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第三章 夢想する後援者 4 


「っつってぇ……」
 頭を押さえて悶える男を前に、マリアージュは腰に手を当てて息を吐いた。まったく、せっかく心配してやったというのにこの男ときたら。
 ダダンはしばらく呻いていたが、砂色の目を細めてマリアージュを睨んだ。そのあまりの鋭さに、マリアージュが退いた刹那、ダダンが顔の真横の地を両手で突き飛ばし、マリアージュの真横へ跳ねて立つ。
「伏せてろ!」
「いっ!」
 腕を掴んだダダンの手がマリアージュを乱暴に引き倒す。辛うじて転倒は免れたが、肩がもぎ取られかねない力加減に、マリアージュは男をぎっと振り返った。が、その眼前を極太の針が過ぎて地に突き立つ。
(これ……)
 目にしたことがある。
 女王として選ばれた雷雨の夜。
 自分の乗っていた馬車の御者の首に深々と刺さっていた――……。
「ぼっとするな!」
 ダダンの怒声が頭上から降る。同時に腕がマリアージュの身体をかっさらった。
 半ば肩に担がれた体勢の不安定さに、マリアージュは男の背を思わず叩く。
「ちょっと!?」
「道を教えるのが面倒だ! 大人しく荷物になってろ!」
「にもっ!」
 物申しかけた口をマリアージュは噤んだ。
 振動から舌を噛みかけたせいもある。
 だが一番の理由は、ダダンが駆け抜けた道の脇に、血塗れの胸を掻くようにして仰臥する、瞳孔の開ききった男の姿を目にしたからだった。


 壁に寄りかかって沈黙した馬車の箱を、アッセは棒立ちになって見つめた。
 手綱の外れた馬は駆け去って、御者はここから離れた場所に倒れていた。御者台から振り落とされたのだろう。
 同じ場所にいたはずのマリアージュの姿はない。
「テディウス卿」
 背後からの呼びかけに、アッセは振り返った。ブルーノがのろのろと歩み寄っている。満身創痍ではあるが、命に別状はないようだ。
 アッセは安堵に細く息を吐いた。
「無事でなによりだ」
「殿下もご健勝そうで何よりです。……まったく、ひどい目に遭いましたね」
「あぁ。だが、自分のことはどうでもいい。陛下が……」
 アッセの視線の先を追い、馬車の残骸を目にした男は、苦々しく歯を食い締める。
 ブルーノはすぐさま面を上げ、アッセに正面から向き直った。
「恐らく……ご無事かと」
「根拠は?」
「先ほど合流した商会からの遣いの者が、ダダンを……腕の立つ者を運んでおりました。彼が陛下の救出に向かったと」
「……あの男が?」
 ブルーノが意外だと眉をひそめる。
「ご存知なのですか?」
「……あぁ」
 昨年、ペルフィリア王都への案内任を務めた情報屋の男。変幻自在に出没し、大陸会議にも現れたと聞く。
 自分の知らない世界の広さを知る男だ。喉元までこみ上げたざらりとした感情を、アッセはどうにか飲み下した。
 ブルーノが告げる。
「迎えを寄越すように商会へ遣いを出しました。殿下はそちらに乗ってお戻りください」
「お前はどうする?」
「商会へ戻ります。陛下のことを隠蔽せねばなりませんし、これのことも、どうにか誤魔化さねばなりませんからね」
「襲われたと証言すればよいだろう」
「正直に申し上げて、信用されましょうか?」
 ブルーノは目を伏せると、躊躇いがちに言葉を続けた。
「殿下に追いつくまで……私は誰の遺体も見ませんでした」
 アッセは剣の柄を握りしめた。
 この場に至るまでの間、アッセは幾人かを殺めた。掃き清められた石畳の上を、襲撃者たちの血が確かに赤黒く染めたのだ。
「血の跡はありましたが、それだけです。襲撃者の遺体があれば、証言に信憑性ありましょう。ですが現状……」
「……誰に襲われたのか、お前には目星が付いているのか?」
「殿下こそ、おわかりではないのですか?」
 マリアージュを玉座から引き降ろさんと試みた何者か。
 彼らは上級貴族に列する者、あるいは彼らと深い繋がりを持つ者。
 アッセひとりが襲撃者の存在を声高に叫んだところでもみ消される。
 沈黙したアッセに、ブルーノは微笑んだ。
「殿下は実直であらせられる。それは殿下の美点ではありますが……」
「生き残れない」
 ブルーノの発言をアッセは引き取った。
 過去。
 出逢う人々はすべて味方か敵かで分けられた。発言は総じて信用され、力を尽くせば感謝された。
 ――はたしてそれは本当に、他者の助けとなっていたのか。
 アッセはよくマリアージュとダイの共をした。挑むように前を見据えて歩む女王と、彼女の僅か後方を付いてゆく化粧師の眼差しはいつも鋭かった。足取りは薄氷の上を行くように慎重だった。
「……私は幸せだったのだな」
 幸せな世界を生きていた。
 正しい力の使い方を覚える必要がなかったのだから。
「こっちです! こちらに馬車が……!」
 通りの角から人影が現れる。
 人が、集まり始める。
「殿下」
 ブルーノの呼びかけにアッセは頷いた。


ひどい目に遭った。
 襲撃されたことはもちろん、切り抜けた後もひどかった。
 現場を離脱したのち、マリアージュは簀巻きにされて、木箱の中に放り込まれた。上から藁をどっさり詰め込まれ、密閉されること一刻。そのままどこかに運ばれ、揺られに揺られて半刻。
 喉の奥は吸い込んだ藁屑でいがいがしている。
 これでもかと上下に揺られた頭はひどく痛んだ。
(き、気持ち悪い……)
「おい、しっかり歩けよ」
 吐き気を堪えて歩くマリアージュを、先行するダダンが叱咤する。
「うるさいわね……。誰のせいだと思っているのよ」
「そりゃ、お尋ね者になってるお前のせいだろ。門を抜ける根回しすんのに、こっちがどんだけ苦労したと思ってんだ」
「……アンタはいったい何しに来たのよ」
「俺の雇い主がアンタに会いたいって言ってんだよ」
「雇い主……?」
 マリアージュは思わずダダンから距離を置いた。命の危機から救われたため、素直に付いてきてしまったが、考えてみればこの男は味方ではない。誰にでも雇われうる自由人なのだ。
 身構えるマリアージュをダダンが嗤う。
「毛を逆立てんな。安心しろよ。どっちかってぇと、お前の味方だ。……信じなくてもいいが、いまは付いてこい。街を独りで歩いてもどうにもなんねぇだろ」
 凍え死ぬぞ、と、凄んで、ダダンが身を翻す。マリアージュはため息を吐いた。男の言う通り、マリアージュはこの寒空の下、ひとりで街を彷徨うなど、御免被りたかった。門を越えた先。平民たちの暮らす街は複雑怪奇に入り組んでいる。貴族街でさえ滅多に出歩かない自分が、迷わずに歩いて身を隠すような芸当、できるはずもなかった。
 マリアージュは外套の襟元をかき合わせた。日が落ちて、気温はかなり下がっている。吐く息が白い。雪が髪や肌に触れて、身体から熱を奪った。
 街は静かで、暗かった。
 燃料の節約に灯りを絞るのだと、ダイから聞いたことがある。とりわけ昨今は魔術具の街灯が調整不足で点灯しないらしい。
 道の奥はどこもかしこも闇色だ。
 行く先がわからぬほどに。
 ダダンの背だけがマリアージュの道標だった。
 マリアージュは食い入るようにダダンを観察した。周囲を警戒したくとも、しどころのわからない自分では、きょろきょろしたところで不審さが増すだけだ。ならばダダンの動きを見落とさず、ついていけるようにしたほうがよい。
 ダダンは親切ではない。マリアージュを気遣わないし、急に道を引き返したとしても、理由を述べない。一方で彼はマリアージュの体調はよくみていた。疲労の限界が来る前に休ませて、水と携帯食をマリアージュの口に押し込んだ。気が滅入り始めると、大丈夫かと問われた。
(わたしの前を行く男は、どうして、こう、なのかしら)
 ――あの男にも、こういうところがあったように思う。
 化粧師の娘はそれを彼のやさしさととったようだけれども。
「マリア」
 名で呼びかけられ、面を上げるが早いか、肩を壁に押しつけられた。身構えていなかったため、背を強かに打ち付ける。
「いっつ! ……なに!?」
「しっ」
 黙れ、と、ダダンに仕草で示され、マリアージュは口を噤んだ。
 ダダンは恐ろしく真っ直ぐに、腕に囲うマリアージュを見ていた。ここまで近く異性にじっと立たれたことは記憶にない。反射的に身構えかけ、マリアージュは別の意味で緊張した。ダダンの目は確かに自分を捉えていたが、あたかも第三の目で見るがごとく、彼は意識のすべてを背後に集中させていた。
 ダダンの肩越しに周囲を窺う。
 手燭を提げた騎士ふたりが通りを歩いていた。
(……こんなところに?)
 マリアージュたちが歩く場所は裏町だ。王城に勤務する騎士たちの隊服は否応なく目立つ。
 宙を彷徨っていた彼らの目がマリアージュのそれとかち合う。マリアージュは慌てて俯いた。
 靴音が、近づく。
 その音が迫りきる直前、甲高い声が割り入った。
「あぁああっ! やっぱりあんた! 知らない女を連れて歩いて! 自分ってぇのがありながら!」
 信じられない、と、響いたその声が、男から発せられたものだとマリアージュにはわかった。声の主を知っていたからだ。
 ダダンの顔に面倒そうな色が過ぎる。彼はため息を吐いてマリアージュから離れた。
「キンキンした声を出すんじゃねぇよ。ご近所に迷惑だろ」
「そう思うんだったら女遊びをやめるんだわさ! この不貞野郎!」
「その不貞野郎を追いかけてきたのはどこのだれだ!」
 ダダンが突進してきた男と口論を始める。彼らの後方では足を止めた騎士たちが顔を見合わせている。首を横に振り、ふたりは踵を返した。
 手燭の光が通りの角の向こうへ消える。
 騎士たちの気配が遠のくにつれ、声量を徐々に落としていたダダンたちが口論を中断する。
「……行ったか?」
「行った行った。はぁ、なんだってあんたのイロの役しなきゃなんないんだか」
「そりゃあこっちの科白だ。突然お前の頭、とうとう沸いたのかと思ったぞ」
「マ、ヒドイ。憲兵の前に蹴り出してやりゃよかったわ」
「あいつらは憲兵じゃねぇぞ。城の騎士だ」
「自分らにはどっちでも変わんないんだわ」
「ねぇ、ちょっとどういうこと……ひっ」
 真横の木戸が唐突に開き、マリアージュは悲鳴を呑み込んだ。
 木戸から男の顔がぬっと突き出る。
「オイ、いつまでくっちゃべってるんだ、てめぇら。うるせぇぞ。早く入れ」
 ダダンたちを叱咤した男がマリアージュを見る。彼は口角を笑みに上げた。
「あんたもだ。さっさとこっち入れ」
「あんた……」
 マリアージュは呟いた。
 木戸に手を掛けた男の横を、ダダンと口論していた男が通り過ぎる。彼もまた薄く笑っている。
 自分と彼らは一度だけ出会っている。
 まだ、マリアージュが女王となる前の話だ。
 ミゲルとギーグ。ダイの友人の男たち。
「いくぞ」
 ダダンがマリアージュの肩を叩く。
 マリアージュは吐息した。
 ダダンの雇い主が誰か、わかった気がしたのだ。


 革工房の長、ギーグと、彼の恋人、ミゲル。ダイの友人である彼らに、裏町の外れにある古い一室へと、マリアージュは案内された。アスマの隠れ屋なのだと、ミゲルは言った。
 三件もの娼館の主人。彼女のためなら芸妓たちが命を懸け、貴族社会で暗躍するほど信奉される女。
 ダイの養い親であるその女と、マリアージュは一度だけ顔を合わせた。そのときの彼女は宝石輝く指先を頬に当てて笑っていた。
 マリアージュの前で酒瓶を傾けるアスマの指に宝石はない。露出を控えた濃い色の衣装は簡素だった。髪は無造作に結っただけだ。それでも逃亡に疲れた様子はなく、単に身支度を調えていない寝起きめいた、なまめかしい倦怠だけがあった。
 アスマは酒で満たした杯をマリアージュに差し出した。
「飲みな。あったまるよ。イケる口なんだろ?」
「ダイから聞いたの?」
「そうだね。うらやましがってたよ。……とりあえず、祝おうか。よく無事で」
 アスマが杯を掲げて煽る。その動きにマリアージュはぎこちなく倣った。香木が鼻先で薫って、これまで経験のない味が喉を焼く。その熱に押されて血が指先まで巡った。温まりはするが、勧める類ではない。マリアージュは思わず顔をしかめた。
 アスマは笑っている。
「悪くない味だろ?」
「そうね。……ダイのことを聞かないの?」
「アルマから聞いている。あの子がいなくなったタルターザの件についても。……ダダンも教えてくれたしね」
 アスマがマリアージュの肩越しにダダンを見る。アスマいわく、大陸会議に顔を出した彼は、タルターザの乱を調べ上げて、デルリゲイリアに入国したらしい。
 ダダンをはじめとした男たち三人は、マリアージュの後方、部屋の入口近い場所で屯している。遊んでいるわけではない。彼らは外を警戒しながら、今後を相談しているのだ。
 乾した杯にアスマが酒を注ぎ入れる。このような火酒を何杯も。マリアージュは空の杯に視線を落とした。アスマの心中は見かけほど、穏やかではないのだろう。
 マリアージュは手中の杯を握りしめた。
「……――わるかったわ」
「何が悪かったんだね?」
「……ダイを守れなかったし、アルマティンたちを身代わりにして、私は城から出てきた」
「アルマたちのことは心配するほどじゃない。どうにかするさ。あの子を死なせることはないって、あんたの魔術師も豪語していたしね」
「アルヴィナ。そうだわ。彼女といつ接触したの?」
「女王交代の話が言われ始めて直ぐだね。あたしが身を隠すようにしたのも、あの魔術師に警告されたからだ。色々と都合してもらったよ。招力石やらなんやらね」
 アルマティンが所有していた招力石はアルヴィナからのものか。ならば納得がいく。
「まだあんな腕利きが生き残っていたんだね。いい魔術師を抱えているじゃあないか」
「アルヴィナは私に付いているんじゃないわ。ダイによ。……私を助けようとしたのも、ダイに頼まれたからだわ」
「それだけかね」
「あんただって、ダイが望むと思うから、私を助けたわけでしょう?」
 アスマは僅かに間を置くと、そうだね、と、肯定して目を伏せた。
「あの子はいつだってあたしの願いを叶えてきたが、その逆はなかった」
「あの子に性別を偽らせていたこと?」
「そうまでして、あの子を傍に置いていたこと」
 アスマが苦笑する。
「あたしはあの子を手放せなかった。物心つく前に、よそへやることだってできたんだ。なのにあの子に留まることを強要して、そして最後には追い出した。アルマが話したかもしれないが……あの子の自己犠牲はあたしのせいだ。だから、あの子が死地に飛び出したのは、あんたのせいじゃないし、あの子が守りたいと思ったあんたを助けるのは、あたしの役目であると思っている。今のあたしにできること少なかろうけどね。それでも、オズワルドの坊より自由が利く分、いいだろう」
 アスマはブルーノ・オズワルドを知っているらしい。彼を坊や呼びとは恐れ入る。
 ただ、と、アスマは付け加えた。
「あたしはアルマにあんたの様子を探るように頼みはしたが、命を懸けてあんたに助力しろとは言っていない。あの子、アルマティンがあんたにしたことの多くは、あの子自身の意志だし、そもそもダイがあんたを支えようと奔走していたのも、あんたに価値があるからだ。そこをはき違えたら、それは、ダイたちへの侮辱だよ」
 いくらダイの望みだからとて、無価値なものに助力するほど余裕はない。
 アスマは冗談めかしに笑って言った。
 だが、と、マリアージュは下唇を噛みしめる。
「私は……何もできなかったのよ」
 国を善く治めることも。
 自分に付き従った娘を守ることも。
 なにも。
「できるできないではなくて、そこはしてきたことを数えるところじゃないのかい? 成否はともかく、あんたは多くのことをしてきたはずだ。だから多くの人間があんたを助け、あんたは今ここにいる」
 ご無事で、と、背を押した者たちの声が脳裏を掠める。
 マリアージュは口元を引き結んだ。
 身を乗り出して、アスマが問いかける。
「それで、これからどうしたいんだい?」
「……女王に戻りたい」
「戻ってどうする?」
「ダイを探すのよ」
「あの子を探すために玉座を負う必要はないよ」
「でも私はアルマティンに、女王に戻ると言ったわ」
「本当に戻りたい?」
 女王に。
 本当に。
 心から。
 アスマの目はマリアージュを捉えている。その遠慮のない眼差しはダイのものに似ていた。
「たとえ女王に戻らなかったとしても、だれも責めない。あんたに生きて欲しいと思ったから動いた。皆、それだけのことだろう」
「……アルマティンは、あんたのためにも、私に復権してほしいって」
「いざとなったら、あたしも外に出るよ」
 嘘だ。
 アスマは貴族街に置いた元芸妓の女たちを見捨てることはないだろう。
「アルマが言ったことを気にする必要はない。あの子はちょっとあたしのことが好きすぎでね」
「……たくさん恩があるって言っていたわ。あんたが芸妓って呼んだから、自分のことに誇りを持ったって」
「呼び方を変えただけで大げさだね、あの子は」
 そうは言っても、慕われることに悪い気はしないに違いない。やれやれと手を振るアスマは満更でもない顔だった。
「その呼称だって、単に国の渾名からとっただけだしね」
「国の渾名?」
「そうさ。ご存知だろう? 芸妓の小国――……」
 芸技の小国。
 またの名を、芸妓の。
 娼婦たちが国の根幹に食い込む国。
「芸妓の呼び方って、あんたが考えたんじゃなかったの?」
「違うね。国の外からの、メイゼンブルとかから来る、客がね、あたしたちのことをたまにそう呼んでいてね」
 さすがは芸妓の国の女たち。
 上から下まで見事なものよ。
 ――上、とは。
 何を意味するのか。
 黙りこくったマリアージュの顔をアスマが覗き込む。
「……どうしたんだい?」
「アスマ」
 膝の上で拳を握りしめて、マリアージュは面を上げた。
 なぜか、夥しい数の名が消された家系図を思い出した。
 この件は、ダイを救うことには繋がらない。
 しかし。
 背を伝う冷たいものを感じながら、マリアージュはアスマに請うた。
「調べたいことがあるの」


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