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第一章 自失する君主 1


 指で掬い取った肌色の練粉を丹念に塗り伸ばす。
 絹をも凌ぐなめらかな肌が、触れる傍から艶めいていく。
 ふるいに掛けた微細な粉を毛足の柔らかな太筆で塗布すれば、百合の花弁のごとき光沢が肌にさらに宿った。
 色板を引き寄せて女に合う色を吟味する。夜闇の藍、若菜の緑、詰草の白。梔子の黄に、薔薇の赤。恋人に口づけをねだるように差し出された女の薄い唇には、おそらく蘇芳の紅が似合う。目元は蝋燭に映える飴色にした。金粉を溶いた色液を、手の甲に一滴落として、発色を視る。
「いつ終わる?」
「もう終わります」
 ダイは背後からの問いに即答して、卓に立てかけられた鏡を一瞥した。その磨き抜かれた鏡面には扉口に背を預けるアスマの姿が映っていた。
「その子で最後だ」
 扉から離れてアスマは言った。
「終わったらアタシの部屋に来な」
 去り際にひらりと手を振って、彼女は戸布の向こうに姿を消す。
 ダイは仕上げに用いた大ぶりの筆を然るべき場所に収めると、出来栄えを引きで確認して満足感に微笑んだ。


 店じまいの時刻に差し掛かった花街は人々の影もまばらだ。灯されていた照明がひとつ、またひとつと徐々に消えて、仕事を終えた芸妓たちがしどけない姿のまま、柔らかな薄布の裾を引いて歩いている。閉店間際に滑り込んだ数人を除けば、主だった客たちは既に引き上げていて、使い終わった部屋の扉は開け放たれ、清掃を担う裏方たちが箒と布巾を手に出入りしていた。
 ダイが部屋に到着したとき、アスマは帳簿をつけていた。長椅子で待て、と目線で示唆される。
 扉を後ろ手に閉じたダイは椅子に歩み寄り、その脇に化粧鞄を置いて、刺繍がみっちりと施された座面に腰を下ろした。
 紙面から視線を上げぬままアスマが言う。
「よくもまぁ、あんたのご主人さまは許可してくれたものだね」
 アスマが感心した様子で言った。
「嫌がっておいでじゃないのかい?」
「私が他人に化粧をすることを? それとも花街の皆に化粧をすることを?」
「両方。でも特に、芸妓に顔するほうを、だよ」
 ダイの主人はやんごとなき身分――このデルリゲイリアの王、マリアージュだ。一方、アスマの下で働く女たちはいくら芸事に秀でていても身体を売る娼婦であることに変わりない。彼女たちを化粧した同じ手で触れられたくないと考える方が普通だろう。
「もう一度確認するけど、本当に許可をもらっているのかい?」
 眼鏡を外してアスマが問う。
「本当ですよ。あぁ、いいんじゃないの? って即答でした。アルマたちによろしくって言われたぐらいですし」
 マリアージュはこの花街を訪れたことがある。その折に彼女をダイに代わって案内した芸妓たちのひとりがアルマだ。里帰りしてこようと思うんですが、と告げたダイに、マリアージュは指折りながら芸妓たちの名を思い出し、菓子折りでも持っていけば、とそっけなく言ったのだ。
「アタシたちのことを認めてくれているならうれしいね」
 まんざらでもなさそうに微笑んで、アスマが席から立ち上がった。
 二人分の高杯と果実酒を戸棚から取り出し、それらを手にダイの対面の椅子に腰を下ろす。
「嫌そうな顔をしないね……酒は飲めるようになったのかい?」
 楕円の卓に高杯を置き、瓶の詮を抜きながら、アスマが片眉を上げる。ダイは自分でもいささか得意げと思いながら説明した。
「絶対飲まされると思って、友人に酔い止め処方してもらいました」
 下手に飲酒をすると冗談抜きで記憶が飛ぶので、近頃はアルヴィナに酔い止めを作ってもらう。精製に魔術を用いるため、とにかく効きがいい。
「……薬なしじゃ、一滴も駄目なのかい?」
「んー、一口ぐらいならなんとか。あとその杯の半分の量を一刻かけて飲むぐらいなら平気です」
「……相変わらずだね。……背は伸びたのに」
 アスマの指摘にダイは肩をすくめた。
 去年の中頃から、ダイの身体の時はその針をゆっくりと進め始めた。骨が軋んで衣服の身頃が合わなくなった。顔立ちからはあどけなさが抜け始め、身体の線もまろみを増しつつある。
 とはいえど、小柄で肉付き薄いことには変わりがない。男物の官服を纏って姿見の前に立てば、以前よりすこしばかり成長した少年の姿があるだけだった。
「月の障りは?」
「まだです」
 月経の兆しは見られない。
 けれど、それでいいと思っている。
 朝目覚め、鏡を確認するたびに震えがくる。それは恐れだった。自分の身体がゆっくりと得体の知れぬものに成り変わっていくことへの。
 女になることが、怖い。
 時は否応なしに身体へ刻まれていくものなのだと、ダイは初めて実感していた。
「……あまり無理するんじゃないよ。忙しすぎると障りが来なくなるのはよくあることなんだ」
 アタシの場合は年のこともあるだろうけれど。アスマは皮肉めいた口調で付け加える。
 ダイの養母にして三軒の娼館を経営する、このやり手の女主人にもまた、老いは確実に訪れている。往年の美しさは損なわれておらず、むしろ凄味を得た気もするが、目元にうっすら刻まれた皺や露出を控えた衣服が、彼女も四十路を過ぎたのだとダイに教えた。
 芸妓たちの寿命は短い。対処の仕方を熟知していても、病を得ることの多い職だ。それでなくとも老いれば商品価値が下がる。二十には子を産んで世代交代を図り、やがては見向きもされなくなる。
 経営側に転じたアスマは成功者だ。しかしながら今の地位を築くまでの苦難は、彼女に消えぬ疲労としてこびり付いている。
 娼館の経営状況は悪くない。後進も育てているようだ。それでもアスマの気が休まる日が来ることは当分先のようだ。
 一角の人物として信頼されているアスマは今、裏町で持ち上がる問題の対処に追われている。
 そんな己の多忙さを棚に上げて、彼女は気遣わしげにダイを見た。
「……年末は国内の視察で、ほとんど王都を留守にしてたんだって? 身体壊すんじゃないよ」
「マリアージュ様に付いて回っているだけですよ。大したことはありません」
 ペルフィリアから戻って以来、マリアージュは積極的に国内の様子を見に出かけるようになった。手始めにミズウィーリ家およびその傘下の領地を。続けて国境沿いを。村、畑、森、余さず。
 国の方々で目にした光景が脳裏を過ぎり、ダイはそっと瞼を伏せる。
 昨年の収穫期ごろのことだ。西大陸南西部に位置する小国で内乱が起こり滅亡した。メイゼンブルが滅びて十七年。持ちこたえていた国がまた一つ姿を消したこととなる。
 デルリゲイリアの国境でも兵団崩れの野盗や難民の姿が多く見られるようになり、マリアージュの視察はその地域一帯の状況を確認するためのものだった。
 ひどいものだった。
 至るところで見られる、饐えた臭いの赤黒い染み。踏み砕かれた玻璃。土が崩れて中の藁がむき出しになった家の外壁――多くの集落が浮浪者に襲われて無残な有様をさらしていた。
「アスマこそ、あまり無理をしないでください。頼られるからって何でもかんでも話を聞いていたら、倒れちゃいますよ」
「アタシを心配するようになるなんて、大人になったねぇ? ダイ」
「からかわないでくださいよ。本気で心配してるんですから」
「わかってるよ。ありがとう」
 ぐい、と杯の中身を一息に呷って、アスマは苦笑する。
「でも決して他人事じゃぁないからね。ここ最近の……治安の悪さは」
 住まいを追われた浮浪者たちは、最後には王都へと流れ込む。
 それに付随する治安の悪化が現在アスマたちの頭を悩ませている事柄だった。
 帰り、気を付けるんだよ、と彼女はダイに念を押し、空になった高杯の中を果実酒で再びなみなみ満たした。


「一人で街におりて、大丈夫だったの?」
「大丈夫だからここにいるんですよ、ティティ」
 ティティアンナは茶器と菓子皿を並べ終えると、腰に手を当てて呆れ眼でダイを見やった。
「ダァイ、私、心配しているのよ?」
「わかってます。……なまじ、護衛なんてあるほうが危ないんですよ。城の人たちは雰囲気が違うので、余計に人を触発しちゃいますし。この子で十分です」
 ダイは肩に留まっている鳥の嘴をそっと擦った。正確には鳥の姿を模したアルヴィナの遣い魔だ。彼女が護衛替わりにと貸し出してくれたものである。危険が迫ると周囲を軒並み眠らせる術を行使するらしい。
 もっともこの鳥はあくまで保険だ。裏町の入口から花街までの往復には、ミゲルとギーグが付き添ってくれた。目抜き通りからミズウィーリ家までは馬車を使った。危険なことは何もない。
「ふあああああぁあん……!」
 胡乱な目で烏を見つめていたティティアンナが、背後で弾けた泣き声に慌てて踵を返した。壁際のちいさな揺り籠から急ぎ赤ん坊を取り上げる。
「はいはい、いい子ね、いい子」
「大きくなりましたね」
「そうね、ぷくぷくし過ぎ」
「赤ちゃんなら、それぐらい普通だと思いますよ」
 ダイは微笑ましさに目を細め、ティティアンナにあやされる赤子を見つめた。
 マリアージュが即位してから間もなく、ティティアンナは長年付き合っていた恋人と晴れて夫婦となった。昨年には第一子を出産した。くるくる巻き毛が愛らしい女の子だ。
 ダイがマリアージュの名代として祝いに駆け付けたとき、生まれたばかりの姫君はろくに目も開いていなかった。それがいまや首もしっかり据わって肉付きよくなり、泣いて喚いて己の存在をしっかり他人に主張する。
「抱いてみる?」
 戻ってきたティティアンナが機嫌を取り戻した娘をダイに差し出した。
「いいんですか?」
「もちろん」
 両手を伸ばしたダイの肩から、遣い魔が窓際へ移動する。鳥の影に驚いた様子もなく、赤子は大人しくダイの腕に収まった。
「かわいい」
 赤子は親指をしゃぶりながらダイを興味深そうに見上げている。楽しそうに笑う顔を見る限り、嫌われていないようだ。
(マリアージュ様も、会いたかっただろうな)
 ダイの主人は政務に追われてティティアンナの長女と対面していなかった。ミズウィーリ家の使用人たちの中から誕生した新しい命をマリアージュが喜んでいたことを知っている。他ならぬ彼女が里帰りついでに赤子の成長を確かめてこいと命じたのだから。
「なんだか、寂しいわ」
 ダイの隣に腰掛けて、ティティアンナがぽつりと漏らした。
「マリアージュ様が女王になられて……それはすっごく嬉しいことだったんだけど、遠い人になってしまわれたわね。私、あの人のお傍近くで働いていたのよね。すごくすごく、昔の事みたい」
「もう少し落ち着いたらマリアージュ様もこちらに静養に来られますよ」
 マリアージュは即位一年を過ぎたばかりなのだ。世情を抜きにしても、やるべきことは山積している。のんびりと骨身を休める暇はない。
「そのときはティティがまた世話役です。そんな寂しいこと言わないでください」
「うん。……おかしいね。こんな風に思うなんて。昔はあーんな我儘で癇癪ばっかり起こして私たちを振り回してばかりの人、どこかへいなくなればいいって思っていたのに」
「ティティ」
「なんだか、遠いね。近寄りがたくなってしまって、マリアージュ様の声が聞こえなくなってしまった」
 ティティアンナはダイの腕の中で笑う娘の小さな手に指を絡めた。
「マリアージュ様は……陛下は、どんな国を、この子に用意してくださるつもりなのかな」


 城に戻ったダイは手早く身支度を整えた。化粧品を補充し、道具に欠けがないか確認して、マリアージュのもとへと向かう。昨日の昼に仮眠していたとはいえ、夜通し起きていたためか身体が怠い。しかし目は不思議と冴えていた。
(遠い、か)
 近頃、マリアージュの周辺で耳にすることの多い言葉だった。
 遠い。何を考えているかわからない。年末の視察についても、諸侯や特派員たちの報告を待てばいいものを、わざわざ危険な土地に出向くなど、正気の沙汰ではないと散々言われた。
 城内の空気が、少しずつ、軋みはじめている。
「おや、これはこれは……遅い出仕ですな」
 ダイの姿を認めた文官が慇懃に頭を下げる。ダイも足を止めて会釈を返した。
「お休みをいただいていたものですから」
「それはこのお忙しい時期に……化粧しかしないのであれば、お休みもさぞや取りやすいでしょう」
「そうですね。あなたよりも取りやすいかとは思います。それでは、失礼いたします」
 ダイは背筋を正して歩き出した。
 言われずともわかっている。ダイに出来るのはせいぜい化粧を施すことと、頑なになるマリアージュと周囲の関係の潤滑油となることぐらいだ。マリアージュの話を聞いて、補足し、時には穏便な言葉に換えて伝える。
 女王の機嫌が傾くと官たちはダイによく泣きついた。癇癪を起した主人の前にダイを押し出していたかつてのミズウィーリ家の侍女たちのように。
 執務室に到着すると宰相であるロディマスと数人の執政官が書類を裁いていた。ただマリアージュの姿は見られない。
「あぁダイ、帰ってきたんだね」
 宰相の席に着いたロディマスが睨んでいた書類から面を上げた。
「ロディ、マリアージュ様は?」
「うん。休憩している」
 ダイは女王の仮眠室となっている隣室を一瞥した。
「そっちの部屋で?」
「いいや」
 ロディマスはゆるりと頭を振った。
「お部屋に戻られたんですか?」
 そういえば常にマリアージュといるはずのアッセの姿もまた見えない。
「違う、外だよ」
「外?」
 立ち上がったロディマスは、窓辺につま先を向けた。ダイは彼の下へと歩み寄り、その視線の先を隣から覗う。
 彼が見つめていた場所は、王城裏手の丘だった。


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