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第一章 娼婦の顔師 4


 まず濡らした手ぬぐいで、赤くなった頬を冷やし落ち着かせたあと、ダイは手早く化粧道具を広げた。
「本当に、応急処置ですよ」
「わかってる。旦那様が、びっくりされなければよいのよ。後はこっちの顔がわからないぐらい、溺れさせてあげればいいんだから」
 そういって自信たっぷりに胸を反らす芸妓の娘からにじみ出るのは、磨きぬかれた己が身体に対する誇りだ。彼女達は春を鬻(ひさ)ぐ。けれどその魂は決して売らずに、むしろ崇高であり続ける。
「そっとしていきますが、痛かったら言ってください」
「わかったわ」
 頷く娘から手ぬぐいを除け、素早く手を清めると、ダイは綿布に乳液を浸した。花の胚を傷つけて採取するとろみのある液体。香りが良いし、肌を落ち着かせる。化粧の持ちもよくなる。剥げかけた化粧をその綿布でさっと落として、次は肌の色が付いた練粉を用意した。
 練粉は、色や粘度によって用途が異なる。目が痛くなるほどの鮮やかな黄色に着色された練粉を、指ですくい取るダイの背後で、ヒースが声を上げた。
「すごい色ですね」
「これで目の周りの痣の色をとばします」
 娘の黒ずんだ左目の周りに、黄色の練粉を薄く塗布していきながら、ダイは言った。
「黄色は光を集めますから。白よりも肌になじんで、黒や青、茶といった濃い色をよく消します」
 寝不足から来る目の下の隈や、そばかすが気になる娘たちに使う色だ。ただあまり使いすぎると肌が黄味を帯びすぎて見えるから、気を付けなければならない。
 一気に付けすぎると、厚ぼったく見える。愛でるような丁寧さで柔肌に指を滑らせ、薄く黄色を塗布した後、ダイは親指ほどの太さを有する筆を手に取った。その筆先の硬さを軽く確認して、今度は肌の色にぐっと近い、とろみある液体の入った小瓶を手元に引き寄せる。
「まだ完全に消えてないのに、色を重ねるんですか?」
「同じものを厚塗りしすぎると崩れます。薄い層を重ねるように何回も塗っていくんです。特に、目元ですからね」
 目元は瞬きを繰り返す分だけ、崩れやすい。
 ヒースの問いに答えつつ、肌色を娘の目元に薄く伸ばして、ダイは小瓶を置いた。次はまた黄色。先ほどよりも少し暗めの橙に似た色で、今度は目元の彩りにも使う色粉だ。
 それを柔らかい筆で取る。膜を作るように、淡く肌色の上にのせていく。
「痣が消えた」
 驚いたように、ヒースが呻く。
 色板に手を伸ばし、固形の肌色を先ほどの筆に含ませ、それを娘の目周りに重ねる。最後に白粉を、握りこぶしほどもある筆で顔全体にさっと被せたときには、娘の目元の色は遠目には顔の他の部分と変わらぬように見えた。
「終わった?」
「いいえ、まだです」
 身体を起こそうとする娘の肩を押し返しながら、ダイは目元に使う細筆と色粉のはまった板を手に取った。
 平筆にとった淡い青を、半円を描くように娘の瞼の上にのせていく。いつの間にか覗き込むような体勢で傍らにいたヒースが、首を傾げた。
「青色?」
「蝋燭の下だと、色がくすむので、あまり使わないんですが」
 苦笑しながらダイは一段濃い青を上瞼の際に入れ、予め先を平たく潰してある綿棒でぼかした。色の境目が綺麗に馴染んでいることを確認し、化粧箱から深い藍色の液体が入った小瓶を取り出す。
「それは?」
「際をなぞります。金粉が入っているので、青が引き立つ」
 紅筆よりもさらに細く硬い筆を瓶の中に差し入れて、藍色を引き出す。布の上で余分な色を落としつつ、筆先を整え、ダイは左手でそっと瞼を引き上げながら、睫毛の生え際に、大胆に線を引いた。
「あぁ、いいね」
 今まで黙っていたアスマが、口を挟んだ。
 彼女のお眼鏡に適えば大丈夫だ。ダイは娘に視線の方向について指示を出しながら、両目の色味を調整し、筆を置いた。手に付いた色粉を軽く拭って、指先で蜜蝋を娘の唇に注す。取れていた頬紅を薄く加え、最後に余分な粉を落として完成だ。
「出来ました」
 ダイが手渡した鏡を覗き込んだ娘は、一度目を見開き、そして満足げに微笑んだ。
「ぜんぜん、殴られたのがわかんない」
「化粧が剥げたらさすがにわかりますよ」
「いいのよ。青使ったの、目立たないように?」
 左目の周りの青黒さが。
 小首をかしげて尋ねてくる娘に、ダイは化粧道具を片付けていきながら答えた。
「そうです。遠目に見てわからなくとも、白粉だけだと顔を近づければ違和感を覚えます。口付けの最中に、相手に止まられるのも興ざめでしょう?」
「そうね」
 ダイの言葉に、娘はおかしそうに笑いながら同意を示す。そしてもう一度鏡を覗き込みながら、彼女は言った。
「知らなかった。私、青も似合うのね」
 感心したような、どこか陶然とした響きに、ダイは微笑んでみせた。
 彼女は美しい切れ長の眼をしていて、青はその涼しげな目元の魅力を、最大限に引き出す色だった。ただ彼女の肌の色はやや黄味が強く、色を選ばなければ派手に見えてしまう。その上蝋燭の明かりの中では、青はくすむ色だ。招力石の明かりを灯す舞台化粧としてならともかく、小部屋で待機する芸妓達の顔には、あまり施さぬ色である。
 ただ今回ばかりは目周りの違和感を、青が綺麗に消してくれていた。これならば、娘が客を『溺れさせる』までの時間稼ぎぐらいならばできるだろう。
「お約束の旦那様が来られるまでは、休ませるんでしょう? アスマ」
 化粧箱の蓋を閉めながら、この館の女主人を仰ぎ見る。アスマはダイの質問に、肯定を示した。
「当たり前だろう。馬鹿にするんじゃないよ」
「……と、いうことなんで、水を飲んで少し休んでください。顔は氷を包んだ布で冷やして。ただ、眠らないように。目元が崩れます。口の紅は旦那様が来られる前に塗りなおしてください。色は薄めの色で」
「わかったわ」
 口紅を今ここで塗ったとしても、結局は落ちてしまう。とりあえず、蜜蝋を塗るだけに留めておいた。
 立ち上がりかけたダイの首に、するりと娘の腕が巻きつく。彼女は唇をダイの耳元に寄せ、ふわりと甘い香りを漂わせながら囁いてきた。
「ありがとうダイ。もうちょっとおっきくなったら、私を指名してね」
 苦笑しながら、ダイはその身体を押しやる。
「化粧師は客にはなりません」
「アスマ、そろそろこの規則変更しない?」
「しないよ」
 懐から取り出した煙管に火を入れながら、アスマは即答する。つまんないの、と頬を膨らませる娘から離れたダイは、化粧箱を取り上げてヒースに向き直った。
「それでは、次にいきましょう」
 腕を組み様子を見守っていた彼は、何かを思案していたらしい。ダイの呼びかけに我に返った様子の彼は微笑んで、一つ頷き返してきた。


 一度、控えの化粧室に顔を出して誰も芸妓が戻ってきていないことを確認したダイは、ヒースを引き連れながら館の中を巡回した。一仕事を終え、軽く身体を清めた女たちから呼び止められると部屋に入り、彼女たちの顔に触れていく。そして定期的に、化粧部屋に戻る。それの、繰り返し。
 ヒースは秋波を送ってくる芸妓達を丁寧にあしらいながら、結局夜明けまで、ダイに付き合った。


「ありがとうございました」
 男の謝辞に、ダイは恐縮し、慌てて頭を下げた。
「いえ、こちらこそありがとうございました。……その、色々と」
 色男を前にして、芸妓達は遠慮というものを知らない。絶えることのない彼女達からの秋波に、彼はさぞや迷惑を被ったことだろう。顔師の仕事の見学人などというもの珍しさもあったからだろうが、何よりも彼の見目よい容姿が原因に違いない。
「いえいえ。男冥利につきますよ。どんな立場の方であろうと、美しい女性に声をかけられるのはね」
 ゆったりと微笑む男の腹の内などダイにはわからないが、そのように返されてダイは安堵した。
「それに、貴重な体験でした」
「貴重?」
「えぇ。女性の化粧など、滅多に見ることはありませんから」
 ということは、既婚でもないのだろうか。これほどの見目ならば、例え彼がミズウィーリ家の従僕だとしても、婚約の話は引きも切らないだろうに。
 ふと、興味が湧いた。
「結婚は、されてらっしゃらないのですか?」
 口にしてから我に返る。いくら好奇心を抱いたといっても、不躾すぎる質問だ。
「あ、あの、すみません。忘れてください」
「いえ、かまいません」
 羞恥に渋面になったダイを許すように、ヒースが首を横に振った。
「していませんし、当分するつもりもありません。婚約者もおりません」
「では、確かに化粧を見る機会などないですね」
「結婚していたとしても、そんなところを見ることはないでしょう」
「あ、そうですか……」
 貴族の夫婦は共に暮らしていても、化粧などあえて見ることはないということだろうか。それとも慣例として女子の化粧を覗いてはならないということだろうか。
「次、こちらにお邪魔する日ですが……」
 逸れ掛けていた話題を、ヒースが引き戻す。
「十日後、ということでよろしいでしょうか?」
「十日後?」
 ダイは思わず鸚鵡返しに尋ねていた。
 その日までに、幾度かこちらに足を運ぶといったことを口にしていたというのに。
 仕事の内容を見て、依頼を取り消したいということならば今この場で口上すればいいはずだ。男の思惑を測りかねて眉をひそめたダイに、ヒースが言う。
「えぇ。お約束した通り、その日までに返事をいただけると嬉しく思います」
「……それは、やはり私を雇いたい、と?」
「はい」
 即答だった。
 困惑しながら口を噤むダイに、ヒースは言葉を続ける。
「今日お仕事を拝見させていただいて、驚いた。化粧師を探して貴方のときのように仕事を見学させていただくことはありましたが、皆、侍女の仕事に毛が生えたようなものだった。けれど今日の仕事を拝見させていただいて、思いました。……もう、これ以上仕事の邪魔をさせていただく必要もありません」
 そして男は、真っ直ぐにダイを見下ろしながら、宣言する。
「やはり私は、貴方が欲しい」
 まるで、愛を告げるときのような、真摯さだ。
 ダイは思わず瞠目し、絶句した。
 呆然と立ち尽くすこちらを見て、ヒースも自らが吐いた言葉が孕む意味を気取ったのだろう。らしくもなく狼狽をみせ、注釈を付け加えてくる。
「あ、え、えぇ。化粧師として、迎え入れたい、という意味です」
「う、えぇっと、はい」
 お互いに気まずく沈黙を抱えたあと、ヒースは小さく噴出した。
「すみません。勘違いされてもどうかと思うので言いますが、私に男色の趣味はありませんから」
 真面目くさって断言する男に、ダイも笑う。
「いえ、お構いなく。わかっています」
 わかっている。ただ、驚いただけだ。
 誰からもそのように、嘱望されたことが、なかったので。
「ですが、女性と間違われること、多いでしょう?」
「は?」
 からかいの色を目に浮かべるヒースに、ダイは首をかしげた。
「緑の黒髪、月色の目、白磁の肌」
 その薄い唇から歌うように形容を並べ立てた男は、おかしそうに笑う。
「顔立ちも麗しい。女性だったらさぞや、傾国の姫君となっていたでしょうね」
 この西大陸の大国だったメイゼンブルを滅ぼしたという、噂に聞こえる、魔女のように。
「……ありがとうございます」
 歯の浮くような台詞は彼の育ちがよいからだろうか。ともすれば皮肉に響く言葉だが、ダイは素直に賞賛として受け取った。性別はともかく、容姿を褒められることに関して悪い気分を抱くことはない。この容姿は、母のものだ。色は、父のものだが。
「一度お話したと思いますが」
 そういって話を切り替えたヒースの表情は、先ほどと変わって真剣なものだった。
「我々の中で化粧師を雇うということはあまり前例がありません。よい顔をしないものもいるでしょう。だからこそ、雇ったことを納得させるほど、圧倒的な腕を持った化粧師が必要となる」
「私ぐらいの腕ならば、この花街にはいくらでもいます」
「そうですか? 皆、口を揃えて貴方が一番の化粧師だとおっしゃいましたよ」
 そんなことはないだろうと反論しかけたダイは、ヒースの笑顔に毒気を抜かれた。
「それにマリアージュ様は御年十七であらせられる。貴方は十五だと耳にしました。年の近いほうが、マリアージュ様も気兼ねないでしょう」
 性を感じさせぬ若年のほうが、女王候補にとって抵抗が少ないだろうということか。
 それを考えれば、確かに化粧師の中で一番適任なのはダイであると言える。この界隈に顔師は多くとも、皆、ダイよりもはるかに年上だった。
「色よい返事を、期待しています、ダイ」
 初めて名前を呼ばれて、ダイは瞬いた。ダイが何かを言う前に、貴族の遣いとして現れた男は優雅に会釈し、用意された馬車に乗り込んでいってしまう。
 喉元にこみ上げてくる、何か異物を飲み込んでしまった時ような、例えようのない感情。
 それを持て余しながら、朝日の中を去り行く馬車に向けて、ダイは腰を折った。


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