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間章 枝葉を広げる 1


 交差する巨大な古木の真下でまばゆい光が放たれる。
 木々の幹を取り巻く乳白色の霧がたちまち慄いたように退く。魔の燐光が踊り狂いながら、遺跡の起動を知らせる。
 はたして、主君は三人の臣下を従えて現れた。
「おやおや。ずいぶんなお顔をしていらっしゃる」
 グザヴィエは顎を撫で、王たる女に声を掛けた。彼女が外出から戻るとき、常なら満ち足りた様子を見せるのに、今回は妙に不貞腐れた顔だ。
 指摘された王は鼻の根の皺をますます深くして、足早にグザヴィエの横を通り過ぎた。
「何もないよ」
「さてさて。それはのちほどセイスに……いや、三人に訊いたほうがよいようですな」
 女王に就いていた魔術師団長、彼女たちを呼び戻しに向かった筆頭外務官にその副官。三人ともが神妙な表情を浮かべている。
「いいの。それよりも、火急の要件って何よ? そろそろ戻るつもりだったけど、もう少しはのんびりできるはずじゃなかった?」
 王は異国で市井に混じって羽を伸ばす傍ら、定期的に接触していたファビアンを通じて、急な裁可を要するものはきちんと処理していた。城でかならずしもしなければならないようなものは、しばらくはない――はずだった。
「おっしゃる通りです。……が、状況は変わりましたのでな」
「どう変わったの?」
「ファービィから聞かれませんでしたか」
「何も聞いてないけれど?」
「陛下が悪いんだよ。僕は話があるって何度も言ったのに、耳を貸さないんだから」
 珍しく機嫌を傾けているらしい筆頭外務官は口を尖らせて主張した。グザヴィエが真偽を問うてセイスに目を向ければ、彼もまた苦虫を噛み潰した顔をしている。
「ファビアンが正しい。悪いのはルゥナだ」
「ふむ。まぁ、説教は後回しにして、用件を先にお伝えしましょうか」
 もったいぶって、と、睨む王に、グザヴィエはからからと笑い、真顔に戻って報告した。
「招待状が届いております」
「招待状?」
「えぇ、そうです。前代未聞ではありますが……」
 もったいぶりながらグザヴィエは女王に告げた。
 旧メイゼンブル公国、小スカナジア宮にて行われる大陸会議に参加せよという、クラン・ハイヴ主導の招集についてを。


 城の朝は早い。早番の者たちは地平が白み始める前から起きだし、各々の業務に取り掛かり始める。
 そのさやさやと動く人の気配を蹴散らすように、乱暴に扉が叩かれた。
「ダイ、ダイ、起きてください。ダイ」
 早鐘のように響く叩扉の音と焦燥の滲んだ起床を促す声に、ダイは慌てて布団を跳ね上げた。上着に袖を通して扉に跳び付くと、廊下で狼狽の色を浮かべた女官が息を切らしていた。マリアージュに侍る女官のひとりだ。今日は早番を割り当てられており、女王の朝の支度を手伝っていたはず。
「何事ですか? マリアージュ様に何か?」
「そのまさかですよ……。お願いです、ダイ。すぐに着替えて来てください。ユマだけでは抑えきれないの」
 ダイは了承の意だけを示して急ぎ踵を返した。衣服を着替え、整髪もそこそこに、化粧鞄を提げて女官と廊下を駆け抜ける――……。
 マリアージュが何かとんでもない癇癪でも起こしているのかと思えば、だ。
「……服を自分で着替えたい? そんなことでこんな朝っぱらから騒ぎを起こしたんですか?」
 長椅子の肘置きに身体を伏せて視線を逸らす主君に、ダイは心の底から呆れた目を向けた。
「騒ぎなんて起こしてないわよ。ユマたちが騒いでいるだけよ」
「ユマたちを困らせることが問題なんですよ! 大人しく着てください!」
 マリアージュとダイを除き、人払いした寝室には数着の衣装が拡げられている。ダイは寝台の縁から零れ落ちる絹地の裾や、袖口に縫い付けられた透かし織りを一瞥した。下着で身体を補正し、他人の手で着つけられることを前提とした衣装だ。
「そもそもひとりで着られるものじゃないんですから。マリアージュ様の衣装は」
「ひとりで着られないの? ……ダイでも?」
「もちろんですよ。私はそもそも女物が得意じゃないですし……。女官たちでもひとりでは着られません。諦めてください」
 ダイの説明にマリアージュはまだ納得のいかない様子だ。口先を尖らせて唸っている。
 ダイはやれやれと頭を振った。
 マリアージュの奇怪ともとれる行動は、何も今朝に始まったことではない。クラン・ハイヴから戻ってきてこっち、その兆候はしばしば見られているのだ。
 エスメルの辺境で出逢ったドッペルガム女王フォルトゥーナの言葉には反発こそ覚えたが、考えさせられるものがあったらしい。エスメル市を経由してルグロワ市に合流。市長のレイナに保護されていた自国の官たちと再会して、デルリゲイリアに戻ってようやっとひと月。留守中に積み上がった仕事を処理するために奔走していた誰もが徐々に落ち着き始めたころから、ダイは女官たちから、あるいは文官たちから、ちらほらと報告を耳にするようになった。
 曰く、マリアージュが食器を提げる女官に付いて歩こうとする。
 曰く、マリアージュが書類を運ぶ文官の後に付いて歩こうとする。
 そしてマリアージュ自身にもこなせそうだと判断すれば、手を出そうとする。
 ロディマスの監督の下、相当な量の政務を積み上げられている手前、マリアージュとて常に官たちに付きまとっているわけではない。が、非常に恐縮する。正直に言って邪魔だ。一連の行動をやめさせてくれ。
 ことさら遠回しな表現を用いた苦情がここ十日ほどダイに寄せられていた。
「よろしいですか、陛下」
 ダイは丁寧に前置いた。
「フォルトゥーナ女王に対抗心を燃やしたくなるのはわかりますけれど、陛下にまず必要な能力は国政を掌握する力です。優先順位を間違えないでくださいよ」
「そんなことはわかってるわよ、言われなくても」
 マリアージュの片手が伸びてダイの頬をうにっと摘まんだ。
「だからロディマスに突っ込まれている書類は全部目を通しているでしょう。……これ以上、どうしろっていうのよ。執政室長は聞く耳を持たない。質問に回答を寄越さない。他の執政官たちだって私との接触を避けているわ。次に異国を連れ回されて、荒野の只中に放置されてはたまらないってね」
 外交の経験を積ませるために文官たちをクラン・ハイヴへの旅へ同行させた。結果、昨年のペルフィリアのときよりも心に痛手を負って帰るものが後を絶たなかった。ペルフィリアで監禁されたときはわずか三日間で、マリアージュもロディマスもいた。今回は一団の旗頭たるマリアージュが行方不明の状態で、ルグロワ市に半月近くもの滞在を余儀なくされたのだ。
『レイナの我が侭がマリアージュ様やダイを危ない目に合わせてしまって、本当の本当に申し訳なくて』
 と、ルグロワ市で再会したレイナは涙ながらに訴えた。
『デルリゲイリアの皆様にはマリアージュ様とダイの安否がわかるまで、何の憂いもなく過ごしていただくようにすることしか、レイナにはできなかったの……』
 ごめんなさい、と、瞳を潤ませるレイナからは、近習のシーラにダイを襲わせたそぶりは微塵も感じられなかった。レイナは確かに宿泊先と食事をきちんと提供してくれてはいたようだ。しかしマリアージュに付き添った官たちが自由な外出もままならず、デルリゲイリアの内情を知るために先方の役人が連日押しかける状態に長く置かれたことに変わりはない。嫌気がさす気持ちもわからないではなかった。
「こんな状態だと逆にいつ私が更迭されるかわからないわ。……私の方こそ荒野に放り出される可能性が高いのよ。その前に首を落とされるほうが早いでしょうけれどね」
「冗談でもそういうことはおっしゃらないでください! ……それで身の周りのことぐらいは自分でできるようになりたいと?」
「……そういうわけじゃないわ」
 マリアージュの表情から察するに、己の世話を自身でできれば損はない、とは考えているのだろう。だからこそ隙間の時間に周囲の官の仕事に手を出そうとする。
 しかしマリアージュは生粋の、しかも上級貴族の生まれだ。世話をされることを前提に生まれ育った。その矜持が「自分で身支度をする方法を教えろ」という命令を下すことを自身に許さない。「してみたい」などという中途半端な言い方になる。
「……私たちがどんなふうに自分の面倒を見ているのか。マリアージュ様が興味をお持ちなのはわかりました。あと執政官たちとの関係をどう保てばいいか、頭を悩ませているのかも」
 女王の命令に従わぬ者がひとりふたりなら罷免するだけで事足りる。が、現在は大多数がマリアージュに反抗的であり、且つ、城の機構を熟知したものたちを手放すわけにはいかない。仮に実行すれば、国政は瓦解し、デルリゲイリアはたちまち荒廃の餌食となる。
「……ということで、提案があります、マリアージュ様」
「提案……?」
 胡乱な目を向ける主君にダイはにっこりと笑った。
「ミズウィーリのお屋敷に、帰りましょう」


 ダイがマリアージュに生家への帰省を勧める理由はいくつかある。
 まず、ミズウィーリの屋敷でならばマリアージュが衣服の着付けを練習することが可能な点だ。
 王城で己の身支度の訓練をすれば、気狂いではと女官文官以下城仕えたちに噂される。だが生家であれば使用人たちに黙秘させればよいだろう。彼らもわざわざ己の主人の評判が落ちる話を他家にはするまい。
 もうひとつは、ダイの問題だ。
 ペルフィリアでは梟に誘拐されて、ルグロワでもシーラに攫われかけた。次に何があるとも知れない。だから護身術を習いたい、と、ダイはアッセに依頼したのだ。
(……あのひとも、武器の扱い、習っているみたいでしたしね……)
 ペルフィリアの宰相は短剣を使っていた。かなりの修練を窺わせる動きだった。
 川に落下した後のようにアルヴィナの遣い魔がいなくなる可能性もある。とにかく、撃退までにはいかなくとも、逃走する、その隙を造り出す、程度のことはしたい、と、ダイはアッセに申し出た。
 ところが彼の返事は否だった。ルグロワでダイが襲われたことは騎士たちの失態だし、護衛を当てにしていないと公言するように訓練することは、城では憚られるらしい。
 アッセの屋敷なら、と、尋ねたが、返答は不可だった。彼いわく、性別が女のダイを公的な理由もなくひとり屋敷へ招く真似はできないそうだ。色々な問題があるという。
 マリアージュの帰省に護衛として同行するなら、任務の休憩時間に遊びというかたちをとって、アッセはダイに護身術を教えられるのだという。
 ということで、ダイはぜひともマリアージュに帰省してもらいたい。
 そして、最後の理由は――……。
「……ダイがどうしてこんなにミズウィーリに帰れってうるさいかと思ったら……」
 ミズウィーリ家の玄関でマリアージュが苛立たしげにこめかみを抑えた。
「あんたの差し金だったわけね。ロディマス」
 アッセとよく似た面差しの宰相はマリアージュに微笑んだ。
「差し金じゃなくて、ルディア様と僕とダイの相談の結果だよ」
「ダイ」
 マリアージュが恨みがましく呻いた。背後に蛇のようにうねる瘴気が見える。正直、怖い。
「なんですかなんですか。皆でマリアージュ様がどうしたら自由にしたいことをできるか、考えた上での話じゃないですか。マリアージュ様に不利益はいっさいないはむぐっ」
「……ロディマスと何か企んだときは私にきちんと報告するのね。次はないわよ」
「ふはひふはひふはい(いたいいたいいたい)」
 くちびるを力の限り摘まみ上げられた。マリアージュの指先の剛力は健在だ。以前から不思議だが、彼女の細腕のどこにこのような力があるのだろう。
「ダイの言っていることは本当だ、陛下」
 痺れる口を覆って蹲るダイの前に、苦笑いするロディマスが立った。彼はマリアージュに告げた。
「君がしたいことをすべて叶える場所がここだったから、城から誘い出したにすぎない」
「私のしたいことって何よ?」
「有事に自分の世話ができるようになることと、城での孤立を含む、君が僕に相談してきた諸々の解決。……詳しいことはあとで話そうか。とりあえず、君を総出で出迎えた者たちに何か言うことは?」
 ロディマスがマリアージュの右手に避けて道を開ける。ダイは立ち上がって主君の隣に並んだ。
 玄関に勢ぞろいしたミズウィーリの使用人たちを見る。
「お帰りなさいませ」
 彼らの中央、車椅子に腰かけた侍女頭が丁寧に頭を下げた。
「このようなかたちでお迎えに参りますこと、お目汚しとは存知ますがお許し頂きたく」
 ミズウィーリに勤め始めたばかりのころのダイにとって、ローラ・ハンティンドンの身体裁きは生ける教本だった。彼女はいつだって廊下をきびきびと歩いていた。今の彼女は立ってマリアージュを出迎えることすらできない。
 女王選出の夜、ローラは下腹部を刺突されると同時、転倒のしたときに腰部を強打した。以来、自由に歩くことのままならない生活を送っている。
 報告はしていた。が、実際に今のローラの姿をマリアージュは初めて目にしたはずだ。
 マリアージュが表情を沈ませる。
「……無理に来る必要はなかったわ」
「陛下のお姿をひと目なりとも拝見いたしたいとのわたくしの我が侭にございます」
 ローラは面を伏せたままだ。彼女に倣ってか、ほかの使用人たちも頭を垂れている。彼女たちを見つめるマリアージュは複雑そうな面持ちだった。
 マリアージュ自身にミズウィーリの館に戻る意志はなかった。せめて館の者たちが誇れる女王になってから、という思いを彼女が抱いていたことを、ダイは知っている。
 立派でなければ責めや呆れの目を向けられる。使用人たちから忌避されていたころのように。そのように思っていたのかもしれない。
 だから――使用人たち皆が、マリアージュの訪れを心待ちにしていた様子で、ひとりとして欠けることなく整列していることに、彼女は戸惑っているのだろう。
「褒めておやりよ、陛下」
 腰に手を当てたロディマスは本館全体を仰ぎ見てマリアージュに囁いた。
「長らく君の姿がないなかで、いつ君が戻ってもよいように、この館は君がいたころと変わらず保たれている」
 ロディマスの言は正しくない。変わった部位はある。
 門の柵や煉瓦には、雨だれの跡、色むら、錆、欠け、いっさい見当たらず。馬車回しまでの道の両端を飾る花壇は瑞々しい季節の花々で満たされ、木立も剪定を受けてきちんと整えられていた。掃き清めた上で磨き抜かれた玄関の床。扉の取っ手は鍍金して磨き直したらしい。陽光を控えめに反射している。よくよく見れば窓の桟に至るまで、女王選の折には手が回らず放置されていた細かな部分まで含めて、修繕と研磨が施されている。
 マリアージュが暮らしていたころ以上に、彼女がいつ帰宅してもよいように、清潔に、うつくしく、保善された、ミズウィーリの館。
「ローラ。……それから、キリム」
 ローラの隣に控えていた執事長が、マリアージュに名を呼ばれて、はい、と短く応答した。
 キリムはマリアージュに代わって今のミズウィーリの館を管理している。ミズウィーリ家の領地の管理も彼の補佐が欠かせない。
「皆も……私が不在の間、よく館を守ってくれているわ。……感謝します」
 ぐ、と、誰かが息を呑んだ。ダイは使用人たちを見つめた。わずかに面を上げた幾人かの目は潤んでいるようだった。
 マリアージュの気は長いとはいえない。簡単に頭に血は昇るし、ダイに八つ当たりすることも多い。突飛な考えで周囲を振り回すこともしばしばだ。
 けれどもかつてのすぐに癇癪を起こしていた少女ではない。マリアージュは忍耐を覚えたし、恩義の駆け引きも知っている。家臣たちの貢献も今は理解する。
「戻りました。今日よりしばらく、よく私に仕えなさい」
 マリアージュの言葉にキリムが震えた声で応じた。
「お帰りなさいませ、マリアージュ様」
 ミズウィーリの皆が唱和する。
『お帰りなさいませ』
 温かく響いた歓待の声に、マリアージュの表情が緩んだように見えたことは、ダイの気のせいではないだろう。


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