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第一章 娼婦の顔師 3


 化粧部屋では、すでに数人の芸妓達が控えていた。皆、時間的に余裕のある若手の娘たちだ。
「あら、ダイ、お客をこんなところに招いちゃだめじゃない」
 ダイに続いて現れた影を見咎めて、芸妓の一人が眉をひそめる。しかし彼女も含め、男の容貌をまじまじと確認した娘達は、一斉に色めきたった。
「やだお兄さんってば、ここは禁制なんですよ! お相手だったらちょっと待ってくださいね!」
「ちょっと! アタシが最初に目をつけたのよ!」
「お兄さん、あの人たちは放っておいて、私のところにおいでなさいな」
「すみません、こちらの方は、今日は私の仕事の見学に来てるんです」
 ヒースに飛び掛りそうな娘たちを牽制して、ダイは言った。アスマにも許可を得ています、と付け加えれば、彼女達は途端に顔を曇らせる。
「えぇ、何それぇ!?」
「仕事って……顔をするとこ見るの?」
「やだぁ。もっとよく寝ておけばよかった! 肌がさがさなのに!」
「初めてじゃない? 見学、だなんて」
 どうして? と小鳥のように首を傾げる娘に、ダイは化粧道具を広げながら答えた。
「地方の劇場の方です。今度顔師を雇うことにしたので、参考にしたい、と」
 アスマと打ち合わせた通りの回答を口にし、ヒースを仰ぎ見る。口裏を合わせていたわけではない。それでも視線を交わした彼は、承知に小さく頷いてみせた。
 芸妓達からさらに追求を受ける前に、ダイは椅子に腰掛けた。素早く手を清めながら、彼女たちに呼びかける。
「一番目の人、どうぞ」
 釈然としない面持ちで芸妓達は顔を見合わせたが、おしゃべりに花を咲かせている場合ではない。彼女達も早く張見世(はりみせ)と呼ばれる場所へ出て、客に顔を売らなければならない。他の館ならばまず顔師の付かぬ下級の彼女達に自分が化粧を施すのも、少しでも早く上客が付くようにとの、アスマの配慮だ。
 自分とさほど年の変わらぬ少女が、ダイの前に腰を下ろす。その華奢な顎に軽く手を添え、正面を向かせながら、ダイは厚手の綿布を手に取った。絹のような滑らかさを持つ、弾力性に富む布地だ。
「聞きましたよ。いい顧客が付いたらしいじゃないですか」
 巻いた栗毛が愛らしい少女は、はにかんで笑った。
「そうなの。張見世の前を、何度も通ってくれていた方なのよ。マジェーエンナの真珠を扱っているんですって」
 それはいい顧客だ。真珠の商人は羽振りがよい。
「お年は?」
 若く柔い肌だが、指で触れると乾燥していた。綿布に化粧水を染み込ませ、化粧の前準備として付けていく。
「二十五。扱いがとってもお優しいの」
「お声がかかったのはいつでしたか?」
「最初にお声掛けてくださったのは、先月の朔の日よ。この間は四日前」
「あぁ、じゃぁ桃の紅を注していたときですね」
 どちらも丁度、似通った雰囲気でこの少女に化粧をしたときだ。あのときは、少女の顔立ちの愛らしさを前面に出して化粧を施した。
 四日前といえば、この少女には間を置かず、数名の客が付いていたように記憶している。あのとき施した雰囲気の化粧が、彼女に一番合っているのだろう。
「じゃぁ今日も桃の紅を唇に注しましょう」
 薔薇の精油を薄めたものを、少女の頬に伸ばしていきながら、ダイは言った。
「目元だけ少し変えましょうか。今日は月が暗いですから、少し赤みの強いものを使いましょう。多く焚かれた蝋燭の灯りにも、そして今日の山吹の衣にも良く映える」
「腫れぼったくならない?」
「一重が可愛らしく見えるようにしますよ。大丈夫」
 微笑む少女の顔に白粉(おしろい)をつける。本来は若々しく滑らかな肌に白粉なぞ必要ない。が、色をのせるためには、ある程度粉を叩(はた)いておかなければならない。
 ダイは化粧箱の中から折りたたまれた黒い板を引き出して、傍らに広げた。青に始まる寒色から、赤を筆頭とした暖色、そして緑や紫といった中性色。濃淡様々な色粉が収められた板だ。作りたい少女の雰囲気を慎重に考え、少女の顔にのせていく色をその板の中から注意深く選んでいく。
「私も姉さんたちみたいに、声がたくさんかかるようになるかしら」
「えぇ。もちろん。アスマが選んだ子は、みんな美人ばかりですから。視線上向けて」
「はい」
「いいですよ、目を閉じて。……今に引く手数多になります。目を開けて。視線はこちら」
 ダイの指示に従って、少女は目を動かす。その視界に細筆の先が入らぬように気をつけて、開かれた瞼に色をつけた。一重は、目を開けたまま印をつければ、綺麗に色が入る。
「リマは肌が綺麗ですし、顔立ちが可愛らしいから」
「でももう少しお話の仕方を磨かなくちゃって思うの」
「舌足らずぐらいが可愛いです。次は唇に紅を注します。にこっと笑ってください。そう」
 顎に手を添え、ぽってりとした唇を丁寧に縁取る。紅の色は淡く、可愛らしさを意識して。幸い、少女の唇は色素が薄いので、どんな淡い色も鮮やかに発色する。
「唇を少し開けて。……いいですよ、閉じて。少し頬にも紅を入れましょうか」
「ダイが紅を注すと、この厚すぎる唇が好きになれるから不思議だわ」
 うーんと唸る少女の頬に練り状になった桜色の頬紅を、柔らかい海綿を使って入れてやった。
「光栄ですね。いいですよ。終わりです」
 海綿を置き、代わりに手鏡を取り上げて少女に手渡す。鏡を覗き込んだ少女は満足そうに笑って、ありがとうと囁いた。
「今日の結果、聞かせてください」
「もちろん」
 扇情的な衣の裾を翻し笑った少女を見送って、ダイは声を掛けた。
「それじゃぁ、お待たせいたしました」
 はぁい、と朗らかに返事をした少女が、ダイの前の席に着く。
 あとは先ほどと同じだ。少女ごとに雰囲気を決めるためのやり取りを交わし、近況や悩みなどを聞き、彼女らを褒めて気分を高揚させ、仕事場へと送り出す。
 部屋にいた五人の少女達の顔を全て作り終わった後、彼女らの小柄な身体が戸布の向こうに消えたことを確認して、今まで沈黙していたヒースが口を開いた。
「見事なものですね」
 偽りなき賞賛に、ダイは筆に付いた色粉を手ぬぐいの上に落としながら微笑んだ。
「ありがとうございます」
「……そして早い」
 五人の化粧が終わるまで、半刻と少し。実際は、もう少し早くてもよいのだが。
「時間を無駄にはできませんから」
 いくら彼女らを美しく飾りたてても、人の目に触れる時間が短くあってはならないのだ。まだ顧客の少ない下級の芸妓達は、なるべく人の目に晒されて、一人でも多くの客を引き寄せる必要がある。
「貴方は、彼女らのような若い芸妓達を主に?」
「いいえ」
 色粉を落とし終えた筆を箱の中に収めて、ダイは面を上げた。腕を組んでこちらを見下ろす男の瞳にあるのは、好奇心、それのみだ。澄ました表情を裏切って子供のようにきらきらと輝く目に、ダイは親しみを覚えた。階級の垣根が消えたような気がしたからだ。
「全員です。花形の人へは、貴方とお会いする前に済ませました。今日は早い時間に、催し物があったから。そういう人たちへの化粧は、私が部屋に直接赴いてさせてもらうんですが、そこへはさすがに貴方を連れてはいけません」
 花形ともなると、この館を支えているのだという自負と誇りがある。直接用事のないものが部屋に踏み込むことを、彼女らは決してよしとしない。立ち入る半玉――見習いの童女達ですら、選ばれるのだから。
「これからは?」
「一仕事終わった人たちがこちらに来ます。来ないようでしたら館を巡回します。疲れて動けなくなる子もいますので」
 化粧箱の蓋を、ひとまず閉めながら、ダイは付け加える。
「芸妓の方の肌の調子を診るのも私達の仕事です。肌は皆の商売道具ですから」
「化粧だけではない?」
「そうですね。あとは他の裏方の手が足りないときに手伝ったりもしますよ。髪結いとか」
 なるほど、と、ヒースは深く頷いた。感心したように幾度も首を縦に振る姿は、新しい発見をした子供のようである。
「貴族の顔師の方々とは、やり方が違いますか?」
 貴族に雇われる化粧師たちについては同業者のことながら耳にしたことがない。
 ダイの質問に対して、ヒースは眉をひそめてみせた。
「化粧師、という方を、雇ったことがありませんので、はっきりとしたことは言えませんね」
「……雇ったことがない?」
「えぇ。ありません。……失礼、その椅子に腰掛けても?」
 断言したヒースは、ダイの目の前の椅子を指差して許可を求めてくる。ダイは慌てて彼に椅子を勧めた。立たせたままにしておくなど、不敬もいいところである。
 しかしヒースはダイの失態を咎める様子もなく、さっさと椅子を引き寄せ腰掛けた。その所作一つとっても、彼は実に優美だ。
 初対面の時にも思った。綺麗な男。しかし華奢なわけではない。先ほど廊下を共に歩いていて思ったが、ダイが小柄だということを差し引いても、彼にはかなりの上背があった。
「マリアージュ様が、そのお顔に自信がお在りでない、ということは、お話しましたね」
 静かなヒースの声音に、ダイは我に返って頷いた。
「はい。伺いました」
「普通、化粧は侍女にさせますが、女王選出の儀に出られることもあるし、あの方をより美しく見せ、マリアージュ様にも自信を持っていただくために、専門のものを雇い入れたほうがよいだろうという話になりました。そのとき初めて、私は化粧師という職があることを知りました」
「貴族の方々はあまり雇わないのですか?」
「下級貴族の方はどうかわかりません。ですが上級貴族において姫君たちに求められるのは、状況を読み、分を弁って振舞える知性と共に、器量です。花のように、美しくあること。主人を引き立てる美貌を求められます。ですがわざわざ顔師のような専門のものを雇うということは、その娘の器量がよろしくないということを暗に示しているとして、好まれませんね」
 化粧師を雇うという意味は、そんな風に曲解されてしまうのか。目から鱗が落ちる思いだった。
「下級貴族の中には化粧師を雇う方もいるようですが、それも育ちを誤魔化すための無駄な足掻きと、こちらはとります。育ちがよければ器量もよい、という認識が一般的です」
「なのに貴方は、私を雇おうとされている」
 男の、ひいて言えばミズウィーリ家の行動は、彼の語る貴族の認識と反するものではないのか。
 そんな、周囲の貴族の嘲笑を買うようなまねをしてよいのか。
 彼らが雇う顔師に化粧をさせようという相手は、他でもない女王候補の娘なのに。
 非難めいたダイの呻きに、ヒースが苦笑を漏らす。
「そうです。……化粧師一人を雇って、マリアージュ様が女王に一歩でも近づけるというのなら、そのほうがいい」
 慕われているんだな、と目にしたことのない女王候補を少し羨ましく思う。
 会話が途切れたところで丁度、戸布が乱暴に持ち上げられた。
 唐突な来訪者に、ダイははっとなって視線を入り口へ向ける。仕事を終えた芸妓が化粧直しのために戻ってきたのかと思ったが、そうではなかった。布を持ち上げたまま戸口に佇む影は、アスマである。
「ダイ、今手は空いてるかい?」
「空いています」
 彼女の問いに答えて立ち上がりながら、ダイは首を傾げた。
「何かありましたか?」
 アスマの表情は曇っている。あまり良くないことが起こったのだと推測することは容易だった。
 アスマはダイの肩越しにヒースへ黙礼した後、踵を返して手招いた。
「サイシャが嫌な客に当たってしまってね。……来ておくれ」


 娼婦の顔師の役割は、彼女達を美しく仕立てることにある。
 髪の一筋、指の先、視線に至るまでを使って、男を溺れさせる。それだけのために、生きている女達。
 身体を売る彼女らを蔑むものは多い。しかし彼女らは誇り高い。この国においては、特に。
 その誇りを貫く手助けをすることこそが、ダイの仕事だった。


 館の廊下には小部屋が並んでいる。客が美酒と料理に舌鼓を打ち、芸妓の舞や会話を堪能し、そして熱に溺れるための部屋。
 ダイが案内された先は、中級の芸妓が使用する、それなりに広さのある部屋の一つである。足を踏み入れてまず目にしたものは、警備役の男が絨毯の上に腰を落としたままだった女を抱き起こして、寝台に横たえている光景だった。
 アスマとダイに続けて入ったヒースが、背後で立ち止まる。彼の息を呑む様が気配でわかった。
「あぁ、結構ひどくやられましたね」
 ダイは寝台の横に片膝をついて、女の頬に触れた。そこは不自然に赤くなり、目の周りはやや黒ずんでいる。
「殴られたんですか?」
「そうなの」
 嘆息交じりに、寝台の上の芸妓は呻いた。
「やられたわ。抵抗したらこの通り、目の周りが真っ黒よ」
 青紫に変色した左目の周囲を指差して、芸妓の娘は言った。
「腫れてないのが救いね。ねぇ。応急処置できる?」
「お客様が? 医者は?」
「大丈夫。それよりマージの旦那様がおいでになるって、お約束して下さってる。本当に来られるかどうかはわからないけれど、お迎えの準備だけはしておかなくちゃぁ」
「応急処置って……」
 唐突に背後から掛かったヒースの声に、ダイは振り向いた。ダイだけではない。アスマや寝台の上の娘も、彼の方へと顔を向けた。一斉に集まった視線から逃れるように、彼はダイに尋ねてくる。
「医学の知識もあるのですか?」
「いいえ。ありませんよ」
 肌の良し悪しに関係する知識は多少あっても、医者の真似事など到底できない。
 ダイの否定に、ヒースは怪訝そうに問いを重ねる。
「ですが応急処置、とは?」
「私は、顔師ですよ」
 ダイは笑いながら、化粧箱の蓋を開けた。同時に、部屋の隅に置かれた水差しを視界に収める。濡らすための小さな手ぬぐいを箱から用意し、ダイは言った。
「私にできるのは、化粧を施すこと。ただ、それだけです」


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