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序章 払暁の終焉 


 状況を説明され、アルヴィナは掠れた声で呻いた。
「シンシアを殺すために、私を捕らえたの? ……アーノルドが?」
 アーノルド・トアンはシンシア最愛の伴侶であり、無二の騎士だった。旅の初期からシンシアの守り手だった。アルヴィナ自身にとっても得がたい友だったのだ。
 足許が魔術灯によってほの照らされるだけの暗い通路を先駆ける男は、アルヴィナの確かめにも背を向けたまま短い応えを寄越した。
「そうだ」
 いままさに殺そうとしているのだと、彼は言う。
 妹を。
 アーノルドが。
 そして、かつての仲間たちが。
 苦楽を分けながら共に大陸を回った者たちが、突如アルヴィナを捕らえて本宮の地下に投獄した。苦渋の色を滲ませる彼らに、何があったのかと問うたところで答えはなく、アルヴィナは牢に三日三晩放置された。いまアルヴィナの前を行く男が開放してくれなければどうなっていたことか。
「俺の話を……俺を、疑わないのか?」
「……ヴァイスを? ……いいえ」 
 いっとき振り返った男と視線がかち合った。
 出逢った時期は旅の中期で、そのとき彼は敵対する陣営に属していた。顔を合わせるたびに戦って、最終的にアルヴィナは彼の弟を――自分にとってのシンシアを殺した。彼は利害の一致と契約に基づいてシンシアの側に与した男だ。弟の件もあってアルヴィナの死は、この男にとって、喜ばしいもののはずだった。
 彼がわざわざアルヴィナを救った。
 だからこそ、信じられる。
 この男もまたアルヴィナと同様、直近のアーノルドの変化に、戸惑っていた人間のひとりだったのだ。
 アーノルドとヴァイス、どちらを信じたいか。無論、前者だ。シンシアのためにも。
 だがどちらが信に値するかとなれば、ヴァイスのほうだった。弟の仇として長らくアルヴィナの命を欲しながら、それでも戦場では確実にアルヴィナを救い続けた。無駄を好まず、常に合理的で、嘘を言わぬ男だ。
 ヴァイスはアルヴィナから目を逸らすと緩めていた足を再び速めた。
「アーノルドはシンシアの死で病が祓えると主張している。死によって開放される聖女の御力……魔女に蓄積された莫大な魔力を使って、然るべき儀式を執り行えば、あの病をすべて祓えるのだと」
 二年ほど前からとある病が流行している。負った傷口から膿みただれ、やがて全身へと広がる奇病だ。病を得た者は急速に老い、数ヶ月を待たずに死に至る。骸は泡立った木肌を有するねじくれた古木のよう。原因はわからず、治癒の術もない。一般的な治癒魔術は症状を悪化させて病の進行を早めるために厳禁とされていた。
 だれも彼もがちいさな傷ひとつ負わぬように恐々としている。
 聖女を迎えて栄華を謳歌していたスカーレットは、あたかも暗黒期に遡ったかのごとく消沈していた。
 病は都を中心に広がっている。幸いなことに伝播の勢いは都から離れるにつれて失速していた。けれども大陸全土に広がるまで時間の問題だろう。そう思われていた。
「あの病が何か……アーノルドにはわかったの?」
「あぁ」
 初めて病の発症が都で認められて以後、アルヴィナは方々の記録を読みあさり、ときには病に没した者の遺体を切り開いて、治癒の方法を研究し続けていた。けれども悔しくも病の正体すら、明らかにできなかったのだ。
「……シンシアの死で、本当に、それを、祓えるの?」
「祓える。が、彼女が死ぬ必要はない」
「……あれは、いったい」
「呪いだ、アルヴィナ」
 弾む呼気の間から絞りだすようにヴァイスは言った。
「魔女の呪い。……魔女と呼ばれる女たちは、身のうちに抱える夥しい魔力で、周囲に呪いを振りまく。……シンシアの場合、魔力の発現の仕方が治癒だった。だから呪いではなく祝福とされた。その力は戦で傷ついた者たちを遍く癒やした。彼女は魔女ではなく、聖女として扱われた。……我々は、思い違いをしていた」
「シンシアの魔力も呪われていた?」
「呪いではない。性質だ。シンシアの魔力の性質は賦活。魔力を活性化させる力だ。死に瀕していればいるほど、その力は治癒の方向に働く。戦時中においては魔術の増幅装置としての役も担った。だが……戦は終わり、スカーレットに落ち着いて、シンシアの魔力は癒やすべきものを失った」
「……あの、病は」
 アルヴィナは愕然とした。検屍したときの光景が脳裏を過ぎる。傷口に集中していた魔力の残滓。老人もかくやというからからに乾いた肌。魔の粒子ひとつひとつが肥大化し、器から内在魔力が押し出されて、その量は老年のそれに等しかった。
「一言で言うなれば、治癒のしすぎだ。都にあふれたシンシアの魔力が、負傷した人間に働きすぎた結果だ」
 シンシアが都から離れれば、状況はいずれ回復するはず。
 傷病者の多い荒れた土地に移動すれば彼女の呪いはまた祝福となる。
 ヴァイスの推測にアルヴィナは疑念を抱いた。
「そこまでわかっているのに、アーノルドはシンシアを殺そうとしているの?」
「俺の推測だが、奴はシンシアが病の原因であることを周りに知られたくないのだろう」
「そのためだけにシンシアを?」
 守ると誓った女を。妻を。
 アルヴィナの妹を、アーノルドは、殺そうというのか。
「……正しい理由は無事にシンシアを救い出してから奴に聞け。シンシアは贄となることを大公に了承してしまった。アーノルドは古代の術に長けた術者を、昨晩から活発に何人も動かしている。シンシアとの面会も潔斎を理由に断られた。今朝から彼女の姿をだれも見ていない」
 すまない、と、ヴァイスは詫びた。
「彼女の確保を優先すべきだった」
「……わたしを、探していたの?」
「アーノルドはお前があの病を得て療養に入ったと公表していた。シンシアが贄を受け入れたのもそれが理由だ」
 走る男の背を見つめ、牢の前に現れたときの、彼の形相を思い出す。
 必死の顔。自分に息があるとわかったときの露骨な安堵。
 その青ざめた頬に跳ねた血に、彼が自分を救う過程で、同胞を殺めたと悟らされた。
 ヴァイス、と、アルヴィナは呼びかけた。
「どうして私を助けたの?」
「こんなことは間違っていると思った。だからだ」
 ヴァイスが立ち止まり、アルヴィナを振り返る。
 アルヴィナも足を止めた。
 改めて男を見上げる。
 ずいぶんと久方ぶりに彼と対峙した。
 戦場では共に攻撃手として横並ぶことが多く、スカーレットでは同僚でもお互い単独行動。世間話の折も壁を背に隣り合ってばかりの間柄だった。
 男は静かな目をしている。己の唯一だった肉親(おとうと)を奪った女を前にして。
 相対していた時間は瞬く間だった。ヴァイスが警戒の目を背後に走らせる。すぐ側の三叉路。その片側から複数の慌ただしい足音が響いている。
「アルヴィナ、先に行け」
 ヴァイスがもう片側の道を指し示した。
「シンシアはおそらく大聖堂だ。術者の出入りが集中していた。そっちを行けばもうすぐ聖堂近くに出る。俺もすぐ追いつく」
「ヴァイス」
 なんだ、と、ヴァイスが億劫そうにアルヴィナを見る。
「全部終わったら、北へ行きましょう」
「突然どうした?」
「私たちの生まれた土地よ。ここを抜けたらどこへ行くのも自由じゃない? 一緒に行きましょう」
 どうせこの男からも帰る場所は失われている。
 故郷を出て早十余年。いまさらあの地に戻ろうなどという発想を抱くとは思わなかった。
 だがいくつもの荒れ野を越えた先にある北の果てなら、辿り着く頃に妹の呪いも穏便なものとなっているはず。
 集団生活を覚えたのだ。幼いころとは異なって、点在する村のいずれかに、馴染むこともできよう。
 籠いっぱいの焼き菓子に、紅茶をひと瓶たずさえて、怠惰に日々を費やす生活に、この男を巻き込むのも悪くない。
 男は小さく笑って、野犬を払うときのように手を振った。
「まずはシンシアを救ってからだ。……早く行け」
「またあとで」
「あぁ」
 踵の音たかくその場を離れる。
 石造りの古い通路からは黴と土のにおいがする。蛇のようにうねる道を駆け、穿たれた穴に足を掛けて壁を登れば、聖堂に併設された薬草園の古井戸に出た。
 夜明け前。平時ならば静まり返っているべき時刻。しかし複数の人の気配が蠢いていた。
 遭遇した者を締め上げ、詰問し、ときに屠りながら、アルヴィナは走り続けた。
(シンシア)
 母の腹より出でた瞬間から傍らにあった双子の片割れ。
 私の妹。
 たった、ひとりの。
(はやまらないで)
 私はここにいるわ、シンシア。
 生きているから。
(だからどうか死なないで)
 わたしを。
 ひとりにしないで。


 シンシア・レノンはヴァイスにとって、肉親の死を誘引した仇である。仮初めの居場所を与えた契約者である。
 アルヴィナに残された、唯一の血族である。
 他を圧倒して有り余る魔力を有するが、善良で性根の真っ直ぐな娘にすぎない。仲間として引き込んだ者にはだれかれ構わず深く情を傾けていた。第一の騎士。最愛の夫に注いでいた親愛はことのほか深かった。その男から死を願われるのだ。これを哀れと言わずして何と言おう。
 シンシアだけではない。栄達を約束されて加担した者たちも、そしてアルヴィナも。
 男は騎士と魔術師を率いて現れた。
 待ち構えていたヴァイスをひとめ見るなり男は冷笑を口元に刷く。
「大人しく投降してくれるとは殊勝だな、ヴァイス。手間が省ける」
「クロムウェル。アーノルドはお前に何を約束した?」
「言われただろう。さらなる栄達だ。神世の術式にて忌々しい病と先王の一派を一掃する。シンシアを贄とすることは……心苦しく思うが」
 彼はかねてより出世欲の激しい男だった。その点を付け込まれたか。ヴァイスは密やかに嗤う。
「あの男の言葉を信じたのか? シンシアの死に関わらんとする者を、奴が放置するはずなかろうが」
 術者たちが閲覧した資料群から察するに、アーノルドが命じた魔術のもたらすものは破滅以外にない。あれは魔女の死により解き放たれる膨大な魔力に、指向性と攻撃性を持たせて散布する禁呪である。
 自分たちも含めた公都にいる皆は、揃って消し飛ぶか奇形化するだろう。
 ヴァイスの言葉にクロムウェルは不快さを隠さない。かといって寝返りもしなかった。彼はヴァイスの肩越しに暗闇を睨む。
「アルヴィナはその先か」
「彼女が恐ろしいか?」
 アルヴィナ・レノンは魔女ではない。
 だが魔女に次ぐ稀代の魔術師だ。シンシアの絶対の護り手。だからこそ不意を衝いてアーノルドは彼女を押さえた。
 殺気立つかつての同僚に笑いかけて、ヴァイスは魔力を鎧って姿を上塗る。敵方の魔術師にこの身の魔の流れを掌握されぬように。
 数多の燐光が足許から揺らぎ立ち、自分たちの肌を薄緑色に染めていく。
 ヴァイスはついと上げた指先で宙に陣を描いた。打てば響くように呼応した魔が明滅する。燐光により生み出された影から漆黒の闇がぞろりと這い出る。
 たじろいで蹈鞴を踏む男たちをヴァイスは一笑した。
「まぁ、よそ見をしている余裕などあるまい? 俺ひとりでも――お前たちを殲滅することは容易いぞ」


 魔力を叩き込んで魔術錠を破壊し、アルヴィナが重厚な扉を押し開いたとき、大聖堂の深部たるその御堂には、縦に長い窓から薔薇色の光が差し込んでいた。
 日頃は列を成す長椅子がすべて取り払われている。顕わとなった磨き抜かれた薄紅色の床。その上に、複数人がかりで敷いただろう、魔術の巨大な陣が刻まれている。赤黒い墨の大元を想像することは容易い。陣の要となる部位に埋め込まれた赤い玉が何であるかも。
 紅の、と、二つ名を冠した国にふさわしく、あかの光に染め上げられた御堂は美しかった。神と獣を描いた色窓が、上下に広い空間の中央に、絶妙な虹の差し色を添えていた。
 光の粒に彩られてひとりの女が横たわっている。透かし編みと薄布を重ねた衣装を纏う姿は花嫁に似て。しかし腹部に突き立つ剣が異様だった。彼女の傍らには片膝を床に突いて項垂れる男がいた。傍目には女を襲った非業を、嘆いているようにしか見えなかった。
 男が面を上げる。
 剣の柄から手を離す。
 夜色の玉を食む獣の意匠が鈍く光った。アルヴィナの到着を嘲笑うように。
 女の虚ろな目がアルヴィナを捉える。
 アルヴィナとよく似た面差しが喜色に綻ぶ。
「ね……え、さ」
「シンシア!」
 反射的に片手を下から振り上げる。アルヴィナの魔力に反応して、高熱を宿す光が宙を引き裂く。刹那、ぱし、と、音を立てて、陣の中心近い円が放電した。シンシアを取り巻いて立ち上がった円筒形の光の壁が、アルヴィナの生み出した熱波を飲み込み咀嚼する。
 男はシンシアの傍から離れていた。祭室へ続く扉に彼の衣服が消える姿を横目に、アルヴィナは魔力の壁を突き破って妹に取り付いた。
 青白い頬に手を添える。
「シンシア……」
「ね、さ。……無事で」
「そうよ。ヴァイスに聞いたわ。馬鹿なことを。……どうしてあなたは、いつもいつも、自分の身を粗末にするの!」
 妹にはもう少し保身に走ってほしかった。自己犠牲が過ぎるのだ。
「……ねぇさんが……みんなが、たすかるって」
「違うわ。あなたひとりが死んでも何も変わらない。変わらないの!」
「だって……あーのるどが」
 アルヴィナはシンシアの手を握りしめた。彼女の腹部に視線を移し、美しい白銀に舌打ちする。
 獣の剣(エスメラルダ)は魔女を守るべく定められた剣だという。剣はアーノルドの手にあって曰く通り、長らくシンシアを守り続けてきたのだ。
 彼女に忠誠と愛を誓ったその剣で、シンシアを愛したその手で、この平らかな腹にあの男は剣を突き立てたというのか。
 彼女の身体から流れた血を吸って、禁呪の陣が魔力の光を帯びていく。
「お前が悪いのだ、アルヴィナ」
 アルヴィナは頭上を振り仰いだ。
 二階の周歩廊に男が立っている。自分たち姉妹が誰よりも長くいた男。
「アーノルド」
「お前のせいで手元が狂った。シンシアを長く苦しませるつもりはなかったのだ」
「戯れ言を」
 シンシアの腹を貫通した剣は抜けなかった。治癒の術も追いつかない。シンシアの魔力は陣に食われながら開放の時を待つばかり。
 忌々しく睨み据えた男に娘が寄り添う。波打つ豪奢な金の髪を編み上げた娘。スカーレットの姫君。
「……お前もそこから離れねば死ぬぞ、アルヴィナ」
 アーノルドは娘を抱いて外套を翻した。燐光が気泡のように立ち上ってふたりを呑み込む。波打つ魔力から転移陣の起動を悟り、アルヴィナは臍をかんで項垂れた。
 ねぇさん、と、シンシアがアルヴィナを呼んだ。彼女の七色に移ろう銀の瞳からは焦点が失われている。アルヴィナは妹の手を握る指先に力を込めた。シンシアの手は真冬のように冷えていた。
「……わたし……、じぶんをそまつにしたこと、ないよ」
「黙って」
 剣の除去と陣の妨害。同時にシンシアの身体の治癒と体力増強。
 思いつく限りの術を行使していく。
 だが魔術は組み上がった端から綻んだ。シンシアの肌は破裂寸前の内在魔力に押されて泡立っている。彼女の魔力に感化されたか。アルヴィナの体内でも魔力が暴れた。息が吐けない。肌から、まなじりから、汗や涙の代わりに血が滲みだす。
「わたしは……わたしのすきなひとを、まもりたいだけだった」
「えぇ」
「わたしは、まじょでも、せいじょでも、なくて……ただのね」
「シンシア」
「すきなひとを、まもりたい、だけの、ばかな、ただのひとだったの」
 ねぇさん、と、震えた声がアルヴィナを呼ぶ。
 ごめんなさい、と、彼女は謝罪した。
「わたしが馬鹿だったの……。ねぇさん。ごめんなさい。ねえさん。アルヴィナ姉さん。どうか……姉さんだけは、だれも、恨まないで」
「アルヴィナ!」
 開かれたままの扉から男が堂内に飛び込む。だが陣の外円が光を放って彼を吹き飛ばした。
「ヴァイス!」
 アルヴィナは腰を上げようとしてその脚がもう動かぬことを知った。
 肌が鉄色に変じ、輪郭は崩れ、霧のように溶け出していた。
 己の非力への悔恨。絶望と憤怒。
 吹き荒れる感情に突き上げられてアルヴィナは叫んだ。
「……っ、どうして裏切ったの! アーノルド――っ!!」


 それは、古き時代。
 歴史の影に埋もれた話だ。


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