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第四章 探索する俘虜 1 


 花と果物の甘酸っぱい香りが浴室に満ちる。
 湯気に白く霞む、木製の浴槽。飴色のそれをダイは初めて見る。東大陸からの輸入品らしい。陶製のものに比べて湯が冷めにくいのだとか。長湯向きの浴槽をわざわざ手配するあの男の細やかさよ。呆れればよいのか、笑えばよいのか。喜んどけば、とはゼノの弁だ。
『ディータがこんなに女に尽くす奴だって知らなかったよ、俺は』
 と、笑いながら漏らした男をディトラウトは冷たく睨んでいた。彼もこうやって友人とじゃれたりするのだなぁ、と、いたく感心したものである。
 回想に耽っていたダイを女官の声が現実に呼び戻す。
「どうぞ、ご準備が整いました」
「……あのー、本当にひとりで大丈夫なんですが」
「湯に当たって倒れられてはことでございます」
「傍に立つだけで十分ですよね……?」
「宰相閣下がご不快にならぬように支度は必要でございましょう」
 ダイは初老の女官が抱える籠を一瞥した。中には香油を始め、肌を磨く道具一式が詰まっている。誰に用いられる予定か。自分だ。
 宰相は支度の大半を自分ひとりで終える。退屈していた彼付きの女官たちは、世話できる年頃の娘、つまりダイを得て、玩具を与えられた子供のようにはしゃいでいた。適当に相手をよろしくお願いします、と言い置いて仕事に出た男へ胸中で悪態をつく。ひとに面倒ごとを押しつけて。
 まぁ、女官たちもダイをもみくちゃにはするまい。なにせ、病み上がり。医師から湯浴みの許可が出たばかりなのだから。
 やれやれ、と、ダイは諦め、薄着の裾をからげて、浴槽に足を踏み入れた。
 ほどよい温度に調節された湯が足許から身体を温める。湯には乾燥させた果物や花の花弁が散っている。薬効のあるもので、肌が滑らかになるし、香り付けにもなるという。
 ダイが腰を落ち着けた頃合いに、侍女が湯瓶を傾け接ぎ湯する。水位が上がるにつれて身体の隅々まで熱が巡った。
 大陸会議の移動中は水の制限があるため身体を拭くに留まっていた。湯にゆったり浸かるなど、本当にいつぶりだろう。深く息を吐くと同時、罪悪感がちくりと胸を刺した。
 マリアージュは玉座を追われたのだという。
 彼女は王城から姿を眩ました。その行方は知れないまま、年が明けようとしている。
 安全な場で身をひそめているだけであってほしい。そうであったとしても、窮屈な生活を強いられているはずだ。一方の自分はこのように、真綿でくるまれるが如く、何不自由ない日々を過ごしている――身体が思うようにならないが故の不可抗力だったとしても。
 りりん、と、鈴が鳴り、ダイは視線を上げた。ラスティがダイの顔を心配そうに覗き込んでいた。
「すみません。ひさしぶりにお湯に浸かったから、少し違和感があって。もう大丈夫です。お湯加減もちょうどいいですよ」
 口の利けないこの侍女は、昏睡状態であったころから付いていたせいもあってか、ダイをつぶさに観察していて、ささいな浮き沈みも見逃さない。ダイの抗弁に耳を傾けていたラスティは、やがて表情を緩めて頷き、空の湯瓶を抱え直した。
 その拍子にめくれた袖口から彼女の肌が覗く。
 彼女の腕には醜く爛れた痕があった。
(……なんの、傷なんだろう)
 ラスティだけではない。ダイに新たに付けられた女たちの肌には、どこかしら傷があった。顔に引き攣れた痕の見られる者もいて、彼女たちが被る薄布は単なる装飾というより、癒えぬ傷を隠す役も担っているようだった。
「シンシア様」
 女官の呼びかけにダイは我に返る。世話役の人員を増やすにあたって、ダイに付けられた偽名だ。女子に最も多く見られる名で、素性を辿られにくい。
 女官が香油の乗った手のひらをダイに差し出す。そのやたらきらきらした笑顔の意味に、ダイは口端を引き攣らせ、しかたなく女官の手に自分の腕を載せた。
 これもいずれのための勉強と思えば――罪悪感に蓋をできなくもなかった。


 ダイ自身の煩悶をよそに、ディトラウトはいつも暢気に一日について尋ねる。
「久方ぶりの湯浴みはいかがでしたか?」
「つかれました……」
 もちろん、ゆったりと湯に浸かって身体がほぐれたことは確かだ。息巻いていた女官たちもダイの体力を考慮して、肌磨きを控えめにはしていた。要するに、気疲れである。研修目的でもなく他人から触られることに慣れない。やはり、自分はする側の人間なのだ。
「湯浴みのほかは何を?」
「寝ていました。そのあとは散歩をして、本を……借りていた画集、全部よみおわりました。ありがとうございました」
「わかりました。回復しているようでなによりです。次を何か準備しましょう」
 着替えを終えながら、ディトラウトが思案する。ダイは控えめに、あの、と、希望を述べた。
「大陸会議の議事録、読みたいんですが」
 ディトラウトがダイを見る。蒼の目がいやに酷薄に見えた。ダイは萎えた足で踏ん張った。なに。ペルフィリアの機密書を寄越せといっているわけではない。大陸会議の議事録はダイもすでに目を通したことのある公文書。過去のおさらいのために見せて欲しいだけだ。
 ――身分あやふやな女に公文書を公開する。それに問題がないかと問われれば、大有りだろうが。
 ディトラウトがダイに先導のための手を差し出す。
「文字を読んで気分が悪くなるといったことは?」
「正直にいえば、疲れやすいので一気には。でも、吐きたいということはなくなりました」
「それはよかった」
 体調が安定したこともあり、暇つぶしに本を借りた当初、文字にぐわんと目が回って嘔吐しかけた。ディトラウトが絵本や画集、図説を中心に準備した意味が、そのとき初めてわかった。ひと通り読み通し、これなら文字のみに移っても、と、確信を得て、今回は要望を出したのである。
 ダイが載せた手を引いて、ディトラウトが告げる。
「考えておきましょう。……散歩したときの足の調子はどうですか?」
「急ぐと痛みますが、ゆっくりならいまのところ、問題はない気がします」
「無理をすると完治が後れますから、ほどほどに」
「わかっていますよ」
 無理をしたくとも不可能だ。ダイが出歩くことを許可された区画はわずかだ。その中を一周するだけで、睡魔に襲われる。
 己の身体の状態にほとほと嫌気が差す。だが医師の言葉を聞くに不満も漏らせない。
 どうやら自分は本当に、まぼろばの地の扉を叩いていたようだ。後遺症もなく回復していることが奇跡らしい。
 ディトラウトとふたりで居室に戻る。長卓には夕餉の支度が調えられていた。ディトラウトの帰りは遅いので、先に食事をすませてよいと、当の本人には言われているが、ダイはなるべく待つようにしていた。ひとりで食べても味気ないし、彼の作法は洗練されていて、見学するだけで勉強になる。
 ダイたちの着席を待ち、給仕が始まる。麺麭と、温野菜をゆでたもの。鶏肉の煮付け。香辛料は控えめだ。
 ディトラウトが給仕係を下がらせる。残される人間はラスティのみだ。
 ディトラウトが野菜を切り分けながら問う。
「議事録を読んで何をしたいのですか?」
「復習です。……わたしはあなたと違って、政は本職じゃないですから、感覚を忘れると困るんですよ」
 自分は根っからの職人だ。マリアージュの傍に身を置くようになって初めて政の世界に踏み込んだ。政治感覚は現場にいてこそ身につく。議事録ひとつ振り返ったところで何かが大きく変わるとはいえないが、過去の情報を復習うという点では意味がある。
「あなたの王は行方不明のままですよ」
「……無駄な努力とおっしゃりたいんですか?」
「まさか。前向きだなと称賛している」
「さようで。あっちに動きは?」
「ありません。なにもね」
 新しい女王が立つわけでもない。
 ペルフィリア宰相としては困っているらしい。
「このままだと兵を無駄に国境で越冬させてしまう。進展を望んでいるのは、私も同じです」
「女王候補の方々の動きは? ないんですか?」
「ありません」
「では、あの方々はいまどこで何を?」
 ディトラウトが匙で肉をほぐす手を止める。
 ダイは野菜を皿の上でまとめながら追及した。
「女王が不在ともなれば、女王候補がその穴を埋める。それが決まりです。女王が玉座から離れたなら、逃亡したなりなんなり理由をでっち上げ、候補をその座に据えるはず。三人もいるんですよ。彼女たちは何をしているんですか?」
「それは私も知りたいところですよ」
 かつ、と、匙を皿に押し当て、ディトラウトは嘆息した。
「あなた、リリス・カースンを知っていますか?」
「……メリア・カースン様の妹御ですか?」
「会ったことは?」
「あります、けど」
 今年の社交季に幾度か彼女の主催する茶会に呼ばれた。彼女の侍女たちに化粧の指導もしている。
「彼女は姉と一緒でしたか?」
「……いえ」
 ディトラウトは何を探ろうとしているのか。
 ダイは頭の中で秘匿すべきものと条件次第で開示してよいものに情報をより分ける。
「候補の方々が動かない理由と、リリス様の件に関連があるんですか?」
「どうしてそのように?」
「話しの流れ的に。候補の方々について、あなたが掴んでいる情報を教えてくださるなら、私もリリス様について話しますが?」
「動きのない国の現状を知ったところで、あなたに何ができるというわけではないでしょう」
「そうですね。それでもこれからの身の振りを考える判断材料にはなり得ます」
 正直に言えば、単純に情報に飢えている。
 ダイの周囲に付けられた者たちは総じて口が堅い。あるいは、そもそも何も知らされていない。
 デルリゲイリアの現状について、知れるものがあるなら何でも知りたい。
 ディトラウトが匙を置く。
「リリスに会ったときの、同席していた人間をもれなく教えてください。引き替えに私は知りうる限りの女王候補たちの現状を教えましょう」
「……いいでしょう」
 取引は成立だった。
 ディトラウトがラスティに酒の支度を頼んで追い払う。警護に立つマークが扉を閉じきり、《防音》の魔術が再起動する。
「現在、女王候補たちの所在はマリアージュと同じく不明です」
「……三人、全員、ですか?」
 開示された情報に、ダイは愕然と呻いた。
 ディトラウトが首肯する。
「いずれもばらばらに拐かされたらしい」
「いつ?」
「タルターザの件の前後です。死体も上がらないようですね」
「……っ、それ、手がかりひとつ見つかっていないってことですか。もうすぐふた月じゃないですか! 皆は何を」
「マリアージュを蹴落とす算段をしたあとだ。それぞれ、自身の擁する候補が消えたと、公にできずにいるようですね」
 空いた口が塞がらない。
 カースン、ベツレイム、ホイスルウィズム。三家の長の顔を思い浮かべ、ダイは頭痛を堪えた。
「協力してことにあたっていない。そういうことですか?」
「えぇ。どの家もばらばらですね。傘下の貴族にすらうまく指示を出せていない。デルリゲイリアの現状が硬直している理由のひとつでしょう。……行方不明になった三人に代わって、女王候補として据えられている娘が、リリスです」
 ダイは疑問に眉をひそめた。
「候補の変更は上級貴族たちの承認がいるはずです。メリア様たちの件が隠蔽されている状況で、リリス様が候補になれるとは思えない」
「ご名答。カースン家の候補はメリアの名で記載されたまま。なのにリリスは候補のように振る舞えている」
「その後ろ盾を探るために情報が欲しいと」
「見当はついていますが、動き始めた時期が知りたいのでね」
 ディトラウトが高杯を取り上げる。水を飲み干す男の喉が鳴る。
 彼からの情報提供は一区切りらしい。
 ダイは空になった皿を除けた。
「私がリリス様とお会いしたのは社交季です。そのころすでにメリア様は領地においででした。今季の社交季には出られていない」
「それはなぜ?」
「領地経営を学ぶためです。カースン家には男子がいませんから、教育に力が入っていたとしても不思議には思いませんでした」
「……家長にするなら、貴重な社交季に、メリアを出すべきだ。そうしなかったということは、その時期からもうカースンとしてはリリスを推す予定だったのでしょう。……カースン家の人間には会いましたか?」
「当主夫妻とは会いました」
「他には? カースンからだれか紹介されたことは?」
 ダイは記憶をひっくり返した。マリアージュを支える伝手を求めたダイは、様々な人間を紹介されている。そのなかで特筆すべき存在があるかどうか。
 貴族や商人の名を順番に挙げていく。ミカエラ、ヘッツェ・ウォルマート、ダイアン・ロッソ……。
 レジナルド・エイブルチェイマー。
 最後に述べた名に対してだけ、ディトラウトが眼光を鋭くした。
「……レジナルドがあなたの知りたがっていた人?」
「そうです」
「聖女教会の人間だと伺いました」
「あれは元々、ペルフィリアの人間です。……あなたはマーレンにいましたね。チェンバレンの名に覚えは?」
「……マーレンの前当主でしたか?」
「レジナルドの本当の姓はチェンバレンといいます。あれはペルフィリアで女王の執る魔術に依らない技術導入に反対していた急先鋒でした。熱心な聖女信仰者であり、我々の追跡を逃れ、教会を頼って小スカナジア領に亡命した」
 その男がデルリゲイリアにおける今回の騒ぎの首謀者であると、ディトラウトはみているのだろう。
 情報から察するに、レジナルドはカースンを通じ、リリスを新女王に推している。
 だが何のために、デルリゲイリアに潜入し、女王を擁立しようなどと――……。
 そこまで考えてダイはディトラウトを見た。
「あなたと……おなじですか?」
 ダイはマークの存在に配慮し、詳細に口にすることは避けた。
 それでもディトラウトは発言の意味を違うことなくくみ取ったようだった。
 ディトラウトは問いに答えない。無言を肯定ととって、ダイは目を伏せた。
 遠い雷雨の夜から繰り返した命題が、胸にいま一度よみがえる。

 この男はなぜ、デルリゲイリアで女王を欲したのだろう。


 食事を終えると、言葉数少なく、ふたりで寝所に入る。色艶めいたことはない。本当に、共に寝るだけだ。
 夜半に目覚めると、ダイを緩く腕に抱いて、寝息を立てる男の姿が間近にある。文字通り、泥のように眠るディトラウトの貌に、疲労の影が差していた。
 朝は早く、夜は遅い。年末年始に付随する業務で、いまの時期はとみに忙しいはず。加えて、周辺諸国への情勢不安の対処。積雪に拠る諸問題への差配。そういった諸々の政務をこの男はひとりで監督しているらしい。
(女王は他のことを見ているんでしょうけど……このひと、ミズウィーリに三年もよくいれましたよね……)
 この男が不在の間、セレネスティはひとりで政務をこなしていたのだろうか。
 それとも、彼がミズウィーリから指示していたのか。
 どちらにしてもイェルニ兄妹の行動は正気のものではない。
 ダイは男の頬を撫でた。少しざらついている。髪を梳くと、金色がさらさらと指から零れる。彼は軽く身じろいで、ダイの手に頭を寄せた。それが哀願を請う子供のようで、なんだかかわいく思えてしまう。
『……一緒に寝てやってほしいんだよね』
 ゼノが言った。まだ、自力では立ち上がることもできないころのことだ。
『あいつさ、不眠がひどくて。いつぶっ倒れてもしかたがないんだけど、君とだったら、ちゃんと、眠れるみたいだから』
 睡眠は浅く、食事は味を感じず、胃に入れても吐いて、それでも、走り続ける。
 すべては、女王を支えるために。
 ダイにも覚えがある。
 いや、逆か。
 この男はすべて知っているから、ダイを見捨てられなかったのかもしれない。
 ――ディアナが眠る男の額にくちづける。
 自分もまた彼に抱かれて眠ることを欲しているのだ。
 それがいっときだけのことであっても。
 赦されざることであっても。


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