2.
「おっもしろくないわ」
ソファーに長い足を組んで、華南が唸った。その表情から推測するに、どうやら本当に彼女は悔しかったようだ。その華南をまぁまぁと諌めたのは、華南とまったく同じ顔だ。ただ顔の筋肉が作り出す表情が正反対。纏う雰囲気も正反対。僕を玄関まで出迎えたのが、彼女である。
れんげ。華南の双子の妹だ。
「でも自分でも上手く華南の真似できてたと思うんだけどなぁ」
「何年二人と付き合ってると思ってるんだよ」
切り分けたケーキを盆に乗せてリビングに足を踏み入れた僕は、思わず口を出さずにはいられなかった。二人とはもう十年以上の付き合いになるわけだし、それこそ出逢った当初、頻繁に入れ替わって僕を驚かせてたのはどこの誰だよ。二人を見分けることなんて、もう慣れっこに決まってるじゃないか。
硝子のテーブルにケーキを並べ、再びキッチンに引き返して、デザートワインとワイングラスを用意する。薄桃がかった金色というとても綺麗な色のデザートワインで、春の花を連想させるそれに合わせて、僕は花模様の施されたグラスを用意した。乱反射して、きっと綺麗に色が映るはずだ。
リビングに戻り、二人分のワインをグラスに注ぎながら、僕は話を切り出した。
「それにしても、連絡してくれればよかったのに」
れんげはヨーロッパに留学していたはずだ。デザイナーとなるために。そう僕たちに宣言したのは、ちょうど一年前のこと。
僕の言葉に対して、ふふふと笑って見せたのはれんげ。柔らかい笑顔は、姉の華南とは対照的に人の心を和ませる。この笑顔が、僕にとっての一番のときもあった。ただ今は、愛しさというよりも、苦しいまでの懐かしさがこみ上げる。
「だってびっくりさせたかったのよ。でもちっとも驚いてくれないんだもの創ってば」
「十分驚いてるよ。心臓止まるかと思った」
本当に。
驚愕のあまりにワインとケーキを取り落とすところだった。二つとも高い品物なのに。
親と決別した僕には、もの酷く貧乏だった時期がある。そのどん底を知っているから、ある程度安定した収入を得ることができている今でも、妙に貧乏性がぬけない。多分ワインとケーキを駄目にしてしまったら、華南たちよりも僕のほうが悔しがっていただろう。
なにはともあれ、僕は最初に気づくべきだった。ブルーローズカフェのチーズケーキも、デザートワインも、れんげの好物なのだ。その二つの注文を受けた時点で、見抜けなかった僕が鈍感っていうことだ。
先ほどの“とりかえっこ”ではきちんと見抜いて、彼女らとのゲームに勝ちを収めることができたから、減点は取り返してるけど、気が抜けてるよな。
「最低五年は戻らないっていってなかったっけ? お早いお帰りで」
「ちょっと創、あんたそういうものの言い方しかできないわけ?」
僕のからかい混じりの問いかけに敏感に反応を示したのは、れんげではなくむしろ華南のほうだった。
「まるでれんげが帰ってきて嫌みたいじゃないの」
「え」
「酷いよ創。私せっかく創に会いたくて帰ってきたのに」
くすん、と泣きまねをしてみせるれんげの肩を抱きながら、華南がよしよしと慰めにかかる。もしもしお二方。そんな演技がかった芝居しても無駄だって。お口に哀しみどころか面白くてたまらないっていう笑いを浮かべてちゃぁね。
それでも、団結した二人に敵うはずもない。
僕は自分の分のワインをグラスに注ぎいれながら、深々とため息をついた。反論する気力も湧かないよ。
笑いあう姉妹を横目に、僕はワインの注ぎ終わったグラスを黙々とテーブルに並べ置いた。
「それじゃぁとりあえず」
軽く、グラスを掲げる。それを合図に、姉妹が居住まいを正した。間接照明の淡い光を反射した金色の液体は、まるで宝石のようで。その向こうに見える姉妹は、その輝きに負けず劣らず、まるでショーケースの中に飾られた、宝飾品みたいだ。
「久方ぶりの、再会を、祝して」
乾杯、という唱和と、チン、という硝子の触れ合う音が、明るい部屋に響き渡った。
ほんの少し昔話をしようか。
僕と彼女らが、こうして小さな家族のように、テーブルを囲むようになったきっかけと。
僕らが築いた、小さな恋愛の軌跡を。
ちょっと、変わってはいるけどね……。
*
平成六年 冬
腹、減った。
どれぐらい空腹か、考えるのも馬鹿らしい。食べなければもたないので、一応食事はとっているけれども、青少年が一日に必要とする基準熱量を満たしているのかどうかは危ういところだ。
J&Mのデビュー予備軍、ジャムキッズのオーディションに受かったのは一年ほど前のこと。それをきっかけに、家を飛び出してしまったものだから、今の僕はとことん貧乏。
自慢じゃないけど、かつての僕の家はちょっとしたものだった。父はとある大企業の重役をしていて、家は金もち専用の閑静な住宅街にあり、専属のコックと使用人がいるぐらい。要するにあれだね。僕はおぼっちゃまっていうやつだった。
だけど僕は、その家が本当に本当に嫌いだった。理由? 話すどころか思い出したくもない。ただ、何か変わるきっかけを見出したくて、僕はオーディションに応募した。そして、受かってしまったのだ。
そこまでは良かった。けど僕がアイドルなんていうもののオーディションに参加してたっていうことを知ると、まず堅物の父が烈火のごとく怒り狂った。
オーディションを理由に始まった喧嘩は、普段の生活、過去から、つもりに積もった様々な問題にまで波及し、そうして僕は絶対に アイドルで飯を食ってみせると、啖呵を切って家を飛び出してしまったんだ。
問題は、その後だった。
何せ世間知らずのおぼっちゃま。右も左も知らない僕は、ホームレスを体験した。見るに見かねた僕らの世話役、J&Mの社員葛西ちゃんが安アパートとバイトを世話してくれたものの、何せ僕は生まれてこの方、部屋の掃除すらマトモにしたことがない。失敗に失敗を重ねて、紹介してもらったバイトはすぐにクビ。泣きついてどうにか他のバイトを紹介してもらったものの、皮膚一枚で首が繋がっている状態なんだ。新しい人のシフトとは逆に僕のシフトはどんどん削られて、そのときの気分はまさしく真綿で首をじわじわ絞められていると形容するにふさわしいものだった。
このままだと、食いつなぐどころか激安のアパートの家賃ですら危うい。
実家を出て、もう一年もの時間が経っているんだから、少しは慣れて安定した生活を手に入れてもいいと思うのに、いつまでたっても綱渡りだ。
はら、へった。
もうどうしょうもなくなって壁に寄りかかり、僕はぐーぐー五月蝿い腹を抱えてその場にうずくまった。あぁ本当に五月蝿い。この腹の虫がなるだけでも、カロリーが消費されてくとか思う自分が情けない。
涙目になってため息をついていると、空から、天使のような声が降ってきた。
「あの、大丈夫ですか?」
はっとなって声の方向を仰ぎ見れば、僕と同じ――高校生ぐらいの年の女の子。きっちりと着込んだ制服と提げられた学生鞄が、彼女が近隣の高校の生徒であるということを告げてくる。
下校途中らしい。
「え? うん、大丈夫大丈夫だい」
通りすがりの人に此処まで心配そうに顔を覗き込まれるっていうのも、すっごく情けない気がして、僕は両手を振りながら立ち上がった。
そして身体を起こした瞬間に、僕は首をかしげた。
「じょぶ……あ、れ?」
おかしい。
少女の身体の輪郭が、歪んで見える。
身体のバランスを保てず、僕は傾いでいく景色を見つめながら、あぁこれが立ちくらみというやつかなんて人事のように思っていた。
続けて、どたん、という自分の頭を打ち付ける音を耳にし、ブラックアウト。
脳震盪、だったそうだ。
最初に視界に飛び込んできたのは、しみの浮いた天井だった。そこに、裸電球が一つ取り付けられている。自分の部屋とその光景があまりにも似すぎていて、何時の間に自分の部屋に戻ってきたのだろうと、僕は本気で思った。
立ちくらみを起こして頭をぶつけた夢を見たせいか、妙に後頭部がずきずきする。覚えた頭痛に何気なく手を額にやって、ぱさりと落ちた湿ったタオルに、僕は息を呑んだ。
安っぽいピンク地に花柄プリント。僕には全く見覚えのないタオルだ。
夢、じゃない。
本気で、頭を打って気絶したんだ。
がばっと勢いよく上半身を起こして僕は周囲を見回した。目に飛び込んできたのは、窓から差し込む夕暮れの明かりに照らされた、殺風景な室内だった。
僕が下宿しているアパートとそう変わらない、安っぽい造りの部屋だ。擦り切れた畳、染みの付いた襖、磨り硝子の障子に、その向こうに見える、玄関と隣接した台所。
そして、動く影。
とんとんとん、と、小気味よく何かを刻む音が響いてくる。鼻腔をくすぐるのは、柔らかな匂い。なんだか、懐かしいような。切ないような。そんな。
すると情けないことに、腹が空腹を訴えた。
ぐぉうおごおぎょろろろろ。
うん。マイクを当てているのかというほどに素敵な大音量だ。実に恥知らずな腹だ。泣ける。
僕は思わず腹を押さえて布団を被った。だけどそれは無駄な行為だった。くすくすという忍び笑いが台所から漏れ、忙しなく動いていたはずの人が、僕のほうを見つめていたからだ。
「あはははははははな、なに今の音ぉ!」
セーラー服の上にエプロンをつけ、片手におたまを持った少女は、実に苦しそうに身体を圧し折り笑い声を弾けさせていた。