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第三章:千日紅の虚偽に惑う 1


 人を傷つけるのは人で、人を癒すのも人なら。
 人を歪ませるのもおそらく人で。
 そして長年培ってきた人格も友情もなにもかもを、つき壊してしまう人間関係の最たるものが。
 おそらく戀なのだ。


 安静にしていなければならないはずの優奈は、翌日にはボストンバッグ一つを携えて実家に帰るのだといった。病院からの帰り、タクシーの中でそれを聞いた私は見送りすることに決めたけれど、これがまた少し苦行だった。
 日曜日は朝っぱらから嫌味のように爽やかな天候で、寝不足の身に太陽の光が染みた。天気予報は明日からまた雨だと告げていた。せっかくの旅立ちの日、今日が雨でなくて、よかったとは思っている。
 私は早朝に雪ちゃんに叩き起こされ、優奈と待ち合わせて、駅にあるカフェテリアでモーニングセットを頼んだ。優奈は私以上に食が細くて、きちんと食べなさいと自分のことを棚にあげて説教をした。田舎には母がいるので大丈夫ですと、優奈は言った。その目の下には隈ができている。眠れなかったのだろうと思った私は、お腹一杯食べれば眠くなるよと、どっかの誰かの受け売りをそのまま言った。優奈は覚えておきます、と笑ったけれど、やっぱり影があって、あの大学生の頃の、純朴な笑いを見ることはもうないのだろうと私は思った。
 改札口まで優奈を見送って、またね、といった。次会うときは、百花と拓海の結婚式だ。
 朝から非常に疲れたけれど、このひどい顔のまま家路につくのはどうも嫌だった。この顔で家に帰ったら、それこそ華ちゃん雪ちゃんの二人に心配をかける。昨日だって結構ひどい顔で帰宅していたらしくて、華ちゃんはお笑いのDVDを持ち込んで私の傍から離れないし、雪ちゃんも私をがんがんに甘やかす。そして私は存分に甘やかされるという、体たらくだった。
 朝っぱらだというのに疲れていた私は、甘いものが無性に食べたくなった。コンビニに寄っても置いてあるケーキにはいまいち食指が伸びず、結局何も買わずに外に出た私は、急に思い立って猫招館のほうに足を向けたのだ。
 足元をふにふに歩く子猫や、薫り高いコーヒーや、そしてまだ食べたことのないケーキが、とても愛おしく思えた。


「おぉ。いらっしゃい」
 柔らかい昌穂さんの関西弁が、ドアベルと共に私を迎えた。お昼にはまだ少し早いせいか、客の数はまばらだった。私はケーキが並んだショーケースの前に立って、こんにちは、と挨拶をする。
「今日はケーキを試しに来ました。うわぁどれも美味しそう……」
 先日は時間がなくてケーキまでに気が回らなかったけれど、改めて見るケーキは先日のサンドイッチと同じく、見るからに絶品という雰囲気が漂っていた。どれも小ぶりだけれど、値段が安いので気にはならない。
「もし決まらんのやったら席に座っとき。適当にケーキの盛り合わせ作ったるし」
「え。マジっすか」
「マジやで大マジやで。飲みもんはコーヒーでえぇんか?」
「はい」
 先日飲んだコーヒーがあまりに美味しすぎて、紅茶を試す気にはなれなかった。先日は見かけなかった女の店員さんが、昌穂さんからオーダーを引き継いでコーヒーを淹れ始めている。うぉ、本格的なサイフォンで淹れるコーヒーだったんだ。道理で薫り高いはずだ。
 私は足元に擦り寄ってくる子猫を抱き上げると、空いている席に着いた。先日も座った、あの窓際の席だ。
 ジーンズパンツの上に乗せた子猫は、背中をくるっと丸めて私の膝の上で眠る体勢をとった。その頭を片手でゆっくりと撫でながら、私は陽光温かな外を見つめた。
 いい天気だ。優奈はそろそろ、特急に乗った頃だろうか。
 優奈にも仕事があったはずだ。私は彼女から何も聞かなかったけれど、拓海と百花だけが交友関係の全てではなかったはずだった。地元に残らずこの地域で就職をしていたのも、何か思いがあってのはずだ。
 そういったものを全て振り切り、捨てて、彼女は故郷に戻った。
 それは、間違いを犯した代償なのかもしれないけれども、全てを失った彼女は故郷に戻ってどうするのだろう。
 私は瞼を閉じて、ゆっくりと深呼吸をした。ともすれば、数ヶ月前の私に意識を持っていかれてしまいそうだった。
 全てを捨てて。
 逃げるように。
 トランク一つを持って飛行機に乗った。
 こつ、と足音がした。
 昌穂さんかと思った。けれど漂った匂いはコーヒーの香りではなく、すっとしたシトラス系。面を上げた私の目に飛び込んできたのは、やぁ、と軽く手を上げて微笑む隻さんだった。
「……なんでここに」
 昼休憩にはまだ早い時間だ。午前十一時少し前。
 隻さんは私の前の席に腰を降ろして、ネクタイを緩めた。
「気付けのコーヒーをもらいにきたんだ。昨日はうちの店長のところに泊まりこみで打ち合わせだった。寝不足で頭が痛い」
「徹夜?」
「似たようなものかな。今日はこれから帰って寝るつもり」
 ということは今日は休みなのか。
 欠伸をかみ殺して呻く隻さんに、私は笑った。これから寝るつもりなのに、コーヒーだなんて。
「コーヒー飲んだりしたら、眠れなくなっちゃわないの?」
「一杯ぐらいは平気。というか、飲まないと家に帰る前に倒れそうで。夜に眠る習慣がついてから、夜更かしできなくなってしまった。年だねぇ俺も」
 年寄り臭く呻いた隻さんは苦笑した。確かに若いときには簡単にできた徹夜が、私ももう出来ない。
「で、ここに来たら朔ちゃんが居たわけだ。今日はケーキを食べに来たの?」
「うん。凄く気になってたから」
 こと、と目の前にコーヒーが置かれて、私はぎょっとしながら傍らを仰ぎ見た。さっきサイフォンを弄っていた女の人が寝起きのような表情で、カップのソーサーに手を添えている。コーヒーの入ったカップをもう一客、隻さんの前に置いて、彼女はぺこりと一礼をした。
「ありがとう敦基」
 アツキ、と呼ばれた女の人は、隻さんの一言に対しても丁寧に――けれどどこか気だるそうに、一礼して、スリッパをぺたぺたといわせながらカウンターのほうへと戻っていった。
「あの人も店員さん?」
「そう。敦基っていうんだ。基本この店は昌穂と敦基の二人でやってる。……あぁついでに言っておくけど、あの敦基は女じゃなくて男だから」
 ぐっと、私は驚愕に咳き込むのをどうにか堪えた。ともすれば、口の中に含んでいるコーヒーを吐き出しかねなかったからだ。
「うそぉ!」
「いや、嘘じゃないよ。敦基は男。笑えるでしょ」
「笑えるというか……ドッキリカメラとかじゃないですよね。エイプリルフールはまだだし……」
「いやいや、本当なんだって」
 まだ少しどきどきしている胸に手を当てながら、私はカウンターの奥で昌穂さんに叱られている敦基さんを見やった。どう見ても女性だった。世の中には、驚かされることが色々ある。
 すごいねーと私は笑って言った。ケーキまだかなぁ、とも。気分は沈んでなどいないのだと、誤魔化すような独り言だった。
 敦基さんが何かしでかしたらしく、お陰で台無し云々という叫びが聞こえている。
「ねぇ朔ちゃん」
 隻さんは運ばれてきたコーヒーに、手を付けようとはしなかった。芳しい香りが湯気に乗って鼻腔をくすぐっているというのに。
 私は隻さんの目を見なかった。見ることができなかった。私は笑いを浮かべて、コーヒーシュガーをとぽとぽカップの中に落としながら、努めて明るい、間延びした声音できき返した。
「なんですかぁ?」
 私は後悔した。
 耳を、塞いで置くべきだったと。
 隻さんの声音は、とても真摯だった。
「別に疲れてるなら、笑わなくてもいいんだよ」
『疲れているのに、笑うふりをしなくていいですよ』
 ぞっと。
 何かが背筋を這い登っていく。
 私は笑顔を凍てつかせたまま、呆然と隻さんを見つめていた。足元がぐらぐら揺れている。コーヒーカップの輪郭が二重になって視界に映った。
「疲れているんだったら別に笑ったふりしなくても。また眠れてないんでしょ」
『別に笑ったふりをしなくても、僕はかまわないですし。また眠れていないんですか?』
「もしかして不眠症……朔ちゃん?」
『朔さん』
 この、耳に重なって聞こえる何かは、亡霊だ。
 亡霊の声だ。過去という名前の亡霊。この声を振り払うために私は全てを捨てた。夢も仕事も。引き止めるたくさんの友人の手を振り払って、私は逃げるように日本に戻った。それでも毎日毎日、生々しい感触がいつも意識の隅を占めていた。助けて助けて助けて。雪ちゃんと華ちゃんが私を見つけていなかったら、気狂いになっていたかもしれない。
 仕方ないなぁという風に笑った顔。
 あぁ、最初からそんな風に笑わなければよかったんだよ。
 そんな風に笑いかけて。
 人の境界に足を踏み入れて。
 そして。
 後で捨て置くというのなら。
「朔ちゃん?」
 かちゃん、と、陶器の触れ合う音がする。気がつくと、椅子から立ち上がった隻さんが、私の顔に手を伸ばしていた。
私は反射的に、それを振り払っていた。
「優しくする必要はないんです」
 口から滑り出てくる言葉は、私の意志とは無関係といってもよかった。わざとらしい丁寧語。歯止めをかけようとすればするほど、より滑らかに思いは形作られる。吐き気がするような嫌悪感が、私の脳裏を支配していた。
「女慣れしていらっしゃるようですし、遊び相手には事欠かないのでしょう。ですけれど、お仕事のストレス解消に、私は役不足だと思いますよ?」
 だれかとめて。
「男の人っていつもそう。いつもそうやって、きちんと女の人と向き合わず、踏みにじっていく」
 だれか。
「教えてください。女の人を使い捨てみたいにして遊ぶのって、そんなに楽しいことなんでしょうかね?」
 隻さんの表情が蒼ざめる。私に伸ばされていた指を握りこんで、隻さんは私を見つめていた。誰か止めて、と、願っていた。このままだと、私は過去に引きずられて、もっとひどい暴言を吐くだろう。
「おまっとぅ」
 何も知らぬ能天気な昌穂さんの声が割り込み、テーブルの上には、芸術的に飾り付けられたケーキの盛り合わせが乗せられていた。それは普段なら確実に喜々として平らげるすばらしいものだったけれど、今の私にはそれに食指を伸ばしている余裕がなかった。ただ、私は胸中で胸を撫で下ろしながら、思っていた。
 助かったと。
 私は鞄からお財布を出し、急いで野口英世さんを二枚引っつかんだ。テーブルの上にそれを置き去りにして、昌穂さんの横をすり抜ける。
 ごめんなさい、も、言うことができなかった。
 ごちそうさま、も。
 ドアベルの音が背後で響き、それはすぐに往来する車の騒音に混じって聞こえなくなった。私は人通りの少ない通りを、急いで駆けていた。
 お店を出る刹那、振り返ったとき、残像みたいに視界の隅を過ぎった隻さんの顔。
 蒼白で、憤怒によって色を失っているのだとすぐに分かった。私にはその場に立ち続ける勇気がなかった。仲良くしてやってね、と笑っていた棗先輩の顔を思い出す。すみません先輩、と私は謝罪した。あの美味しそうなケーキの盛り合わせを用意してくれた昌穂さんにも謝罪した。食べ損ねてしまった、綺麗に飾られたケーキ。
 そして、隻さん。
 八つ当たりだった。
 最悪の形の八つ当たりだった。
 隻さんに叩きつけたあの声は、私の中で積み重なった男の人に対する嫌悪の声だった。昨日の病院の出来事が、尾を引いているのだとすぐに判った。優奈たちのことはあまりにも、私がようやく目を閉じることができるようになった、過去の傷を抉りすぎる。
 男の人すべてが、そんな風なのではないと知っている。知っているからこそ、私は心の中で息づいていた嫌悪感を、口に出すことはできなかった。雪ちゃんも華ちゃんも男だというのに、あの優しく愛しい彼らの前で、そのようなことをどうして口にできるというのか。友人達にも言えなかった。嫌悪感について口にすれば、その原因まで語らなければならなくなる。女の友情は、時に他者の恋愛をワイドショーのネタのように消化してしまう。
 結果、苛立ちを隻さんにぶつける結果になったのだ。
 まだ、出逢って片手にも満たない回数しか、会っていない人に。
 まだ、出逢って片手にも満たない回数しか、会っていないからこそ。
 しがらみも何もない人だからこそ。
「ごめんなさい」
 私は眉間に力を入れて、泣き出すのを必死で堪えながら呟いた。いくら人通りがないとはいっても、こんな住宅街の通りを泣きながら歩くことは御免被りたい。
 ごめんなさい。
「ごめんなさい、隻さん……」
「そういうことは」
 ぐ、と。
 私の手首を誰かの手が掴んだ。骨ばった、力強い。
 男の手。
 私は驚愕しながら振り返った。
「逃げる前に言って」
「……隻さん!?」
 私はその手の主を見上げて、呆然とその場に立ち竦んだ。改めて触れ合うほどの傍で見上げる隻さんは、遠目で見るよりもうんと上背があった。襟元を崩したままの様相で、腕にスーツの上着をひっかけて、空いた片手で、隻さんは私の手首を握り締めている。いつもは男前だと周囲の友人に囃し立てられることの多い、大きめの私の手は、隻さんの手と比べるとうんと小さかった。
 怒鳴られるのか、殴られるのか。
 私はおそらく、親に叱られる前の子供のような顔をしていたのだろう。
「そんな顔して謝るぐらいなら、そもそも逃げないでほしい」
 盛大なため息をついて、隻さんは言った。
「ご、ごめ」
「大丈夫。別に真に受けたわけじゃないから。ただ朔ちゃんの様子があまりにもおかしくて、驚いて――昌穂もびっくりしていた。どうしたんだよ。何か、あった?」
 私には、何もなかった。
 ただ私は、引きずられただけだ。
 記憶の奥底に沈めた、過去に。
「ごめんなさい」
「いいから」
「ごめんなさい」
「大丈夫だから」
 とても酷いことを言ったはずだ。
 怒り出し、私を放置して、二度と口を利かなくなってもおかしくはなかった。
 次第にしゃくりあげ始めた私の背に軽く手を添えて、隻さんは繰り返した。
「大丈夫、だから」
 私は目の前に佇む男に縋らず泣けるほど、強くはなかった。一人で泣くことにはとうの昔に飽いていて、もし優しく誰か手を差し伸べてくるひとがいるのなら、その人に縋らずにはいられないほどに。
 弱い女なのだ。


 脳裏に、まるで鉄砲水のように、古い記憶が押し寄せている。
 高校の頃の苦い恋は、今となってはいい思い出だ。
 大学時代は周囲の恋を見て回る役に回った。単なるかっこつけだけれど、女の子には純粋に優しかった拓海。そんな彼に惹かれた天真爛漫な百花と純朴だった優奈。大学時代、三人は確かに笑っていたのに。あぁ、それがあんなふうに歪んでしまうものなのだろうか。結婚で拓海を縛りつけようとしている百花と、平然と百花を裏切っておいて、優奈を詰った拓海。
 そして、そんな状態でさえ、結婚式には出るのだと、どこか凄惨とも呼べる笑いを浮かべた優奈。
 私は社会人になってからしたいくつかの恋は失敗だらけだった。その最たるものが、最後の戀だった。
 全てを塗り替えてしまった。
 笑っていたのに。
 確かに笑っていたのに、私たち。


 ヴヴ、と。
 羽虫が立てる音にも似た電子音。広い部屋に白熱灯の明りが灯る。私は唖然となりながらその空間を見つめ、その横を隻さんが臆した様子もなく、通過していった。
 並ぶソファーと、カウンター席。空間の中央にはグランドピアノ。ワインレッド色のベルベットのカーテンが、壁一面を覆っている。
「せ、隻さん、ここは……?」
「俺の父親が経営しているクラブ。大丈夫だよ。真っ昼間に人は来ないから」
 カウンターの奥に入った隻さんは、棚に並ぶボトルのうち一本を選び、手馴れた様子でそれを開けた。小さめのロックグラスを一つ、カウンターの上に置いて、琥珀色の液体を注いでいる。綺麗な模様の刻まれたクリスタルのロックグラスは、白熱灯の光を集めて輝いていた。
 私が泣きやんだ後に、隻さんは酒が飲めるかと尋ねてきた。酒は好きなほうだと告げると、連れて行かれた先は、隻さんの勤務先であるキャラメルボックスと同じ建物の地下にあるクラブだった。夜間営業のクラブは当然閉店だ。けれど隻さんは鍵を開けて平気で中に入っていくから、一体何事かと思っていたら、父親がオーナーであるらしい。
 はい、とグラスを手渡される。
「……どうも」
 隻さんの意図を理解しかねていた私は、眉間に皺を寄せたままグラスを受け取った。
「その辺適当に座っていいよ。おススメはソファー。座り心地がいいって評判だから」
「……うわぁ」
 言われるままに腰を下ろしたソファーは、確かに座り心地がよかった。キャラメルボックスに置かれていた客用ソファーもそうとう座り心地がよく、持って帰ろうかと思案したぐらいだったが、このソファーはそれ以上だ。泣き疲れた身体に、この心地よさは毒だった。
「気持ちいいでしょ」
「うん。すごく気持ち良い。今すぐここでお昼寝したい」
「あーそれは駄目。起きて起きて起きて。俺も眠りたいんだけど、我慢してるんだから」
 言われてみれば、隻さんは仕事で徹夜明けなのだ。私以上に睡魔に襲われているに違い。私は渡された酒をちびりと舐めながら、カウンターから客席側に出てきた隻さんに尋ねる。
「隻さんは、どうしてここに私を連れてきたの?」
 カウンターの丸椅子に、腰を預けながら隻さんは答えた。
「楽しくないよ」
「え?」
 私の質問とは全く的外れな回答だった。私は首を傾げ、隻さんを見つめ返す。
 隻さんは薄く笑って言葉を続ける。
「女の子を使い捨てにして楽しいかっていうね、質問に対する答え。とはいっても、そういう風に明確に思うようになったのは、最近のことだけどね」


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