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第四章:千日紅の虚偽の主 2


「ミスター・ススム・アリモトだ。今日から君の部下になる」
 上司は白人の選民思想の持ち主で、東洋人[オリエンタル]を見下す傾向にあった。新人の彼を私に押し付けてきたのも、その一端だろう。同じジャポネーゼ同士、仲良くしてくれたまえ。ジャップと呼ぶとさすがに彼もさらに上のボスに叩かれるので、そんな風に茶化して呼んだ。私は既にその程度のことで腹を立てることも既になくなっていたので、判りましたとだけ答えた。
「腹、立ちませんか?」
 二人きりになったあと、彼は肩をすくめて尋ねてきた。
「ミスター・アリモトは、腹が立つの?」
「いいえ、ミス。ただ私が上に立てばいいだけの話です」
 強気な発言に、私は笑った。米国では皆上昇志向が強い。だが東洋人のそれは好まれない。聞きとがめられれば、あまりよくない風評が立つだろう。
「いいけれど、それは胸中だけに収めておいたほうがいいよ」
 とんとん、と私は胸を指で叩き、そして右手を差し出した。
「初めまして。私はサク・モリミヤ。……森宮朔です。朔って呼んで。よろしく」
 進が微笑んで、私の手を握り返した。
「初めまして、改めて……有本進です。よろしくお願いいたします、朔さん」


 ひやりとした感触が手のひらにあって、私は顔をしかめた。視界がぼやけて、物の輪郭をはっきり見て取ることができない。
 ぐ、と手が握りこまれる。包み込まれた、といったほうが正しかったかもしれない。私はその手の感触を頼りに、首を傾げた。
 私の傍らには、人影がある。かすんだ視界の中では、その人が一体誰だか判別することはできない。けれど、その人が男だ、ということは体格から判った。
「すすむ……?」
 男の人が、微笑んだ。茶色の瞳が、柔らかく細められる。
 違う。
 彼ではない。
「隻さん……?」
「まだ寝ていて大丈夫だよ」
 額に、そっと手が触れる。その手を空いている手で握り締めながら、改めて、いつの間にか自分の部屋に横になっているということに私は気がついた。
「え!?」
 驚愕に跳ね起きる。私が起きた反動で、羽毛布団がひっくり返った。
 自分が横たわっていたのはいつも使っている自室のベッドの上で、私はきちんと寝巻きとして使っているトレーナーの上下を身につけていていた。外はいつの間にか暗く、けれど雨だけは変わらず降り続いていた。トイレで倒れたところまでは記憶しているけれど、一体何が理由で倒れたのか、思い出そうとすると頭が痛い。
 いや、そもそも。
「せ、隻さんなんでいるの?」
 そう、隻さんだ。ベッドサイドに腰を下ろして私を見下ろしている。襟元さえ緩めているものの、身なりは仕事帰りと思われるスーツ姿だった。
「何でって」
 隻さんは困惑の表情を浮かべた。
「棗からメールが入って。倒れたんだって? 君」
「え? ……あぁうん……」
 トイレでゲロって倒れました。それだけは起きた瞬間から認識していた。私は頷き、そして隻さんが棗先輩のメールを受け取って、わざわざ見舞いに来てくれたのだと悟った。
「心配かけて、すみませぬ」
「いやいや。思ったより顔色よくて、よかったよ」
 おそらく仕事が終わってすぐに来てくれたのだろう。私は自分の手のひらに重ねられた彼の手を見やった。ひやりとした手。けれど、とても気持ちいい。
 その手をどうしようか考えあぐねていると、こんこん、と軽く扉を叩く音が部屋に響いた。私は慌てて隻さんから手を引っ込めた。誰かに見られるのは、気恥ずかしいような、あまりよろしくないような気がしたからだった。
「目が覚めましたか、朔ちゃん」
「雪ちゃん!」
 開いた扉の向こうから顔を出したのは、雪ちゃんと華ちゃんだった。
「あぁぁぁぁぁ朔ちゃぁぁぁぁぁん!」
 がば、と私に抱きついてきた華ちゃんの顔を、ぐぐぐっと押し返しながら、私は苦笑した。
「と、華ちゃん……」
「華、朔ちゃんが重たいでしょう。妹尾さんも驚いていますし、ベッドから下りてください」
 雪ちゃんと華ちゃんの関係を、まるで犬と飼い主のようと思うのは、こういう瞬間だ。私の上、正確にはベッドから下りた華ちゃんは、大人しく雪ちゃんの傍らにちょこんと腰を下ろしていた。
「体温計がそこにありますから、計ってくださいね」
 雪ちゃんがベッドサイドのボードを指し示し、先に体温計を発見した隻さんが、私に脇に挟むタイプのそれを手渡してくる。私は受け取ったそれを、襟元から衣服の中へ突っ込んだ。すぐに、ぴぴぴと電子音を立てる体温計。表示は三十七度三分。
 私は体温計を胸元から引き抜きながら、雪ちゃんに尋ねた。
「ねぇ雪ちゃん。私、どうやってこの部屋に戻ってきたのか、思い出せないんだけど?」
「会社の人が運んでくださったんですよ。以前、このお店に来てくださった方ですね」
「えっらい別嬪のお姉ちゃんやで」
「つまりは、棗だよ」
 三人が口々に私の問いに答えてくれた。そういわれてみれば、意識が闇に飲まれる瞬間に、棗先輩の呼び声を聞いた気がする。
「今、何時?」
「夜の九時を少し回ったところです。明日は仕事を休んでいいそうですから、病院に行って、ゆっくり養生してくださいとの伝言を預かっていますよ」
「うわっ。メール入れて謝らなきゃ! 先輩だって忙しかったのに……!」
 出張から帰ったばかりで、しなければならない仕事が山積していたはずだ。先輩はそういうことを無言でしてくれる。そういう人だ。
 無言で、私が会いたいと思った人を寄越してくれる。そういう人だ。
 私はちらりと、隻さんを見た。隻さんは変わらず微笑んでそこにいた。
「とりあえず、朔ちゃんお腹すかへん?」
 昼ご飯は確か全て吐いたので、胃が空っぽだ。ぐぅ、と鳴るお腹を思わず押さえて、私は呻いた。
「空いたかも」
「ではお粥を作ってきましょう。華行きますよ」
「へ? お粥はもうつくもが」
 何かを言いかけた華ちゃんの口元をぐっと押さえ込んで、雪ちゃんは彼をずるずる引きずっていく。見かけによらず、雪ちゃんはとても力持ちだ。というか、華ちゃんは何を言いかけたのだろう。
「では、しばらく失礼いたします」
 ごゆっくり、と微笑んで、雪ちゃんは部屋の扉を閉じた。急に、部屋に静寂が訪れる。止むことのない雨音が、部屋の温度を徐々に下げていく。
 細く、息を吐いたのは隻さんだった。
「なんか、緊張するね」
「……そうだね」
「君の部屋だからかな」
「そうかも」
 私は、自分の部屋にあまり他人をあげることがない。たとえ、その人が親友や恋人だとしても。
 だからこんな風に緊張しているのだと、私は自分に言い聞かせた。
「棗が言ってたよ。米国にいた頃の、会社の後輩に会ったんだって?」
「……うん。……棗先輩から聞いたの?」
「君のことを呼んだ人に詰め寄って聞いたらしいよ。君達の会社の取引先の会社から、合同のプロジェクトを通じて派遣されてきている人みたいだ」
 私は掛け布団を握り締めながら、頷いた。意識がはっきりするにつれて、徐々に明確になってくる意識を失う前の記憶。
 隻さんの言葉で、あれは夢でも幻でもなかったのだと知れた。あの男は、確かに日本に、私の勤める会社に立っていたのだ。米国に居たはずなのに。
 何時、この国に戻ってきたのだろう。
「俺は、君が米国にいたってことも初めて知ったけどね」
 隻さんの言葉は、どこか皮肉めいた物言いだった。私は面を上げて、ごめんね、と言った。
「ごめんなさい。別に黙ってようとかそういうわけでもなかったんだけど」
「うん。そうだと思ってる。俺も聞かなかったしね。気にしなくても大丈夫」
 隻さんはそういって笑うけれど、私の目には傷ついて見えた。この人も、ずっと待っていてくれたのかもしれない。雪ちゃん達が、半年も待ってくれていたように。私がどこで何をして、どういう経緯で、血のつながった人間でもなんでもない雪ちゃんたちと暮らしているのか。
 そういった一切合財のことを、私が彼に話す日を、ずっと待っていてくれたのかもしれない。
「あのね隻さん」
「朔ちゃん」
 暗い窓の外を眺めながら、彼は私の発言を遮った。
「その人が、睡眠不足の原因?」
 隻さんは私と目を合わせない。私は小さく頷いた。
「まだ、俺には話せない?」
 私は布団を握り締める手に視線を落とした。握りすぎて、血の気を失った肌がそこにある。
 この人はずっと待っている。
 私が過去を話すに足る、そういう人になれることを待ってくれている。
 それでも私は迷っていた。
 この、まだ終わらせてすらいない戀を話すべきなのか。
 今私が、惹かれている人だからこそ。
 ばんっ!
 私は耳朶を打った殴打の音に、びくりと身体を震わせた。それは無論、私を殴ったものではない。私の身体越しに、彼が壁に拳を叩きつけたのだ。
「吐いて、倒れて、気を失うぐらいだったんだろう!?」
 すぐ眼前に隻さんの顔があった。吐き捨てるように彼は叫んだ。今まで見たことのない激情がそこにあった。
「ごめん」
 そういって身を引きかける隻さんの身体に腕を伸ばした。初めて抱きしめる彼の身体は、予想よりもうんとしっかりしていた。私を包む僅かなシトラスの香り。厚い胸板に、とんと額を押し付けて、私は言った。
「会社の後輩だった。部下だった。私が全部面倒みたの。女の気持ちとかかけらも理解しないようなデリカシーのない男だった」
 実際彼はそうだった。甘い言葉一つ、女にかけられないような男だった。そんな男が、何故私を慰めるまねをしたのか、私にはわからない。おそらく、私も彼も、あの弱肉強食を突き詰めたような国で孤独だったからだろう。
「なのに、いつの間にか、戀をしていた」
 今朝見た夢を思い出す。千日紅を差し出して、少年のように笑った男。あの瞬間に、私は戀をしたのだ。
「何時からか、彼は私を避けるようになった。何が起こったのか、判らなかった。私は戀を面に出したつもりはなかった。私にわかったのは、私たちの関係は壊れようとしているということだけだった」
 それは、恋人同士のそれではなかった。けれど私たちはとても上手くいっていたはずだった。上司と部下として、友人として、もしかしたら、恋人に近かったのかもしれない。時折私たちは手を取り合って、遠い地平を見にでかけたりもしていた。
 いつからかその関係は壊れ、私たちの間には緊張が走り、そうして、少しずつ病んでいった。
「私たちは上司と部下ではなくなった。部署は別々になって、会わない日が続いていった。ある日、私は友人達の呑み会に呼ばれて、そうして彼に再会した。正体がなくなるまでお酒を飲んで、そして」
「もういい」
 隻さんが私の身体を強く抱いた。彼の付けているフレグランスがふわりと薫る。力強い腕だった。
「もういい。もう聞かないから。ごめんね朔ちゃん」
「いいんだよ隻さん。それよりも、ちゃんと聞いて?」
 今ここで話すことをやめれば、私は二度と彼にこの戀を話すことはないだろう。鼻の奥の熱さを堪えながら、私は続けた。
 隻さんは、もう止めろとは言わなかった。ただ、今にも崩れ落ちてしまいそうな、熱っぽい私の身体を支えていてくれた。
「そして、気がついたら私は彼の背中を見送っていた」
 そう。気がついたら、私は彼の背中を見送っていた。
 すべてのことが終わった後で。
「この世で一番嫌いな人間が私なのだと、彼は言った。ねぇ、信じられる? 記憶が曖昧な中、私は確かにあの男に抱かれて歓喜していた。これで関係が修復できると。けれどそんな馬鹿な私に叩きつけられたのは、強制的に戀を終わらせる最後通牒とも呼べる一言で、そして私に残されたのは、状況が状況なだけに、妊娠しているかもしれないという可能性と恐怖だった」
 あの頃、私は体調を崩した。何度も何度も夢に見た。望まれない子供がお腹の中に宿っているという可能性。恐怖はたった一週間で終わった。生理が来たのだ。
 私はいつの間にか、目頭の熱さを堪えることができなくなっていた。私は息苦しさに面を上げて、自嘲の微笑を口元に刻んだ。
「子供こそ出来なかったけれど、気がつけば私の仕事の地位は全部彼のものになっていて、彼は私たちの上司を恋人に得ていて。事情を知った同僚[ゆうじん]たちは、みな私を哀れみの目で見る。私に、あの会社に居続けることもできなかったし、体調を崩した私に、あちらの水は会わなくなっていた。私は日本に帰ってきた」
 米国で身を立てて、私はあちらでディーラーになりたかった。小さい頃からの夢だった。そのために滑り込んだ会社で、一人で頑張ってきたのだ。もともと、あちらの脂っこい食習慣や、硬水は、私に合っていなかった。体調をすぐに崩してしまったのも、それが原因だろう。
 私は全てを失った。
 否。
「私は、日本に逃げてきた……」
 私は、全てから逃げてきたのだ。
 違う会社に入りなおしてやり直すこともできた。けれど私はそれをしなかった。全てを投げ出したかった。全てを投げ出して眠りたかったのだ。米国での生活は刺激的で楽しかったけれども、それと同時に私の神経をすり減らした。最後にした、狂ったような戀は、私から健全な精神や気力といったものを抉り取ってしまった。
「馬鹿でしょう、私……」
 つまらない男に戀をした。ただそれだけだった。けれどどうしようもないほどに、求めてしまう。まさしく狂ったような恋情だった。
「馬鹿じゃないよ」
 隻さんは私の髪に頬を埋めて言った。
「馬鹿じゃない。よく頑張ったね」
 ぎゅう、と抱いてくれている腕に力が込められる。あぁ、愛しいなと思った。この抱きしめてくれる腕、触れている髪、一つ一つ。
「朔」
 隻さんが囁く。とても甘い囁きだった。
「朔」
 彼の震えたような声に、私は面を上げていた。目が合う。彼の長い睫毛は女として少し羨ましい。整った鼻梁。薄い唇。
 口付けたいなと思った。
 私の名前を優しく囁くその唇に。
 私を見つめる、隻さんの目元が細められる。私はその眼差しに陶然となった。
 なのに、あぁ、なんで思い出したのだろう。
『朔さん?』
 私を、呼ぶ声。
 久しぶりに聞いた。夢幻[ゆめまぼろし]ではなく、確かに私を呼ぶ声だった。あれから、私と目すら合わせなかった男が。何故今更、すれ違っただけの私を呼んだりしたのだろう。名前を呼ばれなければ私は彼の存在に気付かなかったというのに。
 私は、隻さんの口元に手を添えて、彼の胸に再び額を押し付けた。
「隻さん、ごめんなさい。今は……だめ」
 駄目だ。
 こんな風に、なし崩しみたいに。
「駄目」
 部屋が、静まり返る。隻さんは私を抱きしめたまま動かない。
 やや置いて、彼はゆっくりと私の身体を押しやった。
「……隻さ……」
「ごめん、朔ちゃん」
 隻さんは微笑み、帰るよ、といった。彼の袖口を握り締める私の指をゆっくりと外して、隻さんは続ける。
「君がゆっくり眠るためには、俺がいないほうがいいみたいだ」
 そんなことない。
 拒絶してしまった手前、私はその言葉を飲み込んでしまった。泣いて縋ることもできなかった。待って、という呻きはかすれて言葉を象らず、隻さんを呼び止めることは叶わなかった。
 扉の向こうに消える背中を見て思う。
 あぁ、私はこの人を傷つけたのだ。
 あの時と一緒だ、と思った。進が、私と最後に言葉を交わして去った時と。
 私は蹲った。その場に。布団を掻き抱いて。立ち上がることも、叫ぶことも出来ずに。


「なんでなんなんでなんなんでなん!?」
「華、説明しますから少し黙りましょう。ね?」
 凄みを利かせて雪が微笑むと、華は不服そうだが押し黙る。あの状況をどうやって噛み砕いて説明しようか、雪はこめかみに痛みを感じて手を添えた。
「あぁ……ですから、あの状況だと僕達はお邪魔虫なわけです。少しの間気を利かせて、二人きりにしておいてあげなければならないんです。お粥を温めるだけだったらすぐに持っていかなければならないでしょう。作るといえば、少し時間が空くわけですから。ね?」
「……もしかして、僕が味わっとうこの気分は、娘を嫁にやるっちゅうそんな甘酸っぱい気持ち?」
「いまいちピントがずれているような気もするんですけれども、ひとまず僕が言ったことは理解してくれているみたいなので、嬉しいですよ」
「そうか……いつかは嫁にやらなあかんのんか。朔ちゃん……」
 切なそうに呟く華は、一体朔のことを何だと思っているのだろう。猫だろうか、娘だろうか、妹だろうか。嫁に出す、といっているのだから、おそらく娘なのだろう。
 雪にとって、朔はどんな形であれ、紛れもない大事な家族だった。華に抱く愛情とはまた違う形のそれを、雪は朔に抱いている。そして彼女はある意味恩人だった。父親の周囲に群がる醜い女たちに絶望していた雪は、家に転がり込んできた朔の純粋さに、随分と癒された。
 彼女もまた、戀というものの被害者だ。立場が絡んだ戀は、人を狂わせ醜くさせる。純粋な人間だけが突き落とされる。雪自身は男女の関係に絶望したが、今日訪ねてきた男を見る限り、朔はまだ絶望する必要がないのだと知った。それは、とても喜ばしいことだ。
 華を選び取ったことを後悔するつもりはない。しかし何かに絶望してしまうということは、ひどく哀しいことだった。
 そろそろいいか、と思いながら、雪は粥の入った小さな土鍋を火にかける。くつくつと煮え始める鍋を見つめながら、雪は華にお茶を淹れるよう頼んだ。
 かたん……ぱたん
 扉の開閉音に、雪は眉をひそめた。
「華、火を見ておいてください。温まったらとめて」
「えぇよ?」
 華に後を任せ、キッチンをぬけ、テーブルの傍を通って、雪は廊下を覗き込んだ。廊下を歩いていたのは妹尾と名乗った男だった。こげ茶色の髪に陶器のような肌。スーツの上からでも判る、均整の取れた体躯。雪の目から見てさえ、男は怜悧な美貌を備えていた。
 男は、静かに目礼した。
「お帰りになられるのですか?」
「はい。今夜はもう遅いですし、用事も終わりました」
「用事」
 男は頷いて、背後を振り返った。扉の閉じられた部屋――朔の部屋がそこにある。
「……もし、彼女が泣くのなら」
 男は瞑目した。若さを保つ彼の美貌には、かすかに疲労が滲んでいた。
「傍にいたいと思ったんです」
「……泣きましたか?」
 男は微笑んで答えない。追求することでもないだろう。
 玄関まで送ろう。そう口にしかけた雪の動きを封じるように、男が口を開いた。
「昔、同じように、泣くのなら傍にいたいと思った子がいたんですが、いつも失敗していたんですよね」
「……失敗ですか?」
「いつも先を越されていました。泣いているだろうと思って、その子の元にたどり着くと、いつもそこには、僕よりももっと注意深く彼女を観察している男がいて、僕の代わりに傍にいました。悔しかったですね」
 彼は、何を言いたいのだろう。
 男の意図が読めず首をかしげている雪に、男が笑った。
 すこし、寂しそうに。
「けれど、たどり着けたらたどり着けたで、その子の涙を、ただ掬い取って、ただ傍にいるだけというのは、それはそれでまた、とても難しいことなんですね……」
 自嘲の、笑いのようだった。
 雪が繋ぐべき言葉を探している間に、男は素早く再び一礼し、ここで結構ですと言い置いて、玄関へと続く階段を下りていった。おやすみなさいという男の声に、雪は自動的に返事する。しばらくして、ぴしゃり、という裏口の戸が閉まる音が聞こえた。
 男の背を見送った雪は、踵を返して、朔の部屋の扉を叩いた。
「朔ちゃん? 開けますよ?」
 部屋の中はとても薄暗かった。今しがた帰ったばかりの男が明りを消したのか、それとも朔自身がそうしたのかはわからない。ただ、朔は暗い部屋の隅で、布団を頭から被って蹲っていた。
「朔ちゃん?」
 雪はベッドの傍らに片膝をついて朔を見た。彼女は、布団の中、脅えた猫のように身体を丸めて震えていた。その顔は蒼白で、下唇を傷つけそうなほどに、きつく噛んでいた。
「私、傷つけた」
 掻き抱く己の腕に、爪を食い込ませながら、朔が言った。
「私、あの人を傷つけちゃったよぅ……」
 悲痛な、呟き。
 朔はそれ以上黙りこくった。
「雪ぃ、朔ちゃん、お粥でけたでー」
 明るい華の声が廊下から響く。返事のない自分達に業を煮やしたらしい華は、部屋に踏み込んでくるなり呆然としたように足を止める。
「……朔ちゃん、泣いとるんか?」
 華の問いに返事はない。
 ただ、雨音に混じる、すすり泣きだけが響いていた。


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