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4.

 僕の周りの空気だけ、澱んでいるみたいだ。
 気落ちしている僕の心は、まるで体から抜け出してしまったみたいに今の僕の様子を客観的に眺めている。ふっと天井を見上げたら、僕の魂がぷかぷか浮いていても可笑しくはない。まぁソレぐらい、今の僕は心あらず。上手くいきかけていたアルバイト先では、辛うじてクビは免れたものの、大失態を演じてしまうし、ジャムキッズではステップを頻繁に踏み間違える。
 唯一の救いは、ダンスよりも楽器の練習のほうが多くなっていたことだった。昔とった杵柄とでも言えばいいのか、どんな楽器も、おぼっちゃまらしく、一通りはこなせるんだよね。それこそソプラノリコーダーからバイオリンまでね。それはギターだのベースだのっていうものに移っても変わらない。
 傍目にもわかるほど、僕は本当に心あらずだったみたいだ。ジャムキッズのみんな――特に、年長の流――には心配されたし、僕自身もまた、自分の状態に当惑していたりする。ここまで気落ちするとは僕自身思っていなかった。
そんなに、ショックだったのか。
 れんげに拒絶されたことが。
 素朴な花のような笑顔が瞼の裏に浮かび上がる。小さな控えめな笑い。ほんの僅かな時間、一緒にいただけなのに。
 ばたんと、鼻先を掠めて閉じられた扉。一度拒絶されてしまったのなら、僕はもうあの場所に赴くことはできないのだ。
 恋というものがどのように始まるのかしらないけれども。
 どうやら僕は、恋が始まる前に、終わりを迎えたらしい。それだけは、こびり付いた少女の面影を思うだけでわかった。


 恋の葬式を行う暇は、その頃の僕には全くなかった。
 新しいプロジェクトが発表された。ロックバンドグループ、MARIA。次の夏にJ&Mが新しく打ち出す、今までとは少し方針を変えたグループだ。
 人間、何か一つぐらい取り柄は作っとくものだと、このメンバーが発表されたときに僕はつくづく思った。どうやら楽器の腕を見込まれて、僕の名前もメンバーズリストの中に加えられたらしい。このときばかりは、あれこれ小さい頃から習い事に小うるさかった父に感謝した。
 苦手なダンスをしなくていいことに、僕は心底ほっとした。歌も歌わなくていいみたいだしね。
 とにかく、新しく動き始めたプロジェクトの為に、僕の周囲は急に慌しくなった。デビューに向けて、曲の特訓、プロモーションビデオの撮影、宣伝活動。スタジオに缶詰っていうのも、ままあるようになったし、その慌しさが、傷心の僕を救ってくれた。
 オーディションに受かって一年と少し。もしこの企画への参加が許されていなかったなら、僕はきっと尻尾巻いて実家へ帰らざるを得なかったに違いない。体力的にも精神的にも金銭的にも、限界が近づいていたから。
 もしかしたられんげと出逢わなければ、もっと早く逃げ帰っていたかもしれない。そうしてこのMARIAのメンバーに選出されることはなく、父親には馬鹿にされて、敷かれたレールの上に逆戻りだったか、もしくは本当に、どこかの路地裏に蹴りだされていたか。
 考えただけでもぞっとする。タイミングがよかったのだ。
 れんげと出逢えたのは、僥倖だった。本当に。
「おーい創。何物思いに浸ってるんだ?」
「ほっとけ樹。いつものことだろうがあいつが突然立ち止まってうっとりすんの」
「……創ってナルなのか? 匡」
「……そ、そうだったのか。衝撃の事実発覚!?」
「あーのーねぇ……」
 ポスター用の写真撮影を終えたらしい匡と樹の二人を、僕は振り返った。休憩所のソファーがぎしりときしむ。ぽすりと拳をその古いソファーに打ちつけながら、MARIAとして一緒にデビューする二人に憤慨を叩きつけた
「どこの誰がナルだって?」
「うわ聞こえてやんのっ」
 ぎゃはははと笑い声をあげて樹たちが廊下の向こうに駆け出していく。最初は暗く沈んだ表情をしがちだった樹も、ずいぶんと笑うようになったと思う。彼らはふざけながらも僕らに優しく接してくれる。れんげとの出会いが僥倖なら、この出会いもまたそうだ。僕は、少しずつ、前へと歩き始めていることを実感していた。


 忙しくなるにつれて、掛け持ちしていたバイトの数を減らさなければならなくなった。本格的に仕事が始まるのは春。けれどもソレに向けて、スケジュールは既にぎっちぎちだった。デビューするって、こういうことなんだな、と実感する。
 まず辞めようと決めたアルバイトは、スーパーのレジ打ちだった。住宅団地の中にある小さなスーパーマーケットの仕事は、僕が一番長く続けていたアルバイトだ。あれだけ辞めさせるぞ、と脅されていたので、あっさり辞められるだろうと思ったら、意外にも店長が惜しんでくれて。
 ちょっとしんみりした気分で、僕は町を歩いていた。
 今日一日は久しぶりにオフ。仕事が、完全にない日っていうのも久しぶりだ。デビューが決まって、J&Mからお給料も出るようになったし。
 れんげのことを除けば、ばん万歳。
「僕って、意外にしつこいなぁ」
 ため息を一つ落として僕は空を見上げた。僕の勝手な舞い上がりから始まった恋は日の目をみることなく終わってしまって。さっさと心の切り替えが出来る人間だったらよかったのに、僕はそんな器用な人間でもなくて。
 はぁ、と空を阿呆と横切る鴉にため息をついてみせれば、背後からくすくすという笑い声が響いた。
「大きなため息ねぇ」
「うんそうだねー大きなため息だよ」
 嫌になっちゃうよ、と再びため息をつきかけ、僕はうん? と首を傾げた。
 声には、聞き覚えがある。
 思わず僕は振り返った。その勢いたるや、慌てすぎて首がぐきりと音を立てたほどだ。思わず目をこすって、光化学スモッグにやられた目が、幻覚を見ているわけではないのだと確認する。
「……れんげ?」
 呆然と立ちすくむ僕に、買い物袋を提げ、にこりと微笑んだのは、見覚えのあるセーラー服を身につけた少女だった。


「忙しかった?」
「え? うんまぁ……」
 お恥ずかしい。二回目のれんげの部屋の訪問に、僕は少しどきどきしている。れんげの部屋は相変わらず殺風景で、僕が今住んでいるアパートと同じ、貧乏臭さが滲み出ていた。けれどもきちんと片付けられて、敗れた襖なんかはきちんと色紙で修復してある。それをみて、染みはそんなふうにして隠すのか、破れた部分はそんなふうに修復するのか、と僕は目からうろこが落ちる思いだった。僕の部屋は本当にぼろぼろだ。訪ねてくる人もいないから、別にかまわないのだけれども、れんげの部屋を拝見させていただいたあととしては、もう少し、どうにかしたほうがいいのかもしれないと思った。
「来てねっていったのに。あれから全然来てくれなかったね」
「……何度か来たんだけど」
 僕は消え入りそうな声で応じた。そう、何度どころか、一時期はほぼ毎日来ていた。根性無しっぷりをいかんなく発揮して、アパートの周囲をうろうろしていただけだけどさ。
 一度だけ、きちんと訪ねた。
 その時は。
 台所と居間を慌しく往復するれんげの顔を、僕はちらりと窺った。

『押し売りならお断り!』

 そういって、僕を部屋から押し出した彼女。忘れてしまったのだろうか。れんげは機嫌よくにこにこと、夕食の準備に取り掛かっている。本日は絹さやと高野豆腐の卵とじ、だそうだ。ざる一杯に盛られた絹さやえんどうを食卓の上にとん、と置いて、彼女は僕の向かいに腰を下ろした。
「来てもいつも、留守だった」
 僕のその嘘を、彼女はあっさり信じて、首をかしげた。
「そう? 買い物でてる時とかだったのかなぁ。タイミング悪かったのね」
「間が悪いって、よく言われる」
「あはは私もよく言われる」
 今日は食べていくんでしょう、とれんげが期待の篭った眼差しを向けて訊いて来る。
僕は素直にうんと頷いた。
 ここで頷いておかなければ、男ではないでしょう。


 本当に、れんげは前回のことを覚えていないようだった。彼女は終始僕を機嫌よくもてなし、僕は彼女との会話を楽しんだ。鳴上れんげ、歳は僕より一つ年下。両親が離婚していて、彼女を引き取った父親が亡くなった今は一人暮らし。姉が一人いるが、彼女は母親のほうに引き取られていて、別れて暮らしているという。
 高校を卒業したら働きながら大学に行きたいの。少女はうきうきと、さも当然のように僕にそう語った。
 将来の夢や、これからしたいことを並べる彼女に、僕は感銘を受けていた。かつて、僕の周囲は僕と同じお金持ちのお坊ちゃんたちばかりだった。取り巻き、と俗に言われる少年たちが、僕の人間関係のすべてだった。父親の言うことに反せず、母親に甘え、将来を約束された人々。
 もしくは、甘えることなど知らず、厳しくしつけられ、いつも完璧を求められている人々。
 何か、違うな、と。
 そのどちらにも、僕は属さなかった。
 僕はずっと思っていた。僕がワンテンポずれている子供だったかもしれない。母親がいなかったせいだからかもしれない。自分のペースで物事を行っていきたいのに、何かと強要してくる父を、疎ましく思っていたからかもしれない。お金で、手に入らないものがあると、乳母たちの会話で知っていたからかもしれない。
 彼らと比べたら、とても、とても、生き生きしている人たち。
 テレビは僕にとって唯一、父親が僕に用意した世界とは違う世界を見せてくれるものだった。虚飾に彩られた世界だとは知っていても、それが、父の用意した世界と違うものを見せてくれるというのなら、僕は縋りたかった。そうやって、僕は芸能界への門戸を叩いたのだ。
 僕はれんげの微笑を見つめながら、本当によかったと思った。笑いながら僕の言葉にきちんと耳を傾けてくれる少女を眺めて、萎れたはずの恋の花が生き返るのを感じる。
 彼女に出会えてよかった。そうでなければ、もっと早くに、父親の元へ逃げ帰っていただろうから。
 彼女に出会えてよかった。そうやって持ちこたえて、僕はこれから運命を共にしていくだろう仲間と出会ったのだ。
 彼女の微笑みに、もう一度出会えてよかった。すごく、すごく、ほっとする。
 幸せに浸っている僕を現実に引き戻したのは。
「ところで創くんは、何のお仕事しているの?」
 彼女の素朴な質問だった。

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