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第一章 自失する君主 2


 王城裏手の急こう配を階段代わりの丸太を頼りに慎重に上る。夜通し起きていたためか思いのほか息が弾み、上りきるころには背がじっとり汗ばんでいた。
 頬を撫でる冷えた風が望外に心地よい。ダイは立ち止まって辺りを見渡した。
 密集する小さな丸い葉に覆われたこの高台は、かつてダイの友人が命を落とした場所だった。いまはマリアージュが息抜きにしばしば訪れている。
 その平原の只中で直立している男に、ダイは上着を脱ぎながら呼びかけた。
「アッセ」
「ダイ。……来てくれたのか」
「えぇ。……ロディから聞きましたよ。マリアージュ様は?」
「あちらだ」
 隣に並んだダイにアッセが視線で場所を示した。
 さやさや揺れる葉と葉の向こうに、はためく衣装の裾が垣間見えている。ダイは上着を腕に掛けてマリアージュの下へと歩を進めた。
 ダイの主君は汚れることに頓着した様子もなく草の上に直に仰臥していた。解かれた紅茶色の髪は風に弄ばれて揺れ、そのうちのひと房が彼女の表情を隠している。
 ダイは隣に腰を下ろした。マリアージュは何の反応も示さなかった。
「食べていますよ、髪」
 失礼を、と言い置いて、ダイはマリアージュの顔から髪を指にかけて取り払った。
「眠っておいでですか?」
「起きているわよ」
 マリアージュが低い声音で呻き、目を薄く開ける。ダイは抱えた膝に顎を載せて、視線を主君から正面へ戻した。
 澄み渡った空には雲ひとつなく、陽光が幕のように揺らめいて、地上の景色を霞ませている。果てない白砂の荒野も、裏町の雑然とした街並みも、貴族の館の赤い屋根の連なりも、白亜の王宮も――すべてが夢の中のように遠く感じられる。
 平和だ。
 遠くから見つめる限りは。
 マリアージュが問いかけてくる。
「……街の様子はどうだったの?」
「アスマが治安の悪化に頭を抱えていましたよ。……思った以上に流民が問題になっているみたいです。裏町では商工組合を中心として、自警団を新しく組織すると聞きました。二、三日中には役所へ申請をするとか」
「そう。……自警団って何をするの?」
「警邏だそうです。街を巡回して、喧嘩の仲裁を。それから礼拝所の互助会と連携して流民のひとたちに職の斡旋を。……ただ、限界はあると言っていました」
「私に早く手を打ってほしいって?」
「……そうですね」
 ダイは控えめに肯定した。
 マリアージュが深く、ため息を吐いた。
 城の空気が日に日に張りつめる昨今、主君から離れることには気が引けた。それでもダイが里帰りとして城下に降りた理由は、マリアージュが街の様子を知りたがっていたからだ。
「あんたの姉妹たちは元気だったの?」
「姉妹……芸妓の皆のことですか? アルマたちなら元気でしたよ。マリアージュ様にもよろしくっていっていました。お菓子も喜んでくれたみたいです」
「そう。……ミズウィーリは?」
「変わりなく。ティーナちゃんは、大きくなってましたよ」
 ティティアンナの娘の名をアイナティーナという。マリアージュが考えた。
 引き受けたときは面倒臭さを隠さなかったが、その裏で命名辞典と首っ引きで決めていた。
「ハンティンドンさんも、落ち着いていらっしゃいました。……心配していましたよ。マリアージュ様のこと」
 ローラ・ハンティンドンは今もミズウィーリ家に侍女頭として勤めている。ただし女王選の夜に怪我を負って以来、彼女は体調を崩しがちで、主な業務をリースに譲ってひさしい。
「ローラも耳にしているのね。私の評判を」
「えぇ、もちろん。昔のマリアージュ様とは思えないぐらい頑張っていらっしゃるって、感心していらっしゃいましたよ」
「そういう意味じゃないわよ馬鹿。頑張っているだけなら心配してくれる必要はないでしょう。……誰が年寄りにまでひとの悪口を吹き込んだのかしらね、まったく……」
 発言の裏を読むことはマリアージュの得手とするところだ。
 評判、の意味をマリアージュは正確に把握したとみえる。ダイは余計なひと言を付け加えた自分に胸中で舌打ちした。
 マリアージュの女王としての評価は決してよいとはいえない。
 何を考えているかわからない。下々の言葉に耳を傾けない。政(まつりごと)の機微を何も理解していない。
 無能で。
 うつけな。
「病人に無駄なことを話してばかりの暇人はミズウィーリにいらないわ。探しておかなければならないわね……」
「殴りにいくとか言わないでくださいよ」
「どうして私が探さなきゃいけないのよ。あんたが探し出して殴りに行きなさい」
「えー、私の役目なんですか?」
 ダイが不満を訴えると、マリアージュは口元を笑みに緩めた。ダイもつられて笑いかけ、何となしに、マリアージュの手を見た。彼女は血の気が失せるほどに硬く拳を握っていた。
 ダイは躊躇いながら主人の行動を諌めるべく手を伸ばした。
「傷つきますよ……」
「ダイ」
 マリアージュがダイの手を強く握り返す。ダイは主人のらしくない反応に眉をひそめて応じた。
「はい、陛下」
「……私のしていることは、そんなに理解できないことなのかしら」
 ダイの指が白くなるまで力のこもったマリアージュの手は震えている。
「私、やっぱり本って嫌いなの。読んでも頭にちゃんと入らないのよ。報告書も……。あちこちから、村がなくなった、畑が焼かれた、工房が壊された。そんな報せが書面でくる。でも、実感がわかないの。それで? って思ってしまう。だから……見に行きたいと、思っただけなのよ」
「存じております」
「それで見に行って、大変だと思ったから、私なりに考えて……」
 マリアージュが言葉を詰まらせて下唇を噛む。硬く閉じられたままの瞼はおそらく涙を堪えるため。
 ダイは主君の苦心を想って繋ぐ手に力を込めた。
 マリアージュは懸命に国主の責任を果たそうとしていた。
 報告書に辛抱強く向き合ってはロディマスやルディアたちに疑問を質し、執政官たちとの討論に臨む折には過去の判例を難解な歴史書から探した。上級貴族たちからもたらされる報告にもすべて耳を傾けた。昔のマリアージュからは想像できないほどの忍耐だった。
 しかしながら執政官たちは彼らの常識とずれた指摘を繰り返すマリアージュに辟易するばかり。貴族たちも報告を上げたところで望む反応を示さない王宮に、ひいてはその主たるマリアージュに、憤然とした態度を隠さないようになっていった。
 動けば動くほど空回るマリアージュの姿は傍目に痛々しい。
 ダイがマリアージュのためにしてやれることは数少ない。
 夜更けまで彼女の傍の控え、ランタンの油が切れれば注し、資料を代わりに探し出し、肌が荒れぬように気を配り。
 けれどもマリアージュの立場や苦しみを引き受けることはできぬのだ。
「私には、無理だったのかしら」
 マリアージュが呟いた。
「セレネスティに言われたわ。乱世のこの時代に素人の私が国を守りきれると思うのかって」
 マリアージュがかつてなく政務に没頭する理由の一端はペルフィリア女王にある。
 マリアージュはかの国の女王に宣言したのだ。この国を守り通してみせると。
 だが――……。
 マリアージュは疲れの滲む息を吐いた。
「あの女の言う通りだったってことよね。無理なことだったのよ。お飾りになるために選ばれた、一番無能だった私には」
「それは違います」
 ダイは強く諌めた。
「何度でも言います。マリアージュ様は決してお飾りとして選ばれたわけじゃありません」
「だったらどうして私の発言を邪魔するの? 聞く耳を持たないの? 今日の会議だってそう。……私が遊びで口出ししているとでも思っているの?」
「皆、マリアージュ様のやり方に慣れていないだけです。だって、マリアージュ様が即位されてまだ一年と少ししか経っていないんですよ。政務に熱心に取り組まれるマリアージュ様に感心している人もたくさんいます。心無いことを言う人もいますが、それはマリアージュ様に期待を掛けているからです。マリアージュ様は、今のままでいいんですよ」
「このままのやり方で、いつその鳥は不要になるの?」
 マリアージュはダイの肩口に留まる鳥を睨み据える。ダイを守るためのアルヴィナの遣い魔。それは実に鳥らしい所作で、のんびり羽を整えている。
 ダイがこの鳥をアルヴィナから借り受けてからひと月半が経つ。
 きっかけは裏町への里帰りではない。女官のひとりがダイに短剣で斬りかかるという事件を起こしたためだった。
 彼女はマリアージュが執政官たちの反対を押し切って決めた国境視察の随行員に選出された恋人を持っていた。恋人を危険にさらすマリアージュへの不満をダイに転化したのだ。幸いにして大事には至らなかったが、ダイは自らの警備を考える必要に迫られた。
 以前に比べて身長が伸びたとはいえども、ダイの体格が小柄なことに変わりはない。男女問わずにダイを征服することは容易い。
 安全なはずの城内でダイの周囲を護衛で固めなければならないという事実。それがマリアージュを打ちのめしているらしかった。
「私は……平気ですよ、陛下」
「ダイ、あんたは私のものなのよ。自分のものを傷つけられて平然としていられるほど、私は人間できてないわ」
 マリアージュは空いた手で目元を覆った。
 彼女の紅茶色の髪を風が巻き上げる。
「私は、どうしたらいいのかしら」
 吹き渡る風に紛れたその声は、微かな湿り気を帯びていた。


 高台から城に戻って早々にマリアージュは熱を出した。
 珍しく弱音を吐いたのは体調不良で気弱になっていたせいもあるのだろう。解熱剤を与えられた彼女は日が落ちても昏々と眠り続けている。
 目覚める気配のないマリアージュを残し、ダイはロディマスと密かに城を出た。ロディマスの所有する邸宅でルディア・ガートルードと落ち合うためだった。
「このままではマリアージュ様が参ってしまいます」
 ダイの訴えにロディマスとルディアのふたりは揃って神妙な息を吐いた。
 円卓には夕餉が並んでいるが、誰も手を伸ばそうとしない。沈痛な空気が互いから食欲を削ぎ取っていた。
「……私としても、陛下のご様子を伺いに参じたいところなのですが……」
 悔しそうにルディアが口を開いた。
「私のこれ以上の参勤は陛下の立場を余計に悪化させかねません」
 女王選でマリアージュの選出を決定付けたルディアは、女王の相談役を兼ねた後見人という立場にある。その結果、ルディアは貴族階級の人間としては唯一、マリアージュと自由に謁見できる権利を持っていた。しかしながらその権利を乱用した場合には、ガートルード家一門以外の者たちから反感を買ってしまう。
 ルディアが貴族階級の者たちをまとめきれなくなることは避けたい。各地方の領主としての顔を持つ彼らの協力なくして国は立ち行かないからだ。
「マリアージュ様の方がルディア様を訪ねるかたちではいけませんか? ロディ」
「あまり意味がないよ、ダイ。それならむしろ陛下には伯母上との時間を減らしていただいて、代わりに諸侯と接見する機会をもっと持っていただいたほうがいい。伯母上には諸侯をまとめることに専念していただく」
「ルディア様とお会いする時間を削ってしまうのは……マリアージュ様も楽しみにしていらっしゃるんです」
「だが伯母上を重用していると見せつけるのもよくない」
 ロディマスの言い分はダイにもわかる。しかしマリアージュにとって悩みを打ち明けられる相手は限られるのだ。その数少ないひとりであるルディアと会う機会を減らすことはマリアージュにとって更なる負担だ。
 ルディアが幾度目かのため息を吐いた。
「こういうときのために静養場所としてご生家があるのですが……」
 マリアージュはミズウィーリに戻らないだろう。そこの様子を見に行けとダイに命じたほどだ。
「ルディア様……ひとつ伺ってもよろしいですか?」
 ダイの問いかけに喉の渇きを潤していたルディアが茶器の縁から口を離した。
「かまいませんよ。何をお聞きになりたいの?」
「……エイレーネ様のことです」
 ルディアの表情が一瞬だけ強張る。
 緊張に唇を引き結んで、ダイはルディアを見た。
 隙なく結われた、豊かな黄金の髪。緑青の宝玉めいた碧の目。光沢のある濃紺の衣装に白い肌が映える。
 気品と貫禄を備えたこのうつくしい貴婦人は、先代の女王エイレーネの友人だったという。
「エイレーネ様はこの国を、どのようにして治められていたのでしょうか?」
「統治時代のことは前にもお話ししたでしょう? 特別なことはありませんでしたよ」
「そんなはずない」
 ダイは思わず声を荒げて拳を握りしめた。
 確かにダイはマリアージュと共に、ルディアやロディマスたちから、エイレーネについて学んではいた。
 エイレーネ・ドルジ・デルリゲイリア。ドルジ家からはふたりめの女王。ロディマスとアッセの母。ルディアの夫、バイラム・ガートルードの実妹でもある。在位中、ドッペルガムが国家の体裁を採ることを認めている。
 デルリゲイリアの名君として名高い――魔の公国の崩壊の波を耐え抜いた治世者だからだ。
「ルディア様、聞いてください。マリアージュ様の顔師となるまで私の周りはとても平和でした。メイゼンブルが滅んだことも、一緒にたくさんの国が消えたことも、おとぎ話みたいに遠かった。私は自分のことだけを悩めばよかった」
 かつてアスマがダイに語った。
 魔の公国が長き歴史に終止符を打ったとき、引きずられるようにして周囲の国も倒れたのだと。幸運にも存続した数少ない国のひとつがデルリゲイリアなのだと。
 それを可能にした存在が当時の女王だったのだと。
「エイレーネ様は、どうやってこの国を守られたんですか? どのようにして……」
 女王として立ち続けたのか。
 ダイが知りたいことはエイレーネが成したことではない。それまでの道程だ。どのように立ち振る舞って、女王として認められたのか。官たちを、貴族たちを、まとめ導いていたというのか――。
 ルディアの深い吐息が暖炉の熾火の爆ぜる音に交じって響く。
「エイレーネがこの国を守れたのは、いくつかの幸運が重なってのことでした」
 ルディアの告白にダイは瞬いた。
「幸運……?」
「そうです。……建国当初から、デルリゲイリアはメイゼンブルと政治的な関わりの非常に薄い国でした。この国にメイゼンブルが積極的に関わろうとすることは少なかったと聞いています。理由はわかりません」
 逆に魔の公国に直接的ないし間接的な統治を受けていた国ほど強く影響を受けた。
「これが、第一の幸運です。第二は、地理。倒れた国はメイゼンブルの周辺に多く見られました。それらの国からわたくしたちの土地は遠く、さらに国境周辺の厳しい土地柄が、長旅に疲れた難民たちの足止めをしました」
 そして、とエイレーネはほろ苦く笑った。
「エイレーネの何よりもの幸運は、即位してから年数を経ていたことにあるのですよ、ダイ」
「年数……」
「そうです。メイゼンブルが倒れたとき、エイレーネは即位して十年を過ぎていました。もちろん、エイレーネ自身の資質や努力もありました。ですが今と異なった穏やかな時代であれば、執政官や諸侯たちとの間に良い関係を築くことは難しくありません。彼らにどう命じればどう動くかを、エイレーネは知っていました。だからこそ苦難に一丸となって取り組めた。……もしもエイレーネがマリアージュ様と同様の立場に置かれたなら、状況に背を向けているかもしれません」
「母上は……やさしくも、心弱いところがおありでしたから……」
 ロディマスが昔を懐かしんで呟く。ルディアが同意に頷いた。
「……すべて、時が悪いんでしょうか?」
 ふるえる声でダイはふたりに問いかけた。
「時代が……時機が悪いから、ちっとも上手くいかないんですか? あんなに頑張っているのに。……マリアージュ様は、我儘なんです。短気で、気難しくて、我慢ができないひとで。だけど今はあんなに必死で。ずっと女王の勤めを果たそうとしているのに、皆、あのひとを、相応しくないって言うんです。あのひとが、あんなに頑張っているのに……! 頑張っているのに……!!」
 マリアージュにはお飾りとして安穏と暮らす道もあった。
 だが彼女は女王としての責から逃げないことを選んだ。問題のすべてを見て背負った。
 マリアージュが女王にふさわしくないというのなら、いったい誰であればよいのか。
「わかっているよ、ダイ」
 ロディマスがやさしい声音でダイに言った。
「陛下が……マリアージュが、本当に努力していることは。だからこそ彼女を心配して僕らはいま集まっている。そうだろう?」
「確かに時代も時機も悪いと言わざるをえません。……ですがそれを嘆いてばかりはいられない。わたくしたちはあがかなければならない。マリアージュ様が前へ進むために、わたくしたちにも何ができるかを考えなければならない」
「……わたしたちにも、なにができるか……?」
 ダイは反芻した。
 ルディアが微笑んだ。
「そうですよ、ダイ。わたくしたちも国を守る責務を負っている……わたくしは貴族の長としての責を。ロディマスは宰相としての責を。そして、あなたも――……」


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