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間章 縋るな、弱き者よ 1


 どんどんどんどん、と、誰かが忙しなく扉を乱打する。
 来たか、と、ディトラウトは眺めていた資料を置いて扉を一瞥した。
 王城に戻ったことも、後で来ることも連絡が来ていたから、そろそろだとは思っていた。
 ゼノだ。
「ディータ、俺だ。入るぞっ……と陛下」
 と、入室の許可を待たずに乱暴に扉を開けたゼノは、ディトラウトと向き合って座る王の姿に蹈鞴を踏んだ。セレネスティが呆れの目でゼノを見る。
「ゼノ……。せめて名乗れ」
「申し訳ありません……。あの、陛下はどうして……ここ、ディータの塔ですが」
「節約だよ。他に何が?」
 高杯に手ずから水を注ぎ、それをゼノに差し出して彼は答えた。
 何の節約か。改めてゼノに説明するべくもない。
 資材、人材、あらゆるものの。
 聖女教会側から呪われた王とセレネスティが糾弾を受けて二ヶ月強になる。否応なく国は荒れた。騙され続けていたことに民衆は怒った。貴族もセレネスティを憎んだが、攻撃してくるより隠れる者の方が多かった。この国に女王足りえる娘がいないことを、貴族は重々わかっていたし、怒れる人々からセレネスティの共犯者として襲撃される方を恐れたのだろう――結局、貴族の方が内乱の傷を生々しく覚えているのだ。
 彼らの拒絶反応はずっと想定していたことだったから、むしろディトラウトたちは安堵したほどだった。
 終わりが近づいている。
 この二ヶ月、ディトラウトたちは国政に、あるいは技術や文化保全に、なくてはならない人々を選出し、彼らの地方疎開、国外亡命が叶うように力を尽くしてきた。何も知らない顔をしてぎりぎりまで王城に残り、国政に尽くしてくれた官たちもほぼ退去させている。民衆たちの暴動に対して籠城状態にあるこの王城には、セレネスティとディトラウト、ヘルムートに梟を除くと、過去の内乱時に心身に障害を抱えていて、この城を出ればほぼ生きられないと覚悟を決めたものたちばかりが残っていた。
 ディトラウトの私室はディアナがしばらく暮らし、ディトラウト自身もひと月ほど蟄居していたせいで生活の道具類や政務の資料がセレネスティの居塔より充実していた。よって、この塔を中心にして、集団生活を営んでいるのである。
 皆、身を偽り、あるいは王城の影に身をひそめるようにして仕えていた者たちだから、いまはかえってのびのびと過ごしている。
 この室内にもディトラウトとセレネスティの他には誰もいない。資料類が散乱する広い卓上には、軽食の皿が積み重なったままになっていた。
 ゼノは微妙な顔で空いた席に座ると、セレネスティから受け取った水を飲み干した。
 その様子を眺めながら、さて、と、セレネスティが尋ねた。
「僕もどうして、と、聞きたいな。ゼノ、戻ってくるなと言ったはずだが?」
「どうしてこうなったのか、理由も知らされてないんですよ、自分。……女王の身分詐称の共犯者にさせられるから、逃げて隠れてろって。納得できないから戻ってきたんです。ディータにも戻るからなって言ってありました!」
 たん、と、空になった高杯を音高く置いて、ゼノが主張する。
 セレネスティの無言の問いがディトラウトに刺さった。つまり、彼に説明すると言ったのかと。
「答える義理はないと言いましたよ」
「そーかよ。じゃあ離れねぇからな。俺は勝手にここにいる」
 頑固なゼノにディトラウトは頭痛を覚えた。
 ゼノは二ヶ月以上前に最優先で城から出した。ペルフィリアの西の端へ、疎開者の護衛責任者としての任を与えた上でだ。なのに仕事をして戻ってきたというのだから、馬鹿である。
 気絶させて無補給船に放り込めばよかった、と、ディトラウトが後悔しても後の祭りだ。
 整理し終えた資料の角を整えながら、セレネスティが告げる。
「僕はゼノに話しても構わないと思っているが」
「陛下」
「兄上、もういいだろう。憶測なのか確証があってなのかしらないが、教会が僕を王位にあるにも関わらず女ではないと糾弾した。その時点まで、ゼノは何も知らなかった。……関係者を捕らえたなら、自白系の何かを使うだろうが、事実は事実。動かない。……いいよ。ゼノが納得して離れてくれるっていうのなら。知っている者がひとり増えてもね」
 いまさらだ、と、ディトラウトの王は言う。
 ディトラウトはため息を吐いて、彼に請うた。
「陛下。……そろそろ、梟の薬の時間です。様子を見に行っていただいても?」
 塔の奥まったところに並ぶ一室で梟は今日も発熱に寝込んでいる。
 セレネスティが責める視線をディトラウトに寄越す。
 だが、ディトラウトは取り合わなかった。
 内乱に始まった一連の悲劇と、彼にセレネスティを負わせることになった下りは、思い返すことすら彼にとって負担になる。ディアナに語った日も久々に夢に見てうなされていたほどだ。
 ゼノに語る役目は自分が負いたい。
 ディトラウトの厚意をセレネスティは諦めた顔で受け取った。無言で立ち上がって、居室の奥へと消えていく。
 彼の背を眺めていたゼノがぽつりと呟いた。
「陛下……本当に男なんだな」
 王城から人を追い出しきって、セレネスティは女装を止めていた。髪こそ切っておらずうなじでひとくくりにしているが、男ものの簡素な上下は彼の体格を浮き彫りにする。年の割には華奢であるものの、骨格は明らかに男のものだ。
 ゼノが険しい顔でディトラウトに問う。
「いつからだ?」
「最初からですよ――即位する前からです」
「そう……か……」
 ディトラウトの回答に、ゼノは卓の上に置いた拳を握りしめた。
「……皆、死んじまってたのか。あのときに」
 ペルフィリア先代女王アズラリエル。彼女が赤子と共に死したのち、内乱が国土を舐め上げたあのとき。
 女王となりうる純血の貴族の女子は老女に至るまで殺されつくした。
 ――生き残りはいなかった。
 唯一の女王セレネスティ。それは彼女の兄が皆に見せた希望の幻だった。
 ディトラウトは書類の整理を続けながら、とつとつとゼノに語った。
 領主アデレイドの死。セレネスティの亡命の失敗とイェルニの屋敷の襲撃。ディトラウトと異母弟(セレネスティ)だけが生き残った。
「異母兄弟? ディータが?」
「イェルニはアデレイド様が本流で、そこに婿入りした平民がわたしの実父になります」
「つまり、貴族筋じゃない」
「そうですね。かすりもしていないと思いますよ」
「うそだろ……」
 ディトラウトの回答にゼノは脱力して卓の上に突っ伏した。
「わたしと陛下たちは三人とも、父によく似ていました。年が同じなら、三つ子で通ったでしょうね」
「……お前が宰相になったのも、陛下がホンモノじゃないかもしれないって疑われないようにか」
「えぇ。……隣に兄がいるなら、その隣は妹だと皆、納得するものでしょう?」
「……発案者は、クラウス?」
「えぇ」
「……だよな。あいつしかいねぇよな」
 ゼノの異母兄。クラウス・リヴォート。飛びぬけて頭のよい、実践主義の歴史学者。お飾りでもよいからと周囲を説き伏せて、まだ二十に年の届かないディトラウトを宰相に推した男はほかならぬクラウスだ。教育途中のディトラウトをゼノに引き合わせたのも彼である。
「最初はほんのいっときだけのはずでした。が、事態が好転しなかったので、ずるずると。本当、よくここまで隠し通せたものです」
 セレネスティが即位して八年になるだろうか。
 変声前の少年だったころはともかく、薬や魔術を用いて成長を押さえ、だましだましここまで来た。
 聖女教会が糾弾してこなくとも、早晩、似たような状況になっただろう。
「……事情はわかったけどさ。何で俺らに言わなかったんだよ」
 ゼノが己の頭をかき混ぜて唸る。
「知ってたのって……俺以外だと、この城にいるやつか? っていうことは、サガンのじーさんと、梟? それだけ?」
「昔はもっといましたよ。そう、わたしが国を少し離れる前は――……」
「んなことは言われなくてもわかるっつうの!」
 ばん、と、卓を叩いて、ゼノは起き上がった。
「陛下がずっと調子わるかったのも、女に見せるための、薬だの何だののせいなんだろ? お前がめちゃくちゃ忙しかったのだって、単に国が不安定ってだけじゃなくて……そのせいだったんだろ!?」
「……そうですね」
「だったら何で俺たちに話さなかったんだよ!?」
「話してどうなりますか? 全員で女王をでっちあげるのですか?」
「そうすりゃよかっただろ!?」
「馬鹿を言うな。そんなことが本当にできるとでも? 教会がペルフィリアの王は男子だと告げただけで、ここまで国が荒れるのに?」
「でも……でも、俺は」
「ゼノ、なぜわたしたちがあなた方をこの件に巻き込まないと決めたかわかりますか?」
 ディトラウトは静かに尋ねた。
 答えに窮したらしい。沈黙するゼノへディトラウトはさらに問いかける。
「なぜ、いまになって、もう話しても問題ないと、陛下が判断されたのか。その理由が、あなたにわかりますか?」
「……さっき……陛下は自白とか、なんとかって」
「えぇ。……事情を抜きにした、わたしたちがしたことの重さを考えてほしい。この国の、いえ、この大陸の女王は聖女の血統の女子に限られます。国を跨いだ権力機構である、教会がそれを定めている。わたしたちのしたことは、これまでの権力の在り方すべてに泥を塗る行いです。道半ばで事実が露呈したとき、協力者は確実に神に背いた者として罰を受ける。処刑。よくて大陸からの追放です。この地を踏むことは二度と許されない可能性が高い。仮に、そう。王城の全員が女王の偽造に加担したとして、いまのように教会と、民から背信者の烙印を押されたなら――そのあと、だれがこの土地を治めると、あなたは思いますか?」
「……は?」
 ゼノが呆然とディトラウトを見返す。
 ディトラウトは彼から壁にかかった大判の地図へ視線を移した。
 《西の獣》――この大陸の最新の地図である。
 国名が並ぶ一方、空白の箇所が目立つ。
 メイゼンブルが滅びて数々の国が斃れた。よくて他国に併呑。最悪、無法地帯として放置。盗賊まがいの豪族が縄張り争いを行う土地も少なくない。
 ゼノが震えた声で呻く。
「おい、なぁ、まさか」
「わたしたちがあなた方――名家の生き残りをこの件に巻き込まなかったのは、わたしたちが罪人として処罰されたあと、国政を引き継がせるためです」
『国が致命傷を負うのはいつだと思う?』
 かつて、他大陸の歴史書の頁を示し、クラウスは述べた。
『それはね、ディータ。……国が必要な数の指導者と、経験のある実務者を同時に失ったときだ』
 有名な事例がある。
 遙か東。十年は前になるか。内海に存在する島国バヌアでのことだ。放蕩と暴虐の限りを尽くした王を民衆が討った。
 その後、バヌアは立ち行かなくなった。
 王を諫めなかったとして、当時の官たちをも処罰したからだ。現在、バヌアは隣国だったマナメラネア諸島連合国に併合されて、地名としてだけ名が残る。
 国は王ひとりで治められるものではない。王の名の下に集う人々の集合体が組織として動いて初めて国を治められる。
 統治の在り方を把握する人々を総じて蹴りだし、その後の国が立ちゆくわけがない。一朝一夕で国はならない。以前を知る者がいて、そこでようやく改善した善政を敷ける。女王と貴族がどのように均衡を保っていたのか。どのような資料がどこにあり、どういった部署が関連して動き、案件がどのように処理されていたのか。経験のある実務者。彼らを動かせる身分ある指導者。そういった人々が残らなければ、国は泡のように消えるのだ。地図の空白となっていった国々のように。
「女王が一時不在でも、土着の貴族と政務官が残れば統治は成る。逆に残すためには――彼らは潔白でなければならない」
「だから……だから、俺たちをずっと、遠ざけていたって言うのかよ!」
 がた、と、立ち上がったゼノがディトラウトの襟元を掴んで怒声を上げる。
「ふざけんなよ、ディータ!」
「何がふざけているんだ! 言ってみろ! それともお前はわたしたち全員が連座して、この国が賊の跋扈する土地に成り下がっても構わないとでも言うつもりか!」
 ゼノの手首を握ってディトラウトは怒鳴り返した。
「……何のためにクラウスがお前たちをわたしの近衛に付けたと思っている。その方がお前たちを守りやすいからだ。……政務の流れを最低限でも、把握してもらうためだ!」
 ペルフィリアはクラン・ハイヴといつ戦端を開いてもおかしくなかった。隣国を併呑した兼ね合いで、内乱の火種もそこかしこにある。名家の騎士は宰相直属の近衛でもなければ、容易くどこかの危険な地域に、指揮官として配置されてもおかしくない。
 だからクラウスは未来のために生き残ってもらわなければ困る彼らをディトラウトの近衛とした。
 ゼノ・ファランクス。彼はその筆頭だ。宰相を多く輩出した名家ファランクス家、唯一の生き残り。
 彼はメイゼンブル宗家の血も濃い。子が女子なら女王を狙える。そうでなくともペルフィリア貴族を取りまとめるに充分な家の歴史と権威を負っている。
 ゼノがディトラウトの手を掴んで項垂れる。
「何だよそれ……。なん、なんでそんな……」
「お前たちに守ってほしいんだ、ゼノ。わたしたちの故郷(イェルニ)の土地も含めたこの国を」
「違うだろ。そうじゃないだろうが! こんな、こんなのさぁ、お前と陛下は、この国を延命するための生贄ってことかよ!」
「その通りだ」
「その通りだ、じゃねぇよ!」
 生贄にならない道もあった。
 この数年に女子が国内に生まれていたなら。
 男子が王として認められるなら。
 ――そのどちらにもならなかった。
「……何で、シンシアちゃんはよかったの?」
 ゼノがくぐもった声で尋ねた。
「シンシアちゃんにはさ、もっと早く、このこと話してたんだろ。化粧師してたもんな、陛下に。陛下が男だって知ってなきゃ、できないよな。化粧なんて」
「彼女はデルリゲイリアの人間です。あなたとは違ってたとえ陛下が男子だと知っていても、教会側から糾弾されて連座になるような可能性はほぼない」
「にしてもだ。もしかしたらデルリゲイリア側が秘密をぶちまけてくるかもしれねぇのにさ。お前はあの子を信頼したから、話したんだ。……だいたいお前、あの子とどこでそんな……」
 信頼関係とも呼ぶべきものを結べたのか。
 ――彼女とのことをどこから話せばよいだろう。
「……セレネスティ様の亡命を受け入れてくださるはずだった方の名を、フランツ・ミズウィーリと言います」
 迷った末にディトラウトは最初から切り出すことにした。
「マリアージュ・ミズウィーリ・デルリゲイリアの父親です」
「……は、はぁ?」
「アデレイド様とフランツ様は仲の良いご友人同士でした。フランツ様はセレネスティ様を姪か何かのようにかわいがられ、あの方の亡命を拒んだエイレーネ女王を彼は憎みました。元々、エイレーネ女王とは反りが合わず、色々と確執はあったようです。……最終的にフランツ様とわたしたちは密約を結びました。フランツ様がエイレーネ女王と王女エヴェリーナを暗殺する。それにわたしたちは協力することで――ペルフィリアに有利な、傀儡の女王をデルリゲイリアに付ける、というものです。詳細は省きますが……」
「もしかして、マリアージュ女王って、お前が」
「そう。……あなたにはまだ、わたしが不在にしていた三年間、どこで何をしていたか、教えていませんでしたね」
 ゼノはディトラウトがペルフィリアにいると見せかける工作に協力していたから、密命で国を離れていることは知っていても、どこで何をしているかまでは知らされていなかった。
「わたしはミズウィーリ家にいました。マリアージュを傀儡の女王とするために」
 デルリゲイリアは聖女の正当なる後継となれる国だ。
 たとえそうでなくとも、ペルフィリアを害さない女王を他国から持ってくるのなら、近隣で最も政治基盤の安定しているデルリゲイリア以外になかった。
「そしてダイ、ディアナ・セトラ。彼女を見出し、マリアージュに付けたのは、このわたしです」
 我が儘な女王候補の気を逸らし、女王となった後も彼女を懐柔しやすいような、素直で善人で見目のよい少年が必要だった。
 条件に適うならだれでもよかった。
 なのに。
「わたしは彼女とおおよそ半年ほど。共に働きました」
 指の狭間をすり抜ける、砂金のような日々だった。
 ゼノがくしゃくしゃの顔でディトラウトを見る。
 ディトラウトは微笑んで言った。
「ゼノ。納得しづらいのはわかる。けれど早くここから離れてほしい。……きっと、時間がない」
 いま、民衆たちによる王城への攻撃はぴたりとやみ、不気味な静けさが王都を包んでいる。先日の光の柱の折に教会関係者が目の前で消失したらしい。ペルフィリアは元々、過度の混乱状態にあったから、原因不明の人の消失を目の当たりにし、許容量を超えて小康状態に入ったのだ。
 間もなく再び、暴動が起こる。
「……お前と陛下は、逃げねぇの?」
「わたしたちがここを退いたら、混乱する民は標的を失くす。的はあるべきだ」
「お前さぁ!」
「行くべきところがないなら、シンシアを頼れ」
 何も願いを叶えるためだけに、ディアナをデルリゲイリアへ帰したのではない。
 彼女は一種の保険だ。そして彼女もそれをわかっていた。ゼノが訪ねても無碍にはされないはずだ。
「これからますます、国は荒れる。皆、打ちのめされる。けれども、自分で立ち上がれる。わたしは人の強さを信じる」
 ただしそのためには時間が必要だ。
 その時間をゼノたちは稼ぐことができる。
 ディトラウトはゼノの肩を掴んで告げた。
「だから、行け」


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