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第三章:千日紅の虚偽に惑う 2


「昔話を聞いてくれる?」
「昔話?」
「そう」
 隻さんは腕を組んで、ぐるりとこの空間を見回した。私は夜遊びがあまり好きではないので、クラブとよばれる場所に好んでいくことはない。それでも米国にいたときは本場のブロードウェイのクラブを梯子したこともある。このこぢんまりとしたクラブが、酷く趣味のよいもので、高級なものだということはすぐに判った。
「俺は昔ここでホストをしてました」
 隻さんの告白に、私は一瞬目を点にした。
「……ホストって、えーっと、ホスト? 女の子に仕える、あのホスト?」
「そう。そのホスト」
 頷く隻さんは至極真面目だった。あぁだめだ。笑ってはいけない。
 笑ってはいけないとは、判っているのに。
「ぷぷぷ……なんか、似合いすぎるんだけど」
「あーもう絶対笑うと思ったよ」
 私の反応を読んでいたらしい隻さんは、盛大に嘆息を零して項垂れた。ごめんなさい、と私は笑って、向き直った。とても真剣な話をするために、私をここに連れてきたのだと、私は判っていた。
 隻さんは肩をすくめ、天井を仰ぎながら話を再開した。
「出逢ったばかりの君にこんな話をするのも、奇妙だとは思うけど」
 そう、前置いて。
「昔の俺は、ろくでなしだった。君がいったみたいに、大勢の女の子をひっかけては遊んで、いらなくなったら切り捨てた」
 それは、私の発言に対しての嫌味ではない。彼は微笑んでいた。口先を歪め、少し哀しそうに目を伏せて。自嘲の微笑だった。
「俺って、自分で言うのもアホらしいけれど、眉目秀麗っていうやつでしょう。その上、なんでもそつなくこなせた。どんなことでも。語学を学べば、読み書きはもちろん話すことはすぐできるようになったし、スポーツだって少しやるだけで、子供の頃から努力を積み重ねてきている人たちの立場を簡単に奪えてしまった。子供の頃から、人は腐るほど寄ってきた。特に、女の子は。俺の傍にいるだけで、特別になれる気がする。そんなことをみんなよく言った」
 そういった話は、棗先輩からも聞いたことがあった。誰よりも秀で、誰よりも美しい。周囲に居る人間は、劣等感から嫌悪を示すか、それを誤魔化すために傍に擦り寄ってくるかの、ほぼどちらかだと。
「何でもできるっていうのは、酷く退屈なことでね。君の言う通りに、退屈を紛らわすために擦り寄ってくる女の子を、俺は文字通り、使い捨てた[・・・・・]。俺は外見や才能といったものを傲慢に振りかざして、そうして周囲の人間を無意識のうちに見下し続けた。俺を飽きさせない人間を探し続けて、何人も何人も試し、そして失望するたびに使い捨てていった。だから、君が俺にいったことは、ある意味事実」
 にこりと笑う彼に、私は尋ねた。
「……今も、そうなの?」
「どうだろうね」
 彼は肩をすくめて、判らないと言った。
「……ただ、そんな俺にも転機が訪れた。初めて、俺を退屈させない人間が現れたんだ。その子は俺よりも一回り以上年下の、高校生の女の子だった」
 一回り年下の女の子が、高校生だというのなら、転機とは数年前だ。どんな子だったのかと私が問うよりも先に、隻さんは言葉を続けていた。
「真っ直ぐに人の目を見る子で、自分が一番大変なはずなのに、よく他人のトラブルに首を突っ込む子だった。面白おかしくちょっかいかけただけの俺にも真剣に付き合って、俺がごく普通の人間だといって笑った。俺が、とても寂しい人間で、孤独と退屈をもてあましているのは、俺が傲慢で、他人をそんな風に扱ってこないからだとあっさり言った。俺は……あれは晴天の霹靂っていうんだろうなぁ……周囲の人間の上辺だけしか見てこなかったんだと、初めてその時思い知らされたんだ。上辺だけしか見ない人間とは、皆上辺だけの付き合いしかしないに決まっている。そんなことを、彼女の存在を通じて初めて思い知らされた」
 隻さんの眼差しは笑みに彩られていた。けれど、瞳の奥に宿る光は少し哀しげだ。
「俺は初めて、大人になった。大人への一歩を踏み出したっていうのかな。笑っていいよ。その時すでに三十路は過ぎていて、本当なら周囲の人間を大事にして然るべき立場だったんだ。年齢を重ねるだけで、大人になれるなんて誰が言ったんだろう。俺は彼女に出会ってようやく、他人を大事にするっていうことは、自分に跳ね返ってくるということを知った。遊びとは全部縁を切って、ホストも引継ぎを終えてすぐに辞めた。彼女と出会う前はお遊び半分で手伝っていた宝石店の仕事に、打ち込むようになった。勉強も色々必死でしたよ。友達とか、仕事仲間とか、兄弟とか、今はそういうものを大事にしようと、思っている」
 隻さんは、私に向き直った。
「実際に大事に出来てるかどうかは、わからないんだけどね。鋭意努力中。……それが、今の俺」
「できてると思うよ」
 私はソファーから立ち上がり、隻さんのすぐ前に歩み寄った。きょとん、と丸められた彼の目に、私が映っている。
『仲良くしてあげて』
 少し、照れながらそう言って来た棗先輩。大学時代の頃、兄弟がいるとしか聞いたことがなかった。何をしているか知らないわ。とても冷たく言い放っていた過去の先輩はもう居ない。軽口を叩きながら、あんなふうに笑って、兄のことを褒めるのだから。
 隻さんは、破顔した。
「ありがとう」
 以前にも一度思った。子供のように笑う人だと。
 この人は、子供のような純粋さをどこか残したまま、大人になれたのかもしれない。
 一つの戀を通じて。
「いい恋をしたんだね」
 私がそういうと、彼は顔をしかめた。
「大失恋だったけどね」
「そうなの?」
 意外だった。ある程度の恋を知って、立場に縛られている大人でも、隻さんに本気で迫られたらころりとなびいてしまうような気がする。それが、大人との恋にあこがれるだろう女子高生ならなおさら、一つ返事で付き合いを了承していそうな気がするのだけれど。
「全然なびかないんだ。結構強引な手を使うたびに、もうちょっと大人になってくださいって、たしなめられた。色々あって袖にされたあと、今では可愛い妹分だよ」
「お目付け役なんだ?」
「そんな感じ」
 会ってみたいな、と思った。失恋の思い出なのに、そんな風に綺麗な形で語られる少女に。
「……どうして、私にそんな話をしたの?」
 いくら綺麗な恋の話だとはいえど、内容それ自体は恥ずべきものだろうに。ゲイのカップルと暮らしている私は、年の差の恋ぐらいで興奮したり反論したりするような人間ではない。そんな人もいるのだな、ぐらいだ。私は自分に考えを押し付けられない限りは、人の嗜好というものによくいえば寛容、悪く言えば、鈍感なのだろう。けれど、そんな人間ばかりではないと私は知っている。
 出逢ってまだ、三回目。一回目はカウントすべきかどうかというほどの短い時間。人となりを知るにはあまりに短すぎる。
 過去の自分をさらけ出すには、あまりに、私は不適当ではないだろうか。
「んー……そうだなぁ」
 顎に手を当て、隻さんは思案していた。
「ムキになったのかも」
「ムキ?」
「そう」
 隻さんは頷き、躊躇いがちに口を開いた。
「さっき君に言われたことに対して、傷つかなかったっていったら嘘で」
「……ごめんなさい」
「いや、それはいいんだけど。こっちもゴメン蒸し返して。……それで、なんというか、ムキになったんだ。今の俺はそうじゃない! みたいなね」
 あぁでも結局、子供っぽいのは昔と同じか、と彼は笑った。私も釣られて笑っていた。
「だから君を捨てたりはしないよ」
 笑っている私をしばらく眺めていた隻さんは、ぽつりと呟いた。私は息を呑んで、弾かれたように隻さんを見る。椅子に腰を預けたままの隻さんは、とても真っ直ぐに私を見ていた。
 きっと、隻さんが好きになったという少女と、同じ眼差しで。
「君に何があったのかは判らない。なんとなくは判るけれど、今は深くは追求しない」
 私は俯いた。今、それを追求されることは確かに辛かった。
「けれど、それが原因で人に八つ当たりしたり、罵ったり、そういうことをしても、大抵は許せるものだと思う。君を本当に心配している人なら、なおさら」
「……そうかな?」
 何も言わず、何も聞かず、ただ私を拾って受け入れてくれた雪ちゃんと華ちゃん。
 あの二人に、八つ当たりをするなんて、とても考えられない。
「一人で辛そうに抱え込んで、不眠症になるぐらいなら、誰かに言ったほうがいい。八つ当たりされたほうが、よほどいいよ。……棗から、呉服屋の二人と住んでいるって聞いたけど、その様子じゃ、彼らにも何も言ってないんでしょう?」
 図星を突かれた私は、ぎくりと身体を強張らせた。
 何故、私が保護されなくてはならないほどに、雨の中を徘徊していたのか。何故、毎夜毎夜悪夢にうなされていたのか。
 私は、あの二人に何も話していない。
「不眠症だって、何で判ったの?」
「俺にも経験があるし、そういう風に眠れなくなる人を間近でも見た。目の下の隈からだけじゃなくて、雰囲気でわかるよ。……一人で抱え込みそうな顔もしてるしね」
「……そんな顔、してるかな」
「うん。してる」
 隻さんは小さく頷いた。
「……そっか」
 そんな顔を、しているのか。
「それに、特に君と一緒に暮らしているっていう二人は、相手が語らない過去に踏み込んでいくようなタイプでもないでしょう」
「雪ちゃん達を知ってるの?」
「棗から話は聞いたしね。同じ繁華街だ。一、二回、顔を見たことある程度だけど」
 そういわれればその通りだった。キャラメルボックスとうちの呉服屋は、それぞれ対極の場所にあるとはいっても、ご近所といえてしまう距離にあるのだ。顔を知っていてもおかしくはない。
「どういう事情で君達が一緒に住んでいるのかは俺には判らないけれど、赤の他人が一緒に暮らす以上、無関心はとても難しいっていうことを、俺はよく知っている。切羽詰った事情がない限り、好意がないのなら一緒に住むという選択肢すらないだろう。それなのに君達は一緒に暮らしているんだ。その上で、彼らが君に何も言わないのなら、ただ、彼らは待ってるんだと思う」
「私が、話すのを?」
「そう」
 私は再び俯き、瞑目した。私が気落ちして帰宅するたびに、何も聞かず傍にいてくれる雪ちゃんと華ちゃんを思い出す。昨日も沢山甘やかしてくれていた。大丈夫と口にすると、少し傷ついた顔をする二人。
「女の子に頼ってもらえることに喜びを見出すのは、男の性っていうものだよ」
 そういって肩をすくめる隻さんに、私は微笑んだ。
「ありがとう」
「どういたしまして」
 微笑み返してくる隻さんを見つめながら、私は雪ちゃんの言葉を思い返していた。
 人を傷つけるのが、人ならば。
 人を癒すのも、また人なんです。
 本当だね、雪ちゃん。
 本当にその通りだ。
 私に致命的な何かを負わせたのも一人の男なら。
 私の背中を押してくれる人も一人の男だ。まだ会って、ほんの少ししか経っていないのに、親身になってくれる優しい人だ。
「なれてるよ、隻さん」
「ん?」
「周りの人を大事にする人に、隻さんは、なれてるよ」
「……そうかな」
 首を傾げる隻さんに、私は胸を張って頷いた。
「私の気分がこんなに晴れやかになってるのは、隻さんのおかげだし。それとも私のお墨付きじゃ、頼りないかな」
「いやいや。頼りないなんて」
 隻さんは私の言葉に、盛大に首を横に振る。
「そんな滅相もない。恐悦至極とはまさにこのこと」
 なんて輿にのった言い方を隻さんがするものだから、私は思わず笑ってしまった。


「なぁ」
「はい」
「まだかなぁ」
「まだでしょう。というか、何度目のやり取りなんですか。いい加減にしてくださいよ華」
「だってやなぁぁぁぁぁぁぁ!」
 帳簿をつけている雪の横、畳の上にぺったりと華が崩れ落ちた。卒業式や入学式のシーズンということもあって、それなりに人の入りがある店内も、夕刻過ぎれば客足遠のく。今、店内には雪と華以外に誰もおらず、筝曲が低いヴォリュームで流れていた。華はしばらく反物や小物の整理をしていたようだが、飽きたらしい。数分置きに、先ほどのやり取りを繰り返してくる。
「だってやで。だってやで。朔ちゃんまだ帰ってこおへんし。お昼ご飯のときもこおへんかったし」
 はらはらと涙をこぼす勢いで呟く華に、雪は帳簿から目を離さず応じた。
「お昼はいらないと、メールがありましたよ」
「だってもう夕方やのにー!」
「華」
 嘆息してペンを置くと、雪は畳の上に大の字で突っ伏している作務衣姿の恋人を見下ろした。
「朔ちゃんだって大人なんですから、付き合いの一つや二つあるでしょう。晩御飯までに戻ってこないんでしたら、またメールしてきますよ。今日の晩御飯当番は朔ちゃんですし」
「雪は心配やないんか?」
 頬を膨らませながら、華が言った。
「先週かて、土曜日は出かけて帰ってきた思たら、なんや暗い顔しとったし。日曜日にちょっと元気になりよったんかなぁと思ったら、また昨日や。この家に来たときみたいな、この世の終わりみたいな顔して。最近忙しいみたいやし。疲れとんかなぁ。どうなんやろか」
「心配なことは僕も心配ですよ。とても」
 森宮朔が自分達二人の家に転がり込んできたのは、半年前の夏だった。蒸暑い日が続いた、夏の終わりの雨の日に、自分達は彼女を拾ったのだ。水に濡れて、凍えた猫のような彼女を、誰かが保護しなければならなかった。彼女の身に降りかかったのは一つの戀の終わりだ。そしてそれに伴って、彼女は仕事や友人、居場所といったものまでも失ってしまった。それだけが、雪の知る全てだった。
 戀一つ、失う程度なら人は立ち直れる。
 しかし連鎖的に、様々なものを失いすぎてしまうと、たかが戀といえども侮れない。
 そうして壊れた女を、雪は一人知っていた。
 保護した後、朔は大学時代の知り合いを通じて仕事を得た。それからは少しずつ、立ち直っているように見えた。
 だというのに、近頃どうも、『揺り返し』が起きているようなのだ。病にも些細なことでぶり返してしまうことがあるように、心の傷にも同じことが起こる。
 何がきっかけかは、わからない。
「けれど、こちらが踏みいっていいような事情でもないでしょう?」
 諭すように雪は華に言ったが、彼は納得しないようだった。
「やけどやなぁ雪。こっちから聞いてやらんと、にっちもさっちもいかへん事だってあるやん? 朔ちゃんは大丈夫大丈夫いうけどな、ちっとも大丈夫なことあらへんやん」
「華――……」
「お前んときかてそうやったやん。そらつっこんで、朔ちゃんがごまかしよるんやったら、触れられたくないんやろなぁって思うし、僕かてそれ以上つっこまへんけど、僕ら今の状態やったらいわば放置やん。様子見やん。そんなん、なんの解決にもならへんし、僕らやってしらんうちに朔ちゃん傷つけてしまうことやってあるかもしれんやん。だったらちょっと突っ込んで、様子をみたらあかんのん?」
「あぁ」
 雪は目を閉じて、頷いた。
「そうでしたね……」
 雪がいまこうしているのも、華がいるからだった。家に奉公しに来た少年が幼い頃は珍妙だとさえ思えた、あっぴろげな関西の言葉で、一人蹲っていた雪の扉を開けたのだ。
「それに、僕アホなんやから! 説明してくれな僕にはムツカシイことは全然判らん! はっきりさせとかな、むずむずするし!! 誰かこの状況の説明僕にしたってー!!!!!」
 傍らの畳の上で子供のようにごろごろ転がりだした華に、雪は嘆息しながら低く呻いた。
「珍しくまともなことを言ったと思ったら、実はそれが原因ですか、華……」


「ただいまぁ」
 靴を脱ぎながら声を上げると、どたばたという足音が細い廊下に響いた。店舗へ続く引き戸ががらりと開いて、華ちゃんが顔を覗かせる。
「お帰り朔ちゃん!」
 華ちゃんはまるで主人の帰りを待っていた子犬のような様相で、私の元に駆け寄ってきた。彼の後ろに、左右に振られるふさふさの尻尾が見えるような気がする。
「ただいま、華ちゃん」
「あんなぁあんなぁあんなぁ……それ、なんなん?」
「え? これ?」
 何かを報告するかのような素振りを見せながら、華ちゃんが指差してきたのは私の手元にある箱だった。ケーキ用の箱には、白地で黒い猫の刻印が押してある。
 昌穂さんのお店のケーキだ。
「お土産。美味しいよ」
 結局あれから、隻さんと一緒に猫招館に私は戻った。お金は置いてきたけれども、勝手に飛び出してしまい、ケーキを無駄にしたことに対する謝罪をするためだった。そうとう脅えながら戻ったのだが、昌穂さんは許してくれた。あの気難しいところのある棗先輩と親友をやっているというのは、伊達ではないらしい。あの程度、謝られるような範疇には入らないと笑い飛ばされた。
 それから、昌穂さんが保存してくれていた、食べ損ねていたケーキを隻さんと二人で平らげて戻ってきたのだ。
 手元にあるケーキは華ちゃんたちへのお土産だった。というか、本気死ぬほど美味しかったので、これは彼らに食べさせなければならないという使命感のようなものに、私は燃えていたのだ。本当に美味しかった。今まで口にしたどんな有名なケーキ屋の品物よりも、美味しかった。
「やたー! ケーキやケーキ!」
 私から箱を受け取り、中身のケーキを確認して、華ちゃんは小躍りをした。なんだか、子供にお土産を与えた気分だ。
「何を騒いでいるんですか華。……お帰りなさい朔ちゃん」
「ただいま、雪ちゃん」
「ゆきー。朔ちゃんが土産買うてきてくれたで! めっさ美味いって有名やんこの店! 俺一度食べてみたかってん」
 冷蔵庫に入れてくる、と喜々とした叫びを上げながら、華ちゃんは住居区画である二階へと上がっていく。私は雪ちゃんと目を合わせて、苦笑しあった。
「あのケーキ本当に美味しいよ。ご飯の後にデザートとして食べようね」
「はい。ありがとうございます朔ちゃん」
「いーえ。それじゃぁ晩御飯の支度、してくるね」
 今日の晩御飯の献立は、菜の花のお浸しと茄子にベーコンを挟んで焼いたもの。手に提げた買い物袋をがさがさといわせながら狭い階段の手すりに手をかけた私は、ふと思い立って背後を振り返った。
 店へ続く戸口には、まだ雪ちゃんが居る。
「あのね、雪ちゃん」
「はい」
 雪ちゃんは、なんですか、と小首を傾げてきた。もう店に戻ってもかまわないのに、まるで私を見送るように佇む雪ちゃん。その様子は、階段を踏み外さないだろうかと幼い子供を見守る親のようだ。
「後で、相談したいことがあるんだけど、いいかな?」
 雪ちゃんは微笑んだ。
「もちろんです」
「あんまり、明るい話でもないんだけど」
「えぇ」
「話を聞いてもらうだけになっちゃうと思うんだけど」
「かまいませんよ」
 当たり前じゃないですか、と笑う雪ちゃんに、私は微笑み返した。
「ありがとう」
 とんとんと、階段を上っていく。
 一つ一つ。こんな風に前に進めていけたらいいのにと思った。


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