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第十章 蜂起する復讐者 5


 宿の寝室に明るい陽光が差し込んでいる。羽毛の詰まった上掛けの心地よさが逆に厭わしい。
 避難先であるこの町には夜明け前に辿り着いた。薬による眠りから目覚めると、時刻はすでに昼を回っていた。
 控えていた女官がマリアージュに水を差し出す。
 水の波紋に視線を落として、マリアージュは問いかけた。
「ダイは……?」
 女官は首を横に振った。
 身支度を調えて外に出ると食堂にロディマスの姿があった。
 彼はマリアージュを認めると勢いよく立ち上がった。
「陛下、よくご無事で」
「いつ来たの?」
「到着したばかりです。モーリスたちから事情を聞いておりました」
 ロディマスの傍に控えていたモーリスがマリアージュに頭を垂れる。文官のまとめ役たる彼は、一睡もしていないに違いない。目の下の隈が濃い。
 モーリスの隣にはペルフィリア兵の顔もあった。案内役を務めた男。トラッド、だったか。
「タルターザはどうなったの?」
「騎士団の加勢により鎮圧されました」
「皆、無事なの?」
「確認中であります、陛下。今しばらくお待ちいただければと」
 マリアージュの質問に答えるトラッドの表情は硬い。
 呆然と立ち尽くすマリアージュを女官が強引に座らせる。
 ロディマスが苦渋に満ちた声で告げる。
「陛下……。こちらは行方がわからないのはたったふたりだけだ。まずはそれを喜び、そして労ってやってほしい。皆、よく、付いてきたと」
 ダイとユマ。ふたりだけが追撃を受けた際に落馬した。あとは怪我の有無はあれど、全員無事に町に辿り着いた。マリアージュを守り抜きながら。
(あの子たちがせめて……一緒ならいいけれど)
 マリアージュは目元に手を当てた。下唇を噛みしめる。
「……皆を集めなさい。休んでいる者を起こす必要はないわ。あとで私が向かいます」
 文官のひとりが命令を受けて立ち去る。
 入れ替わりにアッセが姿を見せる。彼は無言でマリアージュの警護に就いた。
 マリアージュは呼吸を整えてロディマスに尋ねた。
「……私はほかに……何をすればいい?」
「陛下はゆっくり身体を休めて」
「何かさせて」
「……では、タルターザに謝礼と慰労の手紙を」
 ロディマスが文官に指示を出す。引き受けた官が筆記具の準備をすべく踵を返す。
「でもまずは……昼食を召し上がってください」
「食べたくないわ」
「君に倒れられたら皆が困る。食べるんだよ、陛下」
 食卓に食器が運ばれる。
 料理の立てる湯気に泣きそうだ。
 ロディマスがいたわりに満ちた声音でささやく。
「しっかりするんだ。状況がわかるまで、まだまだかかる」
 いまタルターザも報告どころではないだろうから、と。


 久方ぶりに足を踏み入れた砦は混沌としていた。
 大陸会議からの帰途。押しつけていた年始の尻ぬぐいを、引き取りに寄ればこの有様だ。
 ひと足、遅かった。
 砦を守り抜いた男の遺体を見下ろして、ディトラウトはため息を吐いた。
 砦を完全に奪われていたならば、この戦はもっと泥沼化していた。彼が砦内から戦況を細かく連絡したからこそ、騎士団は敵を侮ることなく素早く叩き潰せた。
 暗躍していた者たちの情報も数多くディトラウトにもたらした。それらは今後のディトラウトの武器となる。
 数々の功績と引き替えにレオニダス・ルウィーダは死んだ。
 騎士団がタルターザに到着して制圧を終えつつあったそのときに。
「レニー……」
 人懐っこく快活なこの男は、宰相の任に就いた初期から、ディトラウトをよく慕った。二年前に戻ってきたときも変わりなく。彼の朗らかなところに救われたこと数知れない。
 有能であると同時に人に胸襟を開かせるところがある。それゆえ複雑な事情の絡むタルターザの監視を任せた。
 剣を抱いて横たわる男の顔は不思議と穏やかだ。
「よく、仕えた」
 男の冷たい額に触れてディトラウトは呟く。
「私を許さず――……地獄の果てで待て」
 すべてが終わるときを。
 兵がレオニダスに布を掛ける。腐敗を防ぐ術式の刺繍がなされた布だ。彼の遺体は都の家族の元へ移送される。
 ディトラウトは彼に背を向けて、傍らに立つゼノに向き直った。彼の目は苦悶に満ちている。ディトラウトはその肩を叩いて、歩き出すように促した。
 ゼノとレオニダスの付き合いは、ディトラウトとのそれより長い。思うことは多々あるだろう。けれどいまの自分には護衛が必要だった。人が入り乱れる空間では何があるかわからない。
 歩き始めたディトラウトに、レオニダスの部下が並んだ。
「お守りできず申し訳ございません。生涯の恥です」
「そう言うな。お前たちこそよく無事だった」
「ありがとうございます。……デルリゲイリアに送り届けるよう、ルウィーダ様より遺言されたご遺体がございます。別所に安置しておりますが、こちらはいかがなさいますか?」
「……デルリゲイリア?」
 ディトラウトは眉をひそめて足を止めた。
「経緯は?」
「大陸会議からの帰還途中にあらせられた女王のご一行が、数日前よりこちらに逗留しておられました。女王陛下ご自身は隣の町に避難をなさりご無事です。しかし二名の方が落馬によりこちらに残留。うち一名が」
「遺体はどこに?」
「こちらです」
 兵が先頭に立って歩き始める。案内された部屋は仮眠室。腐敗防止の布が寝台の上に被せてある。
 立ちすくむディトラウトの脇から、ゼノが手を伸ばして布をめくった。
 男装をした娘。組み合わされた手の下で胸が斜めに裂かれていた。
 デルリゲイリアの女官だ。顔に見覚えがある。
 昨年、ドッペルガム立ち会いのもと、“あの娘”が化粧した折に、女王が伴っていた鞄持ちの――……。
「二名と言ったな。だれだ? どうなった?」
「それが……報告を受けていた兵がルウィーダ様とともに亡くなりまして、情報が」
「地下の安置所を見に行く。状況を知る者がいるなら執務室に。この遺体の件は女王に連絡を。……だれが落馬したか、先方なら把握しているだろう。確認しろ」
「かしこまりました」
 仮眠室を出て廊下を行く。遺体こそ片付けられているが、煤けた壁面や血を吸った跡が生々しい。戦闘があったことを知らしめる。
 自分以上に鎮痛な顔をするゼノをディトラウトは笑った。
「軽く見るだけだ。どれぐらいの人間が入り込んでいたか確認する意味もある」
 悪意を吹き込み蜂起させた町人を盾に、砦へ斬り込んだ本当の戦犯を確かめる。
 デルリゲイリアの件はそのついでだ。
 地下の倉庫に足を踏み入れると血臭が鼻についた。よどんだ空気が胸に来る。
 腐敗防止が部屋に施されていなければ、もっとひどい臭いになっていただろう。
 並ぶ遺体はペルフィリア兵ではない。町人。そして、傭兵たち。
 手首や首に下がる銀の装飾品が共通している。
 野薔薇の印章――聖女教会の紋。
 思わず舌打ちしたくなる。
 聖女は国を救わないばかりか、いつまでも統治の邪魔をする。
 倉庫の番兵にディトラウトは尋ねた。
「砦の内部と周辺で回収した生存者は?」
「牢に収監しております」
 番兵が廊下の先に目を向ける。その先は階段になっていて、もう一階下がった先には、牢が並んでいるはずだった。
 印章を頼りに、教会関係者と思しき者とそうでない者、大まかに分けて収監しているという。
 ゼノが確認に問う。
「牢も見ていく?」
「いや……」
 あとでいいと。
 答えかけた矢先だった。
 悲鳴が聞こえた。


 時を計れない者が増えている。
 だからこそ自国でも半刻ずつ鐘を鳴らす。しかしダイはその鐘の助けを不要とする側だった。魔術の才はなくとも、魔はいつも時を告げた。方角も。生まれたときからごく自然にできることだった。できなくなるとは考えもしなかった。
 怖かった。何もかもが。
 ダイは密林のただ中を混乱しながら歩いた。
 足首の痛みは増すばかり。意識は熱のせいで朦朧とする。柔らかく湿った腐葉土や、木の根に足を取られて、ダイは幾度も躓き転んだ。
 知らない虫が方々を噛んで肌を赤くする。足下を這う初めて目にする生き物には嫌悪を覚えた。それでも歩き続けた。身体に染みついた血の臭いがそうさせた。
(ユマ)
 生きて帰らないと、と、彼女が言ったのだ。
 ダイは足掻かなければならない。
 やがて空が白み始めたことで、ダイは方角をようやく知った。昇る陽に向かって進めば砦からほとんど離れていないことがわかった。ずいぶんと歩いた気がするのに。どうやら同じ場所を周回していただけらしい。
 木々の狭間に砦の外壁が見えたときには安堵を覚えた。
 しかし息吐く間もなく今度は敗残兵に襲われた。武器を向けられる都度、アルヴィナの守りが発動して、相手を赤い霧に変える。
 殺してしまう。
 数えることも億劫なほどのひとを。
 ダイが。
 殺した。
 ユマも殺した。
 そう自覚してからの記憶はない。
 気がつけば生臭い息を吐く男の顔が間近にあった。
「な、にっふぐっ……!」
 口を押さえられる。否。肩も足も。身体が複数人の男に拘束されていた。
 視線を周囲に巡らせる。石造りの天井と壁。うち一面は金属製の格子だ。狭い通路を挟んだ向こうに同じ作りの部屋と密集する女が見える。
(……牢屋……?)
 何がどうなっている。
 だが状況を整理する前に思考は身体を這う嫌悪感に遮断された。身体の線を撫でた男が歓喜に笑う。
「おいやっぱり女だぞ」
「女じゃなかったとしてもこれならイケる」
「俺らへの最後の贈りもんか。慈悲ぶけえなぁ」
「ばぁかたまたまだろ……」
 ダイを拘束する男たちの頭上からも、大勢が目を濁らせて覗き込んでいる。涎を口の端に輝かせて嗤う男たちは捕食者そのものだった。
 彼らのうちひとりが格子を振り返って急がせる。
「おい早くしろ看守もどってくっぞ」
 男たちの手が衣服に伸びて、乱暴に引きはがしに掛かる。
 悪寒に肌が粟立つ。
 吐き気を堪えながらダイは渾身の力を手足に込めた。だが元よりの腕力の差でびくともしない。骨がみしみしと鳴るだけだ。
「悪いなぁ嬢ちゃん」
 両腕を押さえる男がダイの顔を逆さまに覗き込み、少しも悪びれていない顔で言った。
「けどまぁ、お互い、もうすぐまぼろばの地へ行く身だろ。最後に楽しく気持ちよくなろうや」
(なれるか!)
 ダイは胸中で抗議し、男をにらみ据えた。しかし彼は愉快そうに嗤っただけだ。
「おい、ちょっとそこどけ、下ぬがせらんねぇだろ」
「あぁ、悪い……」
 ダイに馬乗りで覆い被さり、口を塞いでいた男が、物申した男を振り返る。
 その拍子にふっと浮いた口元の手に、ダイは全力で噛みついた。
「つっあぁっ!」
 悲鳴を上げる男の鼻先に頭突きする。今度は声すらなく、彼は背後の男たちを巻き込んで転倒した。
 驚いたらしい頭上の男が拘束の手を緩める。
「お、おい、だいじょうぶがっ」
 ダイは腕を素早く引き抜き、男の顎をめがけて拳を撃つ。上手く顎下に入る。ごち、と、音がする。
「ぐっああぁああっ!!」
 舌をまともに噛んだらしい。口の端に血を垂らして男が転がる。ダイは男たちの下から脱した。
 だが、逃げ場はない。
 壁に背を付け、呼吸を整えながら、手首を見る。アルヴィナの守りは今もそこにある。けれども泥に汚れた招力石の光は失われていた。
 使用限度を、過ぎたのだ。
 招力石は調整を必要としない。その代わりに、石中の魔力を使い果たすと機能が止まる。
 アルヴィナは充分な魔力を注いでいたが――それでも。
 この守りが屠った人数に吐き気がこみ上げる。
 その意識の逸れたわずかな隙を突かれ、ダイの身体は再び男たちの中に引きずり出された。
「このくそがあぁっ!」
「うぐっ」
 がん、と顔を殴られる。
 視界が白く灼けた。
「この! この! 優しくしてやりゃぁつけあがりやがって糞が!」
 右、左、右、右。口の中に血の味が広がる。呻く間もなかった。次に腹を踏み抜かれる。声は次の打撃音に飲まれた。胃液が逆流する。生理的な涙が浮かんだ。
 衣服を剥がされる。足を動かす。押さえつけられる。
 そして最後に。
 足首に衝撃が走った。
 ごきゅり、と、鈍い音がした。
「ああああああああああああああぁああああっ!!」
 自分でも驚くほど甲高い悲鳴。
 男たちの顔色が変わった。
「おい、そこまでにしとけ。ヤルどころじゃなくなるぞ」
「どけ。早くしろよ」
「押すな」
「やばい、看守、戻ってくるぞ……」
「足音が」
 男たちの声が遠い。
 身体中が痛んだ。顔も腹も足もどこもかしこも。巨石ですり潰されたかのように。激痛がダイの意識を苛んだ。
 だがそれも少しずつ遠のいて、最後はただ気怠さだけが残る。
 四肢に力が入らない。
(ユマも……痛かったかな……)
 ダイが辿り着いたとき彼女はすでに絶命していた。悲鳴を聞いてすぐだった。きっと苦しみは長く続かなかったと思う。そうであって欲しい。
 視界が仄かに明るさを増して、ダイは腫れた瞼を薄く上げた。
 ダイは嗤いたくなった。
 “彼”の、幻影が見えた。
(さいごまで……わたしは、あなたをもとめるんですね)
 愚かすぎて涙が出る。
 切れたくちびるを動かす。
「ヒース……」


 宰相への挨拶に顔を出していた看守役が慌てて牢へと駆け戻る。
 ディトラウトが後に続いた。
「ディータ……」
 ゼノの呼びかけにディトラウトは応えない。ゼノは仕方なく彼に付き従った。
 ディトラウトからここのところ目が離せない。
 彼の不眠や拒食の症状はひどくなる一方だ。前までは取り繕っていたそれらを、ゼノに隠そうとすらしなくなった。限界を超えて政務を詰め込んでは倒れている。今もレオニダスが死んで、また自分を責めるように、仕事を抱えようとする。
 虜囚の起こした騒ぎは気になるところだが、ディトラウトが敢えて出る場ではないはず。むしろ危険に備えて他に任せておくべきところだ。
 引き留めなかった理由はひとつ。確認させれば彼の気が済むだろうと踏んだため。
「何をしている!」
 看守が牢の一角で収監した者たちを怒鳴りつける。
 彼の隣にディトラウトとゼノは並んで立った。
 牢の中の惨状にゼノは胸中で舌打ちする。
(馬鹿、ちゃんと分けとけよ……)
 男と女に。
 半分尻を出した男たちに、ひとりの女が囲まれている。いや、娘か。まだ若いと見た。
 ずいぶんと暴行されたらしい。腫れ上がった顔の輪郭は定かではなく。垣間見える素足も折られたか。足首が奇妙な方向にねじ曲がっていた。
「鍵を持ってこい」
 ゼノは付いてきた兵に命じ、ディトラウトに向き直った。
 彼が格子に触れる。
 その手から、血の気が失われていく。
 ゼノは当惑しながら友人を見つめた。
 彼の格子を握る手が震えている。闇に横たわる娘を凝視する白皙が紙より白い。
 男の紫に変じたくちびるがゼノに問う。
「……鍵はまだか?」
 蜻蛉の羽ばたきよりも頼りない声だ。
 背を汗が伝う。
 ゼノは改めて娘を見た。
 デルリゲイリアは二名の落馬者を出した。
 一名は女官。
 もう、ひとりは。
 ――あれほどの、年格好だった。
「今、取りに行かせている」
 ゼノは早口で告げた。
 兵の駆ける音が近づいている。
「もうすぐ……」
「もういい」
 ディトラウトが言葉を遮る。
 彼はゼノを見ぬまま絶叫した。
「待たなくていい。ゼノ、今すぐこの錠前を――お前の剣で斬り落とせ!!」
 ゼノは迷わず鞘から剣を抜いた。
 錠前の弱い部分を一閃する。
 きしりと鳴って割れた錠は、床石の上に落ちて倒れた。
 ディトラウトが牢に踏み入る。男たちが殺気立つ。
「動くな」
 冷ややかな声でゼノは告げた。
「その男に指一本でも触れてみろ。お前らひとり残らず、殺してくれと祈りたくなる場へ送ってやる」
 上着を脱ぎながら進む男に囚人たちが道を空ける。
 床石の上に残された娘の傍らにディトラウトは膝を突いた。
 ゼノに背を向ける彼の表情は見えない。
 娘の身体を上着で包んだ彼は、抱き上げざまに小さく囁いた。
「えぇ。……わたしです」
 振り返ったディトラウトの腕の中で娘の意識はすでにない。
 足早に牢から出たディトラウトは、そのまま娘を連れ帰るかに見えた。が、彼は鍵を手に駆け戻った兵に彼女を渡した。
 そして言葉少なに命じる。
「医務室へ。医師を呼べ。死なすな」
「は……はい! かしこまりました!」
 娘を抱えた兵は背筋を伸ばし、道を急ぎ引き返す。
 その背を見送ることなく、ディトラウトは引き取った鍵を、看守に差し出しながら命じた。
「服薬させて囚人たちを眠らせろ。拒むようなら手足を折れ。上の状況が落ち着いたら人を遣る。改めて囚人をわけろ。騒ぎがまた起きたら面倒だ。のちに尋問。尋問内容は追って知らせる」
「はっ!」
「すまない。鍵を潰した」
 ディトラウトの謝罪に看守は首を振る。
 ディトラウトは来た道を歩き始めた。
「でぃ、ディータ」
「ゼノ、行くぞ」
 振り返った男の顔は、恐ろしく完璧な、宰相のもの。
 しかしそれが逆にゼノの不安を激しく煽る。
 執務室に戻ったディトラウトは、粛々と戦後の処理を続けていった。
 死人のように、青ざめたまま。


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