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第九章 泡沫の恋人 1


「あぁああぁあああっ、もう!」
 マリアージュは奇声を上げながら机を叩いた。積み上げられた書類が衝撃で浮き、周囲の文官たちが慌ててそれらを押しとどめる。
 彼らに構わず、マリアージュは絶叫した。
「いい加減にして! どうして次から次へと案件が出てくるのよ! 害虫だってここまで湧かないわよ!? 何してたのよ、あんたたちは!!」
「……リリス・カースンの御守かな……」
「無能ども! このわたしに無能っていわれるなんて恥を知りなさいよ!」
「うん、ごめん」
「謝罪なんていいのよ! どうにかならないの!? もうわたし二か月以上も缶詰なのよ!?」
「缶詰って言葉が出てくるなんてすごいね、社会を勉強したね、へい……」
「ローディーマースー! わたしに首を絞められたいようね!?」
「へい、ま、マリアっ……死ぬっ、死ぬっ」
「いったん死んできなさいっ!」
 マリアージュは心からの鬱憤を込めて、ロディマスの首を締め上げる。執務室に入室してくる文官たちが、怯えた顔でマリアージュを見るが、知ったことではない。
 女王に選出されたところまではよかった。問題はその後である。国政は予想以上に荒れていた。リリスの一派がどこかへ横流したらしく、国庫までめちゃくちゃと来ている。マリアージュの失脚に手を貸したものたちは手持ちの財産を抱えて領地へ逃げ帰った。いま、城の中は金もない。人もいない。問題だけは山積みである。マリアージュも目の下に隈ができるありさまだ。肌もがさがさ。最悪である。
 白目をむき始めたロディマスをマリアージュは床に落とした。何もかも放置し、執務机を離れる。
「けほっ……こほっ……ま、マリアージュ……陛下。どこへいくんだい?」
「休憩!」
 マリアージュの意を察した女官が引きつった顔で休憩室の扉を開ける。そのまま隣室の長椅子に直行し、マリアージュは乱暴に腰を下ろした。
 紅茶と茶菓が揃えられるまで待ち、遅れて入室したロディマスに指示を出す。
「ロディ、鍵を掛けて」
 ロディマスが苦笑して扉の錠を下ろす。魔術文字が灯り、部屋に仕掛けられた《消音》の術が起動する。
 紅茶を一服してひと息の吐いたマリアージュの対面にロディマスは座った。
「……本当に、すまないね、マリアージュ」
「謝罪はいいから、キリキリ働いて」
「わかっている。でも君は休憩よりもまず、眠らなければならないよ。……ろくに寝ていないんだろう?」
「目が冴えてしまうの。それだけよ」
「身体を壊しては元も子もない。……ダイが心配で落ち着かないのもわかるけれどね」
 マリアージュは紅茶を一気に乾した。茶器を受け皿に叩きつけ、腕を組んで長椅子の背に重心を預ける。
「……ダダンは、そろそろ着くころかしら」
「たぶん……そうだね」
 ロディマスの曖昧な相づちに、マリアージュはため息を吐いた。
 女王になってまずマリアージュはタルターザへ遣いを出そうと試みたのだ。目的はもちろん、ダイの足跡を辿るため。だが国政が混乱を極めすぎて、調査の派遣はすぐに頓挫してしまった。
 漫然と歯噛みする日々を過ごしているうちに、一通の書簡が届いた。
 ミゲルに届き、不審がられてアスマの手に渡り、アルマティンを経由してマリアージュに回されたそれは、ロウエンという名の男から差し出されている。
 彼は、アリシュエルの、死した恋人だ。
 二枚きりの便せんに打鍵された文章は以下だ――親しき友、ミゲルへ。
『そちらを後にして随分になるね。こちらはようやっと落ち着いた。アリガも学院の試験を終えて、いまはそわそわしているよ。医師、楽師、画家――諸々目指せる。化粧師なんてものもある。アリガは医師になるのだという。入った学院は、なかなか出られない。なので、長期の休みがとりづらくなる前に、彼女の帰郷に付き合おうと思っている。迎えの手配を依頼したい』
 その後、手紙は通り得る道筋、待ち合わせの場所の符号、連絡の取り方が書かれて終わっていた。
 マリアージュにはすぐわかった。
 これは、ヒースからの手紙。
 ダイは、あの男と共にいる。
「君は本当にあの手紙がイェルニ宰相からのものだと信じている?」
「何度も聞かないで。あれは、あの男とダイ、ふたりからよ」
 ロウエンの死はともかく、アリシュエルのその後を知る者は限られている。出国したのちの名前はもちろん、彼女が《学院》入りを志していると知るミゲルの知人は、僅かに三名。ひとりはロウエンの弟、カイト。ふたり目はダダン。最後はダイだ。
 ダダンはこのような真似をせずとも連絡が取れる。カイトには兄を名乗る理由がない。つまり、これはダイからの手紙、と考えられる。
 だが、それにしてはおかしい点がある。
 アリシュエルの目指す学院は医師の卵を集めた学び舎で、ほかの技術の習得はない。
 そこで、気づいた。記された職業はマリアージュに付けられるかもしれなかった、職人の候補。それを把握する人間はただひとり。
 あのころ、マリアージュのすべてに采配を振るっていた、ミズウィーリ家当主代行――ヒース・リヴォート。
 あまりにも堂々と迎えを寄越せと書かれているのに、本当の差出人も宛先もわかる人間が限られる。
 そのような手紙を出す知人、あの男以外に考えられない。
 タルターザを予め調べていたダダンが、ペルフィリア宰相が内乱の事後処理にかの地を訪れていたと明かした。ダイはおそらくそのときに保護されたのだ。
 ロディマスが肩をすくめる。
「すぐに迎えに来い、じゃなくて、時期指定なのが不思議だね」
「手紙に、『なかなか出られない』ってあったから、あの子のことだもの。ペルフィリアの内情に顔を突っ込んで、変に周りに気に入られて出られなくなっているんでしょ。そんなところまでわかるのがいやだわ、あの手紙」
「そ、そうかな……牢屋にとらわれているとか、あると思うよ、僕は……」
「ロディマスは、レイナ・ルグロワを覚えていて?」
 マリアージュから急に話題を替えられたロディマスが眉をひそめる。
「ルグロワ市長? 忘れるはずないだろう?」
「ダイ、あの女に気に入られすぎて、誘拐されかけて、船から落とされたのよ。わたしと」
「そういえば……そんなことも、あったね?」
「それから、カレスティア宰相」
「ゼムナムのサイアリーズ・カレスティア?」
「そう。ダイね、頻繁にカレスティア宰相からも引き抜きの誘いを受けていたの」
「……あぁ、冗談めかしに、言われていた、かな?」
「とんだタラシだわ。……あの子、カレスティア宰相になんて呼ばれていたか、知っていて? ロディマス」
 口角をひきつらせて、ロディマスが首を横に振る。
「女王やら宰相やらから、表向きの仮面を引きはがして、隠しているはずの素顔を引きずり出す」
 マリアージュは糖菓子を摘まみ上げ、忌々しさを込めて言った。
「為政者の、天敵よ」


 洗顔と整肌。ひと通りの工程を終え、女が明るく告げる。
「はい、終わりました」
 セレネスティは横たえていた身を長椅子から起こした。一日ぶりに素に戻った顔に触れる。〈上塗り〉は常に倦怠を催すものだったが、化粧のあとは解放感だけがあった。あとは眠るだけでいい。そう思わせる心地よさ。
 セレネスティは道具類を片付ける化粧師の女を眺めた。彼女は燈明皿の灯ひとつを頼りに、卓から小瓶を取り上げ、表示を確認している。
 夜分だということを差し引いても室内は薄暗い。セレネスティの寝室は常に一定の暗さを保っていた。余人に急襲されても性別を看破されないようにとの苦肉の策である。
 道具を丁寧に片付けているシンシアに、セレネスティはふと思って尋ねた。
「手元、見づらくないのか?」
「……手元ですか?」
「明日からもう少し明るくしてもいい。作業がしづらいだろう」
 セレネスティの提案にシンシアは笑った。
「おやさしい」
「……二度は言わないからな」
「わかっています。ありがとうございます。大丈夫ですよ。昔はずっと、こういう暗さで仕事をしていました。慣れています。……さ、寝台へどうぞ。眠たそうですよ」
 シンシアが寝台の天蓋を解いた。その役目はもう何年も梟だけが務めていたが、ここのところはシンシアと交代になっている。
 彼女に促されるまま床に就いた。
 セレネスティが枕に頭を預けると、布団と毛布を掛けられる。一度、広げて、そっと。そのやり方は、遠い昔の、兄のものに似ていた。幼いころ、妹とうたた寝をしてしまうと、兄は――あのころはそうと呼べなかった――いつも、先の彼女のように、毛布を広げて自分たちに掛けた。
「昔、は、何をしていたんだ?」
「……わたくしですか?」
「ほかにだれがいるんだ?」
「あ、そうですよね。えっと、化粧です。ずっと、それしかしていなかったんですが……セレネスティ様はわたくしの生い立ちを、閣下から聞かれましたか?」
 セレネスティは首を横に振った。興味がなかった。知りたくもなかった。
 知った人間は殺せなくなる。
 自分はシンシアの本名も覚えていない。
「わたくしは、閣下に助けていただいたんですよ」
「兄上に?」
「えぇ。……興味があれば、また、尋ねてください。あなたの兄上に」
(シンシアが話せばいいだけだろう)
 だが、声にはならなかった。ひどく、眠かった。
 今日はいつもにも増して、懐かしい、故郷の原野のような、香草が部屋に薫っている。
 シンシアがセレネスティの髪を撫でる。
 ふふ、と、彼女は笑った。
「さらさら。兄弟ですね。そっくり」
「シンシア……」
「顔色もせっかくよくなったんですから、〈上塗り〉はやめてくださいよ」
(しつこいぞ)
「おやすみなさい、ディン様」
 遠い昔の愛称に顔をしかめ、セレネスティは身体を起こそうとした。だが、四肢に力が入らなかった。
 叩扉の音が響いたあとに兄の声がした。
「陛下は?」
「お眠りに」
 兄がシンシアと言葉を交わす。やさしい声だ。昔の兄の声だった。
 自分は兄の塔へ赴かないようにしている。だから、兄とシンシアがどのように愛を紡いでいるか知らない。だが、騎士たちが、女官たちが、ふたりを微笑ましく見ていることは知っていたし、自分もまた、彼らが隣り合った姿を見ると、得も言われぬ温かさに胸が締め付けられた。
(あぁ……そうか)
 甘く忍び笑う男女の影を瞼の裏に浮かべながら思う。
(祝福したいんだな、僕は)
 ――長らく、呪ってばかりだった。
 過去を、聖女を。すべてを薙ぎ払ってひた走ってきた。
 そうしなければ、守れなかった。
 だがいつしか、守りたいものを見失っていなかったか。
(利用するばかりで、ちゃんと、祝ってなかったな)
 そのようなことを言い出したら、ふたりはいまさらと呆れるだろうか。それとも、照れるだろうか。
「陛下」
 室内の灯が吹き消され、隣室の光が一条、射すばかりとなる。
「すぐに戻ります」
 と、兄は言った。
 その意味を問う間もなく、扉は閉ざされ、室内は眠りと闇に満ちた。


 シンシアは朝、セレネスティの支度を終え、昼から一刻ほど単独で仕事をこなし、遅くとも夕刻には塔に戻って、午睡か、勉強、あるいは、訓練を行う。男相手に卒倒しないようにするための。それはシンシアとしても、女騎士を用意できないペルフィリア側にとっても、重要なことだ。
 その場所にシンシアはよく庭園を選んだ。
 彼女は基本、自由のない身だ。
 彼女が出歩いてよい範囲は限られている。屋外の散策はよい気晴らしとなったのだろう。訓練に限らず、紅茶の小瓶や堅焼きの菓子を携え、騎士や女官とともに塔の庭園で時間を過ごすことが、最近の彼女のお気に入りだった。
 日が落ちるとシンシアは本宮へ再び赴き、視察から帰ったセレネスティの世話をする。会食などの付き添いがなければ塔に戻ってディトラウトの帰りを待つ。
 ディトラウトとは部屋へ早々に引き上げてしまうことも、護衛を遠ざけて夜の月を愛でに庭に出ることもある。だが会話の大半はセレネスティの、ひいては国の未来を案じるもので。だからこそ、この初々しい恋人たちが、想い合っていたことを、過去、腹芸に長けた為政者たちから平然と隠しおおせていた胆力の持ち主だったと、ゼノは失念していた。
(いない)
 ゼノは無人の庭園を見回しながら、己の血の気が引く音を聞いた。
(ふたりが、いない)
 傷跡が痛んで眠れないらしいシンシアが、夜中に塔の庭園の散策に出ると言った。そういったことはたびたびあって、女官たち慣れた様子で保温容器いっぱいの香草茶と、果物の砂糖漬けを茶菓として支度した。
 ディトラウトがシンシアに付き添うので、護衛は入り口で待機を言い渡された。塔の庭園は高層にある。庭に吹く夜の風はいまの時期でもなお冷えるので、ディトラウトが真剣な顔でシンシアの上着を確認し、シンシアが彼の心配性なことに口先を尖らせ、その様子を騎士たちが笑って見守る。
 籠に詰められた茶瓶と菓子を受け取って、シンシアがラスティの手を握りにっこり笑う。
『ありがとうございます、ラスティ。行ってきますね』
 そんなやりとりも、ばらが最盛期を迎えていて、その大小様々な木立がふたりの姿を消してしまうのも、またよくあることだった。
 四半刻ほどしてなぜか胸がざわめいた。戦場でたまにある。いわゆる、虫の知らせだ。
 軽い調子で庭園に踏み込み、そして、庭木にかけられた布を見つけた。
 庭の散策などの折、地面に敷く大判の布だ。それがひとの影に見えるように植木に広げられている。
 入り口から見える角度。月明かりの方向。木立の位置。あらゆるものが完璧に計算されていた。
 庭に出るシンシアの習慣。堅焼きの菓子や茶瓶も、外出の気分を味わうための気晴らしかと思っていたが、とんでもない。
 すべては、念入りに計画された上の行動だ。
「やりやがったな……ディータ!!」


 角灯に照らされた虫が四方の闇へさっと散る。
 石壁の影で明滅する光は、ちちち、と、鳴く鼠の目だろうか。
 それとも、魔術灯の名残だろうか。
 ダイの手を引いて先を行くディトラウトが呻く。
「ここの魔術もずいぶんと死んでしまった。……本当は、虫など入る余地はなかったのですが」
「保持の魔術ですか?」
「そうです。……不味いですね。蜘蛛の巣を払ったから、経路が割れる」
 ここまでひどくなっているとは思わなかった。
 頭から被った外套の下でディトラウトが顔を歪めた。
 ダイたちが歩いている道は城の内部を網の目状に走る隠し通路の一本である。
 入り口は塔の庭園にあった崖寄りの壁の真下にある。以前、ディトラウトが危険だと示したことのあるあの場所だ。
 あそこは塔からやや迫り出し、真下は崖と海が広がる。そのまま飛び出せばもちろん死ぬが、壁に手を掛けて真っ直ぐ下へ降りると隠された足場があって、細い階段沿いに崖の中腹まで降りたのち、城内へ入れるようになっていた。
『隠し通路を使いませんか?』
 逃げ出す算段をしていた際、ダイは駄目もとで尋ねた。ディトラウトは渋るか、そんなものはないととぼけるだろうが、自分はすでにひとつ道を知っている。
 以前、ペルフィリアに捕らわれたとき、ダダンがダイの救出に用いた道だ。
 ダイの説明にディトラウトは頭を抑え、長い逡巡の後、提案した道がこの塔の庭園から続く通路だった。
 ディトラウトに先導されながら暗く細い道をひたすら歩く。足下は悪く、壁の亀裂から染み出た水や、蜘蛛の巣まじりの埃が方々にわだかまっている。もっと急ぎたいが、ディトラウトの足取りは慎重だった。
 上着や外套、食料はどうにか都合できたが、靴は簡素な屋外履きだ。滑って怪我をしては元も子もない。
 しかし、そう時間を掛けて行くことは許されなかった。
 足音が、増えている。
 ダイたちの後を追い掛けてくるそれはひとり分。
 徐々に距離を詰めている。
「走ります」
 ディトラウトが宣言し、ダイの手を強く引いた。
 ふたりで通路を駆ける。角灯で道を確かめる余裕はない。石壁の下の所々で瞬く、魔術の灯が頼りだった。三叉路を右に、階段を駆け下り、また登る。途中で細い光が閃いて見やれば、城の一室のものと思しき景色が壁の隙間から垣間見えた。だがそれをじっくり観察している余裕はない。反響する足音はますます近い。
 段々とダイの呼吸は覚束なくなり始めた。
 タルターザでの負傷から、ダイの体力は決して回復していない。この数ヶ月、走ったことは皆無だった。タルターザで傷めた足首がじくじく疼き始める。
「はっ……は……はくっ」
「ディアナ」
 意識が朦朧として膝から力が抜けたダイをディトラウトが慌てて抱き留める。その場に崩れたダイはディトラウトに縋りながら、肺の引き絞られるような痛みに耐えた。
「す、すみませ……す……けほっこほっ」
「いい。無理をさせた」
 ディトラウトがダイを抱いて背を撫でる。その抱く腕に力がこもっていた。ダイは彼の肩越しに来た道を見た。
 追いかけていた足音が消え、代わりに人影が伸びていた。
「……ゼノ」
「ディータ」
 数歩分の距離を開けて、ゼノが剣を手に佇んでいた。
 ダイたちの失踪に気づき、ひとりですぐに追いかけてきたのか。
「見逃せ、ゼノ」
「……言うに事欠いてそれかよ」
「ゼノさん」
 ダイはディトラウトから身を乗り出した。
「ごめんなさい。本当に――でも、わたしには、すべきことがあるんです」
「駆け落ちが?」
『違う』
 ダイとディトラウトの声が揃う。ゼノが瞠目して、渋面になり、頭を拳で叩いた。
「あーもーなんだよこれ……。どう見ても、俺が悪者じゃん?」
「ゼノ……」
「あのさ、ディータ」
 ゼノが剣の柄に手を掛けて尋ねる。
 答えを間違えれば、一閃すると言わんばかりなのに、口調はとても気安かった。
「お前、戻ってくんの?」
「当たり前だ」
 ディトラウトが即答する。
 ゼノがため息を吐き、剣から手を離した。
「そっか。そういうことか。……シンシアちゃん」
「……はい」
「俺、君といられて、楽しかったよ。君は?」
 ダイは息を詰めた。ペルフィリアでの日々が、やさしい人々の顔が、さっと脳裏を通り過ぎる。
 目頭を熱くさせるものを堪えて、ダイは言った。
「わたしも、楽しかったです。皆さんと過ごせて……とても、楽しかった」
 うん、と、ゼノは笑って頷いた。
 彼は表情を改めてディトラウトに向き直る。
「ディータ。仕事はちゃんとしてあんだよな?」
「執務室の隠しに指示を残してある。十日分だ」
「りょーかい。……行けよ。朝までごまかしてやる。良い旅を」
 ディトラウトがダイを立ち上がらせる。
 手を繋ぎなおして、暗い道を歩き始める。
 手を振るゼノの姿はすぐに見えなくなった。
 地下道の終着点は王都の大聖堂脇の地下水道だった。久々に目にする街並みは夜明けに染まっている。街道に向けて外門の扉が開けられ、朝いちばんの商隊の出入りが始まる。
 隣の町まで移動する辻馬車にふたりで乗った。
 ここから自分たちは、堂々と胸を張れる、つかのまの恋人たちだった。


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