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第二章:千日紅の虚偽を暴く 3


「うげぇ」
 仕事のお昼休みに、友人からのメールの確認をしつつ、何気なく日曜の夜の送受信履歴を見ていた私は、蛙が踏み潰されたときのような呻きを漏らしていた。一日だけならまだしも、月、火、水、そして昨日と仕事が終わってからぽちぽち隻さんとメールを交換していて、どれも見ているこちらが恥ずかしくなるような送受信履歴だった。何気ない会話だけれども、何というか内容が、付き合い始めたばかりの初々しいカップルのもののようなのだ。
「朔」
「ひゃぁぁぁぁっ!!!」
 背後から掛けられた声に、私は叫び声を上げながら携帯を取り落としかけた。どうにか膝の上で携帯を受け止めることに成功して、私は携帯電話を抱きしめながら、背後に佇む人を振り返る。
 目の覚めるような美人が、そこにいた。
「棗先輩」
「あんたねー。突然叫び声なんか上げないでよ。ビックリしちゃうでしょうが」
「……すみません」
 タイミングの良さに驚かされたのはこちらのほうだった。広い社員食堂は、昼食をとる社員がひしめいている。喧騒に混じった私の悲鳴を聞きとがめたのが、せいぜい周囲の四、五人だったのは幸いだった。まだばくばくと音を立てる胸を撫で下ろしながら、私は先輩を見る。先輩はテーブルに昼食の載ったトレイを置いて、私の隣に腰を下ろしていた。
 陶器のような肌。整った鼻梁。長い睫毛。そこには確かに、隻さんと共通の面影がある。兄妹だという事実は、すぐに納得の出来るものだった。性格はまるで異なるようだけれど、ここまで雰囲気の似通う兄弟も少ないだろう。
 棗先輩は戴きます、と手を合わせて、箸を手に取った。私も焼き魚定食の残りを平らげるために、携帯を鞄に仕舞いなおす。
「朔、あんた隻とメル友になったんだって?」
「へっ?」
 驚く必要もなかったのだが、私は挙動不審も甚だしく、手にしていた箸を危うく落とすところだった。何をここまで狼狽する必要があるのだろうかと、冷静な部分が自分の阿呆さ加減に突っ込みを入れる。気分的に、不倫や浮気を突き止められてしまったような気分だった。いや、ものの例えとして。
 棗先輩は私の慌て様に気付いた様子もなく、男前にカツ丼定食を突っついている。
 平静を装って、そうなんですよ、と、私は会話を切り出した。
「雨の中、偶然傘を貸してもらったことがあって。先週の日曜日に、教えてもらっていた仕事先に傘返しにいったんですよ。そしたらあれよあれよという間にお昼ご飯を食べることになって」
「あぁ、うん。まず昌穂から聞いたのよ。私の後輩の子とランチ食べに来てたわよってメールが入ってたの。後輩? 誰だ! 朔だ! なんで隻と! って、隻を締め上げたらゲロしたわ」
「……先輩」
 ボクシングとムエタイをやっていた棗先輩は半端なく強い。文字通り、締め上げられただろう隻さんに、私は少し同情した。
「あんたも妙なのに捕まったわねぇ。隻だなんて、厄介な」
「厄介なんですか?」
 味噌汁の椀に口をつけながら、私は尋ねた。カツ丼のカツを、お箸で綺麗に切り分ける棗先輩が、思案顔になる。
「んー……厄介なんじゃない? 食えない狸よ。狸汁にもできないような」
「狸汁……ま、女関係のトラブルには事欠かなそうでしたね」
 ずず、と味噌汁を吸いながら思案する。私の携帯電話にアドレスを登録していた鮮やかな手並み。棗先輩と比べて間の抜けた部分があるのかと思ったが、とんでもない食わせものだということを思い知らされた。
「昔はね」
 棗先輩はそういって笑った。
「でも今は至極真面目な会社員よ。仕事が恋人の勢いで働いているわ。女慣れはしているけど、トラブルらしいトラブルなんて、ここ二年ぐらい全然ないわ。むしろ女の影も形もないわよ」
「……なんか、意外ですね」
「何が?」
 私の言葉に棗先輩は怪訝そうに首を傾げてきた。棗先輩が時折見せる、こんな隙だらけの表情が私は好きだった。
「隻さんについて、フォローめいたことを口にするなんて」
「あんたが私をどういう目で見ているのか今よぉおおぉく分かったわ覚悟しなさい朔」
「あぁぁぁぁぁぁぁごめんなさいごめんなさいごめんなさい!!!! だって隻さんよりもなんか棗先輩のほうが優位っぽいことを口走ってましたしっ!」
「あいつも後でシメとくわ。あんたも隻さんとかってさん付けしなくていいアレに対しては呼び捨てでいい」
「アレ呼ばわりですか……」
 そういう部分から先輩のほうが上位に見えるのだと、口にすべきか否か。すべきではないのだろう。
 けれど、仲がいいのだな、とは思った。私には兄弟が一人いるけれど赤の他人も同然で、米国から戻ってきてからまだ一度も顔を合わせたことがない。
 他人を寄せ付けない美貌と叡智。そして一癖も二癖もある性格。棗先輩は、とても自信に満ちていて、そして同時に孤独で繊細な人だ。他人でも兄弟でも、立場を理解できる親しい人間が棗先輩の傍にいるのなら、よかったと思う。
 でもまぁ、と、棗先輩は続けた。
「癖はあるけど、うちの兄は悪人ではないわ。仲良くしてあげて」
 慣れないことを口走ると、肩が凝るわとかなんとか呻きながら、棗先輩はすまし汁をすすっていた。その頬は、照れのせいだろうか、少し赤く染まっている。私は心が温かくなって、定食の残りを片付けるべく、ご飯に箸をつけた。
「そういえば朔、あんた今週の土曜日の呑み会くるの?」
「え?」
「坂本から聞いてない? 部署替えの子たちの送別会。お昼から花見ですって」
 同じ部署で、よく呑み会の幹事をする坂本君とは、今日はまだ顔を合わせていない。お互いに決算の時期。私もそれなりに忙しく、残業はざらだけど、坂本君は現在それ以上に多忙らしい。担当している箇所にトラブルが見つかったらしく、先週は休日返上だと呻いていた。今週もあちこち右往左往しているところをみると、トラブルがまだ解決していないのだろう。
「花見には、少し早くないですか?」
「今年は暖かかったからねぇ。桜の開花早いみたいよ。来週で三分咲きぐらい」
「そうなんですか……」
「来るの来ないの?」
 今週の土曜日の予定は、手帳を見直すまでもなかった。既にもう埋まっている。ダブルブッキング状態で、一方に断りのメールを送らなければ、と今更ながらに思った。もう、木曜日だというのに。
「いけません。先約があって」
「そう」
 棗先輩は、さして気にした様子を見せなかった。坂本君に連絡はしておきなさいということだけ、私に言って、先輩はごちそうさまの為に両手を合わせていた。


From 森宮朔
Subject 晩御飯
『ごめんなさい。急な用事が入ってしまって、今週の土曜の晩御飯にはいけそうにありません。本当にごめんなさいね。また誘ってください』

From 笹原百花
Subject Re 晩御飯
『晩御飯駄目になっちゃったんですか!? どうしても駄目ですかぁ。用事が終わったらでいいのでまたご連絡ください☆ 百花』


 土曜日。
 私が病院に着いたころには、病室の一角で優奈が処置を待っていた。相部屋の病室は日差しがよく入り、とても明るい。ヴォリュームの絞られたテレビの音や廊下からの看護師の声、スリッパのぺたぺたという足音がよく聞こえた。
「先輩。すみません」
「いいよそんなの。それとも体調は?」
「大丈夫です。少し喉が渇いた程度で……」
「水飲む?」
「あ、飲んだらだめだって言われてて」
 昨日の夜から何も食べてはいないらしい優奈は、お腹がすきました、と、笑っていた。その笑いが透明で、痛々しく思えて、私は何も言えずに笑いだけ取り繕って、傍らの椅子に腰を掛けた。
 ほどなくして、担当の看護師と、医師、薬剤師が順々に、施術の方法や麻酔についての詳細を説明しにやってきた。手術は昼過ぎからで、その前に子宮口を開く器具を入れるという準備をするのだという。私はそれらを優奈と並んで聞いた。
 処置室に入って準備するという優奈を見送った後、私は一人病室で待たされることになった。
 相部屋を区切るベビーピンクのカーテンの向こう側から、女性の咳が聞こえる。時折響く、携帯電話の着信ブザー。通話は禁止だが、メールは許可されていた。入院患者が暇つぶしに、誰かとメールのやり取りをしているのだろう。
 時間がかかるので、暇つぶしになるものを持ってきてください。そう優奈に言われていたので、ここに来る途中に寄った本屋で小説を買っておいた。米国に行く前に好きだった作家の最新単行本。ぱらぱらとめくって、私はすぐに読むのを止めた。小説は幸福を描く恋愛小説で、べたな甘さがいつのまにか苦手になっていたことに私は気がついた。
 携帯電話の電源は、病院に入る前に切っていた。入れなおしてもよかったが、鞄の中から電話を出す作業も億劫に感じられて、私はパイプ椅子の背にもたれて天井を仰いだ。椅子のパイプが耳障りな軋みを上げる。その歪な音に耳を済ませるように、私は静かに目を閉じた。


 去り行く男の背中なんて見るものではないと思う。
 扉の閉まる音。消えていく背中と、冷えた眼差しの残像。身体に残る優しい感触と、それと相反する胸に突き刺さった冷たい言葉。
 まるで亡霊のように、幾度も幾度も幾度も。
 どうして。
 胸を掻き抱いて私は幾度も呼吸困難に陥る。
 どうして。
 優しい記憶が突き刺さって。
 どうして。
 泣くことも出来ずに、私は暗い部屋の、冷えた布団の上で蹲っている。
 どうして。


 優奈の全ての施術が終わったのは夕方だった。検診も終わって、優奈は帰宅を許可された。中絶の手術は、時期さえ間違えなければたった一日で終わってしまうのだ。知識としては知っていたけれど、あまりのあっけなさに私のほうが呆然となってしまった。
 私は足元がふらつく優奈を支えて病院を出た。タクシー乗り場まで、少し距離がある。日は大分長くなっていて、夕方の柔らかい茜色に染められた視界を、ひらりと白い何かが横切る。優奈に手を添えて歩きながら、私は空を見上げた。
 植木の桜が、咲いている。ソメイヨシノはまだ三部咲き。けれどその淡い花弁が、霞のようだった。
 ふと、優奈が足を止めた。
「優奈?」
 タクシー乗り場には、まだ到着していない。優奈の蒼白な横顔に、具合が悪いのかと顔を覗き込んだ私は、彼女の凍りついたように動かない視点に首を傾げた。
 彼女に倣って、前を見る。
「拓海」
 何も言えずに立ちすくんでいる優奈の代わりに、私は彼女が視界に捉えている男の名前を呼んだ。
 キャップ帽を目深に被っているのは、人目を忍ぶ為のものだろうか。いつもとは異なる地味めの衣服を身につけて佇む拓海の目には、苛立ちがあった。暗い眼差し。
「先輩、こいつのへたくそな演技に、わざわざ付き合うことなんてないんっすよ」
 それが、拓海の第一声だった。どういうこと、と私が訊き返すよりも先に、拓海は優奈に飛び掛っていた。
「てめぇ、うぜぇんだよ!」
 拓海は私からひったくるように優奈の襟首をつかみ上げた。その拍子に、彼女のショルダーバッグが音を立てて石畳の上に落ちる。優奈は血の気を失ったその華奢な手を、襟首を掴む拓海の手に添えて、苦しそうに口をぱくぱくと動かしていた。
「ちょっと拓海! やめなさいよ! 優奈死んじゃうってば!」
 私は叫びながら拓海を優奈から無理やり引き剥がした。本当に殺すつもりだったのではないだろうかと勘繰りたくなるような、強い力だった。
 拓海から解放された優奈は咳き込みながら、石畳の上に手をついた。彼女は手術をしたばかりで体力もない。医者からも退院を許されこそすれ、家で絶対安静を言い渡されている身なのだ。そんな身でなくとも、男と女の間には絶対的な力の差が横たわっている。
「一度だけだとか言いやがるからちょっと遊んでやったら調子付きやがってこのくそアマ!」
 拓海はそんな優奈を睥睨して、冷たく言葉を吐き捨てた。
「子供が出来たとか嘘抜かしやがって、こんな手の込んだ演技までしなくていいんだよバァカ。死ね!百花にばれたらどうするつもりだったんだ!?」
「拓海!」
 私に押さえつけられていなかったら、拓海はまた優奈に噛み付いていきそうな勢いだ。私は彼を牽制するために、腹に力をこめて声を張り上げなければならなかった。
「先輩も先輩で、なんなんすか事情知ってるんすか!? この雌豚と結託して、俺を陥れようとかそういう魂胆じゃないっすよね!?」
「落ち着いて拓海」
「これだから女はウゼェんだよ! 百花も結婚するってなったら調子ヅキやがって! あの女俺がいなけりゃいきていけねぇ寄生虫の癖に!!」
「拓海!」
 拓海のあまりのものの言いように、私はかつてないほどの怒声を上げて、拓海を制していた。
 拓海が、驚愕の眼差しを私に向けてくる。拓海の動きが止まったことを確認して、私は嘆息した。
「いいから落ち着きなさいって。……別に私はあんたを陥れようなんて思ってもいないし、今日は優奈の中絶手術の付き添いをしただけだよ。……優奈が妊娠してたことは嘘じゃないわよ。私見たもの」
 施術した医者が私と優奈に差し出した、シャーレーの上に乗った小さな肉塊。こうして世界に引きずり出されるまで、息をしていた何か。麻酔が切れたばかりの優奈は、ごめんなさいと、聞いているこちらの胸を潰すような啜り泣きをしていた。
「何で拓海はここにいるの?」
 私の問いは、優奈を拒絶し、そして今日も百花と結婚式のあれこれの下見をしているはずの拓海が、何故この場にいるのか、という問いだった。けれど拓海は、別の意味で受け取ったらしい。つまり、当事者ではない彼が、どうしてこの場にいるのか、と。
 優奈が堕胎した子供の父親が一体誰なのか、私は知らないのだと、彼は勘違いしたらしかった。
「それは……」
 先ほど口走った言葉の意味をどのように誤魔化すか。口ごもる拓海は、それを思案しているように思えた。
 落ち着いたらしい優奈は、数度咳払いをしながら立ち上がった。スカートの裾についた土埃を丁寧に払い、ハンドバッグを取り上げる。
「……来てくれるとは、思ってなかったの。ありがとう」
 そういって優奈は拓海に頭を下げた。こんな風にされて、どうして有難うと口に出来るのだろう。私は不思議でならなかった。
「大丈夫。私はこれから、もう拓海君に会わないし、連絡も取りたいとは思わない。登録していたアドレス電話番号も、昨日メールを送ったのを最後に全部消したから」
 昨日送ったメール。
 と、いうことは、優奈はこの病院で手術をすることを、拓海に知らせていたのか。
 優奈は静かに目を伏せて、言葉を続けた。
「拓海君と会うのは、あと一度だけ……百花と拓海君の、結婚式のときだけ」
「……式に、来るつもりなのかよ、お前」
 問い、というよりは呆れた口調の拓海の糾弾。
 優奈は笑った。
 それは怖いくらいに透明で、綺麗だというのに、そして見ている私の神経を逆撫でていく、おぞましい笑いだった。
「だって、私百花の友達だもの」


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