(なによあれ!)
 萌はぷりぷり怒りながら、鍵を開けることももどかしく玄関の扉を開けた。
「あら、おかえりなさい」
 萌の帰宅に気づいた母がリビングから顔を出す。明るい部屋からは、韓国語が流れていた。また韓国ドラマのDVDを借りてみているのだろう。
「晩御飯はいらなかったのよね?」
「いらない!!」
 八つ当たりぎみに母に叫び返し、萌は自室の扉を乱暴に閉めた。母は溜息をついているだろう。
 肩に掛けていたサブバックを投げ捨てる。まだ明かりもついていない部屋に、サイドポケットの中身がぶちまけられた。シャープペン。定期の入ったパスケース。ヘアピン。携帯電話。そこに繋がったストラップが床の上でちりりと揺れる。
 薄暗がりの中できらりと光る赤のストーンを繋げたそれは、詩織と揃いのものだった。大学で再会したときに、一緒に買いに行ったのだ。

 ――……腹立たしい、というよりも。

 ショックだった。詩織があのように声を荒げて反論したことにも、そうして怒りを顕にしたことにも、萌に正面から対立してみせたことにも。
『同じ教室にいても気づかない』
 仕方、ないではないか。
 萌は下唇を噛み締めた。萌は闊達で、友人が多く、周囲はいつも賑やかだった。物静かな詩織はどうしても影が薄くなる。
『声を掛けても』
 詩織の声はとても小さくて、騒がしい周囲に紛れてしまう。
『メールをしても』
 萌は床にぺたりと座り込んで、携帯電話を拾い上げた。ちかちか光るそれは、新着メールの存在を告げている。
 フリップを開けて覗き込んだ携帯のメールボックスには、サークル繋がりの友人と、バイト仲間からの新着が数件。しかし詩織からのメールは無かった。
 いや、本当に、ないのだろうか。
 萌は憑かれたように画面をスクロールさせた。交友関係の広い萌のメールボックスにはおびただしい数のメールがあった。ファストフードや居酒屋の割引メールもある。差出人の部分にのみ目を落とし、ひたすら下へ下へ。
『あけましておめでとう』
(あった)
 元旦の年賀メール。詩織からの。
『あけましておめでとう萌ちゃん。去年はあんまり遊べなかったね。約束してた旅行どうする? また会って話そうね。今年もよろしく!』
 返信は、していない。
 旅行、という文字で、そういえば去年絶対一緒に行こうねと、萌の方から誘ったのだった。なのに、そのまま放置していた。幾度か、どうするかの催促のメールも貰った気がするのに、忙しさにかまけて。
 その後も、詩織からのメールをいくつか確認した。どれも返信していなかった。サークルの連絡や、バイトの連絡や。たくさんの返信を優先しなければならないメールに紛れていた。
『手紙を出しても……』
 萌は立ち上がった。
 机の引き出しの中を引っ掻き回す。ノート、ペン、お土産のキーホルダーが詰まったディズニーのチョコ缶、昔のプリクラ帳、ミニアルバム、レターセット。
 それらをベッドの上に投げ捨てて、一番底に入っていた平べったい箱を引き出す。和紙が張られた綺麗な箱は、元々は洒落た洋菓子屋のクッキーが詰まっていた。
 その中に入っているのは手紙だ。年賀状や、留学を果たした友人からのポストカードなど。手紙などはほとんど貰うことがなくなっていたから、幼い頃からのものとまとめて全てそこに放り込んである。
 箱をひっくりかえすと、北海道からの絵葉書が数枚。
 詩織からもらったものだった。中学卒業してすぐから、何通か届いた。けれどそのどれにも、萌は返事を書いたことがない。書こうと思って可愛いポストカードやレターセットは用意するのに、テストが終わってから、とか、遊びにいってから、とか、色々理由をつけて先延ばしにしているうちに、詩織からの手紙は届かなくなった。
 その矢先だった。彼女と再会したのは。
「萌? あんた何やってるの? そんな暗いところで」
 娘の様子を怪訝に思ったらしい母が、呆れた顔で部屋の中に足を踏み入れた。
「何かあったの? 晩御飯本当にいらないの?」
「いらない……食べてきたし」
 だいたい、夕食はいらないときちんとメールは入れている。
 母が好奇心を覗かせて首を傾げる。
「誰と?」
「しおり」
 久方ぶりに萌の口から出た名前に、母は顔を輝かせる。
「あらぁシオちゃん元気なの? ははぁ、さてはあんた喧嘩したのね。シオちゃんと」
「っ! してないよ!」
 図星を突かれ、萌は思わず反論したが、母は訳知り顔でにやにや笑っている。
「嘘おっしゃい。昔もシオちゃんと喧嘩したらすぐに部屋に篭っておもちゃとか散らかしてたじゃない。電気も付けずに」
 昔から変わらないわね、と笑われて、萌は唇を引き結んだ。違うよ。これは違うんだよ、と力いっぱい否定したかったが、この部屋の様子では説得力がなかった。
「どうせあんたが悪いんだから、早く謝って仲直りしなさいよ」
「なんで私が悪いって決めるのよおかーさん!」
「わかるわよぉ。どうせあんたが心にも無いこと言ったか、逆にシオちゃんの話聞かなくて怒らせたんでしょう。あんたそういえば年賀状にちゃんと返事したの?」
「年賀状?」
 訊き返した萌に、母は嘆息を零す。
「届いてるからちゃんとチェックしなさいよって言ったでしょ。見てないの?」
 母は部屋の明かりを付けて廊下へ出た。瞬く照明。萌は眩しさに目を細める。
 母はすぐに年賀状を手にして戻ってきた。
「ほら。あんたってば本当に薄情な子ねぇ。私だったら絶対に友達なんてやりたくないわ」
 母の毒舌に今日ばかりは反論できない。
 年賀状は高校の友人からのものが主だった。大学の友人は多すぎて、年賀メールに統一することにしていたから、そのことを知らぬ詩織だけから律儀に届いていた。確認はしたが、年賀状を書くのが面倒だと思っているうちに、忘れていたらしい。
(……本当に、薄情)
 これだけ無視を決め込んで、よく詩織に友人の顔など出来たものだ。彼女の言う通りだ。たとえ会ったことなくとも、細やかに詩織に返事するネットの知人のほうが、彼女にとって近しい。
(よくその人たちを簡単に切り捨てろ、だなんて、言えたよね……)
「部屋片付けたらお風呂入りなさい。沸かしておくから」
「うん」
 娘の気の無い返事に、母は嘆息だけを零して部屋を出て行く。
 取り残された萌はベッドの上にもそもそと移動し、とりあえず、年賀状を出してくれた高校の友人たちにメールを打った。
 ごめん。年賀状の返事なくて。超薄情だよね。元気してる?
 そんな文面だ。何人かは「大丈夫だよ、元気?」と、萌がメールを打っている最中に返信が来た。
 長い間、顔を見ていない友人達。
 忘れ去っていた友人達。
 顔を合わせていない。
 彼女らは、萌の現実に存在しなかった。
 目の前にあることだけが、わたしたちの現実だ。
 目の前で言葉を交わすものだけが、現実だ。
 たとえその全ての姿が見えなくても。
 ――……彼女に言葉を返さなかった自分の方こそ、テレビの液晶を隔てた向こうの人間と変わらない。
 自分こそ、彼女の非現実(アンリアル)だ。
 萌は新規メールを開き、あて先に詩織を指定した。
 けれどその指が震えて、何を打つべきかわからなくて、萌は結局そのまま携帯のフリップを閉じた。


 試験が終わり、詩織は荷物を纏めて教室を出た。
 最近は試験勉強とアンリアルで寝不足だ。はたしてそのどちらが正式な理由なのかは、言わずもがな、だが。
 廊下に出て、携帯電話でSNSをチェックする。気になって仕方がない。こんなにも現実を侵蝕されて、馬鹿だと思う。
 萌の言う通り、所詮、ネットの世界の出来事に過ぎないのに。
「詩織」
 背後から呼びかけられ、詩織は足を止めた。振り返った先には、萌が立っていた。
 萌はしばらく視線を泳がせていたが、小さく嘆息を零すと頭を下げた。
「あの、いろいろと、ごめん」
 詩織は萌に向き直った。
「……それだけ?」
 話は、それだけか。
 詩織の問いに、萌は首を横に振る。
「……私も、あの、アンリアルっていう企画に、興味持ったんだ」
 酷く緊張した様子で、彼女は言った。
「わたしに、おしえて」


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