BACK/TOP/NEXT

第十章 蜂起する復讐者 3


「馬車は捨ててください」
 それがレオニダスの第一声だった。
 兵をふたり伴って広間に現れた男の言葉に、デルリゲイリアの皆の間には動揺が走った。
 レオニダスは夕方までの軽装ではない。鋼を鎧い、剣も二本。これまでとは一転して剣呑な雰囲気を纏っていた。
 中央にマリアージュたちを見出して、レオニダスが足早に歩み寄ってくる。
 守りに前へ出る騎士たちをマリアージュは手で制した。
「何があったの?」
「町の人間が蜂起しました」
 レオニダスの回答は簡潔だった。
 女王の隣で会話を聞いていたダイは声を低めて尋ねる。
「町って……タルターザのですか?」
「そうです」
 レオニダスは首肯した。
「ふたり一組で馬に乗って、今すぐ砦を出てください。案内は彼らです。トラッド、ラムセス」
 名を呼ばれた兵ふたりが一礼する。
「すでに伝令役を走らせています。隣の町に無事に到着したら、彼らから話を聞いてください。いまは事情を詳しくお話する時間が」
 どぉん、と、砦が音を立てて振動した。
 何事かと訝るざわめきが広がる。
 説明を遮られたレオニダスは、わずかに顔をしかめたものの、ダイに微笑む余裕すらあった。
「……惜しい、と、いうわけです。少々、荒事が始まります。皆様には安全圏へ速やかに離脱いただきたい」
「わかったわ」
 マリアージュが吐息して承諾した。
「けど、ふたり一組になったところで……馬に乗れない者のほうが多いわよ。馬だって足りない」
「馬は何頭足りませんか? それから、組を作ったときに余る人数」
「馬は三頭足りません」
 荷の纏めを指示していたモーリスが戻ってきて口を挟む。
「それでも八人、馬に乗れません」
「わかりました。馬と荷馬車を手配します」
 レオニダスはトラッドを一瞥した。兵の片割れは了承に頷いて踵を返した。
 レオニダスが指示を再開する。
「皆さんの馬車は速度に欠けます。捨てて下さい。荷も最小限で。荷の一覧は携帯していただきますよう。事態の収束後、荷の照合に用います。馬に乗る方は集まってください。これより道をラムセスから説明させます。文官の方は組を決定。女官の方は男装を」
「待ってください」
 ユマが男の言葉を遮った。
 女官たちの中から進み出た彼女は、レオニダスの懐深くまで踏み込む。
「時間が惜しくとも、最低限の説明はすべきです。事情もわからず振り回されて、もっと危ない目に遭っては困ります――お互いに」
 最後の一言は一方的な非難を堪えた結果だろう。ユマなりの譲歩だ。
 ダイはユマの隣に並び、その手を握った。
 彼女の手のひらは冷たく汗ばみ震えていた。
 下唇を噛み締める女官に、レオニダスが同意を示す。
「おっしゃる通りですね。……タルターザが今年の初めにエスメル市の兵と一戦交えたことはご存知で?」
「存じています」
 ユマに代わってダイは答えた。
「タルターザ側の勝利だったと聞いていますが」
「そうです。そのときの作戦で畑を潰したので、住民の怒りを買っています」
 それは逆上されるだろう。
 タルターザの町人の多くは農民だと、レオニダスは夕方に述べたばかりだ。
「一通りの補償を終え、和議も進んでいた。……と、思っていたのはこちらだけだったようです」
 レオニダスが微苦笑を浮かべて頭を下げる。
「巻き込んでしまい、誠に申し訳なく存じます。……身内の恥ですが、兵の中に暴動を手引きした者が少なからずいるようです。砦内で混戦になる可能性があります。そうなるまえに一刻も早く、脱出を」
「モーリス、聞いたわね」
 マリアージュが文官に叫んだ。
「皆も、すぐに準備なさい」
「ユマ、女官の皆をまとめて」
 ダイはユマの腕を叩いた。
「騎士と組を作ってください。……アルヴィー」
「はぁい」
 送り出したユマと入れ替わりに、アルヴィナがゆったり歩み寄る。
 この魔術師は変わらない。平時と同じように微笑んでいる。
「アルヴィーは、マリアージュ様をお願いします」
「ダイ?」
 マリアージュが咎めるようにダイを呼ぶ。
 ダイは敢えて彼女を無視した。
「私は……お守りを貰っていますし、何かあったとしても、大丈夫です。だから、お願いします」
 アルヴィナがことりと首をかしげる。
「私は……陛下を、お守りするの? マリアージュを、守ればいいの?」
「マリアージュ・ミズウィーリ・デルリゲイリアを」
「それがあなたの望みなのね?」
 アルヴィナの念押しにダイは頷く。
 わかったわ、と、アルヴィナは請け合って、マリアージュの下に向かった。
 ダイはレオニダスに向き直った。
 彼は戻った兵から報告を受けている。
 即座に判断を下し指示を出す彼の姿は、なるほど、あの男の配下だと思わせる。
 ダイは口を開いた。
「大陸会議から戻る途中にある私たちを、安全に送り出すように命じられている、と、おっしゃいましたね」
 レオニダスは首肯した。
「はい」
「……今回のことは、茶番ではありませんね?」
「違います」
「私たちを守ってくださる?」
「えぇ」
「誓えますか?」
「神に? それとも聖女に?」
「いいえ。あなたの主人に。ディトラウト・イェルニに」
 レオニダスの言葉の端々に、宰相への崇敬の念を感じた。
 この騎士は彼に忠誠を誓ったのだろう。女王にではなく。
 かすかに瞠目したのち、レオニダスが宣誓する。
「誓いましょう」
 彼は手甲に覆われた手を左胸に当てた。
「あなたがたを安全な場へ送り届けることを。我が主人の名において」


 雨上がりの湿った夜気が頬を撫でる。
 外は静かだった。町民たちは砦裏までまだ来ていないようだ。
 暴動の起こっている町側は明るい。火の手が上がっているのか、夜空が橙色に染まっている。その中央に砦は黒い影としてそびえ立ち、頭上にひときわ濃い闇を投げかけていた。
 エスメル市領側に面した裏口から馬で順番に脱出を図る。案内役のトラッドが先頭を走り、女官や文官、魔術師たちを抱えて、騎士たちが後に続いた。ひと組目、ふた組目、三組目。皆、吸い込まれるように森の中へ姿を消していく。
 殿(しんがり)を務めるというラムセスが、乗馬の順番を待っていたダイに告げる。
「町民たちの狙いは砦です。皆様に追撃の手が及ぶ可能性は低いのですが、仮に何かが起こり、はぐれてしまわれた場合は、必ず魔で時と方角を視て動いてください」
 これから向かう町や、街道、徒歩圏内にある村の方角を教え、彼は次の組にも同じ内容を述べていく。森は地元人でも迷いやすいと聞いている。ダイは砦の位置を確かめ、いまの時刻を計った。
 夜明けまで二刻ほど。目的地の町までは森を通過するため最短で半刻強。森の中で夜を明かしたくはないものだ。
 ダイは騎士の助けを借りて馬に跨がった。異性が接触する感覚に軽く身じろぐ。
「少しの辛抱を」
「大丈夫です」
 ランディやユベールたち慣れた騎士は、アッセたちと同様にはぐれた方にいる。仕方がない。
 前方のマリアージュはアルヴィナと組んでいた。
 魔術師に乗馬ができるとは知らなかったが、従軍経験があり、その腕前は騎士に引けをとらないという。
「なんで私の方にいるのよ! ダイと組んでなさいよ!」
「だぁって、ダイにお願いされたんだもん」
「陛下、おとなしくなさってください。私と陛下、どちらが大事だとお思いで?」
 国章持ちとはいえどダイは化粧師に過ぎない。しかも宰相から内通を疑われる身だ。この状況下でアルヴィナをダイに付けておく理由がない。
「ダイ! あとでぶっ叩くから覚悟しておきなさいよ!」
「はいはい」
 扇や拳ではなく平手辺りを所望しつつ、ダイは生返事でマリアージュに応じた。
 順番が来てアルヴィナが馬の腹を脚で締める。馬はとことこと歩きだし、速度を速めて森に入った。
 ダイたちもその後に続いた。
 騎士を御者とした荷馬車はダイの次だ。荷台にはユマたち女官数人が麻布を被って伏せている。砦の外壁を右手に望みながら森を行く。
 当初はもっと奥まった道を進む予定だったらしい。荷馬車の幅を考慮して、木々の間隔が空いた砦近くしか進めないそうだ。
 手綱を握る騎士が不安そうに呟く。
「……タルターザは本当に……襲撃を受けているんでしょうか?」
「罠に……掛けられていると、思いますか?」
 彼は夕方の散歩にも付き合って、レオニダスの話を耳にしている。
 尋ねたダイに騎士は、わかりません、と呟いた。
「暴れる町人とやらを、この目で見てこなかったことが悔やまれます。襲撃者を確認できればまだ納得できたのですが。ダイ様は……なぜルウィーダ殿を信じることができたのですか? 陛下も疑っておられないようでしたし……」
「理由がないからです」
 ダイはアルヴィナの背を見つめながら答えた。
「ルウィーダさんも言っていたことですが、大陸会議でうちの国とペルフィリアは、協定や条約を、いくつも結んでいます。ここで私たちを襲えば、すべてご破算になる。仮に私たちを捕らえたかったとして、こんな回りくどい方法を、とる必要はありますか?」
 ダイたちはタルターザの砦にいたのだ。わざわざ馬や荷馬車まで提供して外に出す必要はない。
 加えてダイは砦の兵たちに目を光らせるレオニダスの姿を目撃している。
 それでももちろん彼を疑いはした。
 結局、レオニダスの言を真実とした最終的な理由は、ひとつの確信から。
 レオニダスが信奉しているあの男は、訳なく非合理的なことには及ばない。
 こうして信じてしまえる自分はやはり、女王の傍にいるべきではないのだろう。
 きっといつか、足下をすくわれる。
 右手に見えていた砦が唐突にぐんと遠ざかる。その外壁と森の間に奇妙な空間が見えた。
 厚い雲の切れ目から射す月明かりが、輪郭をおぼろげに浮かび上がらせる。
「……土砂?」
 ダイは眉をひそめて呟いた。
 森の途切れる位置に大量の土砂が丘を作っている。根を突きだした木や、壁材に用いられるような岩も転がっていた。その向こうでは昨晩の雨が地面の上に薄く溜まって湖を成し、月光を受けた墨色の水が風に震えてさざ波を起こしている。
(畑を潰したって、言った)
 それがあそこなのだろうか。
 右手の景色は砦から町の外壁へと移る。
 空が明るい。
 静寂を砕く馬蹄と車輪の音に、人々の喧噪が混じり始める。
 喧噪が徐々に声量を増す。
 肌が粟立つ。
 クラン・ハイヴの村でも経験した。
 争いの、気配。
 風を切る音がした。
 鈍色の一条が数本、またたく間に迫る。ひゅっとダイが息を呑んだ刹那、アルヴィナの右手が真横に伸び、その白い指が魔術の陣を描いた。青白い光がその場をいっとき昼に染める。
 立て続けに破砕音が響いたのち、その余韻を散らすようにアルヴィナが叫んだ。
「速度上げて!」
 騎士がダイを抱え込んで馬を打つ。ぐっと身体に負荷が掛かった。
 駈足(かけあし)から襲歩へ。景色がどんどん後ろに流れ去る。
 振り落とされないよう、必死に馬にしがみついたまま、ダイは横目で砦を見た。
 壁の傍にいくつかの人影がある。
 彼らは矢を番えて、放った。
 鈍色の第二波が馬の鼻先を掠める。噛み締めた歯の奥に悲鳴がつかえる。
 騎士が唐突に身体を起こし、吠えた。
「手を放さないで!」
 右脚から剣を引き抜いて、彼は斜め後方を一閃する。
 身体伝いに感じる、肉を斬る振動。
 馬の高い嘶きを纏って、大きな塊が、泥を跳ねながら転倒した。
 悲鳴が聞こえる。
 女官たちの。
 荷馬車が後方を走っていたはず。
「前を向いてください!」
 たてがみごと手綱をとるダイの手の甲を強く握って騎士が叫ぶ。彼はまた剣を振るった。赤黒い体液がダイの眼前に散り広がる。
 馬の嘶き、怒声、悲鳴が入り交じる。
 ダイは手綱を放さずにいるだけで精一杯だった。
 森の境目でアルヴィナの魔術が再び炸裂する。青い火が断続的に明滅して辺りを照らす。
 追いついてきた兵がひとりダイの横に付いた。
 槍が突き出される。
「ひっ……!」
 ダイを庇った騎士の腕に鋼の先端が食い込む。
「っつ……ああっ!」
 苦痛の叫びに馬が跳ねた。
 ダイは己の腹を支える腕を押さえて騎士を仰いだ。馬上で体勢を立て直す彼の肩越しに、肉を裂いた槍と飛沫く鮮血が見える。
槍の主の目はもはや、ダイたちを映していなかった。
 矢の攻撃の対応に追われるアルヴィナと、彼女に庇われるマリアージュを見ていた。
 考えがあったわけではない。
 ただ夢中で――ダイは遠ざかる槍に飛びついた。
「なっ……!?」
 追撃の兵が驚愕に瞠目する。ダイたちの方へよろめき近づいた兵が、力任せに槍を引く。
 手を放すこともできずに、ダイは宙に投げ出された。
「わっ!」
「ダイ様……っ!」
 騎士の声は馬蹄の音と共に、あっという間に遠ざかった。
 馬の腹が眼前に迫る。
 そして、光が弾けた。
 ひときわ大きな破裂音が響いて、馬と兵が忽然と姿を消す。
 ダイは泥の中に突っ込んだ。
「あっぷっ……けほっ! ごほっ……! なっ、こふっ!」
 上半身を起こして周囲を見回す。赤い霧雨が降っている。鼻腔を満たした血臭にダイはむせた。
 先の兵と馬はいない。
 血煙だけが彼らの名残だ。
 ダイは口元を覆った。声すら出せず、嘔吐感に喘ぐ。けれども蹲っている暇はなかった。
 新たな馬の足音がすぐ傍まで迫っていた。
 ダイは頭上に差した影を呆然と見上げ、真横からの体当たりをまともに受けて、また泥濘のなかに犯人ごと倒れ伏した。
 自分に覆い被さる友人の名をダイは愕然と呟く。
「ユマ」
「ぐ、ああぁあぁあっ……!」
 悲鳴は、彼女のものではない。
 槍を振りかぶっていた新手のものだ。
 彼は馬ごと横転した。その腕や首には太い矢が刺さっていた。
「ラムセ――ス!!」
 聞き覚えのある男の声が響く。
 レオニダスだ。
 砦から数人の兵を率いて彼はダイの方へと駆けていた。
「先に行け! こっちで保護する!」
 落馬したダイたちを認めて、近づいていたラムセスが、緩めかけていた速度を上げ、先行した皆を追い始める。
「おふたりとも……大丈夫ですか!?」
 やがてダイたちはレオニダスに助け起こされた。
 彼もまた、血みどろだった。


 後ろを振り返ったまま、マリアージュは叫んだ。
「アルヴィナ、戻りなさい……! ……アルヴィナ!」
「黙ってマリア。舌噛むよ」
「ダイがっ、落ちたのよ!」
「わかってる! いいから黙んなさい!」
 頭上から怒声が降る。アルヴィナにしては珍しく焦燥の滲む声だった。
 マリアージュは震えながら顔を伏せた。
 もう追っ手の姿は見えない。
 暗い森には身内の姿しかない。
 なのに。
(こわい)
 これまでにも幾度か命の危機にさらされた。
 今回はアルヴィナが付いている分、危険の度合いは少ないはずだった。
 けれども、こわい。
 いままで片時も離れずいた娘を、戦の渦中に置き去ってしまった。
「あ、アルヴィ、な……」
 自分でも情けないほどに、か細い声しか出なかった。
「戻って……戻りなさいよ……!」
「駄目よ」
 アルヴィナの返答はにべもない。
「あなたを連れては戻れない。ダイを迎えに行ってほしいなら黙るのね、女王さま」
 そうすれば早く安全な場所に辿り着く。
 アルヴィナもダイを迎えに引き返せる。
 マリアージュは下唇を噛んで目を閉じた。
 涙が滲んだ。
「……そう悲観的にならなくてもいいわ、マリアージュ」
 アルヴィナのささやきは、思いがけず優しかった。
「ダイには守りを付けてあるもの。そんなすぐにどうにかなるなんてことはないわ」
 どうにかなってもらっては困る。
 マリアージュはアルヴィナを睨み付けた。
 彼女は微苦笑して、すぐ、表情を引き締める。
「ただ……気に掛かることはあるけれど……」
 アルヴィナの言う通りだ。
 だからこそダイの身を案じる。
(みんな……兵だった)
 追撃者は町人ではなかった。
 訓練を受けた兵士たちだった。
 レオニダスは町人たちの側についた兵もいると述べた。
 それはいったい全体に対し、どれほどの割合なのだろう。


BACK/TOP/NEXT