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間章 枝葉を広げる 2


 ミズウィーリ家の本邸。マリアージュの居室。使い込まれた長椅子に腰掛けて、ロディマスがマリアージュに説く。
「ミズウィーリ家には定期的に顔を見せにくるべきだと、僕は思うよ。女王の傍近くに侍る機会はなるべく与えたほうがいい。それがこの屋敷の者たちの誇りになるんだからね」
「ロディマス。私は孤立せずにいるためにはどうしたらいいかと訊いたのよ」
「だから、ミズウィーリ家がその第一歩だよ。ここは君の最後の砦なんだ。ここの者たちに見放されるようなことがあってはならない。有事の際に君の手足となって動いてもらうのはここの者たちだろうから。……あまりしたくない想像だけどね」
 幼いころからマリアージュを育ててきた家人たち。マリアージュにとって最も信に足るものたち、と、しなければならない。
「家人であっても、長らく放置していれば君への情は薄れる。今、ミズウィーリの者たちにとって君は遠い存在となってしまったようだ。そう、僕はダイから報告を受けている。いろいろ思うことあって離れていたんだろうけど、改めて関係を結び直しておくことは大事だと思うよ。ということで、僕はダイや伯母上と相談して、一計を案じたわけだ」
「一計ね……」
 ロディマスもよく言う。説得はほぼダイ任せであったくせに。
 マリアージュは眉根を寄せて長椅子の背に重心を預けた。
「それで? あとは何をたくらんでいるわけ? 別にミズウィーリでのんびり休暇をってわけでもないんでしょう?」
「ご明察。よくわかったね」
「狸やら女狐やらばかりを相手にしていれば、あんたの顔色だってわかるようにもなるわ。……貴族たちにでも会えっていうんじゃないの?」
「ふむ。……どうしてそう思うんだい?」
 回答としては間違っていないと、ロディマスの顔が告げている。マリアージュは長椅子の脇息を指でととんと叩きながら、頭を回転させた。
「……私と会うことが褒賞になるなら……貴族たちにも同じことが言える。……私を支持した者たち……彼らに、どうしたら利益を提示できるか……。私の問いに対する回答が、これってことなの?」
 クラン・ハイヴより戻ってからこっち、執政官たちはマリアージュへの反発を隠さなくなった。マリアージュは彼らに苦難ばかりを強いるから。その先にある利潤を示せてはいないから。
 デルリゲイリアの女王は王城の官たちと結びつきが薄い。それは王と国政の過度な癒着を防ぐための、この国の独特な機構によるものだという。王の専横な振る舞いを諌めることにもつながる。しかし今の状況ではマリアージュひとりが躍っているようなものだ。
 あの、雷雨の夜。
 そしてペルフィリアでの一件。
 マリアージュは他国からの侵略の手を肌で知っている。戦わなければ、と、思う。
 一方の国の官たちの多くは他国におもねれば平和だと思っている。危機を覚えていない者を動かすためには見返りが必要だ――レイナ・ルグロワのように。
 ただし、彼女は帰り際に流民の問題について考えるとは、言った。
『マリアージュ様たちに、ご迷惑をおかけしたお詫びに』
 そのレイナの言葉がはたして真意からのものかはわからないけれども。
「君に会うことが皆の利益。……半分だけ正解かな」
 紅茶をひと啜りして、ロディマスは続ける。
「君に味方することには旨みがあると思わせる第一歩が、接見だ。君がクランに行っている間に僕も反省したよ。君は、というより、僕らは、君を支持した者たちに礼をする機会すらきちんと設けていなかった。君への不満や批判的な態度は、そういったところからも来ていたんだ」
 マリアージュは女王選を経て即位した。後ろ盾となったガートルード家一門を筆頭とする者たちへの謝礼はもちろんした。けれども、ひとりひとりと会って、意見を汲み取るような場はいまだ設けていない。あの頃は――女王選出の儀の帰途に暗殺されかけたこともあり、ミズウィーリ家の代行が“誘拐された”という事情もあって、諸侯との接見に制限をかけていた。
 マリアージュの不在を狙い澄ましてか。彼らの不満が噴出したとは聞いていた。ルディアがその対応に追われたとも。そのときのことを思い返しているのだろう。ロディマスは渋面だった。
「元々、君のクラン行きを決めるときに、諸侯との接見の回数を増やす話はあったんだ。あのときは君の体調もよくなかったし、外遊の支度もあったから後回しになってしまった。けれど、いい機会だ。せっかく城から出たんだ。茶会に晩餐会、色々と催して、諸侯との交流を計ろう」
 すでに招待状を方々に送ったらしい。予定は安息日までみっちりと詰めたよ、と、宰相は微笑んだ。
 マリアージュは畳んだ扇の先を眉間に押し当てて、ため息を吐いた。
「女王選の前に逆戻りね」
「それは違うよ、陛下。女王選は女王として活動するための事前訓練なんだ。……今はそう思える」
「ダイもそんなこと言っていたわね……」
 確か、ペルフィリアで。
 会話の盛り上げ方について話題を振ったときだ。ダイは言った。そういったことは女王選でうんざりするほどしてきている。あの頃のようにすればよい、と。
「あの女王選には女王として必要な資質がすべてあらわになる」
 空になった茶器を円卓に置きながらロディマスが言う。
「社交能力。情報の収集能力。それから、有能な人材を、惹きつける能力」
「最後はあなたのことを言ってるわけ?」
「もちろん。と、言いたいところだけど。……君の場合はダイかな」
 意外な名を挙げられてマリアージュは目を瞠った。国内では彼女への賞賛を久方ぶりに耳にした。
「単なる化粧師って、あんたは言わないのね」
「普通の化粧師ならね、あれだけ周囲からの非難にさらされていたら、心が折れるよ」
 ロディマスが目をダイへの憐憫に曇らせる。
「女王は国に必要だ。けど、顔に化粧をするだけなら女官で事足りる。不要だと言われ続けてなお、君の傍に在り続けるその忠誠心は、驚嘆に値するし、国章にふさわしい、と、僕は思っている。……そんな、有能なだけじゃなく、ゆるぎない忠誠心を持った人材を得られる。それこそ女王選であらわになる、女王の資質だよね」
 女王選の候補者たちはそれぞれ芸人を取り立てる、が、下手をすると上位の候補者から引き抜かれる。
 他家からの誘惑を撥ね退けて、人材が残り続けるか否か。それを女王選は問う。
 マリアージュは改めて宰相を見た。彼の言い方はマリアージュには王たる資質が備わっているのだと主張しているように聞こえる。
「……意外に私のことを買っていたのね、ロディマス」
「僕は君に票を投じたんだよ、マリアージュ・ミズウィーリ」
 ロディマスは心外だと言わんばかりに口元を歪めた。
「エヴァが……妹が儚くなって女王選出の儀が執り行われることになり、僕に自分から接触を図ってこなかった女王候補は君だけだった」
「女王候補じゃなかったからじゃないの?」
「候補者になった後も、だよ」
「あの頃は――女王になんて、なりたくなかったのよ」
 マリアージュは椅子の背に重心を預けて虚空を眺めた。
 女王の継嗣であったエヴェリーナ。ロディマスとアッセの妹。上級貴族の末席で社交の席にほとんど顔を出していなかったマリアージュに王女との面識はない。彼女が流行病でまぼろばの地に旅立ったと耳にしたときも他人事も同然だった。
 女王候補となってもしばらくはその座に興味がなかった。自分を玉座に押し上げようと必死だった“あの男”を心底馬鹿にしていたものだ。
(いまさらだけど、どうしてあいつ、私なんかを女王にしようとしたのかしら)
 ペルフィリアが魔の公国に代わる覇者となるために領土を広げたかったのだろうと、ロディマスは推測した。
(……だけどやっぱり変よね……)
 とるにたらない隣国を併合するために宰相をひとりで送り込む。正気の沙汰ではない。だがそれ以上に。
 なぜ、マリアージュだったのか。
 それがわからないのだ。あれほどの才覚を持つあの男なら、カースン家でもベツレイム家でもホイスルウィズム家でも、それこそガートルード家でも、容易に入り込めただろうに。
「マリアージュ?」
 思考に没頭するマリアージュを訝しんでロディマスが呼びかける。
 マリアージュは我に返ってロディマスを見返した。彼はやさしく微笑んだ。
「誰が考えたのかはわからない。けれども本当によくできているよ、女王選は。……それを通じて選ばれたんだ。自信を持っていい」
「……自信ね」
「真剣になればなるほど、壁には突き当たるものさ。……と、いうことで、色々と立ち行かなくなっている今は、初心に帰ろう。……よろしいですか? 陛下」
「よろしいですかもなにもないでしょう」
 こちらの預かり知らぬ間に根回しをしておきながらよく言う。
 マリアージュは生温い視線をロディマスに投げた。
「……予定表や招待客の詳細は早くこちらに回して。特にダイは化粧と衣装のことがあるの。その点を細かく報せなさい」
「承知しておりますとも」
 そこでロディマスは、はた、と動きを止めた。瞬いて、周囲を一瞥する。
 マリアージュは冷めかけた紅茶を円卓から取り上げて、妙な動きをする宰相に問うた。
「何してるの?」
「……そういえばダイの姿を見ないな、と。……使用人棟かい?」
 マリアージュは呆れてロディマスを見た。
「知らなかったの? 半休を取ってるわよ」
「休み?」
 宰相の問いに、そう、と、首肯して、マリアージュは茶器に口を付ける。
「帰省しているの」


 アスマの書斎の円卓に革箱が置かれている。
 内部に布を張った箱の底に並ぶ化粧筆は八本。山羊の毛の先端を丸く揃えた大振りの筆は白粉を叩くときに使う。ひと回りほど小ぶりな筆は頬紅用。大きさは同じだが、毛先を斜め切りにしたものも誂えた。こちらは下まぶたの際などの細かい部分に粉を載せる折に用いる。まぶたに色を注す細筆は仔馬の毛。しなやかで丈夫だという。
 それらをダイは順番に箱から取り出した。柄の重量と長さ、握りやすさを確認する。筆先の肌当たりの良さは手の甲や顔に押し当てて確かめた。
(どちらも問題なし、と)
 元同僚の顔師から色板を借り、新しい筆で芸妓の化粧を直す。毛の粉の“含み”はもちろん“離れ”もよい。肌に艶やかに色が乗る。紅筆はふた筆ほどでくちびるをむらなく彩った。口角に色だまりすることもない。
 ダイは布で色を拭い、筆を箱に再び収めた。
「……大丈夫だと思います。ありがとうございました」
 筆の試用を見守っていた職人が安堵の息を吐いて笑顔を見せた。
「よかった。しばらくお前と会ってなかったからな。お前の癖に合う筆になったか心配だったんだ」
「杞憂ですよ。相変わらずいい仕事ですね」
 元々は父の絵筆を設えていた職人だ。裏町の一角に工房を構えている。ダイの化粧筆はずっとこの男の作だった。
 最後に化粧筆を発注して、二年ほどが経過している。クラン・ハイヴで毛先が黄砂によって傷んだこともあり、新調することにしたのだ。
「支払は為替でいいですか? 額も大きいですし」
「あぁ、よろしく頼む。……本当に結構な額だが、払えるのか? お陰でこっちは材料に糸目を付けずにすんだが」
「仕事場の経費で落としてもらえることになったんです。足りない分は私持ちですけど」
 と、説明してはいるものの、実際は全額自腹である。大金を持っているという噂が広まっては困る。
「劇場だったか。お前の新しい仕事場」
 為替に署名する手を止めて、ダイは職人に微笑みかけた。
 基本的にダイの職場は遠方の劇場として周知されている。ダイが壁向こう――貴族街にいると認識している者は少数で、女王の側近であることまで知っている者はアスマだけだ。
「いいとこなんだろ。よかったな。エムルも喜ぶ」
 父の名を、久方ぶりに耳にする。
「ありがとうございます。……こちらが代金です」
「こちらこそありがとう。忘れられていなくて嬉しかったよ」
「忘れませんよ。……また頼みます」
 仕事があるからと退室する職人をダイは扉口まで見送った。廊下の角を曲がる背を確認して扉を閉めて踵を返す。
「……あいつってばあんたのことずいぶんと心配していたんだわさ」
 長椅子に腰掛け、膝の上に頬杖を突いて、ミゲルが言った。
「こっちに下りてきてもここに来るぐらいだしねぇ」
「あんまりうろうろできない身分ですしね。今日もアッセ……護衛の人と一緒ですし」
 多忙な中をダイの帰省に同行してきたアッセは壁際に身じろぎひとつせず控えている。彼を見てミゲルは笑った。
「そりゃそうなんだわ。ちゃんと守ってもらうんだわ。でないと、うちの店みたいなことになるからね」
「笑いごとじゃないですよ……。でも、お店が元に戻ってほっとしました」
「完璧にって感じじゃあないさね。あんたの依頼をこなすには、訳ないけど」
 ダイは筆の箱を脇に避けると、ミゲルが持参した箱を開けた。中には整肌に用いる薔薇水、蜜蝋、乳液が並んでいる。
 ロウエンとアリシュエルの件に巻き込まれて破壊された店もいまは営業を再開している。ミゲルには化粧品の予備を発注していたのだ。
「助かりました、ミゲル」
「貴族抱えのほうからいいもの揃えたつもりだけど、正直、アルヴィナが作っているものの方がいいと思うんだわ。……彼女は? 一緒にお嬢さんとこで働いてるんじゃないのかね?」
「ちょっと休暇を取っていて留守なんですよ」
 クラン・ハイヴで解けてしまった《魔封じ》を掛け直すためだ。遠方に専門の人間がいるらしい。あれほど多様な魔術を使いこなせても、《魔封じ》だけは他人の手を要するのだという。
 ダイがクラン・ハイヴでアルヴィナに施した術の真似事は、幸いにして不完全ながらも作用したようだ。アルヴィナはすごいすごいとやたら褒めてくれた。訓練次第では魔封じを洗練させることもできるらしく、また手伝えるならとダイが申し出たとき、アルヴィナは嬉しそうにしていた。ただ、ダイが今後に魔術を使えるという話ではないようだ。
『魔封じばっかりはねぇ……。魔術とはまた別の才能なんだよね。高位の魔術師でもまぁったく駄目っていうことも多いし。術の需要もほとんどないから、できるひとも指折り数えられちゃうしね』
 アルヴィナが訪ねている術者も本業を別に持っている。即座に対応してもらえるというわけでもないようだ
 彼女いわく、ひと月は掛からないとのことだが、いまもって、帰城の日取りは明確ではない。
 ダイは入城して以来、マリアージュの化粧品をアルヴィナの作成に頼っていた。その品質がよかったからこそだが、慣れたものから変更したくなかったのだ。
 しかし彼女が不在とあっては化粧品の類を別から調達するしかない。
「……思ってたんだがな、ダイ。ミゲルを頼ってもいいが、それはまずくなかったのか?」
 ミゲルの付き添いとして同席していたギーグが口を挟む。
 ダイはきょとんと瞬いた。
「まずいって、何がですか?」
「ううん……なんていえばいいんだか」
 眉間に皺を寄せ、黙考したのち、ギーグが述べる。
「お前のご主人、いいとこの、お嬢さんだろ?」
 ギーグは彼の革の工房でマリアージュに会っている。ダイが貴族側で仕事をしていることも知っている。
「それならお抱えの商人か……職人の伝手とか。あるんじゃないのか?」
「あー……。どう……なんでしょう」
 ミズウィーリ家専属の商人はいたし、王城にもしかり。個人の好みが反映されやすい装飾品や衣装においては、その商人たちを通してひいきの職人に依頼する。が、ミズウィーリ時代から化粧品の入手については指定を受けたことがない。
「私の化粧の仕方がすごくめずらしいみたいなことを最初に言われました。化粧をすること自体、あんまりいいことじゃないって」
「化粧自体がいいことじゃないなら、お前の仕事もなくなるんじゃないか?」
「いえ、今はそんなことはなくて。化粧するひともかなり増えてるって聞いています」
 女王選の頃から化粧の評判は上々だった。マリアージュが即位してダイを《国章持ち》に据えてからは、若華やかな色味を目元や口元に乗せることが、若い女子の間で流行るようにもなったらしい。
「それならお前の必要なもんを揃えられる伝手も壁向こうにあるだろ。そりゃあ裏町まで下りてきて発注するのももちろん歓迎だがな。もともと専属の商人やらすっ飛ばすのは、やっこさんの心象悪くならないか?」
「あぁ……そうですね……」
 ダイは机の上に並んだ品々に視線を落とした。
(考えたこと、なかった……けど)
 ギーグの指摘は正しい。
 ダイは《国章持ち》だ。ダイが職人と耳にした城の出入りの商人たちは、仕事に必要な道具を売り込みたかったろう。
「今回のもんをこっちで引き取るのはかまわないさね」
 木箱の中を瓶を指差して、ミゲルがダイに提案する。
「売りどころは見つけられるだろうし」
「いえ……今回はこちらをもらいますよ。改めて探すにしても、すぐに、とはいかないでしょうし」
「まぁ、一度はあっちで探させてみて、納得できるもんが出てこないなら、お前の自由にすればいいだろ」
 ギーグが神妙な表情で、声音を低めて忠告する。
「けどな、商人は味方に付けておいたほうがいいぞ。職人なんてもんは、商人たちに干されたら終わりだ。あいつらからの評判で、いい職人か悪い職人か決まっちまう部分が大きいんだからな」


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