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第三章 灰色の智将 2


 無駄話は一切許さぬという様子で、ローラが仕事へ戻る他の使用人たちを見届ける。彼女を横目に幾人かはダイに声をかけ、または後でと手を振って、やや名残惜しそうに仕事へ復帰していった。
 ローラが退室すべく動いたのは一番最後だ。
 彼女の姿が消えると同時に、取り残されたティティアンナが大仰に息を吐いた。
「ぴりぴりしちゃって。感じ悪いわよねぇ、ハンティンドンさん」
「……はぁ」
「上級貴族の家に仕えているっていうことが誇りのお堅いおばあさんだから許してあげて。古い人には多いのよ。あぁいうの。異物が入ってくることを許せないの」
 ローラの残像を追うようにして、侍女は目を細める。困ったひとだと、彼女は笑って言った。
「えぇっと、改めて初めまして。ティティアンナよ。ティティって呼んで」
「ダイです」
 差し出された女の手を、そっと握り返す。歓待して欲しかったわけではないが、ローラの態度があからさまだっただけに、ティティアンナの対応はダイを人心地つかせるものだった。
 鳶色の瞳と巻き毛、細身の体躯。くりくりっとした目のせいでずいぶんと童顔だったが、ダイよりも年上であることは確実だろう。しかし部屋にいた侍女たちの中で、年は一番近いように思える。そのことに気安いものを感じ、ダイは笑みに目元を緩めた。
「よろしくお願いいたします」
「えぇ。よろしく。さ、行きましょう。最初は部屋だったわね」
 握手を終えるなり素早く踵を返したティティアンナは、こっちよ、と扉の向こうを指し示す。ダイは荷物を抱えなおし、戸口をくぐる彼女の後を追った。
「ダイは門の向こうから来たのだったわね。あっちには、これぐらいの広さの家ってなかなかないんでしょう?」
「……そうですね」
 ローラの時とは異なり、ティティアンナの歩く速度はゆっくりで――歩幅を合わせてくれているらしい――屋敷の中を見回す余裕があった。高い天井を改めて確認し、大きく頷く。
「ティティ、は、門の向こうには?」
「時々降りるけど、大きな市が立ったときぐらいだもの。定期的に小間物屋さんがお屋敷のほうに来るから、それで済ませてしまうことが多いわ」
「私もこれからそちらのお世話にならなくては駄目ですね」
「そうね。別に門の向こうに行っちゃいけないってわけじゃないけど、私には馴染みが薄いかしら。私、親もミズウィーリ家に仕えてたし、生まれたときからこっちにいるんだもの」
「あぁ、そういえばハンティンドンさんもそんなことを……」
 そこで、ダイは思い出した。
 使用人のほとんどが親の代からである中、ヒースだけは、新参だと。
「ティティ、ヒースは二年前からこの家に仕えてるって聞きましたけど」
「ヒース? ……リヴォート様のこと? うん。そうよ。……あぁ、そうね。もう二年なの」
「でもヒー……リヴォート様は、みんなよりも目上の人みたいなんですけれど……一体、どういう立場なんですか?」
 ローラに確認しそびれた疑問。ティティアンナはあぁそんなこと、と笑って応じた。
「リヴォート様は代行よ。当主代行」
「……は!?」
 驚きから思わず足を止め、ダイは続けて問いを口にした。
「そ、それは、ヒースがマリアージュ様の、婚約者、だから、とか?」
 貴族社会のことにあまり詳しくはない。しかし家督を継がぬ三男坊が婿養子になる際、相手の家の当主教育を受けることがたまさかある。ヒースも、その類だろうか。
「違うわよ。正確には家政ってことになるのかしら。でも本来マリアージュ様が管理すべきものを見ていらっしゃるし、当主代行として方々に交渉に出かけたりもするからね。家政だったらそんなことまではしないし」
「……はぁ」
 家政とは、貴族の家において使用人たちを総括する立場の者のことである。だがそれにしろ当主代行にしろ、ヒースが使用人たちの中の頂点に位置していることには変わりないようだ。呆然と呻くダイに、ティティアンナは苦笑してみせる。
「私もこのあたりの事情はよく知らないんだけど、旦那様……マリアージュ様のお父上がそう、お決めになられたの。あ、この角覚えていてね。ここから先が、私たち使用人の住居」
 会話を中断して彼女が示した角は、絨毯の敷かれた廊下の切れ目だった。開け放された扉の向こう、今までの滑らかな白い壁から、むき出しの石壁に移り変わる。壁に等間隔で埋め込まれた燭台は沈黙している。その上に蝋燭は見られない。魔術文字が刻んであるということは、日が落ちれば自動的に灯る類の照明なのだろう。
「鐘四つになったら、この扉は閉めることになってるの。誰かが門番してるから、本館に用事があったり、仕事で本館に残ってたりしたら、その人に扉を開けてもらってね」
「はい。鐘四つですね」
「あ、ダイは時間わかる? 時計いる?」
「あ、大丈夫です。わかります」
 ダイは魔術師ではないが、時刻ならばわかる。魔術的素養のある人間ならば、時間は自ずと判別がつくのだ。世界を流れる魔の粒子から読み取っているらしいが、詳しい原理はわからない。ただ魔の公国メイゼンブルが滅びて以降、ダイが生まれる前において稀有だった時刻のわからぬ者の数は、急激に増えたようだった。花街でも、今では定期的に鐘を鳴らして時刻を知らせている。
「鐘は半刻ごとに鳴るからね」
「はい。……それで、リヴォート様のことですけど」
「うん」
「マリアージュ様のお父上が決められたって……」
 事情の説明を求めたダイに、ティティアンナは肩をすくめてみせた。
「私もあまりよくは知らないの。旦那様が亡くなられたのは一年ほど前のことなんだけど、そのときにリヴォート様に当主代行を頼まれたんですって。マリアージュ様は……貴方も見たでしょう。あぁ、だから」
 広い部屋で癇癪を起こしていた少女。
 残念ながら今の彼女に、使用人たちを取りまとめ、家が管理しているであろう領地などの采配を揮うことは難しいように思える。
 そこから考えると、マリアージュが女王などになれるはずがないと叫びたくなる衝動の意味もわからないではない。
「旦那様の人を見る目は間違っていなかったと思うわよ」
 ティティアンナは言った。
「キリムさんは有能なのだけど、それはあくまで家の問題を片付けるっていう意味合いだと思うし、ハンティンドンさんもそう。リヴォート様は新しい人だったから、みんな結構反発はしたようだけど、今は頼りっきりよ」
「ティティは、反発しなかったんですか?」
「ウツクシイ男と対立しなきゃいけない理由がどこにあるっていうの?」
 しれっと答えるティティアンナに、ダイは噴出してしまいそうになった。彼女の言い方が、あまりに花街の芸妓達のそれに似ていたからである。
「それに私嫌いなの。古臭いのがね。鬱々としてしみったれて嫌になっちゃう。親の仕事を受け継がなきゃいけないっていうのも……」
「門のこちらでもそうなんですか?」
「そうよ。絶対でもないけど……。さぁ、ついたわ」
 ティティアンナは鍵の束を取り出して、鈍色の一条を扉の穴の中に差し込んだ。
 扉を開けた瞬間、空気が流れて埃が舞い上がる。はめ込まれた雨戸の隙間から、薄暗い部屋を切り裂くようにして細い光が漏れていた。
「一応このあいだ掃除して空気は一度入れ替えておいたんだけど、長いこと使ってなかったからしばらく埃っぽそうねぇ」
 すたすたと中へと入っていったティティアンナが、閂(かんぬき)を抜き、雨戸を上げる。玻璃のはめ込まれた窓を開くと、風が外へと向かっていった。黒髪が空気の流れに応じて揺れ、頬を擽(くすぐ)る。
 以前暮らしていた部屋よりも少し手狭な空間。しかし十分すぎるほど調度品が揃っている。寝台に衣装箪笥、姿見、机、本棚、椅子、小さな円卓。そのどれもが、下町では手に入れられぬような、しっかりとした造りのものだった。入ってすぐ左手には小さな戸棚と――……。
「水道がある」
 驚いた。壁から突き出た灰色の蛇口は、あまり見られるものではない。魔術の力を借りて水を汲み上げるからくりで、数百年前は一般家庭にも普及していたらしいが、今では決まった場所でしか見られない。それを、こんな使用人の部屋で目にするなんて。
「使えるんですか?」
「んー。実はお飾り」
 期待させて悪いけど、とティティアンナは笑った。
「調整する人がいないのよ。でも排水溝は生きてるから、汚れた水はここに流してね」
「わかりました」
 頷きながら、ダイは蛇口の下に作り付けられている陶器の皿に目を向けた。研磨された材質不明の白い石は、鈍い光を放っている。中心に向かって文様が刻まれ、薄い緑色の石が排水管の入り口に蓋をしていた。文様はろ過の魔術だろう。石と管の間は隙間が開いて水がきちんと流れるようになっている。石自体は、おそらく余計なものが流れ落ちていかないように塞き止める為の物だ。
「あぁ、盥(たらい)と水差しを持ってこなきゃいけないんだわ。ちょっと取ってくるから、荷物を片付けていて」
「はい」
 ぱたぱたと急ぎ足で廊下へと飛び出していくティティアンナを見送り、ダイは荷物を寝台の上に置いた。磨かれた木目美しい床板は、古いのか、歩を進めるたびに体重を受けて小さな軋みを上げる。
 窓辺に立つ。濃密な緑の匂いが鼻先を掠めた。ダイの部屋の位置は高く、裏庭に面している。すぐ間近に林が迫ってきていた。並ぶ朱塗りの屋根。壁と門。その向こうに広がる城下町。
 地平の傍に霞んで浮かび上がる城壁。花街は、その傍だ。
(たった、これだけの距離なんですけど)
 それでも、門のこちらとあちらは、遠い。
 荒野で隔てられる街と街よりも。
 そう思ったのは、初めてのことだった。ダイは窓枠を握り締め、大きく息を吐く。
 一人でいられることに、安らぎを覚えた。そこでダイは初めて、自分がひどく緊張していたことを知ったのだった。




 瞼の裏に残る景色は徐々に色あせ、灰色に塗りつぶされていく。雨が白い線となって灰色を薄める。足元を汚す水溜り。それを踏み砕きながら、進む葬列。
 現世という煉獄から解き放たれた母は美しかった。
 母はいつでも美しかった。娘のようなあどけなさ、聖女のような清冽さ、そして、紛れもない娼婦の淫靡さを宿して。
 多くのものが嘆いた。その死を。棺の中に横たわる骸に、男達は花を捧げながら口付けていく。白く滑らかな手の甲に。皺一つない額に。あるいは、愛を誓うために唇に。固く閉ざされたままの瞼に。目覚めの願いを込めて指先に。嘆きに喉を潰しながら首に。髪に。足に。
 灰に還ることを惜しむように。灰の一欠片も、天に手渡したくはないのだというように。
 狂気的な、歪な、男達の劣情にまみれて死んでいく女は、灰色の世界にあっても美しく――……。
『いいかい』
 傍らに立つ女が言った。手を、強く握り締めてくる女の手。互いに雨具を身に付けている。目深に被った外套の縁に隠れて、女の表情は見えない。
『あんたは、あの世界に足を踏み込んではいけない』
 息を潜めて生きるんだ。
 影のように、しかし、真っ当に。
 ――……真っ当、って、何ですか?
 母のようではないにしろ。
 こんな在り方は、すでに歪ではないのだろうか。
 女は嗤う。
 男たちと同じように母を愛した女は、こちらの幼い手に爪を立てる。強く握り締められる手。そのせいだろうか、傷口から、零れるべきものが零れない。
 やがて、紙に染(しみ)を落とすかのように世界に穴が穿たれた。そこから、炎が噴出す。美しい紅は、母を、男達を、女を――そして世界を、焼いた。
 飴のように捻じ曲がる景色。噴き上げる黒煙。それはねっとりと手足に絡み付いて、やがて自分を深く深く、呑み込んでいったのだった。


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