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第三章 灰色の智将 1


 これが化粧なのね、と、漏らしたのは侍女の一人だ。
 ダイに伴われて現れたマリアージュを一目見るなり、彼女はそう感想を述べた。ヒースも彼女の意見に同意し頷いた。それほど、マリアージュの変化は劇的だったのだ。
 顔の輪郭が変わったというわけではない。使用人たちの視線を一斉に受けて居心地悪そうに顔をしかめてみせたのは、マリアージュに他ならない。
 しかし今、彼女の纏う空気は立っているだけで相手を従わせる力を宿し、澄ました表情にさえ気品を覚える。ただ、肌に色をのせただけだろうに。
 マリアージュから数歩下がって佇む、化粧師を見つめる。その顔は人形のように小さく整っているが、浮かぶ表情は乏しく、気配は歌劇の黒子のそれのように薄い。完璧に影の役に徹していた。
 造作だけならば、化粧師のほうがマリアージュよりもはるかに優れているのに、それを感じさせない。誰もがマリアージュの姿に目を奪われ続けている。
 化粧師が視線を上げ、こちらと目を合わせる。労いの意味もこめて微笑むと、相手は笑みらしきものに僅かに目元を緩ませ、そしてまた目を伏せてしまったのだった。




 マリアージュの癇癪が落ち着いた後、ダイはヒースの執務室に招かれた。
「ということで、こちらが正式な契約書になります」
 彼から差し出されたものは、見たこともないほどつるつるした白い紙である。受け取った紙を物珍しさからまじまじ眺めていると、ヒースが案じるように尋ねてきた。
「……文字は読めますか?」
 文字が読めないせいで紙を凝視していると、彼はどうやら勘違いしたらしい。
「え? あ、はい。一応……」
 難しいものでなければ、と注釈を加えながら、ダイは頷いた。化粧の腕を上げるために過去の化粧師たちが残した書付を読むこともままあるし、貧乏なダイにとって数少ない娯楽の一つは花街の礼拝堂にある貸本である。一般的な文章ならば問題はない。
「失礼、確認していませんでしたが、書くことも?」
「できます。あまり得意じゃないですけど」
 アスマに教えられて書くこともできる。ただし、読むほうと比べればその力は雲泥の差だった。長文をしたためることは得意ではないし、綴りもよく間違って注意を受けたものである。そういったことを説明すると、ヒースが手元の書類に何かを書き付け始めた。
「一応読み書きの教師もつけておきましょう」
「……すみません。お手を煩わせて」
「いいえ。手間のうちに入りませんよ」
 彼はそのように言って笑うと、書類を机の端にある箱の中に放り込んだ。
 机の左右の角それぞれには、箱が一つずつ置かれ、書類が収められている。ヒースの行動から推測するに、利き手側らしい右にある箱が未処理、左が処理済の書類を入れておく箱なのだろう。
 机の上もそうだが、執務室は綺麗に片付けられていた。この部屋はマリアージュの部屋の丁度真下にあり、間取りも同じだ。壁面にはめ込まれた玻璃の向こうに城を望むことができる。ただマリアージュの部屋と異なって、この部屋を主に占めているものは本棚と書籍。その他、戸棚や今ヒースが腰を下ろす樫の机を含めた、茶色で統一された調度品。男が主であるということを十二分に感じさせる雰囲気が、部屋を包んでいた。
 この屋敷で、これだけの部屋を与えられている。
 それは大きな特権だろう。
 そもそも、ヒースはこの家で、一体どのような位置にいるのだろう。
「……どうかしましたか?」
 じっと見つめていたこちらに、ヒースが不審そうな視線を寄越す。返答しようと口を開きかけたダイは突如響いた叩扉の音に、述べかけた疑問を飲み込まざるを得なかった。
 ヒースの視線が、ダイの背後に位置する扉へと向けられる。
「はい」
「ローラです」
「あぁ、どうぞ」
 扉越しの短いやり取りを経て入室してきたのは、灰色の髪を結い上げた初老の女である。隙のない身のこなしで歩み寄ってきた彼女は、ダイの横に並び足を止めた。
「わざわざご足労戴いてすみません」
 ヒースが席を立ち上がって女を迎える。
「いいえ、当然のことでしょう」
 表情を変えぬまま淡白に応じる女を、ダイは仰ぎ見た。
 肌は白く、皺の刻まれた血の気の薄い顔は面長で、細い顎が少々神経質そうな印象を与える。飾り気のない濃紺の衣服は、使用人の女たちが共通して身に付けているものだ。両の耳に付けられた小粒の猫目石と丸い眼鏡から垂れる細い鎖の金色が、その簡素な出で立ちに映えていた。
「ダイ、紹介しましょう」
 わざわざ席を離れてダイの前に立ったヒースが、手のひらで女を示す。
「侍女頭のローラ・ハンティンドン女史です。ローラ、こっちが」
「えぇ、存じておりますよ」
 ローラと呼ばれた侍女頭の女は、灰褐色の瞳が映す先をヒースから動かさぬまま、彼の言葉を遮った。当のヒースは気分を害した様子もなく、ダイを一瞥して話を進める。
「昨日説明した通りですが、彼は読み書きが上手くないそうですので、お忙しいとは思いますが見てやってくださいますか?」
「わかりましたわ」
 ローラは頷き、ずれた眼鏡の位置を手で直した以外は、身じろぎ一つしない。
「ダイ」
 鉄面皮のような彼女の顔を眺めていたダイは、ヒースの呼びかけに慌てて居住まいを正した。
「はい」
「これからローラに付いていって、他の使用人の紹介を受けてください」
「顔合わせですか?」
「そういうことですね。最初に予定していたのと順番が変わってしまいましたが……。顔合わせが済んだ後は、彼女の指示に従うように」
「……ヒースは?」
 相変わらずヒースのほうを向いたまま、表情を動かすことのないローラを盗み見て尋ねる。
「一緒に行かないんですか?」
「申し訳ないですが、所用ができましたので」
 答える彼は、申し訳なさそうに少しだけ目を細めてみせる。ダイは承諾に頷いて、ローラを振り返った。
 が、その時すでに彼女は踵を返し、ヒースに背を向けていた。
 扉の前で一礼し部屋を辞去せんとするローラを呆然と眺め――はっと、我に返る。
 ダイは慌ててヒースに視線を戻し、ぺこりと腰を折った。開かれた扉に手を添えて佇むローラの下へと駆け足で急ぐ。
 ダイが部屋を出たことを確かめ、侍女頭は扉を静かに閉めた。眼鏡の位置を直し、軽く眉をひそめた彼女は、目すら合わせることなくダイに言う。
「では行きますよ。後ろを付いてくるように」
 横に並ぶな、と命じたローラは、ダイの返事を待たずに歩き始めた。
 廊下へと出るローラの後を付いて歩く。昼下がりの気だるい陽光が照らし出す屋敷の内部を観察したかったが、彼女の足の速度はダイが小走りになってようやっと追いつけるようなものである。こちらを拒絶する背中に例え様のない心細さを覚え、ダイは荷物を抱きかかえる手に力を込めた。
「あの……」
「なんですか?」
 声を掛けると、質問が返ってくる。会話まで避けている、というわけではないようだ。
「えっと……ローラさんは」
「ハンティンドンと呼びなさい」
「……すみません」
「……それで、何の用ですか?」
「いえ、たいした質問じゃないんですが……どれぐらい長い間、こちらで働いていらっしゃるのかな、と」
「意味のない質問でしたら、控えるように」
 取り付く島もないとは、よく言ったものだ。
 会話を切断されたダイは、絨毯の上を滑るローラの影に視線を移した。絨毯の色彩を柔らかく照らしだす、霞のような陽光。その中で、きらきらと乱反射して踊る絨毯の繊維。光を受け、ぼんやりと浮かび上がる天井に描かれた絵画の色彩。
 夜を生活の中心に据える花街では、見られぬ光景。
 急に、帰りたくなった。
 陽気な女たちの下に。
「私は生まれたときから、この館におります」
 下唇を噛み締めていたダイは、耳に滑り込んできたローラの声に面を上げた。
「生まれた、ときから……ですか」
「この館で働くものは、大抵そうです。親の代からミズウィーリに仕えている」
「ヒースも?」
 ミズウィーリ家に足を踏み入れてから目にした使用人たちとヒースのやり取りを見る限り、彼は上位に位置しているように見えた。その上、彼専用と思しき広い執務室。それらは、彼が長い年数仕えているのだとダイに思わせるに十分な要素だ。新参にあのような部屋は与えられまい。
 だから反射的に彼の名前を挙げたのは、ヒースについて尋ねるという意味よりも、話を次へと繋げるためだった。
 しかしダイの予想に反し、足を止めたローラは否定を返してきた。
「いいえ。彼が仕えるようになったのは、ここ、二年ほどです」
「……ここ、二年ほど?」
 では、ヒースの立場は、一体どういう意味のものなのか。
 ダイが疑問を口にする前に、ローラは立ち止まった先にある扉を軽く叩いた。
 女の声が返ってきたが、侍女頭は無言だった。扉を開き、素早くその奥へと姿を消してしまう。
 彼女に続いて足を踏み入れたダイは部屋に満ちる光に一瞬目を細め、部屋に集う複数人の男女の姿を認めた。
 集まる者の内、二人には見覚えがある。一方はマリアージュの癇癪をヒースに知らせに来た女である。もう一人はマリアージュの部屋の控えの間で、ヒースに頭を下げていた老紳士。
 ダイが部屋に足を踏み入れるのを待って、侍女たちが、わっと歓声を上げた。
「いらっしゃい! 待ってたわよ!」
 賑々しい声が、ダイを迎える。
 それは、花街の芸妓達を彷彿とさせる。思いがけず鼻の奥にせり上げてきた熱に、ダイは慌てて俯いた。
「静かになさい」
 今にもダイのほうに向かって駆け寄らんという勢いだった女たちを、ローラが拍手(かしわで)を打ちながら静かな声音で叱咤する。侍女たちが口を噤み表情を引き締めたことを確認し、彼女は眼鏡の奥の灰褐色の双眸をダイへ向けた。
「それでは紹介いたしましょう。あちらから、執事長のキリム」
 ローラが示した先で、ダイも顔を知る老紳士が無表情のまま、今朝方ヒースに向けたものと同じ丁寧な礼をとる。
「厨房長のグレインです」
 笑い皺の目立つ小太りの男が、笑みを零した。
「左から、庭師のハッサン、警備のデュオ、ロドヴィコ先生は通いの医師です。見識が深く、マリアージュ様の家庭教師も兼ねていらっしゃいます。侍女は五人来ています。メイベル、ヒナ、リース、シシィ、ティティアンナ」
 小柄な老人と屈強な体格の男がダイに軽い会釈をし、白衣の初老の男がはげた頭を撫でて笑う。紹介された侍女たちは、皆一様に衣服の裾を持ち上げて軽く膝を折った。
「全員はこちらに集まっていません。後でここにいる者達から紹介を受けなさい」
「はい」
 ダイは承諾に頷く。
「皆さん」
 張りのある声を上げながらローラは一同を見渡し、ダイを手の平で示した。
「かねてからの話の通り、今日からマリアージュ様のために化粧師をお招きすることになりました。……自己紹介と挨拶を」
「え? えぇっと……はい」
 ローラに促され、ダイは一歩前へと進み出る。マリアージュに顔を合わせたときと同じように、抱えていた荷物をどうしようかと迷い――結局それらを抱きしめたまま、腰を折った。
「ダイです。よろしくお願いいたします」
 ぱらぱら拍手と、よろしく、という囁き声が返ってくる。
 ダイが顔を上げると同時に、ローラが話を再開した。
「初めての試みですが、これもマリアージュ様の為。協力するようにしてください。……ティティアンナ」
「はい」
 進み出てきた侍女は、今朝方ヒースをマリアージュの下へ引っ張っていった、あの侍女だ。
「貴女はこれから、ダイの案内を。用意した部屋へ彼を連れて行き、着替えさせてあげてください。昨日連絡していた通り、今日貴女の仕事はシシィに振り分けますから、残りの時間でこの屋敷の案内、および様式や決まりごとといった諸々の説明を、ダイにするように。全て貴女に一任しますからね。頼みましたよ」
「はい」
 ティティアンナの返事にローラは満足げに一度顎を引き、再び拍手(かしわで)を打った。
「それでは解散! 各自、仕事に戻ってください」


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