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第五章 防衛する後裔 4


 砂礫と黄砂の吹き荒れる土地を一望する、市庁舎の一室。格子窓の傍らに腰を下ろして、女が膝を抱えている。
 レイナの傍に常にあった女だった。
「……どうしたらわたしは、失敗を取り返すことができたのでしょうか」
 と、彼女はイネカに言った。
「あんなことになるなんて思わなかった。レイナ様のことを、誰かに知らせるだけで、あんなことになるなんて……」
 なに不自由のない子どもだった。権力者の娘であったレイナより、もっともっと自由だった。父母が揃い、飢えを知らず、友人たちに恵まれていた。
 そして恵まれているものは、たいていがその幸福さを知らないのだ。
 クラン・ハイヴには水源地も農耕地も少なく、鉱山帯を有することを除いて特筆すべき点はない。広大な敷地面積の大部分は砂礫の荒野。貧しい土地だった。
 レイナ・ルグロワはそこにふと生まれてしまった、権力――メイゼンブル公家直系に近しい娘。かの国が滅びた後ですら、その血と腹は、金の山を生む。使い方によっては、新しい国すら興せる。
 子どもの喧嘩。世界中のどこにでも見られる、ありきたりなすれ違い。ただ、女の子は自分の幸福が何に根差していたのか知らず、賊に宝物の鍵を開けて渡す真似をして、親も幼い弟も主人だった男も、主神のところへ送ってしまったのだった。
 そして、友だちだった幼い女の子を、蟻地獄に突き落としてしまった。
 こうなってはもう、できることと言えば、共にその巣穴に落ちてやることだけ。
 あなたは汚れていないと、言い続けることしかできなかった。
 市庁舎の一角で実刑を待つ女は、子どもに戻ったような寄る辺なさで、イネカにそう独白したのだった。
 イネカは窓辺の桟を指で辿りながら呟いた。
「わたしたちは、信じた。新しい聖女を生む。それが、少女たちの救いになると」
 メイゼンブル公国末期。重ねすぎた血の弊害による出生率の減少が、とりわけ公家の直系に見られた。各国と婚姻を結びたくとも、姫がいない。デルリゲイリアから買い入れる娘の数も減り、権力の正当性を証明する《聖女の直系》が形骸化し始めたころ。イネカたち姉妹は娘を生むことを強要され続け、妹は逆にどんな男を宛がわれても子を産めず、そうして払い下げられた先が、クラン・ハイヴのルグロワ市長だった。
 義弟となった男は、妹にやさしかったのだと思う。
 子ができたと聞きつけた本国の、あるいは、クラン・ハイヴの市長たちの獲物を狙う目を、イネカは忘れられない。
 自分が新しい聖女となれば、権力の在り方をくつがえせれば、娘を平凡なただの娘にすることができるだろうと妹は言った。
 自分もそう思った。
 だから妹を失ったあとも生き延びて、そうしてまた失敗している。
 どうしたらこの失敗を取り返せる。
 どうしたら失敗せずに子らを守れる。
 過去の負債から。わたしたちの愚かな歴史から。
 肩を震わせて嗚咽する女の髪をイネカは撫でた。
(聖女よ)
 あなたに祈ることは過ちだったのでしょうか。


 聖女が神に召されて幾星霜。
 皆、かの娘を充分に使った。
 その光は多くを救い。
 その足下に闇は広がる。
 光は年追うごとに先細り。
 その輝きを争い他者を影に付き落とす。
 憐れなるかな。憐れなるかな、楽園の落とし仔。
 あなたたちは輝けるのに。
 自ら、点ることができるのに。


 茫漠とした原野に乾いた風が吹き抜ける。
 デルリゲイリア南東。ペルフィリアとクラン・ハイヴ両国の国境に近い街道筋である。もう少し南へ下れば緩衝地帯――どの国の領土でもない荒野になり、東へ進むと国境となる。騎士を多く輩出する上級貴族が領主で、関所を抱く街ともなればそれなりの規模を持ち、加えて、異国からの出入りが多い。
 つまり、聖女教会の急進派もそこそこ浸透していたわけで。
 小高い丘でひとり、髪を風に遊ばせながら、アルヴィナは内心でため息を吐いた。
(人員を入れ替えたっていっても、そんなすぐには変わらないわよねぇ……)
 国外外交の重要性を承知していたから、領主は玉座から「蹴りだされる」前のマリアージュの支持者だった。とはいえ、領内には反マリアージュである人々も少なくなく、つい先日まで雌伏のときを過ごしていた人々は、あえなく光の柱の犠牲として主神の御許へ。
 混乱した街は、教会の後押しによって国境付近にたむろしていた、滅びた国の騎士、兵士くずれの混成兵たちに占拠されてしまった。
 彼ら曰く。
『仲間たちが消えたのは、流民を疎む女王による暗殺』
『あの光の柱はきっと聖女復活の証』
『聖女を迎え入れるため、我らは団結せねばならない』
『戦いにうち勝とう、聖女の騎士団の名の下に』
「いつの時代も変わらないこと……」
 街へ偵察に行かせた《使い魔》たちの報告に、アルヴィナは思わず笑ってしまった。
 要するに教会から派遣されていた指揮官級の人事が、軒並み消失したのだろう。それで誰かが狼狽える皆を纏めるために大義名分をでっちあげた。
 何もここだけで起こっていることではない。
 聖女の復活に関わったものは、メイゼンブルの崩壊で権力からはじき出されたものや、余波を受けて国を失ったもの、戦火から焼け出されたもの、ずるずると貧しくなった者たちが大半で、誰も彼もが鬱屈のはけ口を探している。
 此度のことできっと《西の獣》の各地では、自分が剣を手にすることを正当化する、様々な理由が作られていることだろう。
「みぃんな、見たいものを見て、信じたいものを信じる」
 彼らは真面目に夢を見ている。
 聖女が降り立って、自分たちを率いるべく旗を振って、この混乱した大陸をひとつにまとめ上げる。そんな過去の再来の一部となることを夢見ている。
 国や家族を失った彼らには、もうそれしか生きる目的がないのだ。
 アルヴィナは知っている。
 人は目的がなければ生きる意味を失うが、それは叶えられる範囲のものでなければならない。目的とはあらゆるものを奪われ、自分の無力に圧倒された人々にとって、容易く持てるものではないのだ。
 他人を攻撃することは、人が最も簡単に得ることができ、達成可能な目的だ。
 家族を、名誉を、財を、国を、何もかも失った彼らからすると、聖女と共に生きることは、あまい蜜だった。
 後世、暗黒とまで云われた混迷したあの時代、誰もが等しく多くのものを失っていたあのころ、聖女の下で生きることは、輝かしいものだった。
 シンシアは彼らの夢と祈りを引き受けた。
 彼らが立ち直るほんのわずかなときを稼ぐつもりで。
 彼らを支えることはシンシア自身を鼓舞するものでもあったから。
 それがまさか、彼女が死したあとも、これほどに永く続いて、祈りが権力にすり替わって、人の心を腐敗させるとは思わなかった。
 原野の彼方。街の影。そちらへ向かって、《聖女の形代》は繊手の白い指を伸ばす。
 その先から、とぷ、と、烏色の雫が落ちた。
「祈ってもよかった。頼ってもよかったの」
 ――彼女を単なる人柱に貶めないのならば。
 足下に落ちた烏色の魔力。それはアルヴィナを中心に広がって、やがてひとつの丘を埋めるまでとなった。
 薄く広げた烏色から、ゆらりと柱が立つ。
 それは徐々に人をかたどって列を成した。
 あるものは小柄な少年。
 あるものは隻腕の偉丈夫。
 あるものは痩躯の青年。
 女の姿もある。
 外套を目深にかぶったおどおどとした少女。
 等身大の大剣を構えた美女。
 微笑みを絶やさなかった小柄な老女。
 体術に特化した兵士たち。
 槍と剣に秀でた騎士たち。
 彼らの後方、あるいは前に立って、肩を並べた――腕のよい魔術師たち。
「いまさら、おかしいわね」
 呪われてから――妹たちを失ってから。
「ながぁいこと、何もできなくて、どうにもならなかったのにね」
 赤子の時分に奪われた姪を取り返すべく動いたこともあったし、《魔の公国》に仕官したことも多々ある。それでも一個人で組織を変えることは難しかった。
 不老不死の肉体と魔女を凌ぐ魔力を持つのだ。国を亡ぼすだけなら簡単だったが、自分がしたいことはそうではなかった。
 ただ、妹を、取り戻したかった。
 けれども彼女は信仰と権力と人の欲望に絡めとられていて。どうにも切り離すことはできなくて。
 アルヴィナは俗世と関わることを止めた《眠らぬ死者》となった。
 アルヴィナの同胞は三人いる。
 南にひとり。人の記録を続けるものが。
 東にひとり。人の歴史を覗くものが。
 北にひとり。人の世界に干渉するものが。
 三者三様、それぞれ人に寄り添って、いつか人に戻るための方法を探している。
 アルヴィナは諦めていた。当の昔に。妹を取り戻すことも、ただの人に戻って、主神の御許に赴くことも。
「だけど、そう……もう、おしまいにしたいわよね」
 思い出した。
 誰かの生を見守ってもいいけれど、いつかは自分も眠りたい。
 アルヴィナは並び立つ烏色の人々の中をゆっくりと歩き出した。
「エイラ」
 魔術の腕はよくなくて、ただ、細々とした道具を作ることが得意だった、よく笑う女だった。
「ケヴィン」
 強化の術に優れて、すぐ殴り込んでいた拳闘士の男。
「ミアンナ」
 兄に連れられて加わった。争いが好きではなくて、生活の裏方を進んで引き受けていた少女。
「マルコ」
 経験豊富な老爺。老獪な魔術師だった。兎料理に目がなかった。
「アントン、ランナル、ザシャ、ヨセフィーナ……」
 ひとり、ひとり、記憶をたどる。
 彼らの在りし日を思い返す。
 皆、アルヴィナを置いていった。
「クロムウェル」
 体格がよくて、神経質な男だった。戦略を練るのは大抵この男の役目で――出世欲が激しく、自分を投獄した男も彼だったな、と、アルヴィナは苦笑した。
 そして最後、最もよく組んだ男の前で立ち止まる。
「……ヴァイス」
 卓越した腕の魔術師にして剣士。騎士団に加わったのも、自分が彼の弟を殺したことがきっかけだった。
 戦うときはもちろん、話すときも常に横並びか背中合わせで、こんな風に向き合ったことは、何の皮肉か、たった一度、牢に捕らわれた自分を彼が助けに来たときだけだった。
 ――いつかいつか。
 この身を形づくる魔が主神の御許に召され、再びまっさらな魂を経て楽園を堕したとき。
 籠いっぱいの焼き菓子に、紅茶をひと瓶たずさえて。
 会いに行くから。
「もう少し付き合ってくれるかしら。この、歴史の転換に」
 きっといまが分水嶺だ。
 この《西の獣》に生きる人々が、自分たちの後裔が、自らの目指すべき標を自ら定めて生きられるようになるかどうかの。未来を腐食した過去から守れるかどうかの。
 アルヴィナの言葉に男の影は何も言わない。
 彼らはアルヴィナの魔に焼き付いた記憶。
 アルヴィナが眠るまでこの世界にこびり付き続ける残滓に過ぎない。
 アルヴィナは自嘲に嗤って、ぴゅい、と、口笛を鳴らした。放っていた馬を呼び寄せ、その鞍に飛び乗る。
 魔からも騎馬が生まれ、影たちも次々と騎乗した。
「さて……マリアには国境は任せてねって言っちゃったし」
『ホントにやるの? ひとりで? まぁ、やれるでしょうけど。言っとくけど関所を魔術で吹き飛ばすのはなしよ?』
 出立前、細々と注文を付けていた女王を思い出し、アルヴィナはくすくす笑った。
 手綱を引いて馬首を回し、馬の脇腹を軽く蹴る。
「さぁ、本当の聖女の騎士団の恐ろしさ、その名を勝手に使った、おいたの過ぎる子どもたちに――とくとご覧に入れましょうね?」
 そして、影を率いて、丘を下った。


「達成目標はこの街の鎮圧だ。第一、第二は仮設陣地の確保。その後、一小隊を出して逃げ遅れた民の保護へ!」
 王都から西方に位置し、街道の基幹を担う領都。そのうちひとつに門を破ってなだれ込み、アッセは率いてきた兵たちに指示を出した。
「第三、第四はわたしと城へ行くぞ」
 向かうべきは領主の城館だ。そこの上階に領主たる上級貴族と家族、使用人たちが、流民による混成兵たちを相手に立てこもっている。その彼らを制圧し、領主たちを救い出して街の機能を回復させることが、兄からアッセへ下された命のひとつだった。
 街中で人が集団で消えた混乱の最中、王都でも混乱があったが、こちらでも自棄になった流民たちが城館に入り込んで盗みを働き、その小競り合いが大きくなって、城の下の階が占拠されたらしい。常駐している騎士団を街の治安維持に出していたことがあだになったかたちである。王都の事態が収束を見せたので、急ぎ地方の救援にアッセは部隊を率いて出たのだ。
 街の人々は雨どいを閉めて立てこもっている。かつて訪れたときと異なる、荒廃した静けさの中、アッセは馬を駆り、部下に指示を出し、時に槍を揮った。
 なるべく、猛々しく、壮麗に。
 雨どいの隙間から様子を伺う街人たちの目に自分たちが映るように。
 女王の膝下より助けが来たのだとわかるように。皆が安心するように。
 何も知らない街人以上に、きっと王都に赴いたことのある騎士たちの方が、アッセの姿に安心する。彼らはアッセを確実にどこかで目にしたことがあるだろうからだ。
 アッセは先代女王の息子の片割れだ。上級貴族でも上位に座すテディウス家の人間である。そこからの救援は孤立無援だった人々をきっと再起させる。
(これが、わたしの力)
 マリアージュが玉座から転落したとき、アッセは理解した。
 自分は平凡な男だ。
 幼いころからよい教師の下について訓練された。兄より身体を動かす方が得意だったから、いずれは女王となるはずだった妹を支える将になるべく教育を受けた。
 母の命令の下、愚直に学んだ。人に公平であれ、善たれ、誠実であれと育てられた。なるほど、その通りに育ったのかもしれない。アッセは人を虐げたいとは思わない。女子どもには優しく接し、守ってやりたいとも思う。部下の評価は公平に、感情で判断すべきではないとも思う。
 だが、それだけなのだ。
 何もかもがそれなりで、この人を率いる地位も生まれによって得られたもの。
 未曾有の混乱にある国を、大陸を、平定して回れるだけの武力を集められるような魅力は己になく、かといって、兵を効果的に配置し、戦況をひっくり返す奇策を打つような頭もない。
 いつかの女王の言葉が蘇る。
『あんたはできることがあるってくっついてきているけど、それっていったい何なの?』
 自分がどう恵まれて、何を持っていないのか。
 自分の何が力で、どれほどのもので、それを正しく使うにはどうあるべきか。
 自分はそういったあらゆる理解が、周りの者たちより劣っている。
『あなたの騎士たちの命、わたしに預けることは不安ですか?』
 クラン・ハイヴへ出発する前の化粧師の娘は、己の頼りなさをアッセに尋ねたのだろう。
 ただアッセは逆にこう聞こえた。
 お前の騎士はわたしを守れないのか、と。
 彼女を心配している風に見せかけて、アッセは自分の不安を彼女にぶつけた。
 あのとき、己の未熟さの羞恥で死にたくなった。
『にいさま、あのね』
 遠い昔、中庭で木剣を揮う自分の下へ、妹は時折しのんでやって来た。次期女王の教育は妹にとって負担でしかなかったらしい。よく逃げ回っていた。兄のロディマスは宰相候補として妹を説教する役回りだったから、妹の課題がさっぱりわからず、彼女の成績に口出ししようのないアッセの下は、格好の逃げ場だったのだろう。
『わたし、お母様の後を継がなきゃならないのかしら』
『兄はエヴァを補佐し、僕はエヴァを守る剣になる。それが決まりだろう? 迷うとそれだけ訓練に支障がでる。エヴァの勉強もそうじゃないか?』
 それは妹を導く言葉のようでいて、彼女の決定に連動して自分の未来が変わる可能性を忌避しただけだ。
 妹はやがて兄弟のどちらにも心情を吐露しなくなった。彼女が限られた友人と開く秘密のお茶会だけが彼女の癒しであり、ある日、その友人たちと俄かに病に没した。
 兄はディトラウト・イェルニが彼女を殺したかもしれないと言うが。
 もっと早くに彼女を殺していたのは、おそらく自分の独善だった。
 浅はかで、弱くて、己について考えが足りなかったことが、すべての。
(こんなこと、わかりたくはなかった)
 聖女に祈りたくなる気持ちはわかる。
 祈ってこの愚かさすべてが払拭されるなら。
 だがアッセはそれが正しい道ではないこともわかるのだ。
 妹に替わって即位した女王は女王選でもっとも侮られていた。即位してからも、先代女王に反抗的だったミズウィーリの娘だ、無能だ、愚か者だと、ずっと囁かれ続けてきた。
 その彼女が選んだ《国章持ち》はあろうことか職人で、しかも化粧師だった。化粧師の娘もよく女王の片割れで居続けられるものだと嘲笑が耐えなかったし、アッセは彼女の胆力に感心していても、なぜ化粧を女官に任せないのかとよく思った。
 馬鹿だった。アッセは自分が本当に馬鹿だったと思う。
 彼女たちは――立派だった。そうとしかいいようがなかった。自分の立場を、無力を知っていて、それでいて今できることを確実に、丁寧にひとつひとつ積み上げて。アッセがいま王都から離れていられるのも、女王が確実に国政を掌握しているからであり、化粧師の娘が自身の出自を武器に、職人という立場から丁寧に関係性を構築した結果、貴族街と平民街が連携して早急に混乱に対処し終えたからだ。
 領主の城館に近くなり、暴徒が襲ってくる。
 アッセが馬上から彼らの武器を払い落とす。部下の兵たちが彼らを捕縛する。どこかの騎士崩れなのか、それなりの腕だった。きっとひとつ事情が異なれば、恨めし気に喚く男はアッセだったのかもしれない。
(すべてが終わったら)
 彼らの事情を孫尺した上で処罰し、場合によっては身の振り方を考えよう、アッセは思った。
 きっとそれは女王に近しい立場のアッセにしかできない。
(聖女よ――主神よ)
 もしも、祈りが許されるなら。
 自分の成すべきことをこなせるように見守っていて欲しかった。


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