――……現実と虚構の境界線を、人はどこで、定めるのだろう。



 教室は、気だるい空気で満ちていた。
 萌は欠伸をレジュメで隠しながら教室を見渡した。半すり鉢状の部屋に集う学生の誰もが、萌と似たり寄ったりの様子だ。欠伸をかみ殺し、目を擦り、机の下で携帯電話を弄っている子もいれば、堂々と突っ伏して寝てしまっている子もいる。
(休み明けだもんね…)
 冬休みが終わって第一回目の授業など、こんなものだろう。それでも出席率は悪くない。というのも、残すところ五回の授業内容が試験範囲の五割を占めると、教授が横暴にも宣告したからだった。
 教授はマイクでだらだらとレジュメを読み上げている。間延びする教授の声は、右から左へ萌の耳を通り抜けていくだけだった。せっかく出席しているのに、これでは意味がない。そう思って幾度も背を伸ばし、気を引き締めてみるのだが、ものの数分としないうちに睡魔に負けて船を漕いでしまう。先ほどから、これの繰り返しだった。
(あぁ、もうだめ)
 ぺたりと頬を机にくっつける。白い天板はひやりとしていて、眠気から火照った頬に心地よい。
 ぼんやりと廻らせていた萌の視線は、ふと斜め前の席に座る少女の手元を捉えた。机の下、スカートの上に乗せた携帯に、白い指がかちかちと文字を打ち込んでいる。そしてそれはひと時も止まる気配がない。一体何を打ち込んでいるのか、萌は興味を惹かれて身体を起こした。
 そして確認した手の主に、萌の唇から、あ、と声が転がり落ちる。
 少女の、携帯で文字を打つ手が止まった。
 彼女は振り返り、萌を仰ぎ見る。
「しおり」
 萌の呼びかけに、久方ぶりに顔を合わせた幼馴染は、小さな笑みを零した。


BORDERLINE


「全然、知らなかった」
 詩織が、ずっと同じ講義を受けていたなどと。もう後期も終わりに差し掛かるというのに。
「私は知ってたよ」
 紙パックの苺ミルクにストローを差し込みながら、詩織は言った。
「だったら何で声掛けてくれなかったの水臭い!」
「えー声かけたよ。いっちばん最初に」
「うそぉ!」
「嘘じゃないよ。でも萌ちゃん、全然気づいてくれなかった……」
「私が、無視したってこと?」
 つい険を帯びた萌の問いに、詩織は勢いよく首を横に振る。
「そうじゃないよ。萌ちゃん、友達と楽しそうにおしゃべりしてたから。多分、気づかなかっただけ。それに、私、いつも授業前の方で聞くから」
 萌ちゃんは、いつも後ろにいるよね。そう訊かれて、萌は頷いた。誰が教授の目に留まりやすい席へ行くものか。前にいたりなどしたら、講義を真面目に聞いていないことが丸わかりではないか。
 萌は頬杖を付いて、苺ミルクを静かに飲む幼馴染を見つめた。
 隣の家に住んでいた詩織とは、物心付いたときから中学を卒業するまで、毎日一緒だった。大人しい詩織はちょこちょこ萌の後ろについてまわった。大きな声できっぱり物を言う社交的な萌と、物静かで一人遊びが得意だった詩織は、性格こそ正反対だったものの妙に馬が合ったのだ。高校に上がるときに家族と共に遠方に引越し、交流が途絶えていた彼女と、萌が再会したのは大学の入学式。それからしばらくは一緒に行動していたが、授業が分かれ、萌があちらこちらのサークルに顔を突っ込み、バイトに精を出すうちに、詩織とはまた疎遠になってしまっていた。
 大学二年にもなるというのに、髪を染めてもいなければ、化粧っ気もない。高校どころか中学の頃と変わらぬ様子の詩織は、毎日真面目に出席し、ノートを取っているのだろう。その姿を想像することは容易だった。
「……じゃぁなんで今日は後ろの席に座ってたわけ?」
 もし詩織がいつもと同じ席に着いていたならば、萌は彼女の存在に気づかなかっただろう。詩織の黒髪は生徒の中でも目立つが、彼女はとにかく影が薄い。
「もしかして、彼氏にメール、とか?」
 ひたすら携帯を弄っていた詩織の姿を思い出して、萌はからかい混じりに尋ねた。
「そんなんじゃないよぉ!」
 慌てた様子で詩織は両手を振った。
「じゃぁなんなの?」
「日記を、書いてたの」
「日記? 詩織ブログでもやってるの?」
「ううん」
「あ、じゃぁミクシーだ。マイミク申請だすよ。教えて?」
 鞄から携帯電話を取り出しかけた萌の手を、詩織が差し止める。
「違う。ミクシーじゃないの。ミクシーみたいなの、だけど……」
 口ごもる詩織を、萌は携帯を鞄に戻しながら眺める。ミクシーみたいな。フェイスブック、とかいうやつかな。先日、友人と見た映画を萌は思い出した。
 詩織はまた、かちかちと携帯を弄っている。
「楽しい?」
 萌の問いに、詩織は満面の笑みで答える。
「うん、楽しいよ」
 大学の友達とでも、やりとりしているのだろう。詩織にも友人がたくさんいるということだ。
 そのことに妙な寂しさを覚えながらも、萌はよかったね、と返したのだった。


2


 教室内にいると一度認識してしまえば、詩織を見つけることは簡単だった。
 萌が行動を共にする友人に遠慮してか、詩織は隣の席に座るようなことをしなかった。彼女は萌よりも一、二段低い位置の隅の席に腰を下ろして、携帯の画面を見つめている。そんな風にして授業を受け流すなど、生真面目な詩織にしては珍しいことだと、萌は思った。それとも、彼女も大学生活に慣れて、怠惰な学生を楽しんでいるということだろうか。
 萌はぼんやりと詩織を見つめた。
 じっと、携帯の画面に視線を落とす、詩織を。
 授業が終わっても、動かぬ、詩織を。


「詩織」
 友人を先に帰らせて、萌は詩織に歩み寄った。彼女は驚いたようにはっと息を詰めて、面を上げる。
「萌ちゃん。どうしたの?」
「うーうん。試験範囲でわかんないところがあるから、訊こうと思ったんだけど……」
「今日のところ?」
「うん。今日のところ」
 ちょっとまってね、と詩織は机の上に広げているノートを手繰り寄せる。授業を聞いていないようで、きちんと教授の話にも耳を傾けているところが彼女らしい。
「やだね、試験」
 萌の言葉に、詩織が荷物を纏めながら同意する。
「うん」
 明後日、とうとう試験がある。他の講義では、始まっている。
 詩織のノートは綺麗だ。まるっこく読みやすい文字が、きちんとした配列で並んでいる。自分がわかればよいと、乱雑に殴り書きしてしまう萌のものとは大違いだった。
 そのノートの傍に、開かれたままの携帯が置かれている。
 新着日記、と書かれた白い画面。
「萌ちゃん?」
「あ、え?」
 我に返った萌の前、白い指が伸びて、携帯をパタンと閉じる。そのまま詩織は携帯を取り上げた。血の気の薄い指の狭間から、赤いストーンの並ぶストラップがちりりと揺れる。
「喉渇いたの。食堂に移動していーい?」
 微笑を浮かべて小首をかしげる詩織の顔は、どこか暗い。
 萌は頷きながら、先日とは打って変わった幼馴染の表情に訝りを隠せなかった。


 

3


 電灯が明滅し、部屋を光で染める。
「やっぱ片付いてるねぇ」
 萌の感想に、詩織は控えめな微笑を浮かべるだけだった。もっと胸を張ればいいのに。詩織の部屋は、萌が今まで尋ねたどの友人の部屋よりも片付いていた。ベビーピンクで纏められた女の子らしい部屋。本棚には参考書と辞書と小説。そして時々、漫画。
「ごめんねぇ、押しかけて」
 最初は食堂で試験範囲の復習をしていたが、あまりにも内容を理解していないと自覚し、萌は詩織に補講を頼んだのだ。スーパーでジュースとお菓子とチルドのピザを買い込み、場所を詩織の部屋に移して勉強会である。
「迷惑だった?」
「ううん。今まで誰も来たことないから、ちょっと緊張してるだけ」
「誰も?」
「うん。誰も」
 詩織は着ていた真っ白いコートをハンガーに掛けた。クローゼットの開閉音が寒々しく響く。
「いつから一人暮らし?」
「大学からだよ」
「おばさんたちは……えーっと、詩織どこに引っ越したんだっけ?」
「北海道」
「そうだった」
 そんなに遠くに引っ越した。だから驚いたのだ。いつのまに、戻ってきたのだ、と。
 今の大学は、萌の実家から近い。萌はいまだ家族と一緒に暮らしている。
「こっちに、戻ってきたかったの?」
 詩織の住所は確か札幌市内だ。思い出した。大学もないわけではないだろうに、わざわざ一人暮らしまでして。
「勉強したい学部の大学、こっちのほうが多かったの」
 ぴぴ、と、詩織はファンヒーターのスイッチを入れた。
「だったら、知ってるところのほうが便利だなって思ったの。……萌ちゃん、コート」
「あ、ごめん。ありがと」
 萌は脱いだコートとマフラーを詩織に手渡した。彼女は慣れた手つきでそれらにハンガーを通し、ポールに引っ掛ける。そして夕食の支度をするといって、彼女は台所に戻った。
 クッションを引き寄せて、萌は適当な場所に腰を下ろす。炬燵の天板の上にはノートパソコンが開かれたままの状態で置かれていた。どことなく、使い込んだ様子のあるパソコン。
(パソコン、得意なのかな……)
 萌にとってパソコンは問題外だ。課題のレポートを書くときに使う以外に、触りたくもない。だが詩織のノートパソコンは、キーボードの文字部分がすり消えていた。
(レポート書く以外にどんな使い道があるのか、よくわかんないんだけど……)
 レポートを打つだけで此処までの状態になるとは考え難い。
(というか、詩織って毎日、何してんのかな……)
 どこかのサークルに入っているとは聞いていない。バイトをしているとも。いや、そういう会話を持ったことすら――……。最近、顔を合わせていなかったから当然ともいえるが、それにしても。
 彼女の、趣味は何なのか。
 彼女が、どういった生活をしているのか。
 萌はここまできて幼馴染について何も知らないことに気が付いた。


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