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第四章:千日紅の虚偽の主 1


 一面に咲き乱れる薄紅色の丸い花。その花の名を千日紅だと私に教えたのは、もう二度と会うことのないだろう男だった。何が理由であったのかは忘れたが、私はその頃酷く落ち込んでいて、それをみかねたらしい男は頻繁に私を外に連れ出していた。短い休日の最後の日に、連れ出されたその場所が素朴な、けれども鮮烈な紅を宿して風に揺れる平原だった。普段小難しい話しかしない男が、一面の花を指し示すように両手を広げて言った。千日紅というんですよ。
 花の名前を知っているような、ロマンチストでは決してなかった。男は野心家で、どこか得体の知れない雰囲気を漂わせていた。彼の叡智は怜悧であり、彼は政治家のような言い回しを好んだ。その男が、馬鹿みたいに顔を赤くして、笑って花の名前を私に告げた。千日紅というんですよ。その様相は、初恋の相手に戀を打ち明ける幼い少年のようだった。
 男は千日紅の花言葉を私に教えて、私に一輪それを差し出した。株価だって毎日上下するんです。未来はわかりませんよ。元気を出してください。そういった。人生を株価に例える、その彼らしい言い回しがおかしくてならなかった。
 彼は照れた子供のように背中を向けた。夕陽に照らされた広いそれを、私はとても愛おしく思っていた。
 人の心など、移ろう。
 それは私もよく知っている。
 けれどどうしてこの戀が、あのような終わり方を見せると予想できただろう。
 それとも全ての戀があのような終わり方を見せる可能性を秘めているのだろうか。それが、必然だとでもいうのだろうか。
 そうだとしたら。
 それは酷く残酷なことだ。


 ちゃちゃちゃーん、ちゃーちゃーちゃ、ちゃー
 携帯電話の騒々しい音に、私は無意識に手を伸ばしていた。誰だ、目覚まし時計を暴れん坊将軍のサウンドにセットしたのは。私か。
 久しぶりに夢見た過去。ここ二ヶ月ほど見なくなっていたというのに。
「なんか、寝た気がしない……」
 そう呟きながら、私は再び眠りの世界へと旅立ちかけていた。
「朔ちゃん! 起きな仕事! 遅刻するで!」
 そんな私を騒がしい関西弁でたたき起こしたのは一足早くに起きていたらしい、華ちゃんだった。


「でね! もう超可愛いんだから笹内君!」
 会社での昼食時、私は同僚達の会話を、船をこきながら耳をしていた。本日の話題は、男性新入社員の皆について。今年四月に入ってきた新入社員は豊作だと、女性社員のみが口にしている。男性社員諸君は女性諸君の心を鷲づかみにしてしまった新しい男性の後輩達を睨め付けつつ、可愛い女性の後輩達に気を配ることに余念がない。
 私はというと、彼女らの後輩達の評論の聞き役に徹していた。彼らが可愛いとか可愛くないとか、そういうことは正直に告白するならば、どうでもいい。私が興味を持つのは、彼らが人間関係を円滑に図れるか否か、もしくは、仕事に対して将来有望そうであるか否か。
 ところが本日の話題は、そういう部分にはノンタッチということが暗黙の了解らしく、私は半分眠りの世界に入り、そしてのろのろと豚のしょうが焼き定食を口に運んでいた。
「ちょっとぉ……朔。話聞いてるの?」
 同僚の佳奈ちゃんが、私の豚さんをひょいと一切れ奪いながら尋ねてくる。私は彼女の定食から、鶏肉のから揚げを一つ奪い、それを口に放り込んで答えた。
「聞ひへふっては(聞いてるってば)」
 そうなの、と怪しそうに顔をしかめる佳奈ちゃんに、私たちとテーブルを挟んで向かい合っている香織さんが言った。
「仕方ないわよぉ佳奈ちゃん。朔ちゃんは興味ないんだって後輩君たちに。アレだけかっこいい彼氏がいるなら、誰にも興味持てないわよ」
「そっかぁ! そうよね! その分ライバルが少ないってことだし! 喜ばなきゃね!?」
「……ほへ?」
 眠さに呆けていた私は、進行している会話の内容から聞き捨てならないものを意識の隅で拾い上げ、面を上げた。
「彼氏?」
「そうそう! あんた一体どこで見つけたのよあんなかっこいい彼氏! この間町で一緒に歩いているのみたわよぉっ」
「というか私たちに報告しないってどういう了見なの!?」
「もしかして、結婚が決まってから報告するつもりだった!?」
「きゃーすてきー!!!」
 興奮する二人の発言を聞き流しながら、私は雪ちゃんと華ちゃんではないな、と彼らをその彼氏とやらからは除外した。彼らの片割れだけが私と街を歩くことがない。一緒に買い物に出かけるときは、三人セットが常だ。
 ということは、隻さんか。他に私が共に出歩くような男の人は一人もいない。私は味噌汁に手を着けながら、違うよ、と言った。
「違うって何が?」
「だから、あの人は彼氏じゃないの。というか、私には彼氏なんていないの」
『はぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?!?』
 佳奈ちゃんと香織さんが、顎が外れそうなほど口を開いて、首を傾げる。正直すぎるリアクションだ。笑えない。
「いや、本当に。なんというか、お友達? この前は今度後輩の結婚式に着ていく服を選んでもらってたの。あの人、趣味がいいから」
「その人、彼女とか奥さんとかは?」
「え? 完全フリーの人だよ?」
「あんたそれ」
「いやぁそれは、おかしいんじゃないの? 朔」
「そう?」
 うん、と揃って首を縦に振る二人に、私は肩をすくめて見せた。佳奈ちゃんと香織さんは、私の回答に不服そうだ。
 でも、私と隻さんは本当に、お友達だ。休みの合う日に、一緒に出かけるようになってから二ヶ月。もう六月に入るけれど、私たちはキスもしたこともなければ、手をつないだこともない。
 メールのやり取りは頻繁で、ほぼ毎日。当たり障りのないくだらないことばかりをやり取りしているけれど、好きだだの愛しているだのという言葉はお互い一つもない。
 隻さんは、綺麗な人だと思う。その優しさや、洗練された仕草の一つ一つや、時折見せる子供っぽさが、とても愛おしくもある。
 けれど、どうしてだろう。
 私はどうしても、あの人に恋愛感情というものを抱けずにいる。そして隻さんも、そんな雰囲気を男女の関係を仄めかしたりはしない。本当に――オトモダチなのだ。
 そんな感情、抱かないほうがいいと、私は知っていた。過去と同じ轍を踏むのは御免被りたかった。小春のように心地よい関係が、男女のそれになった瞬間、瓦解してしまう可能性を、私は知っている。
 そして、隻さんもそれを知っているのかもしれない。
 あの人に対する感情が、雪ちゃんや華ちゃんに向けるそれと微妙に違うということには気がついている。けれどそれ以上は考えたくもないし、何か、麻痺したような感覚があった。
 恋愛って、どんなものだっただろうかと。
「でも、恋愛って怖くない? 疲れない?」
 私はご馳走様、と手を合わせながら、彼女らに尋ねてみた。
「そんなこと言い出したら、ババアよ」
 と、ある意味ごもっともな意見が返ってきた。


「ま、いいんじゃない別に?」
 昼食の帰り、出張から帰ってきた棗先輩と鉢合わせし、私は一緒に廊下を並んで歩きながら、昼食時のことの顛末を話して聞かせた。棗先輩から返ってきたのは、賛同とも無関心とも取れる感想だった。
「無理に恋愛なんてするもんでもないと思うし。あんたも隻も楽しんでやってるんでしょ? 別にいいじゃない」
「そうですね」
「この間は何を見に行ったの? なんか買いにいったんでしょ?」
「ドレスです。今度、結婚式に出るので」
 百花と拓海の結婚式。あれ以来二人と連絡を取っていないけれど、結婚式の招待状だけはきちんと届いた。来週の木曜日の吉日の予定だ。
「先輩は結婚しないんですか?」
 棗先輩は、東京に恋人がいると聞いている。晩婚が進んでいるとはいっても、付き合いの長い恋人がいるのなら、結婚してもおかしくはなさそうだというのに。
 棗先輩は面倒見もいいし、子供が嫌いなわけでもない。厳しくも優しい母親になりそうだった。
「難しいわね。あいつとじゃぁね」
 棗先輩は苦笑してそう答えた。
「……すみません」
「いいわよ。……ま、関係に名前なんて必要ないってことよね。夫婦とか、恋人とか、他人と線引きする名前は、あったほうが便利なのかもしれないけれど」
 あんたも気にすることないわよ、と笑う棗先輩に、私は小さく頷いた。
 それにしても、今日は本当に眠い。外が雨であるということも関係しているのかもしれない。六月に入ってから、梅雨の名をほしいままに、天候はよく崩れている。今日も例外ではない。
「あれ?」
 廊下の向こうに、なにやらお偉い方々の一団を認めて、私は首を傾げていた。
「なんかあるんですかね?」
「取引先の見学か何かかしらね。ま、よくあることだけど」
 行きましょうとすれ違いかけたその瞬間。
「朔さん?」
 低い男の声が、私を呼んだ。
「え?」
 私は、顔を上げた。朔さん、などと親しく呼んでくる男は、この会社には居なかった。私は思わず棗先輩を仰ぎ見たが、先輩は違うということを示すかのように首を横に振った。
 振り返る。
 視界の端に、男の姿が浮き上がって見えた。
 そんな馬鹿な、と、私は呟いて、驚愕の眼差しで、一団に紛れて佇む男を見つめた。
 長身だが決して痩躯ではない。欧米人と並んでも見劣りしない体躯。浅黒い肌。黒髪黒目と面差しだけが、辛うじて日本人としての面影を留めている。その達観した雰囲気から、よく現地の東洋系と間違えられていた。
「ス、スム?」
 名前を呟いた瞬間。
 視界が、湾曲する。
 喉の奥に込み上げてくるものがあり、唇と指先が冷たくなってくる。貧血だと、すぐに判った。
「朔!?」
 私は書類を落としながら、棗先輩の横をすり抜けて廊下を走った。地面そのものが蠢いているように歪んでいる。大地震の最中を走っているかのようだった。視界が暗い。手探りでふらつく足元を支えながらどうにか洗面所にたどり着いて、私は便器の中に先ほど食べたものを全て吐瀉[としゃ]した。
 有本進[ありもとすすむ]
 米国で働いていた際の後輩だった。私が仕事を教えて面倒を見た。野心家なことは知っていた。いつか上に上り詰めてみせると熱っぽく語った後輩。その聡明さと孤独を、私は愛した。
 愛してそして。
 失った。
 気持ちが悪い。
 胃の中のものを全て吐き出しても、悪寒と嘔吐感はおさまる気配を見せなかった。手足の感覚がなく、消化液すら絞りだすように、胃の腑が戦慄いている。あれは全て過去だ。もう終わった過去であるはずなのに。
 そこで初めて、私はある一つの矛盾に気がついた。
 終わった?
 終わっていた?
 この恋が?
 とんでもない。
 この恋は、終わっていなかったのだ。
 終わっているのなら、ここまで引きずるはずがないのだ。毎夜毎夜夢に見て、うなされることも、時折亡霊の声のように聞くこともあるはずがない。
 私はさながら、一時停止[ポーズ]のボタンを押された、テレビゲームの登場人物[キャラクター]のようだった。ゲームオーバーになる寸前に、一時停止ボタンを押されたキャラクター。そうして、プレイヤーはゲームを放置した。
 彼にとっては全て終わったことだとしても、放置された側にとってはまだ終わっていない。終わらせることすらできない。
 出来ていなかったのだ。
『朔ちゃん』
 あぁ隻さん。
 無性に会いたくなった。子供みたいに笑う顔が恋しかった。時折とてつもなく恋しくなるのに、それが恋愛としてのものなのかどうか、わからなかった。私の知る、狂ったような恋情と、彼に抱く穏やかな感情はかけ離れていたから。
 会社のお手洗いは、ホテルのそれとも比べられるほどに綺麗なものだった。けれど便器は便器だ。ベージュのそれを抱えて貧血と吐き気に苦しみながら自覚するとは、笑えない。なんとロマンティックではないのだろう。
 それでも私はこの瞬間、初めて自覚したのだ。隻さんに対しての温かい感情。それに名前をつけるのなら、確かにそれも戀というものであると。
 それと同時に、私は気付いていた。この戀には踏み出せない。私の恋心は過去の狂気に囚われて、緩やかに朽ちるときを待っている。
 緩やかに、死んでいく。
 恋心。
 窒息から、私はずるずるとタイルの上に崩れ落ちた。
 こんな情けない状況に、笑い出したくなりながら。
「朔!」
 意識の隅で、棗先輩の声が聞こえた。


 さぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……
 からからと扉が開き、店内に雨音が鮮明に響く。反物の整理を行っていた雪は、振り返りながら、店内に入ってきた人影に声をかけた。
「すみません。もう閉店の時間なんですが」
 いつもは華と二人で閉店作業を行うために、雨戸ももっと早く閉める。ところが今日は華が二階に上がっていて、片付けが遅れていた。店内の明りから、客が開店中と勘違いして入ってきたのだろう。雪は、そう思ったのだ。
 しかし、傘を閉じて戸口に立った男は、微笑んで言った。
「知っています」
 雪は男に向き直った。男は丁寧に傘を畳んでいる。彼もまた、雪に向き直り、尋ねてきた。
「森宮朔さん、ご在宅ですよね?」


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