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間章 縋るな、弱き者よ 2


 塗れた布巾を固く絞って、梟の額に落とす。
 その紅潮し汗ばむ顔を眺めて、セレネスティはため息を吐いた。
 寝台で寝苦しそうにする自分の影は、ラマディ平原で爆発に巻き込まれた宰相と騎士団長を守ってからこちら、ほとんど起き上がれずにいる。シンシアがいた時期に休んで持ち直していた体調が一気に悪化したかたちだ。もう《上塗り》をする必要がなくなったので、存分に寝てもらう点は構わないが、薬の数が限られている。高くならなければいいのだが、と、下がり始めた室内の気温に、セレネスティは上着の前をかき寄せた。
 この数か月、季節の移ろいを感じる暇もなかったが、いまは冬のただ中だった。昨年と異なり、妙に暖かな日がずっと続いていたことも、季節感を欠いていた理由のひとつである。
 毛布を持ってくるか。そう思い立ったところで、セレネスティは扉を叩く音に、上げかけた腰を椅子に戻した。
「冷えて参りましたので」
 そう言って毛布を片手に、ディトラウトが入ってきた。
「話は終わったのか?」
「ゼノですか? はい。わたしがあちらへ行っていたときのことも含めて、ひと通り話しました」
 兄はそう言って、西の方角を一瞥した。ちょうどそちらには窓があって、遠く、デルリゲイリアとこの国を隔てる山脈の稜線がうすらと見えた。
「……最後まで残る、と、主張しています」
「残ってどうするつもりなんだ……」
「わたしたちを連れて逃げたいそうですよ」
「……あいつの性分ならそうなるか」
「どうしようもなくなったら、薬でも嗅がせて、隠し通路にでも放り込んでおきます」
「うん。そうして欲しい」
 ディトラウトが隣に並び、梟の寝台に毛布をそっと広げ、掛けていく。
 その動作にふと、シンシアがいた最後の夜のことを思い出した。
「もしも……」
「はい」
 知れずセレネスティの口から零れた言葉に兄が律儀に反応する。
 彼は黙り込んだこちらを急かすこともしない。静かに言葉の続きを待っている。
「もし――生き延びられたなら」
 イェルニの屋敷に帰って、母から受け継いだ領地を守って、穏やかに暮らしていく。そんな未来、叶わないことはわかっている。
 けれども、もしも。
 命を拾うことができたなら。
 言いさして、セレネスティは首を横に振った。
「御免、兄上。変なことを言った」
 玉座をだれにも移譲できないまま、罪を暴かれた。
 その時点で自分たちは終わりを覚悟している。
 国を救うためと言えば聞こえはいいが、この偽りの身分を維持するため、犠牲を出したことも数知れない。
 最初に自分が兄に言った通りになった。これは血塗られた道。その血と骨は自分たちのものも含む。
 母を、家族同然だった使用人たちを、妹を失ったばかりの少年が、「女王」にならなければ、このようなことにはならなかったのか。
 例えば、異国から聖女の血を継ぐ女子を呼んでいたなら。
 けれども、あの時分は、ペルフィリアの他にも多くの国が斃れてそういったことは難しかった。唯一、安定していた隣国のデルリゲイリアとは半ば決別した状況だった。内乱の炎に焼かれて瀕死だった国を延命するには、もう、自分がこの道を選ぶしかなかった。ただ、それだけのこと。
 選んだ道に後悔はない。成したことを恥じるつもりもない。
 けれども、ひとつ。
 たったひとつ。
 本当に守りたいものを見失っていて。
 ――祝福できなかったことだけは。
「ディン様」
 と、久しくなかった響きで名を呼ばれる。
 セレネスティはディトラウトを仰ぎ見た。
「わたしはお供いたしますよ」
 最後まで、あなたの下に。
 兄はやさしく笑った。
 それは胸が軋むような、ひどく透明な微笑だった。


 覚えている。
 花薫る暖かな日。
 庭先で笑いあっていたふたりのこと。


 人気のない廊下を足早に歩き、ゼノは執務棟まで来ていた。丁字路を進み、突き当たった渡り廊下の手すりに歩く勢いのままぶつかって、ずるずるその場に屈みこむ。
「くっそ……くっそくっそ! 馬鹿野郎! 国のことだけじゃなくて、ちゃんと自分たちの、先のことも考えろよ! 悲壮な覚悟をしてんなよ! 馬鹿が!」
 ゼノはため込んだ鬱憤を衝動のまま吐き出した。喉の奥が切れるほどの声で。城内に響くような怒声で。
 以前であれば警邏の兵が様子を見に来たことだろう。往来する文官が何事かと瞠目したかもしれない。
 けれどいまはだれもいない。
 閉めきった城内はほぼ無人。わずかな兵は門の近くを巡回していて、このような奥まったところまでは滅多にこない。
 ぱた、と、石畳に雫が落ちる。
 視界が滲んで仕方がなかった。
 唇に入り込んだ塩辛さに顔をしかめる。
「あー……くそ」
 ゼノは悪態を突き、拳で石畳を叩いた。
 また、涙がこぼれた。
「……どの口が、言ってんだよ、俺」
 王と宰相。彼らにその覚悟を持たせたのは自分。
 否。
 あの内乱を引き起こし、なのにきちんと尻ぬぐいをしなかった、愚かで浅はかな、貴族全員だ。
 ゼノは以前、化粧師の娘に自分の出自を語ったことがある。
 ファランクスは宰相をよく輩出した一族だと。ただ自分にその才はなかったと。自分の一族がしでかした失態の後始末を付けるディトラウトのためなら何でもしてやりたいと。
 そんな言葉を吐いた過去の自分を絞め殺したくなる。
「あいつが宰相に向いてて、俺がそうじゃないって? 馬鹿が。できるできないの話じゃねぇよ。俺が、しなかっただけだろ……。向いてないとかって勝手に思って、俺が、全部、体よくディータに押し付けたってだけだろ!」
 確かにディトラウトはゼノよりも宰相に向いていたに違いない。けれども、彼は貴族ですらなかった。たとえ教育を受けても、使用人と貴族のそれとでは質も内容もまったく違う。女王として立ったセレネスティを支えるために、ディトラウトは文字通り死ぬ思いで学んだはずだ。それと同じだけの努力を自分が払ってきたとは到底おもえない。
 セレネスティも即位してから今日まで、側近にすら性別を偽りながら過ごし、過酷な政務に誰よりも望んできたのだ。
 彼らだけが貴族だ。自身の肩に乗った民を忘れずにいた。
 その彼らを置いて逃げる。
「無理だ……俺は無理」
 ディトラウトの説く理屈はわかる。
 自分は生き延びなければならない。王と宰相が身をなげうって、この国を守ろうとしているのだ。いまこそその意志を継いで力を尽くすべきだ。
 わかっている。
 けれども、受け付けられない。
「おいて、いけない……」
 ゼノは呻きながら蹲った。
 ふと渡り廊下の手すりの柱の狭間に、しんと静かな庭を垣間見る。
 そこに幻影を見た。
 軽やかな笑い声を上げる娘たち。階段を降りていく男。娘のひとりが手を伸ばし、彼を迎え入れる。
 光当たる庭。揺れる木漏れ日。
 笑い合っていた、ふたりの姿。
「それを捨てさせたの、俺かよ……」
 嗚咽に喘ぎながら、天を仰ぐ。
 鉛色の空から、白い光がひらりと零れた。


 空が灰色にくすんでいる。黄砂ではない。
 雪がちらついているのだ。
 窓の外を眺めるダイの傍らで香草茶を淹れるヤヨイが言った。
「この辺りでは珍しいそうですね」
「ついこの間まで暑かったですしね。冬は冷えても雨が多くなるぐらいだって聞いていましたけれど……」
 ダイは窓の玻璃を曇らせる自身の呼気に顔をしかめた。とても白い。朝から炉に火が灯っていたのも、気温が急激に下がったからだろう。
 《光の柱》の日から各地の状況が悪化し、ダイたちはいまだルグロワ市に留め置かれている。ヤヨイの下にきたアルヴィナからの使い魔曰く、デルリゲイリア王都は早期に落ち着いたらしいが、移動はもう少し待った方がいいとのことだった。
 今季はこれまで暖かな冬だった。それで助かっている部分は多いにある。例えば、冬のただ中ながらルグロワ市までの道中、路面の心配をする必要はほとんどなかった。だが天候の悪化が見込まれると、戻りの時期や道筋をよくよく検討する必要がある。
 ただそういった問題はまだ些末な方だ。
(……凍死者が出る……)
 流民たちの多くが寒さをしのぐ術を持たない。
 ため息を吐くダイにヤヨイが茶器を差し出した。
「お疲れですか?」
「ここで待っているだけなの、歯がゆいなって……。あ、お茶、ありがとうございます」
「いいえ」
 ダイはヤヨイに茶器を掲げて見せてから口に運んだ。今日は冷えるからか、香辛料が混ぜてある。知らず冷たくなっていた指先に血が廻った。
「セトラ様は謙遜なさらなくてもよいかと思いますよ。今朝もリア=エル様とバルニエ様と会議していらっしゃいましたし。ルグロワ市の復興支援についても指示を出していらっしゃいましたでしょう?」
「会議はわたし、ほとんど聞いているだけなんですけれどね。復興の手伝いも、実務はアレッタに処理してもらっていますし。……化粧師ってホント、こういうとき、何もできないんですよねぇ……」
 ダイは護衛たちから宿舎の部屋を出ないように言われている。混乱を経てルグロワ市の治安は低下しているし、決裁者は司令所から動くべきではない。その大原則に従っているだけといえば聞こえはよいが、まぁ、今回の件の報告書を書いたり、使節団員たちへの指示書を書いたり、ドッペルガム宛の親書を書いたり、報告書に目を通したり以外は割と暇をしている。
「時間があるから、なんだか色々、考えてしまって。……レイナ様に聖女を使わせたくなかったのに、何もできなかったな、とか。……アルヴィーと、約束したのになぁ」
 最後は完全に独り言だった。なのにそれを拾ってヤヨイが言った。
「セトラ様は今回のことでシンシア様のお名前をお使いになったことを、ルグロワ様に怒っていらっしゃったではないですか。きっと、それで充分、アルヴィナ様は救われると思いますよ」
 彼女の発言を聞いてダイはふと疑問に思った。
「……ヤヨイさんは……どこまでアルヴィーのことをご存知なんですか? いえ、というか、ヤヨイさんは元々、何を……」
 アルヴィナはヤヨイをどこからか「借りてきた」らしい。ヤヨイ自身たまに「主人が」と漏らすことからして、彼女はどうも本来、だれかに仕える立場にあるようだ。
「アルヴィナ様が聖女と呼ばれる方のご姉妹だとは存じています。その、呪いに関しても……。わたしは解呪師なのです」
「かいじゅし?」
「呪いを解く術を専門にした、魔術師のことです。わたしがお仕えしている方も、アルヴィナ様と同じ呪いを受けていらっしゃいます。わたしはあの方の呪いを解く方法を探すために生み出された村の出身なのです。その手がかりを探す一環として、たまにあちこちへ派遣されておりまして、今回のお手伝いも、そのうちのひとつ、と、言いますか……」
 基本的なものから難解な術、魔術調整の類も問題なくこなせるため、今回のような雇われの身になることもあるが、本業はあくまで呪いとその解除の研究らしい。
「本当のわたしの専門を、役立てる機会は少なくて……。多分、セトラ様のお化粧よりも、うんと」
 ヤヨイが解こうとしている呪いは不老不死のそれ。
 彼女が生きている間に解呪の方法が見つかるかもわからないという。
「あの方の呪いを解いて差し上げたいのですが、正直なところ、何かができている、とは、なかなか実感できません。わたしの魔術は重宝されますが、同じことをできる方は他にもいるのです。と、考えると、とても辛くなってしまうので、わたしは自分でできることをすることで、もっとすごいことができる方の、お手伝いをしているんだ、と、思うことにしています。……お化粧でなくても、今朝からなさったことを数えてみてください。きっとたくさんの方が別のお仕事をできる余裕を、セトラ様だって作っていらっしゃいますよ」
 ダイはそこではた、と、気づいた。
 どうやらヤヨイに慰められていたらしい。
 ダイは書きさしの書類を見つめて茶を啜り、ヤヨイに笑って礼を述べた。
「ありがとうございます」
 ヤヨイはかまわないという風に首を横に振った。
「それにしても、解呪師、ですか。魔術師の人にもそういう専門があるんですね」
「魔術師にも得意分野がありますから。わたしも化粧師っていうお仕事があるの、初めて知りました。あの、わたしが、その、お洒落に疎いだけなのですけれど」
「あぁ、いえ。一般的じゃない仕事だと思いますから、知らなくても無理はないですよ」
 裏方の職だし、白粉と口紅だけなら、侍女や女官の仕事に統合されることがほとんどだ。デルリゲイリアではマリアージュがダイを《国章持ち》に付けたから、そこそこ知名度を持ったに過ぎない。
 これまでと違った大人びた顔ではなく、少女が心惹かれる様子で、ヤヨイはふふっと笑って言った。
「セトラ様のお化粧、ちょっと見てみたいです。どんなお仕事なんでしょう」
「あぁ……ヤヨイさんにわたしが顔をしているところ、まだお見せしたこと、ありませんでしたね」
 ヤヨイが仕官した時期はそれこそルグロワ行きが決定して忙しなかったころだ。マリアージュの化粧と肌の手入れは行っていたが、新参のヤヨイはそこに同席していなかった。
「わたしが言うのもなんですが、しているのは本当に、単なる化粧で、持てはやすようなものではないんです。肌を整えて、その時々の雰囲気や衣装に合わせて、みたいな……。もちろん、細かい技巧とかは、理論とかはあるんですけど」
 化粧は楽しいものだ。鎧としても機能する。場と当人の間を取り持つ。
「なんていったらいいのかな。化粧で人が変わるなら、それはその人の力なんですよね。わたしの仕事は、色んな事情で見えにくくなっている人自身を、見えるようにするために、よく見て、耳を澄ませて、気を回す、みたいな。そんな仕事です」
 その助けとなる色を選んで、色が映えるように丁寧に肌を作る。その人がもっとも美しい姿を想像しながら。
 素敵なお仕事なんですね、と、ヤヨイは微笑んだ。
 話をそこでいったん区切って、書類の処理に再び手を付ける。
 筆記具をひたすら動かしつつ、ダイはそわそわ疼く衝動を宥めた。
(うーん……。化粧、したくなってきた……)
 自分の肌を使って手慣らしすることはあっても、他人の顔を使って、一からしっかり化粧を久しくしていない。レイナに化粧をするのであれば、その前に何人かの顔を使って練習する予定だったが、それも叶わないまま来ている。
 あとでヤヨイの顔を借りようかなと、炉の火の具合を確かめる彼女の背を眺めていたときだった。
「ダイ、申し訳ありません。いまかまいませんか?」
 外の警邏に出ていたユベールが部屋に顔を出した。
「いいですよ。どうしましたか?」
「少し、問題が起こっているんです。それで、報告に。我々がどうこうすべきことでもないんですが……」
「どんな問題なんですか?」
「どうも、被災の方々が、食事を取らないようなんです」
 ユベールの報告は、こうだった。
 ルグロワ市の内外では、多くの人々が聖女再誕の儀式の犠牲となった。とりわけ流民の被害は甚大で、残ったわずかな人々は、イネカの指示で市中に招き入れられ、一角を仮の住まいとして与えられている。
 しかし彼らの多くが無気力に座りこみ、支援食を口にすることすら拒んでいるらしい。
 ダイは使節から手伝いに人を出している。それでユベールが宿舎に帰ってきた次いでに報告に顔を見せたとのことだった。
 ダイは処理を終えた書類を片付けながらユベールに告げた。
「すみません。アレッタを呼んで来てもらってもいいですか。で、ユベール、一緒に見に行きましょう」


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