3.
れんげ、と、少女は名乗った。
着ているのはさっきも言った通り、近隣の高校のセーラー服と使い込まれたエプロン。髪は真っ直ぐな黒。色が白く、小柄だった。僕は写真でしか見たことのない、ちょっと濃いピンクの小さな花を連想した。濃い色をしているのに、派手というよりも素朴さを感じてしまう。名は体を表すというけれど、れんげは、まさしくそんな、れんげの花のような少女だった。
「はいっ、どーぞ」
僕にめぐまれたご馳走は、白い御飯と茶色いスープ、そして少し、しなっとした野菜。小さなお膳の上に並べられたそれらをみた僕は、思わず感嘆の声を上げていた。
「こ、これは……!」
「ごめんね。お味噌汁とお漬物しかなくって。お味噌汁、一応具はたくさん入っている、と思うんだけど」
目の前に並べられた食事に心奪われていた僕は、れんげのその言葉が申し訳なさからくるものだとは思わなかった。
白御飯!
味噌汁!
お漬物!
御飯はともかく、味噌汁漬物というものは初めて食べる。コレが噂の庶民のご馳走! いや今の僕は庶民以下なわけですが。
我が家が洋食思考であったがために、僕はその和食の代名詞とも言えるものの数々を、口にしたことがなかった。家を飛び出した後も、それらを買うお金がないという余裕のなさ。僕が借りているボロアパートには炊飯器なんて存在しないし、味噌汁ってそもそもどうやって作るの? というレベルだ。J&Mに食堂ある食堂には、到底入る気にはなれなかった。入っても腹が減るだけだからだ。割引されている料金にすら、満足に小金を払えないほど、僕の財布は常に極寒だった。
「い、いただきます!」
両手をそろえて宣言し、飛びつくように箸を手に取った僕をみて、れんげはきょとんと目を丸めた後に鈴のような笑い声を上げた。
年齢を聞けば僕よりも一つ年下の高校二年。両親を亡くして、ここで一人暮らしをしているのだという。女の子一人で、よく僕みたいな見ず知らずの男を部屋に入れてくれたものだよ。
今考えれば、凄く恐ろしいことじゃないのか。だって僕がもし、いきなり襲い掛かるような男とかだったらどうするつもりだったんだろう。
倒れただけなら、救急車一本呼べばすむ話だ。今の僕には病院にかかるお金なんてないわけだから、救急車呼ばずにいてくれて、大変ありがたかったけれど。
そういった諸々のことを、口にご飯を頬張りながら指摘すると、れんげはそういえばそうね、と苦笑していた。
「思いつかなかったわ。そういうの。ただ家のすぐ近くだったから、あぁ運ばなきゃって、それだけ」
「大変だったんじゃない?」
「え。うんでも……そうね。ちょっと大変だった」
何があったんだろう。彼女はずっと思い出し笑いをしている。
けれど彼女のそんな様子に、僕はちっとも腹立たしさを覚えなかった。逆に、可愛らしい子だなぁと思ったぐらい。
いまどきなかなか見られない、素朴な笑い方をする。綺麗な笑顔だった。
胸の奥に灯った温かい何かに浸っていた僕は、ふと、腕時計を見やった。
そこで、ぴしりと石化する。
どうしたの、と小さな食卓を挟んだ向こうで、れんげが首を傾げる。しかし彼女の問いに答える余裕もなく、僕は目の前にあった御飯に味噌汁をかけ、一気にそれを喉の奥へとかきこんだ。
本当は、もうちょっと味わいたかったよ幻の味噌汁……。
「ね、ねぇどう」
「バイト! ヤバイ遅刻だ! 首になる!」
きょとんと丸められた少女の瞳に、勢いよく立ち上がる自分の姿が映った。
そう、バイトだ。現在時刻は午後五時半。バイトが始まるのは午後六時。十分前には入っておかなければならないのに。ここが、僕が空腹から眩暈を起こしたあの場所からあまり離れていないとしても、タクシーにでも乗らない限り間に合わない。絶望的だ。
「御飯ありがとう!」
「あ、あの」
玄関に揃え置かれていた靴をつま先にひっかけ、ドアノブに手をかけた僕は、背後からの呼び声に振り返った。居間への戸口に、れんげが佇んでいる。彼女は少し困ったような笑いを口元に刻んで、躊躇いがちに口を開いた。
「御飯、一人だと不経済なの。もしよかったら、また食べに来て」
一瞬、何を言われたかよく判らずに、首を傾げてしまう。
「じゃぁまたね」
「あ。うん。……また」
手を振られて振り返す。開いたその向こうには見慣れた街並み。そこは僕が倒れた場所じゃない。
これから向かおうとしていた、バイト先の目と鼻の先だった。何せ、バイト先が見えてしまうぐらいだ。
あれ。ちょっと待って。
さっき、倒れた場所からこのアパートは近いのだとか、彼女は言ってなかったか? いくらやせぎすとはいえ、男の僕をここまで運んでくるのは、かなり――いや確実に、大変だったのではないだろうか。
『もしよかったら――』
胸のうちで反芻されたその言葉に、僕は徐々に頬が緩んでいくのを感じていた。
僕は赤錆の浮いた、今にも腐り落ちそうなアパートの階段を駆け下りた。その足取りが心なしか軽く感じられるのは、決して気のせいではないはずだった。
僕とれんげの馴れ初めは、そういった感じだった。つまりあれだ。犬を拾うかのように、れんげは行き倒れた僕を拾って餌付けしたのだ。振り返ってみると、漫画的というか、ありえない出会い方だよね。でもこれは現実に起こったことで――推測だけど、れんげもまた、寂しかったから、あの時空腹でぶっ倒れた僕を、助けてくれたんだと思う。
この出来事を機に、彼女とお付き合いを始めたのかというと、もちろん、そんなはずはない。いくら僕だって、これだけで食事をたかりに行くほど、ずうずうしくはないよ。
ただ、この出会いがあって、なんとなく、そう、強いて言えば支えのようなものが出来たんだと思う。
思い返せばこの頃、僕はかなり無理をしていたんだ。失敗ばかりのバイト。ただ辛いばかりのジャムキッズのレッスン。家賃の支払いも滞って、大家が冷たい目で僕を見る。
ちやほやされてばかりのお坊ちゃまであった僕には、かなりきつい生活だった。それをよくぞ、一年間続けることが出来ていたと思う。
けれど、限界が来ていた。右を向いても左を向いても壁。前へ進むことは出来ず、今更家に帰ることもできなくて。
れんげはその頃の僕に、まるで一つの灯火のように、優しさをくれたのだ。
言い方が大げさだって? いや本当にどん底に落ちてみてよ。人の優しさって身に染みるものなんだから。
一飯の恩っていうのは、偉大だ。れんげの優しさは、僕に小さな勇気をくれたのだ。あの時れんげに出会えてなければ、僕はとっくに折れていた。
彼女との出会いがあったから、僕は踏みとどまって、大きなチャンスを手にすることが、できたのだ。
れんげと出逢って、一ヶ月ほど経った、冬の寒さも一層厳しくなったころだった。僕はJ&Mの、一番小さな会議室に呼び出された。そこにはジャムキッズとして共にレッスンに励む、見知った顔が何人か揃っていて、それぞれがパイプ椅子に腰掛けていた。
えっと、何だったっけ名前。たしか、流と、樹、匡と、筧くんだったっけ、あと三越とかいう人と…。
「揃ったな」
部屋に響いた冷ややかな、けれどもどこか甘さを残すその声に、僕は一瞬にして硬直した。
テレビとビデオデッキ、そしてホワイトボードだけが並べられた部屋の奥に視線を向けた。そこに、薄暗い部屋に差し込む冬の日差しに整った輪郭を晒した男が、静かに佇んでいた。
J&M関係者で、その顔と名前を知らないものはいない。いや、J&Mに関わらず、大げさな言い方かもしれないけれども、日本の国民の八割が、ブラウン管に映し出される彼の姿を目にしたことがあるはずだ。
キャノンボーイズの、美波涼二。
男性アイドルという存在の先駆者である、三羽烏の一人。今やJ&Mの取締役である彼は、今でこそテレビではあまりその姿を見ることがなくなったけれど、後進の育成に力を注いでいて、ジャムキッズのオーディションや、スタジオにもしょっちゅう顔を見せている。
彼が姿を現している。それだけで誰もが緊張を示し、僕もその例外ではなかった。
彼が顔を出す時は、大抵何かをたくらむ……いやいや、企画しているときなのだ。
「それでは、着席してください」
彼の傍らの席で秘書らしき男が、机の上でとんとんと書類を揃えながら、僕たちに静かな声音で指示を出した。
れんげに、礼を言いたかった。
直接的には、彼女のおかげというわけじゃない。けれども彼女が戯れにくれた、ひとかけらの優しさは、確かに僕を窮地から救ったのだ。
あの小さな出会いを機に、僕の周囲で何かが変わった。
僕は、小さな成功を喜べるようになっていた。以前は、大きな成功ばかり追い求めていたような節があった。それは父にきった啖呵のせいでもあったし、幼い頃からちやほやされすぎて茹った脳ミソが形成した、意地っ張りな人格のせいであったのかもしれない。
それが少し、変化を見せた。そりゃぁ人間、劇的に変われるわけではないけど。
バイトもようやく、本当にようやく、人並みの動きができるようになって、一つ上の仕事を貰った。掛け持ちすることにも大分慣れた。
そして何より、僕は数人のジャムキッズと共に、ギャラクシーのコンサートの企画に参加できることが決まった。僕が美波さんに呼び出されたのは、その企画について。
運気が上を向いてきた。
そのことを、れんげに報告したかった。
それだけで頭が一杯で。
本当にれんげがきちんと迎えてくれるかどうか、なんて、考えもせず、僕は彼女の家に押し掛けてしまったわけである。
そのアパートまでの道順は覚えてしまった。繰り返し繰り返し、仕事の帰り道、いつも入り口まで立ち寄って引き返す。まったく、これがあれか。最近巷で有名になり始めた、ストーカーとかいうやつか。
ばったりれんげに会ってしまったら、何を言おう。御飯約束どおり食べに来たんだ、とか、元気してた、とか。いつも彼女との再会の場面を想像しながら、意気地がなくて引き返してきた。ただ今日ばかりは、ごくりと喉を鳴らし、手に汗握りながら、赤錆の浮いた階段を一歩一歩上って部屋の前に立った。胸に手を当てて深呼吸。そうしてチャイムを鳴らそうと人差し指を上げたとき、唐突に、目の前の扉ががちゃりと開いた。
そこにいたのは、玄関の扉の縁に手をかけて身体を支え、靴を履くために片足を上げていた、れんげ。僕は予想の付かなかった彼女との再会に、一瞬頭が真っ白になってしまった。れんげもまた驚いた目で僕を見つめている。それはそうだろう。突然の来訪なのだから。きっかり五秒、沈黙が流れ、僕はどうにか笑顔を取り繕い、緊張に渇いた喉を震わせた。
「あの」
約束どおり御飯を、といいかけた僕は、れんげの次の言葉に、絶句した。
「あなた、ダレ?」
思わず、硬直した。
れんげはその柳眉を怪訝そうに寄せて眉間に皺を刻み、露骨に嫌な顔をして見せて、その次の瞬間には、乱暴に扉を閉めていた。
「押し売りならお断り!」
そう、高らかな声で拒絶を示して。