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第十章 蜂起する復讐者 2


「ぜぇったい、怪しい」
 タルターザに滞在して二日。
 食堂で温かな昼食に舌鼓を打った帰りの廊下。
 割り当てられた客室まで歩きながら、ユマがレオニダスについて主張した。
「私たちを宿泊させるだけじゃなくて、晩餐会を催して、物資まで準備して、いたれりつくせり。裏がある。絶対」
「そぉねぇ。下心皆無、ではない、かもしれないわねぇ」
 ユマの隣でアルヴィナが相槌を打つ。でしょう? と、ユマは鼻息が荒い。
 ふたりの前を行くダイは、会話を聞きつつ苦笑した。
 城のかたちを成すタルターザ砦は、想像したほどダイたちに不都合を感じさせなかった。清潔に整えられた広間や食堂。客室の数も充分である。旅に疲れていた官たちの誰もがこの快適な宿を喜んだ。
 ユマの意見は皆と異なるらしい。
「そりゃね、ずーっと馬車にがたごと揺られていたんだもん。食事もおいしいし。みんながちょっとゆっくりしたいなって思うのはね、わかる。でも、これ、ぜったい罠。罠よ。陛下がお身体の調子を崩されたのも……」
「ここのひとたちが何かしたかもって? ユマ、さすがにそれは考えすぎだと思います」
 マリアージュの発熱は疲労によるものだと医師は診断した。ダイも同意見だった。
 久方ぶりに浴槽で湯を浴び、広い寝台に横たわったのだ。緊張が緩んだのだろう。
 昼食前に覗いた主君の顔色は、実際のところ悪くなかった。熱も下がっている。滞在を延長した理由は用心のためだ。出発を急いでマリアージュが体調を崩すことがあってはならない。
「いつ……出発になるのかしら」
「明後日ぐらいだと思いますよ」
 今日一日マリアージュの様子を観察して、大丈夫そうであれば、明日、出立の準備をする。
 ダイの回答に、あさってかぁ、とユマは呟いた。
 アルヴィナが彼女の顔を覗き込む。
「ユマはここから早く出たいのねぇ」
「だって……ここは、ペルフィリアだもの……」
 ユマは昨年のペルフィリア行にも加わっていた女官だ。
 ペルフィリア王城で襲撃され、迎賓館に籠城した記憶は、彼女の心に深い傷を負わせた。彼女は女官たちの中でもダイに対して特に過保護である。
 梟がユマの姿を用いてダイを誘拐した点も、彼女の嫌悪感に拍車をかけているに違いない。
 懸念を抱きたくなっても無理はない。
 それでなくとも気鬱になりやすい。
 ダイは窓の外を眺めた。
 昼を回ったばかりというのに、夜を思わせるほど薄暗かった。
 空は青みがかった鉛色。鼠色の雨水が窓の玻璃に幾本もの筋を作っている。水の礫が雨樋を叩く音が絶え間なく響く。
 タルターザの雨は止む気配をいっこうに見せない。
 ダイ、と、ユマが気遣わしげに名を呼んだ。
「ダイはひとりになったら駄目だよ、絶対」
「なりませんよ」
 こういった遣り取りは何度目か。ややうんざりするが、注意されながらもひとりの状況にたびたび陥っているから、腹を立てるわけにもいかない。
「ひとりになっちゃったとしても、お守りは外さないでね」
「外しません……わかっていますよ!」
 ダイの左手を取り上げるアルヴィナにダイは強く主張した。
 遣い魔の代わりに守りの装身具を与えられてかなり経つ。術式調整の時をおいて他に身体から離したことはない。それも小スカナジア到着早々に捕縛されて以降、調整を必要としない型のものに変更されたから、文字通りいっときたりとも外していないのだ。
 左の手首に絡みつく細い銀。一見すると金属だが、銀樹の繊維を糸にしたものらしい。それを鎖状に編んだものだ。絹糸のように柔らかく肌を傷めないが、鉄鋼より丈夫という代物だ。小粒の招力石が宝玉のように並ぶ。晩餐服にも調和する野薔薇の意匠が愛らしい。
 守りの詳細は聞かされていないが、いやらしい効果を発揮するようだ。
「ホント、ダイってば危ない目に遭ってばっかりだもんねぇ」
「不可抗力ですよ」
「……本当に?」
 ユマが神妙な面持ちで確認する。
 ダイは頷いた。
「本当ですよ」
「なら……いいんだけど」
 俯きがちに呟いたのち、彼女は表情を引き締めた。
「私は、気を抜かない。旅はまだ終わってない」
「頼もしいわね」
「茶化さないで、アルヴィナさん。私、思うの」
 気を抜いたら襲われる。
 タルターザの兵たちに。
 ユマが警戒を喚起した瞬間、間延びした声が割り込んだ。
「その予定はいまのところございませんからご安心を」
「……ルウィーダ様」
「敬称は必要ありませんよ。閣下と同じお立場の方であらせられるのに」
 向かう先から歩いてきたレオニダスがへらりと笑う。同行人はデルリゲイリアの騎士ひとり。陛下に謁見なさりたいと仰せで、と、彼は事情を説明した。
 客棟はデルリゲイリアに貸与されている。タルターザの人間の出入りは限られる。とはいえ、不用意に廊下で話す内容ではなかった。
 ダイはレオニダスに頭を下げた。
「ご厚意を頂戴しながら、お気を悪くなさいましたでしょう。申し訳ございません」
「そう思われるもせんかたなしと自分は思いますよ。話される場を気にされたほうがよろしいでしょうが」
 レオニダスが一笑に付す。
 彼の顔には邪気を欠片も見いだせない。気にしないとの発言を思わず信じたくなるほど。
 ダイは沈黙した。
 その反応を見たからだろう。レオニダスが補足する。
「大陸会議より帰還される皆様を襲撃せよとの命令は下っておりません。そのようなことをすれば、他国から我が国への信頼は失墜しますし、会議の開催中の交渉……陛下や閣下の費やされた努力が無駄となります。愚は犯しません」
 会議に出席した各国の代表が、速やかかつ安全に帰国できるよう、各国は便宜を取り計らうべし。
 大陸会議開催に当たっての取り決めのひとつ。
レオニダスと目が合う。彼はダイににこりと笑った。
「あ、そうだ皆さま。お忙しいですか?」
 レオニダスが急に話題を変える。
 ダイは落ち着きを払って応じた。
「何かご用事でも?」
 さりげなくユマを背後に庇う。アルヴィナがいるので危険を案じてはいない。神経を尖らせるユマをレオニダスから隠すためだ。
 彼女の心境は理解できる。しかしこちらは世話になっている身だ。レオニダスに軽々しく付き合うつもりはないが、話を聞く姿勢は見せなければならない。
 ダイに首肯して、レオニダスが提案する。
「この雨で外に出られず退屈でしょう。よろしければ砦の中を見学なさいませんか?」
「あらぁ、いいのかしら? 他国の人間にそのようなことをお許しになって」
「町の住人も自由に出入りしていますからねぇ」
 アルヴィナの問いにレオニダスが首肯する。
「かまいませんよ。自分が案内いたします」
「ルウィーダさ……んが?」
「マリアージュ女王陛下にご挨拶申し上げてからではありますが。もちろん、無理にとは申しません」
 害意はないと言わんばかりに、男は空の両手をひらひら振る。
 そして彼は眉間に皺を寄せ、気恥ずかしそうに告白した。
「実は自分、暇なのです。だからひとりでふらふらしているわけですが。お客人の接待の名目をいただければ、麾下(ぶか)たちから誹られずにすみます。……自分を助けていただけると、ありがたいのですが」


 砦の見学を許されるなど滅多にない。それが他国のものであればなおのこと。
「断る理由もないでしょう」
 マリアージュの一言で見学は決まった。
 人数は五名。ダイ、ユマ、アルヴィナ、騎士と文官がひとりずつ。最後のふたりもまた迎賓館籠城を経験した者たちだ。警戒を緩めることあるまいという人選だった。
 石造りの廊下を歩いていたレオニダスがくるりと振り返る。
「左手がクラン・ハイヴ側。森を抜けた先はエスメル市領。皆さまが来られた方角です。右手に広がるのは我が国の領地です」
「……どちらも同じ景色に見えますね」
 窓から左右を見比べ、ダイは感想を呟いた。
 タルターザは森に囲まれている。エスメル市領から北上したとき、荒野に忽然と緑が現れて驚いた。
「夜は住民も出歩かないように気を付けるほど暗くなります。方角は視覚に頼るとわからなくなりますから、魔で視ます」
「街道まではどれぐらいですか?」
「馬なら半刻もあれば」
 レオニダスの答えを耳にしながら窓の外を眺める。砦を囲む外壁の外に、ぽつぽつ、明かりが灯っている。
「町があるのでしたね」
「タルターザの町です」
「砦にお勤めの方々はあちらに家を?」
「既婚者はそうです。家族をあちらに住まわせておりますね」
「雑役の方は通いですか?」
「えぇ」
「皆、砦に関係する仕事を?」
「いいえ。多くは土着の農民です。森の中に畑を持っている――……次に参りましょう。訓練場などいかがですか?」
 レオニダスがにこやかな顔で歩みを再開した。その後をダイたちは黙って歩いた。
 レオニダスはゆったりとした、しかし隙のない足取りで行く。腰には長剣を一本刷いているだけ。ダイたちには背を向けている。供のひとりも付けていない。
(そもそも暇って……どういうことですかね?)
 麾下から疎まれているかと思えばそうでもない。砦を行くなか幾人もの兵とすれ違ったが、彼らはおおむねレオニダスに気安かった。お客人の案内だよ、と、笑う男に、誰もが揃って面白がる視線を向けた。
 警戒する者もいた。他国の人間が唐突に案内されてきたのだ。当然のことだろう。
 訓練場、中庭、生活棟。公開して問題ないと思しき施設を、レオニダスは順繰りに案内していく。
 最後にレオニダスが招いた場所は、会議室らしき広い部屋だった。
 敷布の張られた長卓には、茶菓と茶器が並んでいる。
「休憩に致しましょう。お疲れでしょう?」
 レオニダスはダイたちに席を勧めた。
 小間使いらしき中年の婦人が、ぎこちない手つきで茶を注ぐ。
 廊下に比べると暖められた室内も、やはり気温は低いのか湯気が白い。
 すべての陶器が紅茶で満ちる。
 けれども誰も動こうとはしなかった。
 扉が閉じられる。室内に六人きりとなる。
 レオニダスが苦笑した。
「紅茶が冷めますよ……。ま、仕方ありませんね。陛下があなた方になさったことを思えば」
 茶器を手に取るレオニダスにダイは問いかけた。
「……あなたは昨年のことをご存知なのですね」
「セトラ様」
 ダイの名を正しく呼び、レオニダスは微笑んだ。
「自分はあなたが梟殿に化粧なさる場におりました。……そちらの女官の方は、あのとき化粧道具を、広間に運んでこられた方ですね。他の方々のお顔は存じませんが、昨年、都までおいで下さった方々なのでしょう」
 警戒されて当然であると、彼は他人事のように言う。
 ユマと騎士と文官。三人の顔が強張る。
 ダイは茶器に触れて、レオニダスに尋ねた。
「……ルウィーダさんはイェルニ宰相の近衛の方ですか?」
「……えぇ」
 レオニダスは初めて訝る様子を見せた。
「あれ、お伝えしましたか?」
「いいえ。……一昨日の隊服がファランクス様のものと同じでしたから。兵の皆さんの服と型があまりに違いすぎます。いくら管理者でいらっしゃるとしても」
「おっしゃる通り、自分はディトラウト・イェルニ宰相閣下が擁する騎士のひとりとなります」
「近衛が本職なのにこちらにおいでなのですね」
「事情がありまして。もうすぐ帰る予定ですけれど」
(事情、ですか)
 男の気の払い方に注意してわかった。
 ダイたちを相手にしているかに見せかけながら、レオニダスはタルターザ兵たちを監視している。
 そのような事情は知りたくない
(ここからは……早く出たほうがいい)
 マリアージュの体調の如何に関わらず。
 できれば今晩。遅くても明朝には。
 ダイはレオニダスへの追求を控えた。それが逆に彼にダイの心中を悟らせたようだった。
 レオニダスが愉快そうに笑う。
「やはり慧眼をお持ちですね……。あなたとは、一度お話してみたいと思っていたんですよ、セトラ様」
「わたくしと? なぜ?」
「苛々しきりのうちの宰相と、真っ向からやり合うひとって、なかなかいないんですよ。昨年のあれは、いや、見ていて楽しかったな」
 ダイは唖然とした。
 彼のこの調子からして同じことを、あの男に言ったのではなかろうか。
 ディトラウトの渋い顔が目に浮かぶ。
 ダイはちいさく笑ってしまった。
 ダイの隣でユマが震えた。
「楽しい、だなんて」
 膝上で拳を作り、彼女が激高する。
「よくそんなこと言えましたね! あのとき私たちはあなた方に、殺されるところだった! ……何が楽しいものですか!!」
 ユマのひび割れた声が響く。
 ダイは我に返った。目を赤くする友人を、慌てて抱きすくめる。
「ユマ、落ち着いて」
「えぇ、でも、そうね! あなたたちご自慢の女王陛下たちの顔が、不快そうに歪む様! 本当に痛快だった……!」
「ユマ」
 ダイが鋭く呼ばわうと、ユマが抗議にもがいた。
 彼女の身体を押さえつけ、ダイはレオニダスを見る。
 レオニダスは平静だった。
「……軽率な発言でした。お詫び申し上げます」
 彼は静かな声音で言った。
「ひとつだけ弁解させて頂いても?」
「なにを……!」
「ユマ、黙って」
 友人の頭を抱えてダイはレオニダスに許可を出す。
「どうぞ。……あまり彼女を刺激しないで頂けると助かりますが」
「それは……難しいですね」
 レオニダスが居住まいを正す。
 彼の目は凪いでいたが、真摯な光を宿していた。
「信じて頂かなくとも結構ですが、心に留めておいて頂きたい。陛下と閣下はあなた方を襲った。それは確かなことですが、あなた方の命で購える、我が国の命が多くあったからこその行いです」
「だから許せということなのかしら?」
 抑揚のない声でアルヴィナが尋ねる。レオニダスは首を横に振った。
「いいえ。そうではなく……」
「合理的であれば血を流させることを厭わない。……逆を言えば利に適わなければ、無駄に血を望まないとおっしゃりたいのですか?」
 ダイが言い換えると、男は喜色を浮かべた。
「自分はいまこのタルターザの監督を任されている。大陸会議の帰途に就く方々が困難にあれば保護し、安全に送り出すようにも命じられている。仮に自分の親族の敵であったとしても、閣下が保護を命じるなら自分は従います。それだけは繰り返しお伝えさせていただきます」
 腕の中のユマが震えた。騎士や文官も顔をしかめる。アルヴィナは通常通り。
 レオニダスがかすかに目を眇める。
「あの方が自分に殺せと命じられるのは、この国の未来が掛かるときのみです」
「……そうなのでしょうね」
 ダイはユマを放すと茶器を取り上げた。
 口に含んだ紅茶はすっかり冷めていた。


 レオニダスの話を聞きながらふと思った。
 無駄な死を忌避していたとしても、殺戮を命じなければならぬときが、玉座に在る限りいつかやってくる。
 ならば。
(この方にもまた、誰かの死を命じる日が来るんだろうか)
 ダイは椅子の背を抱えて、マリアージュを見つめた。
 明かりの絞られた寝室は薄暗い。けれども寝台に横たわる主君の顔色は判別できた。やすらかな寝顔。病の色はすでにない。
 それでも疲労が濃いことに変わりはない。早く国で休ませてやりたい。
 この旅のあいだ、ダイは彼女に心労をかけ通しだった。
 ダイの扱いは帰国してから決めるとロディマスは言った。ダイは是と答えた。
 まもなくダイは生きる場所を失う。
 ロディマスやアッセはマリアージュの治世に必要な人材だ。彼らの忠誠心を欠くべきではない。
 ダイは切り捨てられなければならない。マリアージュに瑕疵はないと示すために。
(わたしが、最初になるのかな)
 誰かに死を命じる。
 その最初が――……。
 マリアージュに手を血で染める覚悟があるとは思えないけれども。
 椅子の背に頬を預けて目を閉じる。
「……どうしたの?」
 マリアージュの声は遠くから響いた。
 ダイは身体を起こした。マリアージュがいつの間にか目覚めていた。
「すみません。起こしてしまいましたか」
「喉が渇いたのよ。水を」
「はい」
 ダイは水を高杯に注いでマリアージュに渡した。寝台の傍らに膝を突いて、その背を支え起こす。
 彼女は杯を一気に干した。
 枕に頭を再び埋めて、マリアージュが言う。
「早く部屋に帰って寝なさい。……明日の朝、早いって言ったのはあんたでしょ」
「……そうでした」
 午後の散歩の折に目にしたレオニダスの様子から、モーリスとも相談して出発を急ぐことにしたのだ。
 明朝、夜明けてすぐにタルターザを発つ予定である。
 ダイは寝台の傍を離れようとした。が、それは退室を促したマリアージュ当人に阻まれた。
 ダイの指先をマリアージュが捕らえている。
 ダイはマリアージュの手を握り返した。
「マリアージュ様?」
 マリアージュがくちびるを動かす。
 しかし何を言わんとしたのか、聞き取ることはできなかった。
 文官がひとり、部屋に駆け込んだからだ。
 彼は報告した。
 砦が襲撃を受けている、と。


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