと、救いだと思う。
 面を上げてヒースの頬に口づける。彼の瞼にも。こめかみにも。髪にも、そして、唇にも。
 固く手を握り合わせて、愛おしい行為を繰り返す。
 一巡して、ふたりで額をあわせ、笑い合っていると、広場から声が掛かった。
「御遣いさま――!」
「踊らないの? 踊ろうよー……!」
 幼い子どもたちが手を振っていて、親が慌てたように彼らの口を塞いでいる。
 申し訳なさそうな顔をする親たちに苦笑してしまった。
「どうです? 子どもたちの誘いに乗りませんか?」
「踊るんですか? いいですけど……ヒースは踊り方知っています? わたし、知らないんですよ」
 社交界を渡っていくために、宮廷式の舞踊は身に着けた。ダイの知る踊りはそれだけだ。
「わたしだって知りません。……でも、どうせ作法なんてない。それとも、ふたりとも初めてだと不安ですか?」
 先に立ち上がったヒースが手を差し伸べる。
 その手を取ってディアナは首を横に振った。
「いえ。……いいえ。あなたとなら、きっと何でも、楽しいですよ」


 村人たちの輪の中に入り彼らに並んでふたりで踊った。
 初めてのこういった踊りは無茶苦茶だったが、とても楽しかった。
 昼餉の相伴に預かり、宴が跳ねる前に小屋の主人に礼を言って、抜け出すように村を発つ。
 街道に戻ってそのまま西へ。町をひとつ超えたら海岸線に沿って南へ。
 ディアナは馬に揺られながら、背後のヒースに提案した。
「初めてのことをしましょう」
「初めてのこと?」
「そう。せっかくなので、わたしたちふたりともが、したことのないことを」
「……何でしょうね。あえていえば、いまこうやっていること自体、初めてですが」
「旅がってことですか?」
「いいえ。仕事をさぼって、恋人とふたりで、ふらふらしていることが、ですよ」
 くすくすとヒースは笑った。
「物心ついたころから、何かをしていないと落ち着かなくて」
「あぁ。……何となくわかります。お休みなのに、道具の手入れをしていたり?」
「そんな感じですね。……居場所が、なかったんです」
 貴族の領主の息子を異母弟として持ちながら、その従僕として育つ。それは幼い彼にとってどういう心地がしただろう。
 自分も幼いころは花街に息苦しさを感じていた。母に日に日に似ると囁かれる顔を、せめて、違う性別のものに見えるようにと試みながら、愛される場所を探っていたように思う。
 仕事に打ち込み早く大人になることは、一個の個人として認められるために必要なことだった。
「ねぇ、ヒース」
 ディアナは頭を背後の男に擦り付けた。
「わたしたち、いまなら何でもできますよ」
「そうですね」
 ヒースがこちらの額を片手で抑えて頭のてっぺんに口づける。
「さぁ、何をしましょうか」
 これまで出来なかったことをしよう。初めてのことを積み重ねよう――泡沫の時が弾け消えるまでに。
 蔑ろにし続けてきた自分たち自身を労わりながら。


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