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第九章 泡沫の恋人 3


 網の上でじりじりと焼けていく二匹の魚をディアナは真剣な目で見守った。
 焦げ目のついた銀色の皮に、琥珀色の脂が浮いている。
 零れたそれが網の目をすり抜けて、木炭に零れ落ち、じゅわ、と蒸発する音を立てた。食欲を誘う香りが鼻腔をくすぐっていく。
 程よい焼き加減に達したのか。露店の主人が一匹には塩をふり、もう一匹には牛酪を塗りつけていく。
 再び魚を軽くあぶって、主人は串に刺さった魚をディアナたちに差し出した。
「どうぞ、お嬢さん。……こっちは兄さんに」
『ありがとうございます』
「落とさねぇようにな」
 主人に手を振った手を、ヒースとつないで歩く。町の人通りはそれほどでもない。鈍色の石で舗装された狭い道をふたり並んで歩いても余裕があった。
 農村を出て次の宿先として選んだ場所は、海辺に作られた町だった。通年を通して吹く風の影響で肌寒く、岩礁の点在する景色は一見しただけでは物々しい。よって貴族の出入りが少なく、内乱でも被害が軽微だった町らしい。往来する人々の多くは漁業の関係者だそうだ。
 厩と宿を無事に確保し、荷を整理して不足物を点検しつつ、夕食の相談をしていたら。
『魚介類が豊富で、とれたばかりのものを、すぐに焼いて食べさせてくれるそうですよ』
 と、ヒースが言ったので。
『食べたいです!』
 と、ディアナは欲望に忠実に告白した。
『じゃあ、食べに行きましょう』
 そういうことになって、いまに至る。
 雨で駄目になった物資を商店で補充するべく、町には早めに入ったため空はまだ明るい。必要な買い物を済ませたのち、食べ歩きに出たのだった。
 デルリゲイリアでは魚介の類はほぼ見られない。海側は絶壁が多く、収穫量が少ないのだ。ペルフィリア王城で過ごしていたときも、鮮度を保つことが難しいといって、主食にはたいてい羊か鶏などの肉が選ばれていた。
 潮風に研磨されて黒光りした、石壁を持つ平屋が通りに並ぶ。魚と貝の素焼き、魚介の入った汁物に麺麭を買い、店主たちから勧められた岩礁海岸に降りていく。
 手近な乾いた岩に腰を下ろし、収穫品を別の岩の上に広げて順番に食べた。
 まずは魚から手を付ける。
 少し冷めてしまったが、それでもぱりぱりした皮の下の身が熱を持って、ふわっと口の中でほどける。
 ほおばった口元を抑えながら、ディアナは歓声を上げた。
「おいしい!」
「あぁ、これはおいしいですね」
 独特の香りがするが、肉とまた違った脂が舌の上で踊る。塩味がいい具合に効いていた。牛酪を塗ったほうは高くついたが、こちらもまた甘みがあって非常に美味だった。ふたりで串を持ってあぐあぐ頬張る。なにぶん食べなれないので、途中から食べこぼしてしまった。べたべたの口元を互いに笑いながら拭い合う。
 貝は巻貝のつぼ焼きと言った。貝の身の部分に牛酪と香辛料を詰めて焼いたものらしい。ごつごつした表面は小石のようで、貝だと言われても俄かに信じられなかった。食べられるとも思っていなかった。
「ヒースは食べたことあるんですか?」
「ありますよ。王都は二枚貝しか採れないので、あまり食べないですが、もう少し西の領地には産地があるので、会食の席で出ます。が、貝つきで出されたのは初めてですね。……どうやって身を取るんだ?」
 さすがのヒースでもわからないことがあるらしい。
 しばらくふたりで奮闘して、最後は備え付けの串で穿り出した。結果、ひと口かじるだけで終わってしまったわけだが、こりこりした触感がめずらしく、香辛料が薫る牛酪が、ほの甘い貝の身に絡みついて、とてもおいしい。食べきりたくて、もくもく身をほじったが、最後はふたりで匙を投げた。
「失敗しましたね……。食べ方を店で訊けばよかった」
「ヒースが知っているのかなって思っていました」
「わたしだって何でもわかるわけではありません」
「もー、すねないでくださいよ。せめていないですし。失敗するヒースもかわいくて好きですよ」
「どういう表現ですか? それ」
 んん、と、男が眉間に寄せたしわを指先でぐりぐり突く。彼はその指先を捉えて、もう片方の手でディアナの腰を引き寄せた。
「わわっ」
「大人しくしていなさい」
 ヒースに背後から抱きかかえられて、そのまま割った麺麭を口に押し込まれる。最初に汁物でふやかしたらしく、魚の脂と野菜の濃厚な味が、固焼きの麺麭からじゅわっと染み出る。
 ディアナは口元を両手で抑えた。思わず顔がほころぶ。
 ヒースもまたちぎった麺麭をふやかして、口に運んでいる。すぐ頭上でかたちのよい喉が動き、何となしにその喉ぼとけを甘噛みすると、こら、と、いたずらをたしなめる声が飛んだ。
 無事に完食し、ひと息吐いて、眼前に広がる入江に目を向ける。
 岩礁の黒と砂の白が織りなす浜辺。規則正しく寄せて返す波は、祖国では見ないものだ。
 ディアナはヒースを振り返って尋ねた。
「降りてもいいですよね?」
「それは構わないでしょうが、足下に気を付けてください」
「はーい……わっ」
「っと……言った傍から」
 ヒースが盛大にため息を吐いて、慌てて支えたディアナの身体を離す。立ち上がって早々に足を滑らせたこちらを、彼は呆れた目で見た。
「ほら……。手を握って」
 ヒースが腰を岩から上げて、ディアナの手を引く。岩礁を降りきって、砂浜に出たところで、ディアナは足の沈む奇妙な感覚に瞬いた。
「あ、歩きにくい……ひゃっ」
「あぁ……暴れないで、じっとしてください」
 急にディアナを抱き上げて、ヒースが宥めるように囁いた。
 彼の首に腕を回して、ディアナは言った。
「ひ、ヒースは大丈夫なんですか?」
「あなたが暴れなければね」
 ヒースがディアナを抱えたままゆっくりと歩き出す。
 さく、と、砂を踏みしめる音が潮騒に混じった。
「ヒースって案外そこそこ腕力ありますよね」
「それはどういう意味です? 振り落とされたい?」
「あ――! ごめんなさいっ!」
 ヒースの身体にしがみつく。彼の腕がそのままディアナの背に回った。
「後で覚えておくように。……ディアナ」
「なんですか?」
「顔をあげて。ちょうど、陽が沈みます」
 とんとん、と、ヒースの指先がディアナの背を叩く。彼が顎で示した方を向くと、まさしく、日没の瞬間だった。
 ペルフィリア王城の窓からとは異なって、初めて間近に望む海は、夕日に照らされて千々に燦めき、穏やかな波の音が、果てない優しさと寛容さを感じさせた。
 紅に金をとろりと溶かし込んだ光が、水平線から世界のすべてを染めている。
 互いの温度を感じながら、どちらともなく呟く。
「……きれいですね」
「えぇ。本当に……」

 ――美しいものを見た。

 指折り数えられてしまうほど短いこの日々、わたしたちは共に、うつくしいものを見た。
 海辺の町を出て、平野を駆ける。その先でもわたしたちは見た。
 風に波打つ草も木も、果てない蒼穹も、翼で伸びやかに空を切る鳥も。
 驟雨に降られ、木陰で休みながら眺めた雨粒も、白く煙る水滴にはじける土の泥も。小動物が獣の遺骸を食む様も、立ち寄る村や町の人々の雑多な営みも。
 すべて、狂おしく愛おしく、そして美しい。
 わたしたちが命を賭けるものは、過去への呪い、不遇への克己心、そういったものばかりではない。お前は何も成さなかったと、嘲笑われることになろうとも、この美しいものを未来へ紡ぐ尊い営みの一部であると。
 わたしたちは。


 終着の場は崩れた壁や家の土台が残る平原だった。
 陽光は地平に残照を残すばかり。もうまもなく夜になる。
「内乱の前は王都への中継地として栄えた町でした」
 馬の手綱を引きながらヒースは語った。
「井戸に毒を混ぜられて、浄化は済んでいますが、人は戻らなかった。朽ちて長くなります。……追跡されていたら、町だと追われて逃げ切れない可能性があるので、ここを選びました」
 最近接の町までの道も、辛うじて残っている。隣の領地に位置するそこまで、大人の足でどうにかなる距離だという。
 また、その道をとにかく真っ直ぐ行けばデルリゲイリア国境に行き当たり、ディアナひとりで帰れなくもない。
 ヒースは、ここまでだ。
 町の遺構を見回して、ディアナは呟いた。
「だれもいませんね」
「迎えは明日の明朝を指定していますから。今日はここで野営です。……たまに巡回がいるので、夜盗の類も少ない」
「巡回? 今日はこないんですか?」
「経路に少し手を加えました」
 見事な職権乱用である。
 しれっとした顔の男に、ディアナは笑って、繋いだ手を強く握った。
 明日、ディアナを迎えに預けたら、ヒースは引き返す。だれも来なくても、ディアナを残して、彼は帰る。
 王都まで休みなく馬を急がせても三日掛かる。これ以上、彼はすべてを投げ出せないのだ。
「野営はどこで?」
「あそこで」
 ヒースが指し示した草原の先に、三角屋根の建物がぽつんと建っていた。
 ごくごく一般的な赤煉瓦と石を組んで作られた礼拝堂だった。造りは素朴そのもの。けれども荒涼とした野に、満天の星々に染まる夜の帳を、天鵞絨の外套を翻すようにして背負って建つ様は、ため息を吐きたくなるほど荘厳で美しかった。
 中に入ると、天井の一部が崩落し、星の眩い空が見えた。梁のしっかりした屋根のある場所を選び、列柱の一本に馬を繋ぐ。荷を下ろしてやると、疲れたと言わんばかりに、馬が鼻づらを振った。
 長らく世話になった牝馬の頸を撫でる一方、己の目が堂内の一点に吸い寄せられていく。
 建物の最奥。かつては壮麗な彫刻と薔薇窓によって、主神の威光を感じさせたであろう主祭壇。
 いまは宝石を砕いたような、黄金に煌めく星空を背景に、一本の若木に寄り添われて、雨ざらしとなって変色した聖女の像があった。
 ディアナは無意識に歩み寄って像を眺めた。
「……なんだか、意外です」
「何がです?」
 隣に並んだヒースが同じく聖女を見上げて尋ねる。
「聖女さまの像を見たくないのかなって思っていたので、野営の場所に礼拝堂を選ぶって思いませんでした」
「雨風を凌げる貴重な場所です」
 ヒースらしい合理的な回答である。
 笑いが突いて出たディアナの耳にヒースの次の言葉が滑り込む。
「それから、あなたの旅路の安寧も祈れます」
 ディアナはヒースを見上げた。彼の指先に己のそれを思わず絡める。
 ヒースは聖女を見つめたままだ。
(このひとは……)
 彼の指を握ってディアナは目を伏せた。
 ――本当は、きっと、とても信心深いのだ。
 デルリゲイリアの貴族街では、各家に礼拝堂が備わっている。ミズウィーリ家でも例外ではない。ペルフィリアもきっと同様で、イェルニの屋敷にもあったはずだ。
 ディアナ自身ですら、安息日には花街の礼拝堂へ赴いていた。なら、聖女の血筋を信奉する貴族に仕える従僕はなおさら。
 聖女に弓挽くことの意味を最も知るのは彼自身だ。
 ヒース、と、ディアナは呼びかけた。
「……あなたのことを知りたいです。話してくれますか?」
「あなたには色々と話していると思いますが?」
「もっと……なんでもいいんですよ。……子どものころのことでも」
 ディトラウトとしての道を歩み始めたあとのことでも。
 知りたかった。最期の一瞬まで。彼のことをつぶさに知って、覚えていたいのだ。


 馬が不満げに地を蹴ったので、顔を見合わせて笑い、彼女の世話と野営の支度に取りかかることにした。
 井戸をふたりで探して水袋を満たす。馬の汗を急いで拭き、毛を梳いて、礼拝堂の周辺で刈り出した草を与える。
 ヒースが器用に蹄踵から土を掘り出し、傷みがないか診る間、草と布を敷いた寝床や、竈を作ることがディアナの役割だ。
 旅の最中、ヒースはディアナに平野を放浪して生き残る術を教えることも怠らなかった。寝床の作り方や、招力石なしに火を熾す方法や、水の探し方を。それは付け焼き刃であったけれども、万が一に備えて、ないよりはましである。
 おそらく自分にその知識を授けるために、ヒースはここまで付き添ってくれたのだ。
「いつ城を追われても、ひとりで逃げ延びられるように学べ、と、クラウスは言っていました」
 雑穀を湯に溶いただけの粥と、温めた山羊の乳で晩餐を済ませたあと、ヒースは野営の知識の出所をそのように明かした。
「貴族の子弟は狩りが必須の科目なので、それに付き従うわたしも、学んでいないわけではなかったのですが、ある夜、クラウスにたたき起こされて、彼と着の身着のまま、ひと月ほど国中連れ回されたときは辟易しました」
「ひと月も?」
 ディアナはヒースを仰ぎ見た。壁を背にして寝床に座る彼に、ディアナは寄りかかって座っていた。角度的にヒースの表情は伺えなかったが、渋面になっていることは気配でわかる。
 苦り切った声でヒースは呻いた。
「死を覚悟したことは数え切れないけれども、あれもそのうちのひとつですね。水と食料すら持たずに出たのだから……本気で覚える気になるだろう、と笑われて、唖然としたものです」
 クラウス・リヴォートは頭が一等に切れて、すこぶる変わり者だったらしい。彼いわく、合理的な現場主義の歴史研究者。
 彼にヒースはずいぶんと振り回されたらしい。
 思わず零れた笑みにディアナは口元を抑えた。
「仲良しだったんですねぇ」
「あれを、仲が良いというのかどうか……。でも、そうですね。……嫌いにはなれませんでした。尊敬すべき師だったし、兄のようでもあった」
「あなたのお兄さん。……会ってみたかったな」
「そうですね。……生きていて、ほしかった」
 ディアナの肩をヒースが強く抱いた。
 その手をさすって、躊躇いがちに尋ねる。
「……クラウスさん、いつ、お亡くなりになったんですか?」
「ミズウィーリに向かう、少し前です。……併呑した国々との交渉の場で、襲撃に遭って、わたしを庇って、彼は死にました」
 凝った息を吐いて、ヒースが呟く。
「……皆、わたしのために、死んでいく」
 父も母も、師も、彼に付き従った大勢のものたちが。
「クラウスはとても優秀で、少なくない数の弟子も持っていました。ディン様ではなく、セレ様が玉座に着いていたなら、彼が宰相だったでしょう。デルリゲイリアへの潜入は、フランツ様と連携をとる関係上、わたしが最善とされました。宰相が間者となる。正気の沙汰ではない計画ですが、それでもクラウスたちがいれば、わたしの穴は簡単に埋められた」
 だが、クラウスは死んだ。有能で経験ゆたかな者たちは死んでいった。
 走り出した計画を変えることも止めることもならず、ヒースはその彼らの死をも抱えたまま、ミズウィーリに来たのだ。
 ヒースが眉をひそめて頭を振る。
「あぁ、すみません。……湿っぽくなりましたね」
「いいんですよ」
 ディアナは微笑んだ。
「あなたのことを知りたいって、言ったでしょう?」
 幸福な時代だけではない。彼が吐露すらできず、ため込み続けた、呪わしい過去もすべて引き取りたい。
「わたしね、ヒース」
「……うん?」
「クラウスさんに感謝します。あなたのご両親にも。あなたの命をつないでくれたすべてのひとたちに。あなたのために力を尽くしたひとたちが、あなたとわたしを、出逢わせてくれた。……それから」
 ディアナはヒースの首に腕をまわした。
「ありがとう、ヒース。生きることを、諦めないでいてくださって」
 タルターザで友人を失くし、生死の境をさまよい歩き、自暴自棄になった自分を、ヒースは見捨てなかった。
 あのころの自分と同じように、ヒースにも苦しんだことがあったはずだ。家族が、師が、殺されたとき、次々と襲い来る悲しみに、打ちのめされたに違いなく、だからこそ彼は、自分に寄り添っていてくれた。
「あなたが生きていてくれたから、わたしも今日まで生きている。あなたと出逢えなければ、わたしはいま、化粧師ですらなかったかもしれない」
 それこそ〈ディアナ〉として生きていたかもしれないのだ。
「未来、わたしが幸福なのだとしたら、それはあなたがもたらしたものです。あなたと出逢えたこと、あなたに愛されたこと、あなたが――わたしの未来を形作る」
「……あぁ、そうか」
 ヒースが指を髪に梳き入れて、ディアナの頭をゆっくり抱えた。
「あなたは……わたしの生の、証明なのか……」
 ディトラウト・イェルニとして生きる以上、ヒースは永遠に墓の下。そうなったときに彼はもう何も成せないはずだった。
 けれども、この男は、ヒースとして、自分と出逢ったので。
 ディアナの額に唇を寄せてヒースが囁く。
「ディアナ。生きてください。幸せになって。それだけで、わたしは――ヒースは救われる」
 生まれてくるべきではなかったのではないか。
 腫れ物として扱われ、なのにのうのうと生き延びて、自分は親しい者たちの生を吸って生きているのではないかと。
 けれども、たったひとり、生きて幸せになってくれるというのなら、それだけで救いとなる。
 あいしている、と、彼は言った。
 同じように、自分も囁いた。
 出逢えたこと、愛し合えたこと、この一瞬、全部。
 永遠の夢にも勝る幸福だった。


 ――国に帰って、生きられそうにないのなら、帰ってきたらいい。
 ――あなたのところに?
 ――そう。
 ――あなたも、もう全部だめってなったら、わたしのところに帰ってきてくださいね。
 ――……そうですね。そう、しましょうか。
 ――約束ですよ。


 一枚の毛布にくるまり、ありえない未来を夢見ながら、ひとつのものみたいになって、わたしたちは眠った。


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