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終章 離離たる人々 1


 深い森の泥濘に黒鞘の剣を見出し、聖女の形代は嘆息を禁じ得なかった。
「どうしてこれが、ここにあるの……」
 古い剣だ。
 彼女は夜色の宝玉を噛む獣の意匠を、歴史の転換で繰り返し目にしてきた。
 この剣は、獣の剣。魔女を求めて世界を彷徨い続ける剣。
 その傍らには魔女が在ると決まっていた。
 今世の魔女はここにはいない。この剣はここに在るべきものではない。
 彼女が手を伸ばすと剣は転移の魔術を編み始めた。舌打ちして封殺の術を組む。
 剣は悲鳴を上げて沈黙した。
 柄に手を掛けて剣を拾い、忌々しく獣の意匠を睨む。
「お前ね? 付けておいた糸を断ち切ったのは」
 彼女が探していた娘と、剣は接触したのだろう。だからこれ以上の探索ができない。
 剣は答えない。
 宝玉をひと睨みしたのち、彼女は緑の天蓋を仰いだ。
「さて、戻らないとねぇ。……頼まれたもの」
 彼女は馬に跨がって脚を締めた。
 森に抱かれる数々の骸が黙って彼女を見送った。


 タルターザからはユマの遺体のみが返却された。
 彼女と共に働いていた者たちは、皆、目も当てられぬほど沈痛な面持ちだ。
 ダイは数日を経ても行方知れずのまま。アルヴィナは彼女を探しにタルターザへと発った。一方のマリアージュはデルリゲイリアへと出立した。国を離れて数ヶ月。これ以上、帰国を延期はできなかった。
 初めはアルヴィナが戻ってから出発する予定だったが、彼女は次いでに砦へ話を聞きに行くという。あとで合流する旨の言付けを、マリアージュはロディマスから聞いた。
 ところが幾日経っても、彼女から音沙汰がない。
 馬車の窓から流れる景色を目に入れ、マリアージュは茶器を置いて呟いた。
「おかしいわね……」
「何がおかしいんだい?」
 対面の席で紅茶を啜っていたロディマスが顔を上げる。
 マリアージュは口先を尖らせた。
「アルヴィナはいつ合流すると言っていたの? もう国境に着くわよ」
 あと四半刻もすれば到着するだろう。
 ここまで来て追いつかないならば、彼女に何かあったと考えるべきだ。
 ロディマスが顎をしゃくる。
「……ダイをそのまま探しているとか?」
「何の連絡もなしに?」
 彼女は遣い魔すら寄越していない。それがいっそう不安をかき立てる。
 己の肩を抱くマリアージュに、ロディマスはため息を吐いた。
「前々から言いたかったんだけどね、君は少しひとを信じすぎじゃないかい?」
「……心外ね。自分では疑い深いつもりだけど」
「傍目にはまったくそう見えないよ。先日のダイの件も……アルヴィナも」
「……アルヴィナがどうしたっていうの?」
 ダイの――“あの男”との件についてはわかる。ペルフィリアへの内通を疑えということだ。
 しかしアルヴィナは問題を何も起こしてはいない。
 ロディマスが眉間の皺を揉みながら言う。
「何もしていない。確かに。けれど彼女は、何者なんだよ? 卓越したなんていう域を超えている」
「紹介状は確かだったんでしょう?」
「紹介状は確かだ。でも、彼女の経歴について、言及していなかった」
 城内の勤務に必須である紹介状。アルヴィナが提出したものは特殊だったと聞いている。
 彼女を雇用すべきか問答したのち、過去の採用実績を踏まえて、ミズウィーリ家から推薦状を出した。
 彼女の登用は正解だったとマリアージュは思っている。
 マリアージュはロディマスに訴えた。
「私は彼女の魔術に助けられてきたわ。何度も」
「それは認める。でも、質すべきだ」
 今後も女王の傍に侍るならば。
 ロディマスが渋い表情で主張した。
「彼女も疑っているの?」
「彼女もまたダイの件を知っていたと聞かされればね」
 だから証明する必要がある。
 彼女がペルフィリアの人間ではないということを。
「……アルヴィナがこの国の人間だったとして、何のために私たちに味方したの?」
「ダイを守るためだろう?」
「何のためにダイを守るの?」
「……依頼を受けたのではないかな?」
 ヒース・リヴォートから。
 マリアージュは嗤った。
「そうね。その可能性、あるかもしれないわね。でも……疑いすぎよ」
 仮にアルヴィナがペルフィリアの魔術師だったとして。セレネスティがあの稀代の魔術師を傍から離すと思えない。護衛、術の調整、魔術具の制作までしてのける。ダイの職を貶めるわけではないが――化粧師のお守りに、アルヴィナは過ぎた存在だ。
 イェルニ兄妹ならもっと有効的にアルヴィナを使いこなす。
「君は信じすぎだ――何もかも」
 渋面のまま呟いたロディマスは、気怠そうに椅子の背にもたれかかった。
 その亜麻色の瞳には憂いがある。
 ロディマス・テディウスという男は、奇矯な男だった。
 上級貴族でも底辺にいたマリアージュを昔からかまい続けた。女王選出の儀に至ってはマリアージュに投じたという。マリアージュの即位と同時に宰相の任に就いてから、王子時代の奔放さや驕慢さは形を潜めて、生来の繊細さを覗かせながら、誠意をもってマリアージュを支えようとしていたことがわかる。
 マリアージュはふと笑った。
「……あんたがいるからよ、ロディマス」
 ダイやアルヴィナに疑心を抱く男を責める気にはなれない。それが国を護り女王を支えよと育てられ、教えの通りに生きている彼の責務だから。
 彼は女王に代わり最悪の可能性を拾い上げて検討する。彼のその行為がマリアージュに許す。自分の選択を信じることを。
「悪かったと思っているわ」
『女王を降りる』
 これまでの彼の行いを足蹴にするような発言をして。
 ロディマスが愕然とマリアージュを見る。
 彼は傷ついた顔をしていた。
 謝罪されているのに、彼はなぜそのような――……。
「……ロディ、マス?」
 彼の顔の輪郭が歪む。
 馬車が揺れる。
 いや、これは。
 自分の身体が傾いでいるのだ。
 意識が暗がりへと滑り落ちていく。
 マリアージュはくちびるを震わせた。
 しかし何も紡ぐことはできなかった。
 マリアージュは椅子に崩れ落ちた。
 男の先の言葉が脳裏で繰り返される。
『君は信じすぎだ』
 何もかも。


 ゼノは書類から離した目を、執務の席に着く男に向けた。
 ディトラウトは今日も今日とて仕事をしている。朝から夜まで、休むことなく。
 彼はゼノの視線を悟ったらしい。新たな書類の束を差し出した。
「次はこれです」
「いや、終わってない」
「は? 何をしていたんですか?」
「お前が早すぎるんだよ」
 ゼノは言い返して書類に署名した。戦死者の移送に関する承諾書だった。
 戦から七日を過ぎて、砦はようやく落ち着き始めた。
 しかしなにぶん人手不足である。
 まず下士官が足りない。士官も足りない。タルターザの正式な責任者となる男の到着も遅れている。予定より一階級上の人間を着任させることにした為だ。補充要員も未着。現在、急を要する諸々の処理を、ディトラウトが一挙に引き受けている。
 ゼノも応接用の円卓に着いて、ディトラウトを補助している。
 国政においては出る幕がなくとも、戦の延長線上のことならば、手伝えることは多くある。
 ディトラウトが新たな一枚捲って机上に広げる。
 ゼノも次の処理に移った。
「失礼いたします」
 兵の挨拶が聞こえ、ゼノは扉口を見た。若い兵が開放された扉に戸惑っている。入室してよいか迷っているらしい。
「入れ。どうした?」
「は、はい。お忙しいところ恐縮です。以前、確認をと命ぜられておりました、デルリゲイリアの行方不明者の確認ついて、ご報告に上がりました」
 珍しくディトラウトが呆ける。
 兵が不安そうに彼の顔色を窺った。
「あの……」
「いや、そうだった。すまなかった」
(忘れてたなこいつ)
 ゼノは卓上に頬杖を突いて、友人に生ぬるい視線を送る。
 彼は件の行方不明者を保護したのち、命令を取り下げていなかったらしい。
 ディトラウトが兵に話を促す。
「それで? どうなった?」
「は。それが……いまだ先方から返答がなく」
「……返答がない?」
「はい。避難先の手配や誘導へのお礼や、今回の件に関する慰労のお言葉は、女王より直筆で賜っておりますが……。問い合わせに関しては、何ひとつ、ございませんでした」
 ディトラウトが眉間に皺を寄せて沈黙する。
 兵は言葉を続けた。
「もう一点、デルリゲイリアについて、お伝えすべきことが――……」
 困惑の色を深めた兵からの報告に、ディトラウトが完全に表情を消す。顔の端正さが際だって、印象の冷たさが増した。
 青ざめた兵にゼノは慌てて追求する。
「他には何もないか?」
「い、以上です」
「行っていいぞ」
 兵は敬礼して逃げるように退室した。
 やれやれと肩を落として、ゼノは友人に問いかける。
「……どういうことなんだろな?」
「しばらくすれば正式な通達が来るでしょう」
 ディトラウトが筆記具を再び紙面に滑らせる。
 ゼノは嘆息した。
「ディータ。あのこ、どうす」
「ゼノ」
 ディトラウトが強い語調でゼノの問いを遮った。
「集中してください。……それが終わらなければもう一日、あなたに残ってもらうことになる」
 それは困るとディトラウトは言う。
 ゼノは書類に向き直った。
 ディトラウトは明朝にはタルターザを発つ。
 ゼノは滞在を延長して残りの仕事を片付ける。ただし、一日のみ。それ以上の日数が空くと、彼に簡単に追いつけなくなる。
 ゼノはディトラウトとともに、寸刻惜しんで仕事に勤しんだ。
 ある程度の目途がついたときにはすでに深夜だった。ディトラウトを寝台に叩き込み、ゼノ自身も軽く仮眠をとる。
 ディトラウトの出発は夜明け前。
 ゼノは見送りに起床して外を見た。鈍重な雲に厚く覆われた空は濃厚な闇色をしている。
 馬車回しまで降りるとディトラウトが出発の準備を差配していた。
 ゼノは呆れた目を彼に向けた。
「お前さぁ、ちゃんとぎりぎりまで寝てろ。働くな」
「早くに目が覚めたんだ。仕方ない。あと、私は単に確認していただけです。皆の仕事を奪ってはいません」
「そーかよ。……移動中は休んどけよ」
「そうさせていただきます」
 ディトラウトは微笑んでゼノに言った。だが彼はどうせ資料に目を通すなり何なりするのだろう。ゼノは彼の様子をよく診ておくように、宰相に同行する近衛たちに言い含めた。ディトラウトの血色はいまなお最悪だ。馬車内で倒れることもあり得る。
 門を通過する馬車を見送る。
 ひとまず息を吐いて、ゼノは砦内に戻った。
 階段に足を掛けたところで立ち止まって呟く。
「あ、聞いていない」
 デルリゲイリアの国章持ち。
 彼女の処遇をどうするのか。
 ゼノは彼女の部屋につま先を向けた。
 保護した直後の彼女は瀕死だった。通常なら死んでいた。どうにか峠を越したいまも昏睡状態にある。
(……結局、あいつ、ほとんど様子を見に行かなかったよな……)
 この数日、顔を見に赴いた回数は、ゼノのほうが多かった。ディトラウトはほんの最初。彼女が死ぬか否かのときに足を向けただけだ。
 主君を欺くほど心を傾け、その命の危機とあらば我を失い、なのに対応はどこか辛い。
 階を移動し、廊下を歩き、到着した娘の部屋の前で、ゼノは怪訝さに呻いた。
「うん?」
 歩哨がいない。
 扉が開け放たれている。
 室内は空だった。寝台が敷布を取り払われた状態で沈黙していた。
 眠気が吹き飛んだ。
「おい、あの部屋に保護していた娘を、どこに移動させた?」
 ゼノは控え室に顔を出しざま詰問した。角灯を灯して日報を記していた男が瞬く。
「あ、あちらのお部屋のお方ですか? ……宰相閣下が、お連れになりましたが」
「どこに!?」
 ゼノの剣幕に男は狼狽した。
「も、申し訳ございません。わたくしには……。ただ、薬や着替えは馬車に運ぶよう、ご命令をいただきましたので、その通りには」
 ゼノは息を呑んだ。
(おいおい……)
 全く考えの読めぬ男に、ゼノは胸中で毒づいた。
(もしかして、連れて、行ったのか?)
 あの娘を。
 王都に。
 我らが主君の、膝下に。


 車輪が石を踏んだらしい。
 かたん、と、車体が揺れて、枕に埋もれる娘の頭が傾いた。
 赤みを帯びた顔がディトラウトを向く。
 寝台に平行して置かれた長椅子で、横になっていたディトラウトは、読んでいた書籍を膝に伏せ置き、彼女の頬に何気なく手を伸ばした。
 指の背で軽く撫でる。その肌は熱っぽく汗ばんでいる。腫れは一時期を思えばずいぶんと引いた。が、すっかりと言うにはまだ早い。
 毛布に隠された片足は骨折から腫れて変色している。擦り傷も打撲もない場所を探すほうが難しかった。一番ひどかったものは腹部だ。殴られたか、踏まれたか。衝撃が臓器を傷つけた。砦の医師の腕の良さと、内在魔力の高さが彼女を救った。
 予断を許さない状態とはいえ、ゆるゆる快方に向かっている。
 彼女を国許に返すべきだった。
 わかっている。
 ディトラウト・イェルニとしての、正しい答えはいつもわかっている。
 それでも――……。
 ひとりの兵の報告が脳裏を過ぎる。
『マリアージュ女王が、デルリゲイリアの一軍に、“捕縛”されました』
 ディトラウトは身体を起こし、ディアナに向き直って座った。
 毛布からはみ出た手に目を留める。彼女の細い手首には、腕輪がはまっている。
 小粒の招力石を花芯に据えた野薔薇の意匠。金属とも違った素材の鎖の銀は、七色に偏光して魔を感じさせる。繊細な造りから窺える品質の高さは、聖女教会の印章と比べるべくもない。
 しかし戦場では見分けを付けられなかったのだろう。
 外すことはできなかった。刃物でも切れない。仕方なく放置している。
 ディトラウトはディアナの手を取り上げた。柔くちいさな手は滑らかだ。彼女の身体で唯一といっていい。
 よかった、と、単純に思った。
 化粧師である彼女の仕事道具。もしその手に傷がつけば、彼女は、きっとひどく嘆くだろう。
 親指の腹で撫でた彼女の指先に、ディトラウトはそっと口づけた。
 夜明けの斜光を感じ、面を上げて外を見る。天を縦に二分するように割れた暗雲の切れ間から太陽が生まれている。
 ひどく赤い。
 血を浴びて目覚めたかのごとく。
 やがて地平から離れた太陽を、暗雲が幕のように閉じて隠す。
 影の中を往く道を、雨の瀑布が覆った。


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