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間章:猫はつかの間虚偽を忘れ


From 森宮朔
Subject ありがとう
『二人に話だけでも聞いてもらえました。話できなかったっていうそれだけでこんなに辛いものだったんだ。話をしようっていう気になったのは、隻さんのお陰なので、一応お礼を。ありがとう(*^^*)』

From 妹尾隻
Subject Re どういたしまして
『何かした覚えはないけど(。-_-。)よかったね』

From 森宮朔
Subject Re それで
『来月のお休みっていつ? お礼に奢ってもらおうと思いまして』

From 妹尾隻
Subject Re それ
『お礼(笑)? 次の全休は今週の火曜日の予定だけど。来週じゃなきゃだめなの?』

From 森宮朔
Subject Re だって
『私普段お休み土日だから。次休みをあわせようとすると有給になるし。今月は決算月だから絶対無理』

From 妹尾隻
Subject Re なるほど
『でもそれなら今週の土曜日が昼からなら休みだよ。どこか出かける?』

From 森宮朔
Subject Re じゃぁ
『どっか連れて行ってクダサイ』

From 妹尾隻
Subject Re 了解
『リクエストがあるのなら受け付けますよ。お姫様』

From 森宮朔
Subject Re 考えるの
『めんどくさいのでお任せコースで。あ、でものんびりできるところがいいな』

From 妹尾隻
Subject Re わかった
『考えておくよ』


「御疲れ様でーす」
 三月の最後の土曜日。
 金曜の残業が終わらず、翌日持ち越しになって焦りはしたけれど、どうにか午前中のうちに終わらせることができた。机を片付け、お手洗いに入って慌しく身なりを整える。仕事のおかげで剥げてしまった化粧のままで、隻さんと出かけられる度胸は、私にはない。
「これからお出かけなんですって?」
 洗面所の鏡の前、欠伸をかみ殺しながら私の横に並んだのは棗先輩だった。
「はい」
「そう」
 棗先輩はポーチからお粉を出しながら笑った。
「いいご飯奢ってもらってきなさいよ。あんたちょっと痩せすぎなのよ、私から見ても」
「そうですか?」
 棗先輩のモデル顔負けのスタイルは、豊満でありつつも華奢だ。肩の線やすらりと伸びた手足は、私よりも十分細い。私は自分の身体をざっと眺めて――深く考えるのは止めておこうと思った。大体、この人と比べると、世界中ほとんどの人が自分のスタイルの貧相さに泣かなければならない。
 棗先輩はお粉のパフをぐっと握りこみながら、ぶつぶつ独りごち始める。
「そうよ。隻のことだから、いい店一杯知ってるわよ。存分にたかれ。むしろ財布を空にする勢いで」
「いや私もさすがにそんなことはできませんって」
「というか私が可愛がってる子達、なんで兄弟に取られていくわけ!? あーむかつくわー」
「先輩、よく判らないんですが、勘違いしてません? 私隻さんと付き合ってるわけでもなんでもないですよ? って、あーぁ手が粉だらけ……」
「むかつくわぁ」
「せんぱーぃ?」


 隻さんとは付き合っているわけではない。付き合うとしたら、私ではあまりに分不相応な気がした。
 運転をする隻さんの、その整った横顔を眺めながら、私は思った。
「どうかした?」
「ううん」
 私は首を横に振った。
「棗先輩が存分にたかれっていってたんで、何をたからせてもらおうかなぁと」
「あはははは。存分に好きなのを頼んでください。大丈夫、懐は暖かくしてきたから」
「おぉ。ご苦労」
 私は手触りのいい座席の背に身体を深く預けて笑った。隻さんが乗ってきた車は、初めて会った夜にみたものではなかったけれど、やっぱり乗り心地がいいものであることには変わりない。聞くところによると、あの高級車は宝石店を経営している社長さんのものであるらしい。
「あっちの車にも乗ってみたかったなぁ」
 と私がぼやけば。
「朔ちゃんって高級嗜好?」
 と、尋ねられた。
「んー、あまりブランドで固めるのは好きじゃないかな。扱いに困りそうだから。良いものっていう認識はあるし、大事に使っていけるものだとは思うから、長く使えるものにはほしいかも。車については、あぁいう高級車って、乗ることなんて滅多にないでしょ? だから話のネタとして、一度乗ってみたい。あーあと、リムジンとか」
「なるほどねぇ」
 高級車を仕事の上とはいえ、普通に乗り回している男にとっては、私の意見は理解しがたいものなのかもしれない。扱いに困るという点においては賛同する、と彼は言った。
「でも隻さん、ブランド物一杯もってそう。ホストってえーっと、貢物とか、一杯あるものなんじゃないの?」
「そんな興味津々に訊いて来る? ……貢物っていう類のものは確かにたくさんあったけど、手元にはほとんどないよ。皆換金してしまったし」
「……うわぁ……なんかプレゼントし甲斐のない男だなぁ」
「あのね。あんなもの、本当に全部残しておいたら俺の眠る場所なくなるよ。お客さんも換金覚悟でくれたりするんだし、そこらへんはあまり気にしないものなんだ」
「そうなの?」
「うん。残ってるのはスーツとかシャツとか。今つけている時計もそうだね」
「あぁ……この時計ね」
 大企業の社長がつけていてもおかしくはない、嫌味なほど高級なスイス時計。私が身につけている時計と、価値がゼロ二つ分、下手すると三つ分ぐらい違う。
「古い時計だけど、使い心地がいいから気に入っている。換金したお金は、勉強するのに使わせてもらった。まだ少し残っているけれどね」
 かこん、とギアを変える左手の手首、薄手のセーターの袖口から見え隠れする時計は、確かに使い込まれている。
「朔ちゃんは、気に入っているものを長く使うタイプ?」
「え? うん」
 移動が頻繁な生活をしていたから、荷物はあまり多いほうではない。気に入ったものはたとえ良いものでも買って、大事に使っていくほうが私は好きだった。
 たとえば、今日私が持っている時計や鞄。時計は大学を卒業して、初任給をもらったときに自分への祝いと激励を込めて買ったもの。ベルトの部分は幾度か変えたけれども、それでもきちんと動いている。鞄はニューヨークで一目ぼれした皮製のもので、大分くたびれて色も変わってしまったけれど、使い勝手がいいので頻繁に持ち歩いていた。
 隻さんが、声を立てて笑った。
「同じだねぇ。俺もそう」
 思い出す。
 一番初めに借りた、古い傘。
 あれも、確かに大事に長く使われた形跡があった。
 私は隻さんに微笑み返し、流れる外の景色に視線を寄せた。春。新しい出会いと別れの季節。
 この間の日曜日の夜、私は昌穂さんのケーキを囲みながら、雪ちゃんと華ちゃんに昔の話をした。
 詳細は省いた。とても長い話になってしまうから。ただ、一つの戀の終わりがどのように私に降りかかって、どのようにして私が日本に逃げ帰ったかということ。そして最近になって発覚した、後輩達の恋の捩れのこと。それらが原因で、昔が思い出されて、最近は上手く眠れないのだということを話した。
『大変でしたね、朔ちゃん』
 微笑みながら、雪ちゃんは言った。私が話したこと以上のことを追求せず、どうしたら私がうまく眠れるか、あれこれと案を捻りだしてくれた。
『あーもーそういうことはなぁ! もっと早ういってくれな、僕馬鹿やから判らんし!』
 雪ちゃんとは対照的に、あの男[・・・]に対して盛大に怒り狂ってくれたのは華ちゃんだった。他人が怒ってくれると、かなりすっきりするものだと私は始めて知った。米国であのことに係わった友人の反応は、ほとんどが共通の友人であるということもあって、ただ起こった出来事に当惑するか、価値観の多様な米国らしく、そんなこともあるのだ、と納得してしまうかのどちらかだったからだ。
『僕は嬉しいですよ』
 ケーキ皿を私と一緒に片付けながら、雪ちゃんが言った。
『そんな風に、話してくれることを、待っていましたので』
 雪ちゃんたちが、私が話すその日を、待っているのだと隻さんがいったその通りだった。
『ちゃんと話したほうがいいって、いってくれた人がいたのよ』
 微笑んだ私に、雪ちゃんが言った。
『あぁ――いい人に、出逢ったのですね。朔ちゃん』
「もうすぐ着くよ」
 車は高速の料金所に向かおうとしていた。高速を挟む山々は、美しく淡い桃色に色づいている。
 いい人に、出会ったのね。
 私、いい人に出会えたんだ。
 雪ちゃんもそう。華ちゃんもそう。
 そして、この人にも。
 私は周囲に咲き乱れている桜を見回しながら、隻さんに尋ねた。
「今日はお花見?」
「そうそう。お花見をしながらご飯食べられるところ。足湯もあるよ」
「あしゆ!? それって温泉!?」
 私はうきうきしながら身を乗り出して隻さんに尋ねた。温泉。とても大好きなのに、最後に行ったのは学生の頃だ。
「うん。温泉もあるけど……え? もしかして朔ちゃん入りたいの?」
「入る入る入る! うわぁ、美味しいご飯とお花見と温泉!? さすがツボを心得ていらっしゃいますねお兄さん」
「うっわ。こんなに喜んでもらえるとは思ってみなかった。じじむさいって怒られるかと思ったのに」
「温泉で私が怒らなきゃいけないの? 世界に誇るべき日本の文化。ビバお風呂」
「メインはご飯と花見なんだけど」
「それも楽しみ」
 趣味のよい隻さんのことだから、食事については心配していない。きっと美味しいものを出してくれるお店に連れて行ってくれるのだろう。
 私は笑い、隻さんも笑っていた。
 澄んだ蒼が天に広がる、暖かく眩しい春の日だった。


「ススム!」
 手を振って呼び止めてくるのは、エリナ・ミロハイフだった。細い金の髪を頭の上で束ね上げたドイツ系の才女。少し重ための上半身を揺らして駆け寄ってくる彼女を待つべく、彼は立ち止まっていた。
「ススム。今日でお仕事終わりなんですってね。日本に帰ってしまうって聞いたわ」
 ファイルフォルダを抱えなおしながら、エリナは言った。彼は頷いた。
「つまらないわ。日本の友達は皆帰国してしまうんだもの。残っているのはマユミぐらいで。去年だってサクが――……」
 エリナの口から零れ出た名前に、彼は少しだけ眉をひそめた。ほんの、少しだけ。
 もうここしばらく思い出さなくなっていた名前だった。
 事情を知らないだろう彼女は、笑って彼の肩口を叩いた。
「日本に帰ったらメール頂戴ね。今はチェリーブロッサムがとても美しい季節だと聞いたわ。あちこちで、ジェファーソン・メモリアル並みの花が見られるんですってね。是非写真を撮って送って頂戴。私はボブみたいにあなたを空港まで送ってあげることはできないのだけれど、元気でね」
 エリナの頼みを快諾し、抱擁をして、手を振って別れる。こんなやり取りをするのは、今日、何回目だろう。
 アタッシュケースを持って、外に出る。外のストリートは、多彩な肌の人間でごった返していた。
 その通りの中へと歩き出す。これから自分は、二度と帰らないのではないかとさえ思っていた古巣に戻るのだ。
 ニューヨークの摩天楼を吹き抜ける強い風が、コートの裾を翻した。


*ジェファーソン・メモリアル:米国、ワシントンDCにある公園。桜並木で有名。

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