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第一章 娼婦の顔師 2


「化粧師は貴方だけ?」
 傍らを歩く男の問いに、ダイは否定を返した。
「いいえ。私含めて十二人です」
「結構多いのですね」
「館は三つありますから。……三人ずつ分かれて館に入って、残り三人はお休みをとります」
「常に同じ館を?」
「いいえ。毎日順番に違う館へ入ります。例外もあります」
「例外?」
「稼ぎ頭の芸妓が上客を招く日や、何か催しものをするときは、気に入った顔師を指定することもあります。そんなときは、その芸妓の呼び出しが優先されるんです」
 化粧は芸妓の雰囲気を大きく左右する。化粧によっては同一人物が、まったく別人といっていいほどに見えることもあるのだ。芸妓達の顔を司る化粧師にも得手不得手があり、例えば派手な顔が得手の者もいれば、清楚に見せることが得意という者もいる。肌をただ美しく見せることに神業を披露する顔師もいれば、目元口元の艶やかな仕上がりにかけては、末代まで語らせる芸術品の域、という顔師もいる。芸妓達は客の好みにそった得意分野を持つ化粧師を、ここ一番という折に選ぶことが多い。
 芸妓達が、常に表情を変え、男を飽きさせない、艶やかな花であれるように。
 化粧師達は、この娼館で腕を揮う。
 そういったことを説明してやると、ヒースは興味深そうに目を細めてみせた。
「知りませんでした。色々なことをするのですね」
 感心した様子の彼の言葉に、ダイは面映くなる。化粧師達は完全なる裏方だ。このように誰かに仕事を説明したことも、賞賛の響きで言葉をかけられたのも初めてだった。
「今日は、その貴方の仕事を見せていただけるのですね」
 ヒースの言葉に、ダイは頷いて、仕事部屋となる化粧室の戸布を押しやった。




 ヒース・リヴォートと名乗ったミズウィーリ家の遣いが帰った後、ダイはそのままアスマの仕事部屋に留め置かれた。無論、話し合いのためだ。
「断るつもりかい?」
 戸棚から葡萄酒の瓶を取り出しながら、アスマが言う。ダイは彼女の動きを目で追いながら、軽く思案した。
「……そうですね。こちらに迷惑がかからないのなら」
 どう考えても、胡散臭い話だ。女王候補の顔を作れ、などと。
 この部屋へ案内される道中耳にした、アスマの呟きの意味がよくわかる。商人や貴族相手に仕事をしてきたならばまだしも、ダイは花街の顔師である。アスマが囲う娘たちは皆、舞や楽器、詩作を身につけ、話術巧みな、超一流の芸妓達。しかし一方で春を鬻(ひさ)ぐ女たちであることには変わりない。貴族の娘たちが最も嫌悪する類の女相手に仕事をする化粧師が、ダイなのだ。
 そのダイに、女王候補に選ばれるほどの上級貴族の娘が、顔を触らせるなどと到底思えない。何か裏があって当然だった。
 そんなところに自ら飛び込んでいきたくはない。
「やっぱりね」
 玻璃の杯を二つ手に持ったアスマは、葡萄酒の瓶を卓の上に載せて、微笑んだ。
「アタシとしても、引っかかってる。何故わざわざ、こんな場末の花街くんだりに顔師を探しにくるんだろう、ってね。まぁ先方は、貴族相手に働いている化粧師たちにも当たったんだ、とは言っていたけれど。本当かねぇ」
 ダイの向かいに位置する長椅子に乱暴に腰を落としたアスマは、その長い足を惜しげもなく晒して組み替えた。上半身を前に倒した彼女は、卓の上に置いた二つの玻璃の杯両方に、葡萄酒を注ぎ入れる。
「アスマ。お酒は……」
「あんたももう十五だろう。酒ぐらい飲めなきゃだめだよ。……まぁあんたのその様子じゃ、誰もそんな年だなんて思わないだろうけどね」
 アスマに指摘され、ダイは葡萄酒の水面に映った自分の姿を見た。年の割に小柄で薄い身体がそこにある。顔立ちも幼い。客足引きも切らぬ美妓であった母の面影を宿す輪郭は、ダイの性別を曖昧に見せていた。
「アスマはどうして、断らなかったんですか?」
「先方は大貴族様だ。あんたに会わせもせずに、いくらアタシだって追い返せないさ」
「けれどそれだけじゃないでしょう、アスマ。追い返すことはできなくても、はぐらかすぐらいだったら出来るって知っています。それでもこの話を私のところに持ってきたのは……」
 何か理由あってのことでしょう?
 ダイの無言の問いかけに、女主人から嘆息が零れた。
「胡散臭いけれど、もし本当に純粋にあんたの腕を揮える場所を提供してくれるっていうなら、願ったり叶ったりだと思った」
 アスマは、葡萄酒を杯の中で軽く揺らした。天使の足とも呼ばれるとろみを帯びた雫が、杯の中で筋を作る。
「あんたは本当に腕がいい。贔屓目なしに、アタシはそう思うよ。アタシの館の中で一番、いや、この花街で一番だ。だからこそ、同業の旦那たちだって、あんたに声をかけるんだ。まだ、たった十五だっていうのにね」
 アスマは柔らかく目を細めてダイを見つめてくる。彼女の淡褐色の瞳に映っているのは、いつまでも子供の自分なのだろう。ダイは娼婦の女たちに育てられた。そして自分を最も可愛がり母親代わりを請け負ったのは、彼女に他ならない。
「けれど、もう、十五だ」
 アスマは声音を厳しくして、眉間に皺を寄せた。
「あんたのその事だってある。早くこの花街から抜け出せるのなら、それに越したことはないんだ」
 押し黙ってしまったダイに、この館の女主人は優しい笑みを見せて言う。
「あの御仁は、また来るんだろう? 人となりを見て、話を聞いて、よく考えて決めるんだよ、ダイ」
 いいね、と念を押してくるアスマに、ダイは頷かざるを得なかった。
 この場所を出たくはない。しかしアスマの言うことも正しい。
 なるべく早く、自分はこの花街から出て行く必要がある。もし本当に貴族の後ろ盾を得て化粧師としての仕事ができるというのなら、ダイにとってこの上ない好条件なのだ。
 ダイは卓の上に置かれた葡萄酒を手に取った。口をつけたそれは、奇妙な苦さを舌先に残しただけだった。




 ヒースが再びダイを訪ねてきたのは、二日後の夜だ。上客用の応接間――今回は、来訪を予告されていたこともあって、きちんと彼用に整えていたらしい――は、いつも以上に磨かれ、調度品もいくつか置き換えられている。その部屋で、設えられた長椅子に腰を掛けた男は、日が開いてすみませんと、丁寧に頭を下げた。
 彼の行動に困惑しながら、ダイは問う。
「お話についてなんですけれど、もう少し考えさせていただいてもいいですか?」
 化粧師を急ぎで探しているというのなら、男はその場で引き下がるだろう。しかし彼は、承諾の意を示した。
「えぇ。結構です」
 逡巡すら見せない。予想を裏切る反応だ。貴族を待たせるなど何事かと、怒るだろうと思ったのに。
「ただ、期限だけは切らせていただいても? 十日後までに返事を戴いてもよろしいでしょうか?」
 考える時間としては十分だろう。ダイは頷いた。
「……何故、私に、このお話を?」
 階級意識が見え隠れするとはいえ、ヒースの対応は破格ともいえるほど誠意に溢れている。そこまでしてダイを雇おうとする意味は何なのか。正直に答えてもらえるとは思っていないが、せめて表面的な回答だけでも知りたかった。
 ヒースは、躊躇を見せるように膝の上の手を組み替えて、低めた声で言った。
「私達の主、マリアージュ様は、ご自分のお顔に自信がおありでない」
 話の予想外な流れに、ダイはぱちくりと瞬いた。
「マリアージュ様、が?」
「えぇ」
 神妙に、ヒースは頷いた。
「実に愛らしい姫君では在らせられます。しかし……自分の主を悪く言うようで心苦しいのですが、確かに他の女王候補者である姫君たちに比べれば、若干華やかさに欠けるところが、おありなのです」
「それで、化粧師を?」
「専門の者を呼んだほうが、良いだろうという話になりました。マリアージュ様ご自身も承諾していらっしゃいます。そして化粧師を探すうちに、貴方の噂をそこかしこで耳にしました。年は若くも、女性を美しく見せる腕に掛けては、何者もその足元に寄せ付けぬ、と」
 過ぎた賛辞を、ダイは目を剥いて否定する。
「そんなこと、ないです」
 そんな根も葉もない噂を信じて、自分を雇おうなどと思ったのか。ダイは呆れながらヒースを見返す。彼は穏やかな微笑を湛え、ダイの糾弾の眼差しを受け流していた。
「……このお話、私も考えますが、貴方にも、考えていただきたいんです」
 こんな話、ひどく無礼だと思いながらも、ダイは提案せずにはいられなかった。
「と、いうと?」
 言葉が意味するところの解説を、ヒースが求めてくる。ダイは緊張に唾を嚥下した。
「噂だけで、貴方はこちらを訪ねて来られました。けれど私の顔をする腕がどれほどなのか、実際目にしているわけではないでしょう?」
「……顔をする?」
「あ……えっと、化粧をする、という意味です」
 芸妓達の間で使われる言葉だ。貴族の子女達は用いないのだろう。
「確かに……そうですね。では、貴方の仕事場を見せていただけると?」
 ダイは頷いた。アスマとは、すでに話をつけている。
「私へのお話は、私の仕事を見てから改めて、という形にしていただいては、いけませんか?」
 無論、この男に仕事を見られるからといって手を抜くことはない。それとこれとは話が別だからだ。
 しかし見学の結果、求めているものがダイにないとわかれば、男も引き下がるだろう。
 そう考えて、やはり自分は、まだこの花街を離れたくはないのだと思った。
 ヒースは軽く顎をしゃくる。そしてわかりました、と頷いた。
「では、そうさせていただきましょう。そのほうがきっと双方によいに違いないですから。これから、見せていただけるのですか?」
「はい」
 気を悪くした様子のないヒースに安堵し、胸を撫で下ろす。首を縦に振って、ダイは立ち上がった。
 そろそろ仕事に入らなければ。いくらアスマの許可を得ているとはいっても、いつまでも油を売っているわけにもいかない。
 傍らに置いていた仕事道具を抱え上げ、ダイは戸口を示唆する。
「それでは、ご案内します」


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