夕食の間、部屋はどことなく重苦しい空気に包まれていた。
 そう感じているのは、萌だけかもしれない。詩織はさして気にした様子もなく、ピザをもくもくと食している。食事が終わった後、机の上にノートや講義で貰ったレジュメ、教授の本を並べながら、テスト範囲について質問する萌に、詩織は丁寧に返答する。だが彼女が余計な話を口にすることはない。
 あぁこれは、空気というよりも、沈黙が苦しいのだ。明るいノリの冗談やくだらぬ話題を押し留めるような、詩織の無言の圧力が、苦しくて苦しくてたまらないのだ。詩織のノートの中身を自分のそれに書き写している最中、萌はちらりと彼女を盗み見た。
 詩織は携帯の画面を、じっと見ている。
 食事の最中もそうだった。携帯の画面を、気にしていた。
 その表情は、どこか険しい。
「ねぇ詩織」
 萌の呼びかけに、詩織が顔を上げる。
「何?」
「さっきから携帯睨んでるけど、どうかしたの?」
 萌はぱたんと携帯を閉じて、なんでもない、と首を振った。
「なんでもなくないよー。だってあんたご飯のときも時々携帯気にしてたじゃない? すっごく怖い顔でさぁ。なんか変なメールでも来てるの?」
「ううん。メールじゃない」
「あ、じゃぁこの間言ってたミクシーもどき?」
「ソーシャルネットワークサイト。もどきって……」
「そーしゃる?」
 あぁ、そういえば先日見た映画もそんなタイトルだったか。だが名前など、萌にとってはどうでもいいのだ。
「とにかくさぁ」
 萌は炬燵の天板に手をついて、詩織の方に身を乗り出した。
「そんな怖い顔して、何見てるの? 教えなさいよぉ」
 奇妙な圧迫感を振り払うように笑った萌は、みるみるうちに険を帯びる詩織の顔に、身体を強張らせた。
「萌ちゃんには、関係ないよ」
 明確な、拒絶の声。
「……え」
 萌は口元を引き攣らせたまま、低く呻いた。詩織も失言だったと思ったらしい。気まずそうに視線を泳がせる。
「……アンリアル」
 謝罪の代わりに、とでも言うように、詩織はぽつりと呟いた。
「アンリアル?」
「うん」
 彼女は首肯しながら、炬燵の上に置かれたままのパソコンの電源を、ぽんと入れた。
 ウインドウズが立ち上がる。起動音が響き、デスクトップに写真が表示される。萌も知る、札幌の時計台の写真だった。
 完全に起動するのを待って、詩織がマウスを操作する。彼女がクリックしたものは、Firefoxと横に文字打たれた、青の球体をオレンジ色の何かが包み込んでいるような絵(実際は地球を狐が抱きこんでいるイラストなのだと、萌は知らなかった)。少し間を空けて、インターネットが開く。いつもの青い『E』の文字ではなくても、インターネットに繋がるのだと、萌は初めて知った。
 詩織は手馴れた様子で操作を続ける。ツールバーからお気に入りへ。
 そして開かれたページは。
『Unreal』
(アンリアル……)
 詩織のいうソーシャルネットワークサイトのログイン画面らしかった。プロフィール画像として時計台の写真が表示され、その下には『song』と記されている。おそらくそれが、アカウント名だろう。ミクシーのマイページも、似た様式を採っている。
「……どういうサイトなの? これ」
「最初に言ったとおりだよ。ミクシーみたいなやつ」
「ソーシャルネットワーク?」
 先ほど詩織が口にした単語を、萌はなぞった。それがおかしかったのか、詩織はようやっと口元を緩める。そして再びパソコンに向き直った彼女は、もう新しい窓を開いて別のページを表示させた。
 背景色を黒に統一したページ。サイバーチックな青緑のラインの上にアンリアルの文字。
「これはね、小説好きの人が集まるソーシャルネットワークサイト……SNSなの。ただミクシーとかと違うのは、私が好きな小説サイトの管理人さんが企画としてやってる、期間限定のSNSってこと」
 詩織の説明を聞きながら、萌はAbout this project. の下に並ぶ文字を目で追った。

「アンリアル」は読者参加型SNSストーリーです。ジャンルはミステリ風味のホラーになります。
一つのSNSを舞台として、そこに皆様にも参加して頂き、その中で物語がリアルタイムに進行していきます。


「小説サイト……?」
「プロじゃない人が、自分が書いたオリジナルの小説を、ホームページに上げて無料で読めるようにしてるの。ものすごい量があるし、中にはプロなんかよりもよっぽどプロっぽくて、面白い話を書く人がいるの。この企画を書いてる人も、そういう人ね」
「この説明に書かれてる、『ミステリ風ホラー』っていうのは?」
「私もよくわからない。ただ二十日から企画がスタートして、ホラーっぽいことが起こってる」
「二十日から、このSNS? が、始まったの?」
 萌はコルクボードに掛かったカレンダーを一瞥した。今日は一月二十四日。企画とやらが始まってから四日目だ。
「前言ってたミクシーみたいなのとは別?」
「ううん一緒だよ。企画自体は二十日からなんだけど、このサイトは企画の前準備としてお正月明けからオープンしてたんだ」
(なら)
 おかしなことだと、萌は思った。
「……萌ちゃん、私の説明、わかりにくかった?」
 黙り込んだ萌を怪訝に思ったらしい詩織が、首をかしげた。萌は慌てて笑顔を取り繕う。
「ううん違うよ。ちょっと……不思議に思ったの。どうして詩織は今日、難しい顔をして携帯睨んでたの? それ、前に私が楽しーい? って訊いたときとおんなじサイトなんでしょ?」
 詩織の表情が、強張る。
「……詩織?」
 沈黙する幼馴染の顔を、萌は覗きこんだ。しかし詩織は逃れるように萌の視線から、つい、と逃れて、パソコンに向き直る。
「ねぇ、しお」
「ホラーっぽいことが起こってるって、言ったよね」
 萌の言葉を遮る形で、詩織が口を開いた。
 彼女はパソコン画面に表示された文字をポインターでクリックする――最新トピックに表示された『【広がっていく】総合雑談・相談トピ【疑心暗鬼】第5話』の欄。
 そこに表示された一文に、萌はどきりとした。
『みるトンさん、実はお亡くなりになってる、とか?』
 死んだか、死んでないか。いや、もしかしたらパソコンに触っていないだけかもしれないなどと、そのみるトンなる人物の生死ついて、複数人が平然とコメントし合っている。
「……えーっと、みるトンさんって、誰? 小説のキャラか何か?」
「かもしれない。そうでないかもしれない」
「なに、それ?」
「あのね、萌ちゃん。これ、企画されたサイトなの。私もどんなことが起こるのかよくわからないまま参加したんだけど……どうも、一つ一つのイベントが参加者全員を巻き込むみたいなのね」
「……ごめん、詩織。全然、言ってる意味がわかんない……」
 降参に諸手を挙げた萌に、詩織は溜息を付く。そして彼女は掻い摘んで、このアンリアルの企画について説明を始めた。

 一、 設置されてから二十日までの間、このSNSはごく普通にお気に入りの小説や漫画をお勧めしあうものだったこと。
 二、 二十一日にお勧め小説のトピックがたてられ、皆がそれぞれ読んでみたい設定の小説を教えてくれと募集を始めたこと。
 三、 そのお勧め小説のトピックに、キャラクターアカウント(これはアンリアル企画者の人が作った架空のアカウントらしい)である『のきこ』さんが、恋愛小説を募集し、そこでfont in iconという小説がお勧めされたこと。
 四、 ところがそのfont in iconはどうも恋愛ものとは違う、後味悪いものだったというコメントが付いた直後に、その紹介者がSNSを退会、失踪して騒ぎになったこと。

 以後、そのfont in iconを廻って、この人が怪しいだの、あの人が実は一般人に成りすまして企画を盛り立てているだの、互いを疑いあう状況に発展しているらしい。
「ついこの間まで、キャラクターだとかそうでないとか、私全然考えずに、皆の日記にコメントつけたりしてた。多分皆もそうだと思う」
 日記を書くと、誰かしらがコメントをつけてくれる。そして詩織もまた、相手の日記にコメントをつけて。
 今まで名前も知らなかった人々とネット上で会話しあう。
 それがすごく楽しかったのだと、詩織は言った。
「だけどフォントインアイコンが出てきて、その後にオキルオベっていう、その小説を公開していたっぽいサイトが出てきてから、一気に推理モードっていうか……誰が怪しいか……企画側のスタッフなのか、とかの話題に変わっちゃって」
 皆、自分達以外がまるで一般の参加者でないかのように、疑ってかかる。
 詩織も疑われたらしい。理由は、キャラクターアカウントの日記にコメントを頻繁につけていたから。
「すごく好きな小説が一緒だったんだもん。嬉しくてコメントしたよ。だけどそれが疑われる理由になるなんて……思ってもみなくて」
「それであんなに怖い顔してたわけ?」
 萌は呆れて詩織を見返した。
「そんなに嫌なら、やめればいいじゃないその企画。抜けるのは自由なんでしょ?」
「そうだけど……でも、これがどうなっていくのか、見てみたいだもん」
「なら仕方ないじゃない。あんまり気にしないことだよ」
 真相がわかればひどくつまらない。萌はカーペットの上に手を突いて、天井を仰いだ。
 教室で見た、詩織の張り詰めた表情を思い出す。あの顔を見たとき、本当に、何かとても辛いことが詩織に降りかかったのではないかと、萌は心配したのだ。
 だが蓋を開けてみれば、なんてことはない。
 怖いとわかりながら遊園地のお化け屋敷に入って、震えているようなものだ。
「そんなに落ち込むぐらいなら、やめればいいのよ」
 萌は言った。
「期間限定って書いてあるわけだし、その二十九日? 三十日? その日が来れば、ぜーんぶ種明かしされるんでしょ?」
「多分」
「そしたら自分が疑われるかもって、びくびくする必要もないじゃない?」
「でもね、萌ちゃん」
「だいたい、所詮ネットじゃない。顔も知らない人にどうこう言われたって、別にどうってことないんじゃないの? 嫌なら切ればいいんだしさぁ……」
「……っ!!」
 ばん、と。
 詩織が、炬燵の天板を叩いた。
「そんなことない!!!!」
 今まで耳にしたことのないような詩織の怒声に、萌は驚きから瞬く。
「ど、どうした、の? 詩織……」
 炬燵に手を押し付けたままの詩織は、泣くことを堪えるように下唇を噛み締めていた。
「どうってこと、なくなんか、ない。どうでもよくない! せっかく仲良くなった人たちに、疑われたくなんてないよ! 萌ちゃんだって友達から訳わかんない疑い、かけられたら嫌でしょ!?」
「そ、そりゃそうだけど……」
 詩織の剣幕の理由がわからない。だがさすがに頭ごなしに怒鳴りつけられればむっとくる。萌は身体を起こして反論した。
「でもそれとこれとは話が別でしょ。あっちはネットで、友達は友達だよ」
「何が違うの?」
「何がって……」
 すぅ、と、詩織の目が細められる。そんな風に、彼女が怒るところを萌は初めて見た。萌の知る詩織は、感情の発露というものが苦手な少女で、笑うときも控えめならば、怒ることは皆無なのではないかというほどに、ぐっと堪えてしまうのだ。
 その彼女が、明らかな憤りを示している。
「萌ちゃん。教えて」
 詩織が請う。
「たとえ、顔を知っていても……手紙を出しても返さない。メールしても返事しない。声を掛けても、同じ教室にいても……」
 気づかない。
 萌は、息を呑んだ。
 自分のことを言われているのだと、思った。
 詩織は続ける。
「そんな人と、ちょっと日記を書いただけで、挨拶してくれる。しんどいって書いたら、頑張ってって応援してくれる。こんなことに悩んでるって書いたら、アドバイスをくれる、顔もしらない人たち」
 教えて、萌ちゃん。
 ――……どっちが、ホントウに、大切にすべきヒトだと、思う?
 時に励まし、時に慰めあう人たちが、ネットで出会ったというだけで、簡単に切り捨てても構わないと他者に言わしめるほど、虚構めいているというのなら。
 存在に気づきもしないほど無関心な現実の友人とは一体なんなのか。
 詩織の問いかけの意味を、萌は完璧に理解したとは言いがたかった。
 ただ、インターネットという虚構に浸かっている詩織が、まるでまったく別のイキモノのようで怖かった。
 詩織が、萌の腕を取る。
「帰って」
「……え?」
「帰って、萌ちゃん。今日はもう帰って」
 詩織はコートとマフラー、そして鞄を引っ掴み、立ち上がらせた萌を玄関へ引きずっていった。
 荷物ごと、萌は玄関の外へ追いやられる。
「しおり」
「お休みなさい、萌ちゃん」
 ばん、と扉が乱暴に閉じられる。
 吐く息白い寒空の下に放り出された萌は、呆然として立ち竦み――そして苛立ちに突き動かされるまま、詩織の部屋の扉をがつんと蹴った。


BACK/TOP/NEXT